大切なのは、こころ
・学びの王道
今まで、「楽しんでやろう」というような学び論を述べてきました。それは、確かです。
しかし、もっと楽しくするためにはやはり「コツコツ」「忍耐」が不可欠なんですね。
学びの王道は、やはり「地味にコツコツ」「くりかえし」で、きっとそれ以外にないと私は思っています。脳の奥まで、即ち身体で、計算や、英文を刷り込ませなければ、勉強というゲームは存分にそのエッセンスを楽しむことが出来ないのです。
さて、では、「学ぶ」というのは、何から始まるのでしょうか。
それは、「真似る」ことから始まります。うまくいっている人のやり方を盗んで真似て、忍耐強く繰り返すことが、上達への一番の近道なんです。
「俺には俺のやり方がある」なんていうちっぽけなプライドが、上達を妨げるばかりか却って邪魔になるのです。
執念をもって、繰り返して完璧にすることで、きっと充実感という喜びが生まれてくるはず。ダラダラぬるま湯で遊んでいるよりははるかに面白いだろうと思います。
お勧めは、一冊「これだ」という問題集を用意して、その一冊を手垢で真っ黒になるほど繰り返して解くことで、くりかえし間違ったところが自分の弱点と知ることが出来ます。
オリジナルの問題集の完成です。
・議論には乗らない。みんなに好かれる必要はない
どんな人間にも、「2・7・1の法則」というものが存在するみたいです。何の数字かお分かりでしょうか。
2は、自分のファンでついてくる人の割合。7は、どっちでもよくて、賛同したり否定したりという日和見菌の割合。そして、1は、何が何でも自分に賛同しない、徹底的に嫌ってやると反発する人の割合だそうです。
昔の私は、「みんなが賛同することを言わなければ意味がない」と錯覚し、少しでも批判されることを極端に恐れていましたが、この「2・7・1の法則」を知った時、「自分は自分らしく生きていればそれていいんだ」と幾分か胸を張れるようになったのを覚えています。
ガリレオ・ガリレイは、裁判では地動説を撤回しましたが、あとで、弟子たちに「それでも地球は回ってる」と言ったそうです。自分の考えを否定する人がいても、「なるほど、そうですね」と、論破しようとすることや議論は避けて、また別のところで「それでも地球は回ってるんだよ」といっていればいい。
全世界を自分や自分の信じる思想色に塗りつぶすために論破しようとする必要なんて全然ないんです。
「正しい」ということを、「勝つ・負ける」のみで判断してしまうと、いつの間にか引くに引けないパワーゲームから降りられなくなってしまい、本当に耳を澄ませて大切にすべきことを見失いがちになってしまいます。
初めは、自分の心の中の使命に向かって突き進んでいたはずが、横やりのすべてを論破しないと先に進めないと錯覚して、いつのまにか目的や心の方向がずれて、森に迷い込んだようになってしまいます。
極真空手の第5回世界チャンピオンの緑健児選手は、少年時代は東京では名を知らない人がいないほど喧嘩の達人で、いつも喧嘩ばかりしていたそうです。強そうな奴と目があっただけで、「舐められちゃいけない」で、「やんのかこのやろう」と、すぐさま喧嘩をやっていたようです。しかし、空手に一途に打ち込み始めてからは、喧嘩なんかするのは未熟な証だと気がつき、目をあわされても、自分から視線を逸らせるようになったということです。
「本当に大切なものは何か」。他人の声よりも、そのことに心を向けて生きていきたいものです。人の目線が気になるのは、やはりまだ自分の中に迷いがある証拠なのです。
・生活に即した知
基本的に、人は「困ったこと」および「喜び」からしか学ばないのではないでしょうか。
戦争の惨禍を経験した人や政府に圧迫された人は、政治を一生懸命学ぶでしょうし、
病気で苦しんでいる人は、いろいろと健康や医療に詳しくなるでしょう。
青年期に悩んだ人は、心理学に答えを見出そうとするかもしれません。
あるいは、靴屋さんをやっていて、お客様に靴を喜ばれたら、「もっといいものはつくれないか」と、熱を入れるでしょう。
彼らに、数学や地理学といったものは要らないかもしれません。
自分の身体で体験した経験こそが、「生きた知」となって、興味関心の対象になって初めてそれは生に還元されます。
私の場合、子どものときに読んだ手塚治虫の『ブッダ』が、心の世界や、歴史を学ぶ端緒で、そこからいろいろと派生していったのかなあと思います。
学ぶものは、見栄でも十分に素敵なのですが、自分の心の声、身体の声に従って、とことん探求していくのも面白いかもしれません。
・善きビジョンを持つ
私は、本当に素晴らしい物事というのは、「思考」よりも「ひらめき」から発展していくものだと考えています。善いひらめきには、「キラキラしたもの」があります。楽しくなります。ウキウキしてきます。そして、そのひらめきや理想のビジョンは、必ず実現できることなのです。
しかし、「コップの中の嵐」という言葉があります。自分たちの生きている小さなコミュニティをすべてだと思い込み、それより外側の果てしなく大きな世界のことを「特別」とか「他人事」とみて、小さく縮まろうとして、その「コップ」のなかからはみ出そうとするものをそこから出そうとしない。
何か言えば、「でもね・・・」「そんなの無理よ・・・」という、暗いダメだしや、足の引っ張り合いがそのコップの中の正義であったりします。
「みんなで話し合って決める」が、時にそういったダメ出しや足の引っ張り合いになってしまうコミュニティがありますが、うまくいかないところこそ、後ろ向きな空気が漂っているのではないかと経験上感じています。
民主的であることと、単に言いなりになることはきっと違うことだろうと思います。
『ほぼ日刊イトイ新聞』があれだけの部数を誇ることが出来たのは、「何でもアリ」ではなく、自分自身が強烈なイニシアチブを打ち出したからだとコピーライターの糸井重里さんは言います。だったら、独裁になればいいのかというと、それも違う。
他人をどうこう操作しようとするのは、やはり「渇愛」。自分のイニシアチブはやはり自分自身。周りに流されずに、自分のワクワクするビジョンに従って生きていたら、それに共感する人は集まってくるはず。
キーワードは「分かち合い」「生かしあい」「協力」。全員が成長し、学び、前に進んでいくところに敵はいないんじゃないだろうか。「誰よりも強い」ってことじゃなくて、「みんなが味方だ」ということ。
・怒るやつはバカ
このことは、アルボッムレ・スマナサーラさんという上座部仏教の長老が言っておりまして、言いすぎかもしれませんが、やはりそうだと自分にも言い聞かせたいです。
怒りを発散させることも時には必要なのではないか、という意見もあるかと思いますが、怒る人は本当にバカなのだそうで。怒りは、蛇の毒にも匹敵する毒を体内に作りだし、まずは、内蔵系統から破壊していきます。それどころか、周りの人にも嫌な気持ちをまき散らす公害です。人間を一番苦しめるのは、「私はあの人に傷つけられた・苛められた」「許せない」という気持ちなのだそうです。そして、復讐の気持ちこそが、最大の不幸をもたらすということです。
傷つけられた相手を許せたら許す。許せない場合は、許せない自分を許す。
しかし、『HUNTER×HUNTER』という漫画を読んでいて、こんなシーンが。
二人の少年が船の上で争いを始めます。それを見ていた船長が止めに入りますが、主人公はそれを制止してこう言います。
「止めないほうがいいよ。その人を知るには、その人が何に対して怒っているかを知れ。おばさんから聞いた好きな言葉なんだ。二人が怒っているには何かきっと大切な理由があるに違いない。」と。その後、無事に二人は仲直りして無二の友人になるのですが、まったくもって、私の中で「怒り」に対する考え方は整理がつかなくなってきました。
教育での「怒り」は単なるうさ晴らし。時折、それはエゴの押し付けになるので、私は細心の注意をいつも払っています。
「叱る」は、相手の幸せを真剣に考えて、「それをしたら、周りの人がどう苦しみ悲しみ、あなた自身にとっても良いことなのか」を想像させ、その人が不幸になる道を戒めること。
「良心が痛む」という言葉がありますが、理論理屈ではなくて、「心の痛み」を感じることによって、「もう、こんなことはしない」と自分に言い聞かせるのが本当に叱ることでしょう。叱ることは良心に真っ直ぐ語りかけることにほかなりません。
ちなみに、うつ病で苦しんでいる人のなかの心の中は「常に叱責され続けている状態」ということを聞きました。
想像してみてください。あなたが、軽い気持ちでやったイタズラが先生か親に見つかり、「これほどまで怒られることなのか」と思うくらい、こっぴどく怒鳴られた時は、その晩は食事も喉を通らなかったでしょうし、何日間か引きずって、人と会うのも億劫だったはず。その状態が、何カ月も続くのです。何もしていないのに、「自分は何か悪いことをしたのか。いつ自分は裁かれるのか」と完璧に善い振る舞いをしていないと自分はダメだ、と怯えている状態が常なのです。
怒りとは、毒です。その行為や罪をやめさせるためには、怒る以外になにか手段があったはずです。「なぜ、それがいけないのか」「その行いが、あなたにとってどのような不幸をもたらすか」論理的に諭すべきなのです。怒りは、エゴに対して大人のエゴをぶつけているだけにすぎません。毒で毒を制する愚かな行為と言わざるを得ません。
心理学の本を読んでいると、ガミガミ、ネチネチの叱責は、つまり「しつけという名のうさ晴らし」にしかすぎず大人のわがまま、うさ晴らしにしか過ぎないということなのです。
「怒りはバカ」だとその都度、気がつくことで怒りから離れて、穏やかな気分になってくるはずです。怒る人も愚かで、かつかわいそうな人なのだな、と気がつくことです。
怒りを逃げずにじっくり観察して見ると、それは自分の本当に大切にしたいものを傷つけられたことに対して、それを教えてくれる反応だと気がつくようになるはずです。
怒りたくなったら、深呼吸して10数えましょう。
・「人の為」と書いて「偽」
ひとのためとかいて、いつわり。
相田みつをさんの書にあったと思いますが、これを見たときは「うわあ」と思いました。
私たちは多くの人がこの「偽り」を犯してしまいがちだからです。
この私が抱いた「うわあ」の感覚を分析してみました。「人の為」というと、すごくいいことのように聞こえますが、実のところ、他人や環境を自分の都合よく変えよう、コントロールしているにすぎないんじゃない?というエゴが隠れて見えてきたりするのです。
「愛が大切だ。愛し合おう。」という人の中には、「自分だけが愛される」ことばっかり望んでいて、実のところ人を愛していない、愛していると思っていたら都合よく支配しようとしていただけだったというケースって深いところでよくあるんです。自分は変わろうとせず、「自分に都合のいい世界」を作るために、怒ったり、苦しんだりして、「自分は環境の被害者だ」と思いはじめる。
中島義道さんという毒舌の哲学者がいますが、彼の嫌いな言葉は、「お前の為を思って言ってるんだぞ」「感謝しろよ」「もっと素直になれよ」「相手の気持ちを考えろよ」だそうです。なぜかというと、「善く聞こえる」それらのきれいな言葉の裏には、吐き気がするほどのエゴイズムが隠れているからなのだそうです。
お釈迦様の言うには、
「人を変えるのではなくて、自分を変えよう。」
「みんなが怒っていても、自分ひとりは怒ってはいけない。」
「人が論争をしていても、自分ひとりは加わってはいけない。」
「サイの角のように、一人で歩みなさい。」ということ。
この言葉を教えてくれたヨーガの先生。
「他人の思惑や行動は変えられない。コントロールしようとするのはエゴ、煩悩の働き。
コントロールできるのは、自分の心の受け止め方や行動だけ。
変わるのは本人次第で、それ以上はどうにもできない。」ということを教わり、ものすごく心が楽になったのを覚えています。
「あいつがどうだ」とか「世の中がどうだ」とか、つい愚痴をこぼしたくなり、苦しむ心がつい芽生えがちですが、そういうときにこそ心を落ち着けて「自分のなしたこと、なさなかったことだけ見てればいい」と言い聞かせて、一人で平和に歩む決断をしなければなりませんね。
・「私は天才です。あなたも天才です。」
私は、よく、今までできなかった問題ができた子には「君は天才だ」とたたえることがあります。「またまたそういって思ってもない嘘をついて」という顔をされますが、私は本当にそう思っています。本人が自分の天才に気が付いていないケースが全くほとんどと言っていいでしょう。そうして、自分の内の天才を殺して、周りに合わせて生きていくのです。残念なことです。自分の天才にも気がつき、他人の天才にも気がつくことが生きる上で最も大切なことなのです。
そして、私自身、10年前から自分が天才だということに気が付いていましたし、それを気がつかない大人のなかでなかなか生きづらい思いをしていたのを覚えています。
一度、高校生の頃、ある年上の人に「自分は天才なんです」という話をしたら、「そういうことは自分で思ってるのはいいけれど、人が聞いたら不快になるからやめな」と言われたので、「思ってるんじゃなくて、本当に私は事実として天才なんだけれどな」と、言い返しそうになりながら、「それをしても無駄だな」と、ぐっと飲み込んだのを覚えています。
世間一般の「天才」に対する誤解として、「俺は特別でお前らとは違うんだ」という「高慢さ」と結び付けられていたり、あるいは、「勉強をしても、スポーツをしても、常にトップで、人がいくら努力をしても及ばない神の領域で生きている限られた人」という認識がまかり通っていると思います。あるいは、その才能でプロとして、巨額のお金を稼いでいる人。これが、多くの人を「天才」から遠ざけている。
これを読んでいる人は、ちょっと、こういった偏屈な「天才」のイメージを棄ててほしいと思います。
では、「天才」って何ですか?というと、うまく言えません(笑)
でも、私も天才だし、あなたもやはり天才なんです。そのことは、事実です。あるものをないというとそれは嘘になってしまいますからね。それが発現していないだけ。
キーワードを上げるとするなら、「夢中」とか「心が解放されている」とか「喜び」とか。本当の天才に「慢心」はありません。つまり、それに没頭している時、自己が自己自身と同化出来るものが「天才」なのです。上手い下手は本当に関係ありません。
きっと、「天から与えられた自分にしかできない使命」に、人の心、魂は反応するように出来ていて、それをするために人は生まれてきたのでしょう。
それをした時、誰もあなたの真似はできません。
みなさんも、自分の中の「天才」に気がついて、それを生きてみてください。他人の足を引っ張るような声は無視して「私は天才だ。必ず成功できる。」この言葉を強く自分に言い聞かせていれば、あなたは自分自身に近づくはずです。
・「回り道を踏み尽くす」学び
灘中学校の伝説の国語教師として紹介された橋本武氏を知っている人も少なくないかもしれません。彼の授業の驚くべき特徴として、中勘介の『銀の匙』を三年間かけて読むというものです。超スローリーディング!
それで、無名の高校を東大合格者一位に導くのですから大したものです。
そして、テキストを読み進めるというよりも、どんどん横道にそれていき、調べたいことを徹底的に調べていくというスタイル。そんな話を読んでいて、私は思わずワクワクして、「そんな授業をやりたい!」と思ったものです。
私は、中学生時代灘中の学生たちと一緒に英語を学んでいたのですが、やはり純粋に学びが楽しかった。そのとき英語を楽しんだことが、10年以上たった今でも、血肉になっています。きっと、本当に心から楽しんだことしか、自分の財産にしかならないのではないでしょうか。灘や甲陽、東大寺や神戸女学院の中学生たちが、あらゆる欲望を棄てて、鬼のような形相で机に向かっているかといえばそうではなく、やっぱり遊びまくって人生を謳歌しているのです。
はっきり言いますが、遊びと学びは別のものではないということ。
成績が上がらない、勉強がつまらない人たちという子どもを見ていますと、笑顔が少し少ないし、第一夢中で遊ぶことをしていないように感じられます。勉強が出来ないのは、勉強をさせられているから厭意識が根底からこびりついていて、「勉強が好き」などという人を見ると「頭がおかしいんじゃないですか」と思いこんでいる。
やっぱり、言います。勉強とは遊びです。そして、ゲームよりはるかに充実した楽しみを得ることが出来ます。
とはいっても、高校受験という制度の現実の前で、本当に楽しめない子どもも多いし、楽しめない教員も多いのではないかと思います。学校のシステムを思い切って変えることも検討するべきでしょう。
できるんですかって?オランダや北欧では、「自由な学び」がすでに保証されており、それで社会はきっちりと成立しています。本来なら、文部科学省のほうが動いてくれるのが一番助かるのですが、数多くのNPOが草の根でそれを実現してくれているようです。
子どもにはそれぞれ自分の成長の速度があり、それぞれの進度に合わせた学習が一番いんじゃないかなあと思います。「最高学年らしく振舞いなさい」とか、小学何年生では何を出来なければいけないとか、中学何年生になっても何が出来ないと恥だというのは、そして、それによって「自分なんてどうせ」と思い、学習を放棄してしまう子どもがいるならば、それは教育の敗北です。
私は、教師が教壇に立ち黒板に板書し、知識を伝授するという、いわゆる一般的なスタイルの授業が嫌いです。生徒にしてみれば、まるでそれは牢獄です。じっと耐えながら聞いていること。教師は、「それには意味がある大切なことだ」と洗脳しなければなりません。
私は教壇で「オーソドックスなつまらない授業」とつい口走ってしまい、それを見ていた別の先生から「そんなわけあるか」と怒鳴られましたが、やはり、普通の授業、一方的な知識の伝達は本音として苦痛でしかありません。
教師は教室では、「権力者」、「神」として振る舞うことを求められます。無誤謬でなければならない。
しかし、教師も人間。巨大な知識を有していなければならないプロフェッショナルですが、謙虚に大自然や社会、すべてのものから学びつづける、「生徒」なんだという自覚が必要なのではないでしょうか。そして、教えるのではなく、「知の共有」「探究し合う」というスタイルだと、やはり学びはその本質を見せ、楽しくなるはずです。
まあ、しかし、合わないところで無理に批判的になって仕事をすることほど悪徳はありませんので、他者への批判よりも、自分のやりたいことを思う存分できる場所で楽しむことが大切ですね。
・教育は「大人の都合」になりがち?
お父さんお母さんは、子どもの成績を上げ、いい進路に行くことを期待して、子どもに何十万という金額を投資して塾に行かせます。それを分かっているから、塾の先生方は責任感を持って、生徒に勉強をさせ成績を上げさせようようと必死です。なぜなら、成績が上がらなければ、信用を失うことになりかねないから。
しかし、断言しますが、行動原理がそれでは、ますますその教育組織は落ち目になっていく。
しかし、教育を受ける主体である子どもの気持ちを考えたことはあるでしょうか。
私がそうでした。教育ママの親から、「通帳を見せられて、あなたの将来の為にこんなに投資してるのよ。だから頑張ってくれないと困るわ。」と、時には分厚い辞書でこれでもかというくらい殴られ、私は心の中で「お母様、私は別にそういうことを望んでないから。あなた自分の好きに生きるのが一番いいんじゃない?」と思っていました。
しかし、結果として私は高い学歴を手にした結果、「生きる喜び」を失ってしまったため、一時無職になり、親がよかれと思って投資した何千万円はすべて無駄になるばかりか、食いぶちまで奪ってしまったのです。仮に自殺していたら、「損害」といえるレベルのものではなかったでしょう。
そうなのです。「心配」の原理や「見栄」で投資したお金は、さらなる負債を呼び込むことが法則として決まっています。
大人は、子どもに勉強しろとは言わず、自分が仕事や生活を思う存分喜びと感謝でやっていればよいのです。自分自身が学ぶ背中を見ていれば、きっと子どもは安心して、勉強に好きなだけ取り組み、楽しみながら東大でも京大でも行くに違いありません。
では、お金にもなるし、幸せにもなれる一番お得な「お勉強」は何かといいますと、本を読むことです。だいたい千冊くらい読めば、世の中の平均的な人がことごとく騙されて自ら不幸を選びとっていることや、その土台となる「常識」が間違っていることに気がつくはずです。そうして、自分は本当に何をすべきなのかということが見えてきます。なので、本はたくさん読んで、自分の頭で考える習慣をつけた方がよろしいでしょう。
これからの時代は、「知識基盤社会」といわれており、あらゆる情報を正しく運用して、自ら考え、そして作りだしていける人間が必要だと言われています。はっきり言って、現代の学校教育は時代についていけていないのではないでしょうか。
社会全体や世界から見ると、生きる上で本当に大切なことは、学校の勉強以外にあります。それは、心に喜びと自己肯定感を持って生きること。
子どもがやりたくないことをいやいややって、苦労しながら、かりに学歴を手にしたとしても、それが財産になるかといえば、逆に人生にとって負債にしかなりません。お金を払って、借金をする。それは、全くの損です。
私は、私のかけがえのない生徒一人一人に最大限に「トク」をさせたいといつも願っています。それはどういうことかというと、「人生の成功法則」を教えて、人生をウキウキワクワク状態にして、決して不幸にはなれないような考え方を教えて実践させること。その上で、受験というゲームを楽しんで、勝てばよいでしょうし、すべての人がかてるわけではありませんが、しかし、人の幸せの為に生きていれば成功しないことはありません。
きっと、その子は、将来幸せな成功者になり、出世して、お父さんお母さんにも喜ばれます。もし、その子が自分の喜びを多くの人に分けることになれば、そのお得さは計り知れないほどなのです。
どうですか?
成績ももちろん上げますが、その百万倍はお得なことを知れば、その先にあるのは・・・想像以上に幸せな世界です。
・学校と家庭と塾以外の「居場所」が必要
きっと、多くの学生が、家と学校と塾の「三角通路」のみで毎日を過ごしているのではないでしょうか。職業選択の自由も経済的自由もなければ住居選択の自由も、学習選択権も保証されていないし、ある種の牢獄といっても差支えはないでしょう。そこで、幸福になれるかといえば、あきらめなければなりません(笑)
息苦しさを感じていない子どもはかなり恵まれているのではないでしょうか。
そして、ティーンにとって、「世界」とは、親、兄弟、友人、教師、それがすべてです。
その代わり、自由になったら自分はどうするか、を常日頃から考えておくことです。
そして、「義務」に縛られた「魔のトライアングル」(笑)の外にもちょこちょこと足を運んでみてください。
ある人は、図書館かもしれませんし、ある人は、空手の道場や野球チームかもしれません。
私は学生時代、教会学校のリーダーをしていたのですが、ある友人は不登校だったそうなのですが、教会の中高生会がきっかけで、しっかり進路を考えるようになったのだそうで。そこらへんの勉強していない学生よりは、知識があって、哲学の話で熱心に質問をされて逐一応えてあげたということがありました。あるいは、母校の高校生が、近くの教会でリーダーをして、子どもたちと関わっているうちに、それが生きがいとなったということも。
そうです。数多くあるお寺や教会などの宗教施設は、子どもたちの為に居場所を解放してみればきっとそれが救いになるはずです。私は、伝統宗派であれば、お寺でも教会でも、すぐにお邪魔して、参拝して、そこの人とお話をする癖がありますので、初めての人も、落ち着く場所が欲しかったら、ふらっと訪れてみてもきっと大丈夫なはずです。
発展途上国の話や、ボランティアなど、広く世界に目を向けることで、きっと生きる世界も視野もぐーっと広がるはずです。
万一、家出したときも、受け入れてくれたりすれば・・・いえ、それは期待しないほうがいいでしょう。