発達の偏り
発達の偏り
「文字をぐちゃぐちゃにしか書けない」「授業中に落ち着いていられない」「すぐに立ち歩く」「集中力がない」「自分の興味のあることしか話さず、コミュニケーションが取りづらい」「こだわりがある」
といった子どもが、実は「発達障害」という名で認められてきつつあります。
教育現場で「発達障害」という言葉は市民権を得てきつつあるようですが、大人の世界ではまだまだ認知度が低く、「おかしな奴」「変わった奴」「不思議な奴」と見られて、当事者としては非常に肩身の狭い思いをしているようです。教職関係者はもちろんどころか必須のことなのですが、塾でも、企業でも発達障害に対する正しい理解は本当に不可欠であるでしょう。名前だけは独り歩きして、「実のところ、理解ある対応が充分になされていないのではないか」と感じます。
「漠然とした知識」はあるが「積極的な関心」はない。感じた視線は、暖かいものだけでなく、冷やかなものも少なくはない、つまり、どこまでも「他人事」なのだな、という哀しさは感じます。しかし、立場が違っていれば、自分が無関心な側になっていたりするし、自分だけ理解されたいというのはエゴだったりしますので、そのあたりはそんなものだと大らかにみて、受け身なだけにならず、能動的に明るく伝える努力が必要でしょう。
一応、私自身も「注意欠陥障害」と「広汎性発達障害」という名前をいただいている当事者であり、教職課程では発達障害についてのプレゼンテーションも行いました。
困ったことがない時は自分はそういや当事者なんだということをよく忘れますし、自分が発達障害者なのだというアイデンティティはさほど大きいわけではありませんし、むしろこの脳のスタイルは才能以外の何物でもないと気がつくようになりましたが。
ということで、一当事者目線からの、主観的な一意見を述べさせていただきます。
全身全霊で感じているのが、「温度差」です。
「自分は、注意欠陥障害がありまして・・・自閉症の一部でして・・・」と言うと、そこで一旦「今まで漠然と同じ」だったものが、「違う」という風になる。そのような、「溝」や「壁」が出来て、それを埋める労力が面倒くさいので、私は自分から言わないことにしていました。
「えっ?それって何?」「ああ、何か聞いたことある」「え、君そうなの?」「で、僕らはどうすりゃいいん」「困ったなあ・・・」「興味ないわ」「ああ、そう・・・」という微笑と困惑の空気からから始まり、知ったかぶった人が、こちらの目線に立たず、どんどん知識を披露しだす。
こちらの空気も読んでくれ・・・これじゃあどっちが発達に偏りがあるのか分からない、と言いたくなる。
一番言われると辛いのが、「え、でもあなたって全然普通じゃない」「安心して下さい」。
そういう人間に限って、「お前は何でそんなに変わってるの」とか、「しっかりしろ」「できないのは甘えだよ!」「みんなもやってるんだからお前もさぼらずにやれよ!」と。
これほど辛いことはない。
「私の気持ちをくみ取ってくれ」とか、「もっと優しく関心を持って接してくれ」と、他人に要求するのは本当に自分のわがままや甘えのように感じるので、黙ることが多いし、何かしゃべれば、「相談に乗ってやってるのに、その生意気な態度はなんだ」と一喝されるのが怖いので、心にもやもやを抱え込んだまま、沈黙を続ける。そして、「ああ、言わなきゃよかった。人なんか信頼するもんじゃない。」とふさぎこんでしまう。
昔は、そうだったのですが・・・。
あれ?でも、こういうことって、多かれ少なかれ、みなさんにも心当たりあるはずです。
親との関係とか、兄弟姉妹との関係とか、あるいは恋人や夫婦の間での理解の違いとかね。
人間の成長は、まず「人は変えられない。変えられるのは自分だけ」というのを悟ることから始まりますから、とにかく、もう学べる事って大きすぎて、ある意味嬉しいわけなんです。
世の中には、それでも自分で居場所を作って好きなことをやって楽しんでいる人も多くいるのですが、「それが出来ないとダメだ」という観念にとらわれると、それは「ハンディ」となり、とらわれとなって、苦しみの原因となるのではないかと思うようになっています。
「自分は自分でいいんだ」という自覚が基本でしょうね。
「理解されない」と嘆くのは、自分の心がそういうレベルだから。あなただって、社会を理解し、愛と優しさの心をもってそこに投企していけば、必ず誰かが助けてくれないわけない。
大切なのは、ここでも「感謝と慈悲」に基づいた関係がなければいけません。
不満や、ルサンチマン(怨恨)による変化は必ずどこかで破たんして暴力を生みだします。
理解し合えない人の間で、人を変えるのではなくて、自分を変えていき、何かを学ぶことは魂の修行なので、その点でいえば、私の場合、多少修行が進むわけだから、かなりツイてて、幸せな環境に置かれているわけです(笑)
何でも、考え方一つで幸にもなれば不幸にもなったりします。
すべての当事者の方に私の考えを押し付けるつもりはありませんが、結局は本人次第。
やはり、当事者を優しく生かし受け入れる心ある企業が増えたらとてもうれしく思いますし、教育の方でも、障害のあるなしに関わらず、すべての子どもが個として尊重され、また互いに尊重し合える場を広めていけたらいいですね。
特別支援教育は、「特別な教育」でなく「教育の原点」です!
そして、障害は、社会から見たら「障害」でしょうが、友人関係からみれば「個性」で、本人が自覚すれば「才能」に他ならないのです。
間違いなくすべての人にこの世で生かさなければいけない才能があるのですから、決して自己卑下することなく、自分を愛して信じてほしいものです。