一番の基本は、「自分大好き、人も大好き、みんなが尊い存在」
いきなり、哲学的な事を言ってすみません(笑)
人が、生き、精進する目的は「存在になる」ことではないかと私は考えています。
本当に難しいので、分からなければ、読み飛ばしていいですよ(笑)
「存在」と言っても、「机がある」とか、「ビルがある」とか、「人がある」とか、物質の「名詞」だけではなく、「世界や宇宙の動きのすべてやあるいはその本質」と考えた方がよいかもしれません。その中で、私なら私、先生なら先生、お母さんならお母さん、大統領なら大統領、石なら石、川なら川で、その人固有の果たすべき役割は何かということを全体の中で実現することです。
簡単にいえば、「自分が自分である」ということです。
数学などの知識や学問を学ぶということは、「この世の中の真理を知る」ということで、つまり、「存在そのものの正しいあり方」に近づくということなのです。その証拠に、人は「正しいこと」を知った時、正解に到達した時、喜びを感じるように出来ていますよね。
存在や真理に近づくことに終わりはありません。「だったら、そんなの無意味ではないか」と思われるかもしれませんが、今の私たちはそのままで存在や真理の一部を有している、存在の一部であるということが出来ます。そして、「もっと」存在でありたい、真理でありたい、と望んでいます。
存在であること、真理に近づく心の働きのことこそ、私は「愛」だと思っています。
愛とは、「自己になること」です。「自分さえよければよい」というエゴレベルの自己ではなく、深いレベルで、すべての存在が、その存在の在り方を秩序のうちで正しく遂行することを私は便宜上「真理」と呼びそこにまた愛が生じます。
正しい愛によって、生きれば幸福が。間違った愛や愛に対する「無知」によって生きれば、不幸が訪れます。
例えば、「良い学歴を得ることが幸福だ」「他人を蹴落としてでも自分さえよければいいのだという」という愛に対する無知に対しては、それは「存在そのものの正しいあり方」から外れた愛ですから、「正しい」と思いこんでいても、結果は不幸しかないでしょう。
もしくは、彼氏や彼女が出来たとき、相手が自分に都合よく尽くしてくれることを愛だと勘違いしていると、それは「存在の正しいあり方から外れた愛」なので、不幸になりますよね。あらゆる不幸は、「正しさ」を履きちがえることから起こります。
それに対して、「自分を深く認めること」「他人を深いところで認めること」「すべては一つに繋がっていて尊い存在なのだ」という真理を知って、すべてを尊重し、感謝を忘れない生き方をしていれば、浄福な生を送ることが出来るでしょう。
すみません。いきなり、哲学屋としての本分が出てしまいました。これからは出来るだけ簡単に書きますので、お付き合いください。