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赤い背中にメロンパン

作者: 氷月涼

 まだ明けやらぬ空、暗い道をスクーターで走る。バイト先へあと少しのところで、顔にぶつかってきた冷たい小さな粒は雪。ぼんやりと光る「あけぼの新聞」の看板が見えてくるころには、ぼたん雪へと変わっていた。

「所長ーっ! 雪ふってきましたぁっ!」

 営業所へ着くなり、大野美雪は引戸を開けて飛び込んだ。大野を待ちわびていた所長は、煙草をふかしながらゆっくりと外へ出て空を仰ぐ。「うん。降ってきたなぁ」と余裕の一言。たまらず大野は切り返す。

「でも、四月なかばですよ。なんで雪なんか降るんですかぁ」

「大野サンはまだ昨日配達はじめたところやからわからんやろうけど、この時間帯は寒いからな、降るねん。せやけど、今年はちょっと長いなぁ、うん」

 所長は煙草の煙をすべて吐きだすと、灰皿で煙草をもみ消し、眼鏡をかけた。

 その瞬間、顔つきが変わる。鋭く、引き締まる。

「ほんなら、行こか」

 新聞の積み込みは大野が来る前にすでに終えられていた。所長はバイクに乗り、大野は自前のスクーターに乗る。大野は見習いなので、所長のあとについてまず道を覚えなければならない。

 エンジンをかける。走り出す。そのあと耳を支配するのはエンジン音だけ。スロットルを全開にして、やっと大野は所長に追いつくことができる。

 所長の配達ぶりはちょっとすごいと大野は思う。後ろの荷台に積んだ新聞を、所長はまだ走っている最中に左手で引き抜き、太股で三つ折りにし、ポストぎりぎりまでバイクを寄せてすばやく放り込む。実にあざやかでリズミカル。

 最初にこういうのを見せられたらかなわない。新聞配達はすごい。大野は思いがけず感銘を受けていた。

 

大野が新聞配達をはじめたのは、資金稼ぎのためだ。今の仕事に不満だが、転職しようにもふっきれない。もう一度学校に行こうと思い立ったのはいいが、まずは資金稼ぎからはじめなければいけなかった。そんな折り、新聞広告でアルバイト募集のチラシを見かけた。早朝二時間、時給千円は、その時は楽に思えた。迷わず営業所に連絡し、面接に行った。

 待ち受けていたのは、採用されないかもしれないという恐怖感。その時、営業所の所長は不在で、たまたま来ていた隣の営業所の所長が応対してくれたが、彼の反応があまりよくなかった。どうせなら男のほうがいいという素振り。だめかもしれない、だとしたら後がない、と大野は青ざめていた。

 そこへ所長が現れた。肩までのウェーブヘアを後ろで束ね、赤いキャップをかぶったジャージ姿の若い男。その外見に面食らっている大野を察したかのように、「こんな髪の毛してるけど、避けんといてな」と所長は笑う。その眉はきれいに八文字。必要以上に力の入った大野の肩がすこし柔らかくなった。

 女だからとか関係ないから、とまず所長は言った。すべて見すかされているようでさらに大野は驚く。給料その他の説明をすべて終えてから、所長は大野をじっと見た。

「やる気ありそうやな。ほんなら、明日四時半に来て」

 たったそれだけで大野の採用は決定した。不安になっていたのが馬鹿らしいくらいあっけなかった。


 配達コースの景色を覚えようと夢中になっているうちに、いつのまにか雪はやんでいた。空が白みはじめ、ものの輪郭がはっきりしだして、少し走りやすくなる。スクーターにさえ久々に乗る大野は運転に不慣れで、直角に近い曲がり角ではかなり減速するため、その度に所長に待っていてもらわねばならなかった。悔しい思いをしながらも、転ぶのは怖いので、減速せずにはいられない。しかし、その時は早く発進しようとして焦っていた。行き止まりの道をUターンするのに、アクセルをふかしすぎた。別の力で引っぱられているかのように急発進した。あわてて急ブレーキをかける。コントロールできない恐怖。かろうじてハンドルを握り、力いっぱいブレーキをかけるのがやっと。軽く壁にあたってスクーターは止まった。後輪はまだ空回りし続けていたが、大野はスクーターから身体を離し、エンジンを切った。

 先に発進していた所長が戻ってきた。スクーターを起こそうとしてもがいている大野にかわって軽々とスクーターを起こす。

「だいじょうぶか?」

 だいじょうぶです、と言いながらも痛みで顔をゆがめて大野は立ち上がる。壁に当たったときに膝をぶつけたようだった。ズボンが擦り切れていた。

「びっくりさせるわ。ほな、行くからな」

 再び所長はバイクをとばし、家々のポストへあざやかに新聞を放り込んでいく。大野は稚拙な運転で所長の背中を追う。ひるがえる赤いウインドパーカーの背中。二日目にしてすでに大野の目に焼き付いていた。

 

 営業所に戻ると、所長は表の自販機で缶コーヒーを買った。自分と大野のと二つ。差し出された缶コーヒーを受け取り、両手で包み込むと温かい。それを飲みながらのおしゃべりが始まる。

「昨日なぁ、彼女と喧嘩してなぁ。なんかもうあかんかもしれへんわ。彼女がな、俺がこんな仕事してて泊まりがけで遊びに連れていってやれへんから、友達とか他の男と行くてゆうねん。私は私やねんから何してもいいやろ、やて。そもそも、あいつが水中ダイビングしてみたいゆうたから、夜はバイトもして金貯めてんねんやんか。それをあいつだけ遊びたいっておかしいと思わへん?」

「はあ、そうっすね」

 内心、大野はどっちもどっちで自分とは縁のない世界だなと思いつつ、同意する。

「あいつはまだ十九にしては贅沢してると思うで。指輪買うてゆうたら、二、三万のすぐ買うたるし、同じ年齢の子と比べたら、そんなん買うてもうてるから目も肥えてるわ。こんだけしてやってんのに、なんで俺が働いてるときに他のやつと遊べんねんや、て怒ったんや、昨日。自分も働いてみ、ゆうて。あいつはコンビニでちょろっとバイトしてるだけやからな。新聞屋の仕事なんか絶対やれへんわ。俺が怒ったの、間違ってるか?」

「いえ、でも、その彼女は本当は所長と遊びに行きたいんでしょ。他の誰かと行くよりも。不満をぶつけられるだけ、その彼女は所長のこと好きなんですよね。ま、我慢することも大切だと私は思うけど」

「俺も、独占欲つよいからな。自分やったら、こんな彼氏とつき合うの嫌やろ?」

「そうっすね」

「はっきり言うなぁ」所長は情けなく笑う。

 あわてて大野は「や、私は、だめなだけで、束縛されるのがいいって人もいますよ」とつけ加える。

「束縛するってことはそれだけ相手を思ってるから……」

「それがなぁ、あいつはまだ若いからわからへんねんな……」

 ますます所長は情けない顔になっていく。配達しているときとは別人のよう。

「ま、頑張って下さいよ。きっと彼女も分かってくれますって」

 大野はなんとか慰めらしき言葉で話に決着をつけた。でないと会社に遅刻してしまう。もう三十分近く話し込んでいた。

 じゃ、お先にと大野はあわてて営業所を出る。所長の話を聞くことはたとえ遅刻しそうになったとしても、ちっとも不快ではなく、むしろ大野の楽しみであった。


 一週間がすぎ、大野が所長の背中を追いかけることはなくなった。かわりに所長が補佐する形で大野のあとをついてくるようになっていた。大野のひとり立ちは近い。今日、間違えることなく配り終えたら、明日からひとりで配ることができる。大野はひとり立ちが淋しいような、一人前になれるのは嬉しいような複雑な心境だった。

 そんな折り、新しいアルバイトが入ってきた。女の子でそのうえ可愛い。朝四時に来ても、ちゃんと髪をスタイリングしている。長い髪を両耳の脇で束ね、リボンを結んでいる。

 古株のバイトの北川は、かわいいを連発し、それに引き替えおねーちゃんは、と大野と比較さえしてくれた。確かに大野の格好はひどい。寝起きのままの状態の髪をヘルメットで隠し、コーディネイトなんか無視した厚手のジャンパーと履き古したジーンズ。かわって新しいバイトの女の子はブランドもののピンク色のジャージ。

 誰も見ちゃいないし、面倒だしと開き直っていた大野だが、急に自分が恥ずかしくなる。それと同時に新バイトの女の子に対して、敵対視に近い感情を抱きはじめる。配達するのにリボンはいらないだろう、やる気あるのか。それが偏見だということに大野はまだ気づいていなかった。

 その朝、大野が最後の一軒に新聞を配り終えた瞬間、後ろから「やるやん」と所長の声。先に営業所に戻ってるから、と所長はあっというまにその場を去っていった。

 これでやっとスタート地点。到達できた満足感で大野の頰が思わずゆるむ。もっとたくさんの言葉を所長からもらおうと、バイクをとばして営業所へ向かった。

 営業所の戸に手をかけて大野はドキン、とする。ガラス越しに所長と新バイトの女の子が話をしているのが見えたから。楽しそうとまではいかないが、二人の間には穏やかに流れている親しさがあった。

 一瞬すくんでしまった自分の足を動かすために、大野は大きく息を吸い込み、ひと思いに戸を開けた。

「ただいまっ」

「おう、おかえり」

所長が振り向き、女の子は無表情に会釈した。

「おめでとうさん。明日からひとりで配れんで。その方が気ィ楽やろ。うるさいのいいひんし、な?」

 くわえた煙草に火をつけながら、所長は同意を求めるように女の子の方を見る。

 愛想笑いをして女の子は立ち上がり、お先に失礼しますと営業所を出ていった。

「おつかれさん、明日四時な!」所長は手を振って見送る。

 女の子がいなくなって、大野はすこし呼吸がしやすくなった。必要以上に黙っていようとしたせいか、息が苦しかった。

 ふう、とため息まじりに煙を吐きだし、所長は「あ、もう帰ってくれてかまへんよ」と大野に言った。おしゃべりを期待していた大野は見事に肩すかしをくらった。

 あ、はい。とりあえず出た返事は情けなく、かといって情けない気持ちのまま、帰りたくはない。

「あの、所長?」

「ん? なんや?」

「その、彼女とは仲直りしました?」

 これが大野に出来るせいいっぱい。所長は間をおいて煙を吐き、ま、なんとかなりそうやと目尻にしわをたくさん寄せて笑った。

「よかったですね」大野も笑う。

「まだわからんけどな」

「だいじょうぶですよ、きっと」

 その時、ぽつんと生まれた淋しさの感情、そしてそれを否定しようとする理性。大野の中で二つの感情がゆれていた。


 朝、営業所に行くと誰もいない。用意された新聞をバイクに積んで配り、配り終えて帰ってくる。行きも帰りも誰もいない。大野がひとりで配りはじめてからそんな日が増えた。どこそこの家が明日から新聞を止めてくれとか、早く持ってきてくれとかをメモに残して家へ帰るのは、事務的で嫌だった。

 その日、朝は誰とも会わなかったが、新聞を配り終えて帰ってきたときは、珍しく新バイトの女の子と会った。

 彼女はだるそうに新聞に目を通していて、大野が帰ってきたのに気づくと、新聞から視線を上げた。

「おかえりなさい」消え入りそうなくらい小さな声。また視線を新聞紙に戻す。

「あ、ただいま」

「所長が待ってるようにって」

「私に?」

 彼女は新聞を閉じて、大野をまっすぐに見る。

「あなたとあたしに」

「あ、そう」

 それ以上の言葉が大野には出てこない。所長が来るまでのあいだ続くと予想される沈黙を、浅いうちに破っておかなければ。

 再び彼女が新聞を広げようとするのを妨げるのように、大野は話しかける。

「どうして新聞配達を?」

「……なんとなく。どんな仕事かなって」

 しゃべるとき、髪を触るのは彼女の癖だろう。人と視線を合わさないようにするのもまた。

「あ、そう。どう? やってみて」

「別に……こんな感じかなって。馴れたらしんどくもないし、面白くもないけど……」

「でも、よく続いてるよね。彼氏はいるんでしょ? なんにも言わない?」

「別に。勝手にすればって言ってる」

「彼氏と喧嘩でもしてるの?」

 その質問に彼女は答えず、黙り込んでしまう。つっこみすぎたと大野は反省し、別の話題を探すのに必死になる。何を聞いても彼女は一言二言しか答えない。ついに大野は話しかけるのをやめようとしたその時、表でバイクの音がした。

 ふたりとも一斉に戸口の方を見る。案の定、所長だった。

「ゴメンゴメン遅なって。ちょっと待ってな一服するし」

 所長は煙草に火をつけ、机にもたれ掛かる。大きく煙を吐いて、落ち着いたところで話をはじめる。

「うん、あのな。今も隣の営業所のやつと話をしてきてんけど、今度うちと隣の営業所でカブレースやろかってことになって。ほんで自分らにも参加してもらわんなねんな」

「え?」大野が口を挟む。

「ほんで来月あたまの日曜日、朝から、配達のコースそのまま使ってやるねんけど、だいじょうぶやんな?」

「ええ? なんでまた」

大野はあからさまに不満を表現する。

「コミュニケーション、レクリエーションやんか。それぐらいわかってーや」

 んもう、さびしいわ、と所長はふざける。

「わたし、へたくそですよ。いいんですか」

 真剣に大野はへたくそだった。カーブや曲がり角で必ず足をつくほど。

「何言うてんねんや。特訓や特訓。当然やろ」

「はあ、わかりました」

 腹をくくるしかなさそうだ。大野は情けなく天井を仰いだ。

「ほんでやな。本題はここからやねん」

所長は改めて仕切りなおす。

「隣の営業所には女の子のバイトはいいひんねんな。平等になるようにどっちかに向こうのチームに入って欲しいねん。それを決めてもらお思て。どうする? じゃんけんにするか?」

 新バイトの彼女はこくんとうなずき、それを見ていた大野もあわててうなずいた。

「じゃいけん、ほい」

 彼女はチョキで大野がグー。

「ほんなら須藤さんが向こうのチームな」

 へへ。思わず口の端から笑いがもれそうになり、大野は手で口をおおった。つまらないことだが、所長側のチームになれてほっとした。

「ま。そういうことやし。よろしくな。ほんじゃ、おつかれさん」


 五月に入ってからの朝は雪も降ることなく、重ね着が一枚とれる程度には暖かくなった。 特訓の証である擦り傷、打ち身をひっさげて、大野はカブレースの朝を迎えた。

 わが営業所が選手控え室となっていた。奥の畳の間を隣の営業所が、手前のコンクリートの間をうちの営業所が使う。

 レースは八時きっかりにスタートするので、あと三十分ほど余裕があった。十五分前からは作戦タイムだからそれまでは休憩。つまり腹ごしらえ。

 所長は自分の営業所の人間に缶コーヒーを配り、菓子パンの袋をもってまわる。

「俺、メロンパンもーらいっ」

 所長はコンビニの袋の中から一等先に自分の分を取り出す。「やっぱりメロンパンはヤマザキやな。中に入ってるレーズンがたまらんわ。な、須藤さん」

 へ? なんで須藤さん? 隅に座ってうつむいている須藤さんを大野は凝視した。

「須藤さんも好きやねんな? メロンパン」

 こくりと須藤さんはうなずく。

「私もメロンパンがいいな!」

割り込むように大野は自己主張する。

「あ、ごめん。メロンパンあと一個しかないわ」

「じゃ、いいです、あたし」

即座に須藤さんは折れる。

「ほんなら、俺と半分こしよ」

 手にしていたメロンパンの封を切り、所長は不器用に半分に割る。めちゃめちゃなってもうたけど、と須藤さんに渡し、未開封のメロンパンを大野に渡す。

 大野の隣では、北川が余っていた菓子パンを二つ手にして満足げだった。

 半分のメロンパンをいくらも食べないうちに、須藤さんは向こうのチームに呼ばれ、メロンパンは袋の上に置き去りにされた。それを見つけた所長はなんの気兼ねもなく、二口ほどで食べてしまった。あまりにも自然と。

 大野はメロンパンを手にしたまま、茫然と所長を目で追った。言葉も何も感情すら出てこない。

 そして、自分が手にしているメロンパンを食べる気は確実に失せてしまった。

 八時一分前、スタート地点に二台、バイクが並ぶ。こちらは北川。隣の営業所は所長らしき人物。

 町に鳴り渡る八時のサイレンを合図に、二台のバイクはスタートした。あっというまにその姿は遠くなる。それとともに、リレー地点まで先回りするため、二番手、アンカーもそれぞれ適宜、リレー地点へバイクで向かう。

 案の定、隣の営業所の二番手は須藤さんだった。一番手が来るまでどれくらい時間があるのか大野にはわからなかったので、話しかけもせずにただひたすらにバイクがやってくる方を見据えていた。しかし思いがけず須藤さんの方から大野に話しかけてきた。それも攻撃的に。

「あたしのこと、馬鹿にしてるでしょ? ここまで続けるとは思ってなかったんじゃない? つまらない理由ではじめたから、すぐやめると思ってなかった?」

「……」

「あなたが学生になるための資金稼ぎのためにバイトしてると所長に聞いたけど、あたしは感心したりしない。だって当然のことでしょ? あなたにとっては。新聞屋には大義名分な目的なんかいらないのよ。ただ新聞をきっちり配ればいいだけ。だからあたしもあなたも同じ。違う?」

「そうね」

他に返す言葉が大野には見つからなかった。

図星だったから。須藤さんの髪型を、新聞をはじめたわけを、どこか自分より低いものだと思っていたのは確か。資金稼ぎという大野の行為を、時々やってくる本店の人や、バイトの北川は感心する。そう思われることに大野は依存していた。見るべきものが見えなくなっていることに気づかないまま、本当は怠惰にやり過ごしてきていた。

 前ぶれもなく打ちのめされた大野の頭は、真っ白の状態。今、北川の姿が見えても、闘志を燃やして走ることはできないだろう。しかしそんなときに限って、相手チームより先に北川が姿を現す。大野はあわててエンジンをかける。

「おねーちゃん、あとは頼んだで!」

 北川はバイクからなかば身を乗り出して、大野の背中を叩く。

 その刺激をうけて、大野はスタートする。スロットルをまわし、徐々にスピードを上げる。

 ややあって、大野の遠くうしろのほうでエンジン音がする。須藤さんだ。このまま行けば、大野は余裕で先頭を切れる。ただ走るだけならば。

 前カゴに積んだチラシを家々に放り込んでゆく。スピードを落とし、ギヤを換え、止まり、ポストにチラシを入れる。一秒単位で差がつくのはここだ。いかにバイクをコントロールするか。

 最初に稼いだ差をそのままとは言わないまでも、すこし縮められる程度で大野は所長につなぎたかった。いつも通りのペースで配れば平気だと大野は思っていた。しかし、所長の姿が見えた時、後ろのバイクの音が予想以上に大きかった。

 所長のところへ行くのには、大通りを横断しなければならない。点滅信号で一旦停止し、左右を見る。トラックがこちらへ向かっていたが渡ることができる程度には遠かったので、大野は横断した。所長のもとへあとわずか。後ろで大きなブレーキ音、続いて短く鈍い音がした。大野を迎えてくれるはずの所長がバイクを放り出して、凄まじい勢いで大通りへと走ってくる。大野はうしろを振り返った。

 斜めに止まるトラック。倒れているバイク。流れ出す血。須藤さんの。

 いま目の前にしているのが現実だと大野には思えなかった。夢の中のような異質な感じ。アイドリングしているバイクの振動だけが、大野に感じられる現実だった。



 幸い、須藤さんの命に別状はなかった。骨折による入院は長引きそうだったが、いつも所長がついていてくれるので幸せだとのこと。

 事故が起こったとき真っ先に駆けつけた所長は、救急車が来るまでの間、須藤さんを抱きしめ、美穂、美穂、と何度も彼女の名前を呼んだ。

 彼女が所長の恋人だと大野が確実に知ったのは、お見舞いに行ったとき。眠ったばかりの彼女を邪魔しないようにと、彼女に付き添っていた所長と中庭に出た。

 屋外は春らしいあたたかな日差し。大野と所長は並んでベンチに腰かけた。

「須藤さんが所長の彼女だったんですね」

「あいつが黙っててくれって言うてたから……隠すつもりはなかったんやけど」

「いえ、そんなことじゃなくって」

「んん?」所長は訝しげに眉にしわを寄せる。

「この男にしてこの女あり、だなぁと」にっこりと大野は笑う。

「はあ?」

「わかんなくっていいです。私の中で納得してるだけのことですから」

「ま、ええか」所長は立ち上がり、大きく腕を上にあげてのびをする。

「所長、メロンパン食べます?」

「なんや、それ」

「あるんです、ここに」

 大野は鞄の中からメロンパンを取り出す。

「ちゃんとヤマザキですから」

「そりゃわかるけど。なんでまた」

「所長に食べてほしくて」

 所長は不思議そうに大野を眺める。おかしくなったんじゃないのかとでも思っている顔。

「うん。ありがとう」

メロンパンを受け取り、上着のポケットにしまおうとする所長を、大野はあわてて制する。

「いま、食べてほしいんです。だめ、ですか」

 一瞬戸惑い、うん、ええよと首をかしげながらも所長はベンチに座りなおし、メロンパンの封を切る。

 噛りつくように所長が食べるのを、大野は黙って眺めていた。ひとくちふたくち所長が食べていくごとに、大野は満たされていくような気がする。

 半分食べたところで所長は大野にいる? と聞いたが、大野はほほえんで首を横に振った。ぜんぶ所長に食べてほしいんですと言葉を補い、再び所長の食べるさまを眺める。

 そのメロンパンがすべて所長の胃の中におさまったとき、大野はとても満足した気分になった。

 大野は立ち上がり、ならって所長も立ち上がる。

「ほんとうに新聞配達やめはるんですか?」

 聞きたくて聞けなかったことを大野は切り出す。所長はお得意の八の字眉でうなずく。

「美穂があそこまでやってくれるとは思わへんかったし、そんだけ俺に対して真剣やとも思わへんかった。あいつの為にもちょっと時間の融通きく仕事に就こうと思て」

「そうですか。良かったですね」

大野はほほえむ。正真正銘、うれしくて。

「大野サンも配達がんばってな」

「はい」

 じゃあ、とお互い手を振ってわかれた。


 朝が来て、鳴り響くめざまし時計をとめて、眠気まなこで支度して、スクーターとばして営業所へ。毎日くりかえし。時節の花の匂いに感動し、明けゆく空に見とれる。

 そして時折、大野は暗い道の向こうにひるがえる赤い背中を思い浮かべる。いつかあんなふうになってやると誓いながら、バイクの荷台から新聞を引き抜く。すると決まってふらふらとハンドルが揺れる。まだまだ大野には修行が必要なようだ。



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