架空のオフレポ その3
尾触歩市憂愁
尾触歩駅の空気は、TVの空きチャンネルだった。耳に付く雨音、像を結ぶことに失敗したような空。遠く離れた悪徳都市チバと同じ光景。人は逃げられない。だからドラッグが売れるのさ──いつだったか、仲介屋はそう笑っていた。伝説のハッカーの気分を味わうのは、嫌いじゃなかった。リキティは窓の擬似絵を消し、愛用のガラクタへ向かった。
外に出るのは久々だった。太陽の時間は活動時間じゃない。リキティは仕事を常に闇の中で行う。彼ご自慢のガラクタは、MG社の汎用マシンで、初仕事の報酬で手に入れた。型も二世代は古い。しかし、中身はフジ・エレクトリックのWM型や、ドン・ジジンインダストリィのクアン型よりもハイスペックだと自負している──何せ自分がそうカスタマイズしたのだ。手をかければかけただけ、マシンは彼に結果で応えてくれた。マシンと人は違う。彼の持論だ……
だが、ガラクタは今や本物のガラクタ(ジャンク)に成り果てていた。モニタには文字が焼きついている。
『20XX.03.16.Ohurepo-sta.』
キィをいくら押しても、その表示は消えない。それだけならいい──事態はもっと悪かった。この画面が出ている限り、彼は電脳に繋げない。
駅のカメラをクラックして見ていたのは、そのためだ。誰がこんなふざけたことをしたのか。日付が変われば、仕事の時間だ。今回のは大切な仕事だった。上客だと仲介屋が言うのだから、恩を売っておいて損は無い。仲介屋に無理を聞かせる手札はいくつあっても多すぎることはない。
ベルは愛機から響いていた。プログラムを走らせ、腕に巻いたジャック・コードを伸ばし、接続する。回線は常時開いているが、この番号にかけてくるのは二人と居ない。仕事専用の番号、仲介屋だ。彼はいつものように陽気な口調で言った。
「ヘイ、ヘイ。アーティスト・リキティ。前のカンザスじゃ大変だったらしいじゃないか……ん? 妙だな。サブで繋するなんて。ああ。いい加減お前のヴィンテージもガタが来たか? 丁度いい。良い話がある。何、例の仕事までには終わる」
「お前があんなに持っていかなけりゃあ、そのお古だって新しく出来てたさ。この話も蹴ってた。クソ食らえだ。だから新しい方は蹴らせてもらう」」
「そう言うなよ、ハッカー。これはビジネスだろう? それに、今回はとっておきだ」
「悪いな、仲介屋。今日は先約だ。久々に散歩がしたいんでね」
「おい、待てよアーティスト。おい、おい!」
コードの抜けたサブ・マシンは、部屋で一番静かになった。
「初めて、だね」
「そうだな。会いたくもなかったが」
古仁清通りの雑踏を抜ける。デートの相手は既にご到着だった。尾触歩駅はこの街の中心にあり、利用客も多い。それでも、一目で分かった。誰が彼女なのか。傘を差さずに強酸性の雨の中に立っているなんて、ドラッグを用っていても出来ることじゃない。用ってる奴が立ってるところを見たことはない。
「君とこうやって現実で会うのは初めてだというのに」
黒姫。目の前の女はそう名乗っていた。彼女の言葉に嘘は無い。だが、彼女の口調は軽かった。まるで愛を囁き合う男女のような親密さで、「つれないね」
「お前と話してると頭が痛くなる」
「嬉しいね!模造情報の僕が、物理に作用出来るなんて」
雨に濡れてなどいないのだ。黒姫は姿を持たない。雨に融ける肉体を持たない、情報の塊。
「僕と言うのはやめろ」
「何故だい?」
「お前は男じゃない」
目の前の擬似像は突如笑い出した。合成音声が弾け、耳を刺激する。
「はは、面白いね。君は情報に性別をつけるのかい?」
「黙れ、化け物。用件は何だ、言え。俺も忙しいんだ」
「リキティというのは偽名だね」
高ぶっていた感情が急速に熱を失っていく。歪む。ドラッグ中に仕事をやった時と同じ。全てが電脳の格子に融け、拡散する錯覚。吐き気を通り過ぎて何かを飲み込みたい衝動が過ぎたところで、リキティは声を搾り出す。
「……ハンドルに偽名もクソもあるか」
「Re:Kitty。つまりあの子の生まれ変わりだ。君は幻想を引きずっている」
「違う」
「キティは死んだ。君がそう呼んでいた子はもう居ない」
「違う」
「何が違う?現に君はこうして型落ちの歯車で潜り、一世代前の脆弱なアバターを使い続けている。今回だってそう。口座のイェンは新型も買えないほどじゃないだろう?」
「黙れ!」
沈黙。模造子の集合体でしかない黒姫も、沈黙するのか。心を休ませてくれるのか。リキティは自分が柄にも無いことを考えていることに気づき、嘆息した──疲れている。相手のペースだ。いい仕事屋ほど自分のペースを崩さない。師匠が居れば殴られているところだ。
「黒姫。お前は何なんだ」
「僕は僕だよ、アーティスト。アーティスト・リキティ。今は今の君の名前で呼んであげよう。僕はクライアントだ」
「何?」
「17日の仕事を依頼したのは僕だよ。あるザイバツの金庫を開けて欲しい。そういう決まり(ルール)」
「それだけじゃ決まらないな、データ。そんな情報、通り(ストリート)を歩けば幾らでも転がってる」
「じゃあ、もう一つ。君にこの話を持ってきたのは、4サイスだ。サー・スコット=フランス。しかも彼は、自社の金庫を破って欲しいと言っている」
「分かった。分かったよ、黒姫様。だから俺の相棒を元に戻してくれ。あれはそのための取っておきだ」
「契約は成立だね」
黒姫は笑った。作り物とは思えないほどに。