プロローグ ~ある有名書道家の不満足~
現代日本で書道家というのは変わった職種であった。それなりに成功して生活には満足していた。
しかし、どんなに物が充実しようとも心はそうでもなかった。テレビのCMにも使われたし有名料亭から依頼を受けて看板を書いたこともあった。日本で書道家と言えば俺だと言うのは自他共に認める事実であった。それでも、自分には『何か』足りてない。現状に満足できない。
「とは言ったものの……」
『何か』がわからない。最近はずっと悩んでいる。つい信号待ちの間に独り言が出てしまうほどに。今は散歩がてら墨を買いに街に出たところだった。本番用の墨は確かに擦るが練習用は学生が使っている墨汁で十分事足りる。便利な世界に生まれたものだ。
でも、どんなに便利であろうと人に悩みは尽きない。書道家という職業に限界を感じているのだ。おおよそ書道家として出来ることはすべてやった。前に水墨画で個展を開いたら盛況であり近いうちに二度目の個展を開くことになっているのは半分書道家の枠を外れている気がする。
もう、書道家ではその『何か』は見つけられないかもしれない。いや、間違いなく見つからない。その事実に気づいたのはもう年齢は40を越えていた。書道家としての頂は果てしないが、例えそこにたどり着いても今の自分では虚無感しか残らなさそうだ。
しかし、自分には筆を握るしか能がない。今さら他のことをしようにも出来る気はしない。年齢とはこうも人をかたくなにさせるものなのか。
信号が青に変わる。上手いものでも食べれば気が変わるだろうか。帰りにスーパーにでも寄ろう。
すっかりボーッとしていたのだろう。信号無視しようとしていた車がいたことに気づいていなかった。
いや、気づいたのは撥ね飛ばされたあとのことだった。
死を目前として初めて、俺はこの人生に未練が無いことがわかった。