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サンバカーニバル通り商店街は今日も盛況だった。傾きかけた夕日の中、買い物客で賑わっている。
今晩の献立に悩む主婦。友人たちと買い食いに勤しむ学生。早い時間から飲み始めているオッサンども。
それもそのはず、今日は華の金曜日。繁華な街はとっくに浮かれポンチだ。
「おう坊主。今日もアルバイトか?」
声の主は近くの八百屋のオッサンだった。
「こんちゃっす」
まだ通い始めて日は浅いけど、こうして商店街の人たちとは挨拶を交わす仲になった。特にこの八百屋は事務所の前なので、通りがかりに必ず挨拶をする。
「そういえば、気になっていたことがあったんですけど……」
「ん? どうした坊主?」
「一週間くらい前、あそこでキリカさんが夕方からマーライオンだったじゃないですか? なんであの時すぐ助けなかったんですか?」
あれは、なかなか忘れられそうにない衝撃的な光景だった。甘酸っぱい――にしては酸味の効き過ぎているファースト・インプレッション。事務処理のように淡々としたオッサンたちの仕事。あれから一週間経った今でも、時々夢に出てくるのだ。
今思えば、後処理がやけに手慣れていたし、キリカさんがいつも飲んだくれている。もう少し早く手を打っても良かったはずだ。
キリカさんに聞くことも出来ず持て余していた質問をぶつけてみる。
「ああ、あれな。いや、なかなか傑作だったな」
オッサンは腹を抱えて思い出し笑い。
「キリカさんに知られたら怒られますよ」
「ハハハ! 冗談だよ冗談。以前はな、甲斐甲斐しく介抱したりもしたんだが、キリカちゃんも学ばないの! そのうち皆も面倒くさくなってな。『えっ? キリカちゃん? 吐くなら便所でも道でも変わらないんじゃない?』とか言われる始末ってわけよ」
「そんなによくある出来事なんですか……」
「しかもキリカちゃん、吐く直前に変なことするだろ? あれが愉快で愉快で。たいていキリカちゃんは、事務所前にたどり着くと力尽きるんだよ。帰巣本能ってやつかね。でもまあ、キリカちゃんのすごいところはちゃんと家まで帰ってこられるところだよ。俺なんて、ベロベロになると違う家上がり込んじゃってさ。今のカミさんはな、そのとき上がり込んだ家の娘さんってわけ。ガハハ。今じゃ娘って歳じゃねーけどな」
ガハハじゃねーよ。
「それに場所的にうちの前だから、もうすっかりあの寸劇のファンってわけだ。まあ、それに美人さんがゲロ吐く姿……乙じゃねえか。なあ、坊主?」
「……ノーコメントで」
下町情緒のサンバカ商店街は温かいね。人と人とのつながりがホット。だからオッサン、低温火傷しろ。
そんな呆れ返った俺を余所に『奥さん奥さん。どう、精の付く山芋。お安くしておくよ。ついでに今晩どう? 俺の方もお安くしておくよ』と接客に戻るオッサン。
俺は一度大きくため息をついてから、事務所へと上がっていった。
ドアを開けると、書類とよくわからないダンボールの群れで事務所内は埋もれていた。
うん、昨日しっかり片づけたはずなんだけど。片づける人不在の事務所はすぐこのような惨状になるのだ。
「今日もアルバイトのし甲斐があるなあ」
はははと苦笑して、入り口近くのサイドボードに置かれた機械に出勤初日にもらった社員証をかざす。
『ピコン。ヒトロクマルマル。悪の総統の右腕、ヒロカワマモルお兄ちゃんの出勤を確認したよ。今日もお兄ちゃんに、楽しい悪役ライフがありますように』
機械的なアナウンス。十六時ちょうど、いつもより早めの到着だ。ディスプレイには笑顔の顔文字が出ている。
このメカは『人工精霊出勤確認ちゃんマークⅡ』である。技術課の人の発明らしい。何のことはないただのタイムカードである。
製作者と未だに会ったことはないけど、このネーミングセンスと技術力、絶対変な人だ。出来ることならあまり会いたくない。
ダンボールと書類の山を分け入りつつ、共用のデスクに向かう。
「あれ、鍵が開いてたから誰かいるはずなんだけど」
事務所内には誰もいなかった。
「給湯室にいるようにも見えないし。総統は自分の部屋かな。この時間で留守にするならケンさんがお留守番してるはずだし」
独りだと心の声がつい表に出てしまう。そういう意識はあるのになかなかこの癖は治らない。
結社が入っている建物は三階建てである。
一階に降りたことはない。中から降りられる階段がないし、唯一の出入口らしい表のシャッターが閉じていて入れない。中に何があるのかもわからない。
二階は事務所である。簡単な応接スペースと共用デスク。奥には給湯室にシャワー室、更に総統の執務室があり、そこはそのままキリカさんの私室になっている。ちなみにシャワー室、給湯室側にも執務室とダイレクトにつながる扉がある。
うんうん、生活感満載だ。
そういうわけで面積自体はそれなりに広いはずだけどいろいろごちゃごちゃしているので、やや窮屈な二階部分だった。
三階は言わずもがなケンさんの城だ。こちらもまだお邪魔したことはなく、人外魔境に足を踏み入れるにはまだレベルが足りない。
下の表札には『スナック ショッカー』と書かれていた。足を踏み入れたらショック死するのかもしれない。
さて、というわけでキリカさんがいるであろう、執務室までゴーだ。挨拶ついでに今日の仕事の確認をしよう。
執務室の扉まで行く。扉には『必ずノックをすること』と書かれたボードがかかっている。
コンコン。
ハプニングの期待感から控えめなノック。
そう、それは主人公のみが持ち得るラッキースケベの栄冠。男子高校生の見果てぬ夢である。下心エンジンに火が入った。
返事を待たずに扉を開ける。ややフライング気味な行動だ。人それを蛮勇と呼ぶのだが、こういう注意力散漫な行動にこそ、ラッキースケベの秘訣はある。俺はジャンプ――じゃなくてメンズノンノを読んで学んだ。
期待とは裏腹に、中には誰もいなかった。エンジンの回転数はみるみる落ちていく。
ジャージやら何やら脱ぎ散らかされていて、ビールの空き缶や日本酒の空き瓶も見える。万年床じゃないのが唯一の救いか。とにかく、世の純情ボーイの希望を打ち砕く部屋だった。
事務所が汚いのは人手不足と言ってはばからないキリカさんだけど、単に不精なだけなのではないかと睨む。
小さく息を吸うとちょっぴりお酒臭い。ふう、とりあえず空き缶とかだけでも片づけよう。
それ以外はさすがに本人不在の中で手を付けるわけにはいかない。本人がいたらいいってわけじゃないけど。
『うっかり衣類の山が崩れて三角形の布が!?』という淡い期待を抱きつつ、適当なレジ袋を引っ張り出し腰を落とす。
と、何やら物音がした。
顔を上げたと同時にもう一つのシャワー室側のドアが開く。
出てきたのはタオル一つを雑に身にまとったキリカさんだった。
自然と俺の両手がルパンダイブの構えになっている。アイドリング中の下心エンジンは○・二秒でトップギアに入る。
しかし、そこは鋼鉄の自制心を兼ね備えた英国紳士、比呂川マモル(十六歳、彼女募集中初心者大歓迎)。飛び出そうとする足をすんでのところで抑え、行き場を失った思いを手に込める。
比呂川マモルは英国紳士だった。
ひと月ほど前に金色になったばかりの髪の毛は、たぶん曾祖母がイギリス兵と一発致した結果の隔世遺伝のはずだし、カンタベリー大聖堂で洗礼を受けたナイスガイだし、アフタヌーンティーは午後ティーよりジャワティーにミルクジャボジャボなジェントルなのだ。アイアムジェントル。オーケービッグベン。
紳士のこの場で取るべき行動はルパンダイブではなかった。それは感謝。サンキューを捧げることだ。
パンパン。ありがとう、ひいばあちゃん。英国紳士の遺伝子を俺につなげてくれて。ありがとう、キリカさん。俺をこんな幸せな気持ちにしてくれて。
俺、柏手。キリカさん、停止。
鼻歌交じりだったキリカさんも、さすがにそれで気づいたらしい。
目と目が合う。キリカさんの顔は赤くなった。世が世なら二人は恋に落ちているだろう。ラブでコメってる世界線ならね。
脳内ハードディスクに圧縮をかけずに保存。脳内ハードディスクに圧縮をかけずに保存。ものすごい勢いで俺のハプニングエロフォルダが潤っていく。
上気した頬としっとりとした肌のバランスがグッドであり、髪の毛は水気を含んでいてその黒色が艷やかに映えた。肌に吸い付くように髪が下ろされていて、そのコントラストは鮮やかなものだ。髪が長いからか、シャンプーの匂いが少し離れたこちらまで届く。頭がぼうっとする。鼻孔の奥まで届いたその香りは、俺の中のエンジンを回せ回せとはやし立てる。そしてなにより最も目を引くものが、彼女が身に着けている真っ白なタオル越しの至宝だ。たった一枚の布地ではキリカさんのものを覆い隠すには些か以上に頼りない。今にも零れ落ちそうだ、と思わず唾を飲み込む。彼女は誰の助けも借りずに自己を余すところなく主張している。だというのに、つい手を差し伸べてしまいたくなる衝動に駆られ、俺は身を焦がす。もしも、あのタオルに生まれ変わることが出来たなら、どんなにか幸せだろう。きっと今すぐ可燃ゴミとして捨てられたとしても、その身に余る幸せのために、少しの後悔も起こさないはずだ。許されるならば、あの二つの活火山の熱量によって燃え尽きる散り際を心から願ってしまう。やけに喉が渇く。こんなに渇いてしまうのだ。それならば、今すぐその二つの禁じられた果実から甘く芳醇で清らかな蜜を――――――いや、待て鋼鉄の自制心を兼ね備えた紳士、比呂川マモル(十六歳、彼女募集中この際経験は一切問わない)落ち着くのだ。
『マモルちゃん、それはもうほとんど犯罪よー』と脳裏に呼びかけるのは、勝手に俺の部屋を掃除してはジャンルごとにエロ本を整理、ベッドの上に選評と一緒に残していく母である。
ちなみにその大半が父の購入物なのは秘密だ。母は父に対しては厳しいので、父が勝手に自分の宝を俺の部屋に隠すのだ。そして、俺はその恩恵に預かるのだ。親子揃ってろくでなしである。
俺は一生懸命にカナタのおっぱいを思い浮かべた。一五年分のカナタちゃんバストを脳裏に描いた。とても悲しい気持ちになった。こんな辛いことがあっていいのかとさえ思った。
それでやっと俺は無意識で上げていた両手を下すことに成功した。父と母と、そして幼馴染に感謝である。
一方そんな俺を余所にキリカさんは何か投げるものを探していた。片付いていない割には適当なものがない。左手にタオルで体を隠し、空いている右手がせわしなく動いている。
しかし、適当な武器は見つからず、キリカさんは観念(?)したのか右手を胸元に寄せた。ふーふーとまるで猫の威嚇である。
「み!」
「み?」
思わず身構えた。
「見られたからには仕方がない!」
「仕方がないんですか!?」
マジかよありがとうございます! と思わず口を滑らせるところだった。危なかった。
「生きて返すわけにはいかないわ!」
「それはそうですけど!」
今日は噛まなかった! しかし、やめてください。なんか目がわりとマジです。
「話し合いという選択肢は?」
さっと右手で制止する。どうどう。静まりたまえ乳の女神よ!
「て!」
「て?」
左手も追加で身構える。どうどう。どうどう。鎮まり給え。なにゆえ、そのように二つのお山は荒ぶるのか。
「ていうか、なんでそんな落ち着いてるのよ!? ずるいじゃない!?」
「ずるいってどうして!?」
何故落ち着けるかって? それは固有スキル鋼鉄の自制心が為せる技なのです。犯罪者として両親を泣かせないためなのです。実は努力しているのです。戦っているのです魂の咆哮と。
実際のところ、キリカさんが言うほど落ち着いてはいないけど。
一方、キリカさんはダイナソーであった。大人の女性として云々かんぬんとか叫んでいる。今にも口から火を吹きそうでちょっと面白い。こんな状況で言うのもなんだけど。
しかし、うん、大人の女性か。この人は器に入れる精神を何処かに置いてきちゃったのかもしれない。立派な器が二つもあるのに。
「とにかく……落とし前はつけないとね。ほら、わかるでしょ? お互い事情があるわけじゃない」
「確かにお約束の展開ではありますけども!」
「じゃあ、行くわよ……」
「飛ばしたくない! この思い出は飛ばしたくないですよ! どうしてそんな酷いことが出来るんですか! キリカさんの悪党! 呑んだくれ! ゲロゲロバー!」
涙を流しながら制止しようとする俺を余所にキリカさんは投球フォームに移行する。
何が起きたか。タオルは離れ、肌色が露わになった。
慌てに慌てた結果、左手のタオルを丸めて俺に投げつけることにしたらしい。世が世なら、球界に嵐を巻き起こすこととなるショッキングピンクの左腕と人体を知り尽くした名コーチの出会いだったろうさ。スポーツで根性な世界線ならね。
「悪党で結構だけど……ゲロゲロバー言うなあああああああああああああああああ!!!!!!」
トルネード投法から放たれたタオルは俺の顔面にストライクした。そのまま視界はホワイトアウトである。見かけによらぬ豪腕であった。
「月が! 月が見えたぜダブルムーン!」
こうして俺は抵抗むなしく、風呂上がりの香りの中に沈んだのでした。さらば桃色のメモリーよ。