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【有限会社:悪の秘密結社K】
アルミ製のドアのガラス窓にはそう印字されていた。磨りガラスの上に白で書かれている。ちょっとポップなフォントでかなり目立っている。
今いるのは出流原さんがうずくまっていた場所近くの建物の二階。ちょうど表に上へと続く階段があって、俺たちはそこを上がってきたのだ。
「事務所の中はそんなに片付いてないんだけど、ごめんね」
ガチャリと、出流原さんは扉を開ける。
えー現場の比呂川マモル(十六歳、好きな枕詞は「たらちねの」)です。ええ、はい、この度は巨乳のお姉さんに連れられて、都内某所の怪しげなビルディングに来ています。テレビをご覧の皆様、わたくしですね、この段階でだいぶ怪しいんじゃないかと、実は気づいているんです、はい。
悪の秘密結社ってなんだよ。秘密じゃないじゃん。必死に気づかないふりをしたけれど、下の階にも立派な看板が出ていたのだ。そういうのは秘密って言わない。
もしかして、あれか。壺を売りつけるやつか。それとも痩せるクスリとか?
カルト宗教だってある。パワーブレスレットか外国語習得カセットテープ二十本セット(分割払い可)もある。怖いお兄さんが出てきて、うちの女に何してくれとんじゃボケカスっていうイメクラスタイルも大いにある。
ゲロ吐いているボインのチャンネーを介抱してあげる、全くジェントルな男子高校生の優しさと下心に漬け込むのがトレンドなのか。こんなの人間のすることじゃないだろ。引っかからないわけないじゃん。それは厳しいって話じゃん。
これがナウなヤングにバカ受けの美人局――ヘイ、ファンキーピポーセイ! TSUTSUMOTASEイェイ!――ってやつか。やべぇ、裏社会だ。アウトローだ。業界の闇だ。龍が如くでしか知らないやつだわ。
想像はすっかり嫌な方向にドライブだ。自由気ままにハイウェイを爆走していく。
「あーそこらへん。勝手に座っちゃって。ごめんね、普段来客とかほとんどないから片付いてなくて」
「いえいえ、お構いなく」
促されるままにソファに腰かけてしまった。お構いなくではない。いつの間にか手汗で手がベチョベチョで気持ち悪い。
出流原さんは外套掛けに羽織っていたマントをかけていた。その余裕ある動作が俺の不安を更に煽る。
『HAHAHA! マイマザー聞いてくれよ』
『Oh! ワッツハプン、マイサン。ドウシタノ~?』
『アルバイトを探していたらさあ、俺でアルバイトされちゃったってわけ? ジャパニーズセイTSUTSUMOTASE! ドゥーユゥーノウ?』
『こりゃ傑作だわ。ちなみにもう今月の分は渡してあるから、それ以上はお父さんをパンチしたって出てこないわよ』
『うっす』
とてつもなく嫌な脳内劇場だった。不出来なアメリカのホームコメディーだってもう少し笑えるだろう。しかし、それにしても脳内の母は、やけにノリがいいな。
そんな俺を余所に出流原さんは鼻歌まじりだった。俺にとっては、デスソングにしか聴こえないんだけど。
「待たせてごめんね。じゃあ、早速本題なんだけど」
「……」
出流原さんはえらく上機嫌だった。ふんわりと微笑んでいる。
一度色眼鏡を掛けてしまった俺からすると、それがふんわりではなくニンヤリに見えてしまうんだけど。
出流原さんはスッと息を吸う。
俺は身構えた。
「この会社でアルバイトしてみない?」
「は?」
身構えて中に浮いた手をニギニギさせる。
出流原さんも俺の真似をして手をニギニギさせた。別に挨拶とかではないんだけど。
ニギニギ。
「えーと、出流原さん」
「はい、何でしょう」
「もう一度言っていただけると嬉しいのですが」
「うちでアルバイトしない?」
オーケー。どうやら完全にきな臭い方向だ。
さすがの俺でもわかる。というかそろそろ『下心を原動力に大事なことを見ざる聞かざる言わざる』は限界があった。高速回転を続けていた下心エンジンもようやく落ち着いてきたのだ。
思わずこめかみを抑えて天を仰ぐ。
ダメだ。このパターンはこの前立ち読みしたメンズノンノには書いてなかったやつだ。ここからデートに持ち込める見込みがない。
俺の不信感など意にも介さず、出流原さんは首を傾け微笑む。あ、その仕草可愛い。
「……なるほど。詳しく」
ノーとは言えない日本人。
それでも勇んで歩くのが男の性!
はい、昔の人は言いました。虎穴に入らずんばおっぱいを得ず、と。はい、昔の人は良いことを言いました。汝、おっぱいを求めよ、さらば与えられん、と。
とにかく、もう少し話を聞かないことには俺のスターダムは始まらないのだ。ここから人生一発逆転出来る可能性があるのだ。
しかし、俺の精一杯の積極性にかかわらず、出流原さんはあからさまに困った顔をした。
えっ、困っているのはこっちの方なんだけど、というツッコミを飲み込み彼女の反応を待つ。
彼女はこちらの動揺に我関せず、人差し指をつんつんし始めた。えへへえへへと苦笑い。視線はあっちへこっちへ。
「えっと、その……実は詳しくは言えないの」
俺はすぐに立ち上がった。クルッと体をターン。
あばよ、性春。俺は孤独にバイト探しの旅と洒落込むぜ。
守秘義務というやつがあるのは俺でもかろうじて知っている。しかし、募集要項まで秘密にされてはどうすればいいのかわからない。現段階で汲み取れる情報は雇用主が巨乳美人だってことだけである。
それに母が教えてくれたのだ。人は深刻な時ほど茶化し始めるという。つんつんつん可愛いけども! 愛らしいけども! 怪しすぎるぜ出流原さん!
「ちょちょちょちょちょ!」
「ちょ?」
出流原さんが慌てて追ってきたので、俺はそちらに顔を向けた。
「待って待って! 今絶対に『コイツは怪しいぜ』って思ったでしょ!」
読心術者かな。
「いやー、まあ、ほら今回はですね。ご縁がなかったということで」
「それはアルバイトを採用する側の台詞だよ!?」
出流原さんは腕をブンブンと振る。
これからのますますの発展をお祈りしています、主に胸の。
出流原さんはどう見ても人畜無害そうである。隙がありすぎて、とても悪いことをしていそうには見えない。
しかし、彼女が疑似餌である可能性もある。誰かが利用しているのだ。あの豊満なボディを。
俺は諸悪に対していきり立った、違う、憤った。
「なんというか、特殊な事情があるんだけど、こう秘密を守ってほしいというか、だから契約後じゃないと話ができないというか」
「大丈夫です。まだ何も被害を受けていないので警察には行かないですから」
「ちーがーうー! 私が言いたいのはつまり……」
そろそろ頃合いだろう。
早くここから出なければ、万が一仲間がやってきた時に厄介だ。俺は彼女の言葉を振り切るように踵を返した。
そのまま扉へ直行だ、と一歩踏み出す。
が、ことはそううまくいかなかった。
そこには怪物がいた。そう、まるで特撮ヒーローのテレビ番組に出てくる悪役のような、狼の頭を持つ人間。狼男がそこにいた。何を言っているのだろうかと思われてもしょうがないと思う。俺もそう思う。
ダークグレイの目、狩猟者に許された牙、銀灰色の体毛、そして筋骨隆々のボディ。身長は二メートルほどあるだろう。体の厚みも俺の倍はある。生命としての格の違いだ。
男は狼なのよ。気をつけなさい。年頃になったなら慎みなさい。そうウキウキで歌っていた母を思い出す。
はは、それにしても最近の着ぐるみはリアルだな。豊かな表情なんて余裕だし、生暖かい呼気だって再現できるよ。科学の力って凄い。ねえ、きぐるみだよね、これ。
ほら、スマイルスマイル。よしんば本物だったとしても、狼さんは怖くない、怖くないったら怖くない。動物との対話は笑顔から。動物学者のおじさんがテレビで言っていた。熊にガリガリ頭をかじられながらだったけど。
「ハ、ハロー」
対話を試みた。世界の共通言語イングリッシュ。かつては大英帝国。今じゃアメリカ様が敷いた絶対のルールである。笑顔も忘れない。笑えているかどうかは、ちょっとわからないけど。
外国人に対してとりあえずハローって言っとけばなんとかなると思っているジャパニーズは多い。これね、俺もそう思う。なんとかなると思う。ただ非常に残念。これね、目の前にいるそもそも人類なのかもわからない相手には、どう作用するか全く未知数。最高にミステリアス。マジ世界ふしぎ発見。
見つめ合う。目が合う。あれ、こういうときどうするんだっけ。死んだふりだっけ。
「きゃ」
「きゃ?」
「きゃあああああああああああああああああ!!!」
あれは中学一年生の頃だった。幼馴染の阿久根カナタちゃんに投げつけられた風呂桶の味を、俺はまだしっかりと覚えている。昨日まで特に何も言わずに一緒にお風呂していたはずの幼馴染は、急に恥じらいというものを覚えたらしく、俺は圧倒的な暴力によって風呂場を追い出された。
あの時の声によく似ていたと思う。そんな乙女チックな声に。
明らかにオッサンの声帯から発せられるバリトンボイスなんだけど。めっちゃ良い声なんだけど。なんなの、この狼男。
「けだものおおおおおおおおお!!」
「それは俺のセリフううううう!!」
狼男は胸のあたりを隠していた。何を隠しているのか、わからなかった。乳首を隠しているんじゃないと良いな。そう思った。
「ケンさああああああああああああああああああんん!!」
対峙する俺と狼男の間に、出流原さんは絶叫とともに滑りこんできた。
「……出流原さん」
「はい」
「な」
「なんでもないよ!! うん!! なんでも!!!!!」
出流原キリカさんは、両手をいっぱいに広げて股もかっ開いて、今日一番のファニーかつインタレスティングなポーズをキメた。顔を見ると汗もダラダラと流していた。目はグルグルと回っているようで、明らかに動揺していた。
なにこの面白い人。少し、カマでもかけるか。
「そちらの方は?」
「え、なんのことかなー」
「もしかして、きぐるみとかですか?」
「きぐ? へ? あっ、そうそう! それそれ!!」
出流原さんは頭をガシガシとかいた。キャラが崩壊し始めている。
「いや、よく出来てますね。本物かと思いました」
「本物じゃない本物じゃない!! 本物なわけないじゃない!! まったくもー冗談ったらないわよー」
「ですよねー」
出流原さんは首を千切れんばかりに振っていた。
それと同時に背中で狼男を外へ外へと押している。
「ちょっとキリカ! 押さないでよ……押さないでって言ってるでしょこの尻デカ女!」
「もう本当に黙って!! お願いだから!!」
出流原さんは力づくで狼男を扉の外に追い出した。
ドンドンと力強いノックが響く。その音と一緒に、『なに、その子誰? 年下趣味だっけ? アンタの年齢だと犯罪じゃない?』だの、『男を連れ込むんだったら予め言いなさいよね』だの、『あれ、私狼状態だった? やだ言ってよ恥ずかしいじゃないもー!』だの、『じゃあ、あとはうまくヤリなさいよ』だの――止めどない、マシンガンのように言葉が聞こえてきた。
狼男がしゃべる度に出流原さんは汗を流した。耐えろ耐えろと頬はピクピクしている。嵐が過ぎるのを待つ仔ヤギのようだ。
俺は肩で息している彼女の方をじっと見た。
視線が合う。合って一秒も経たずに、彼女は目を逸らした。
「見ちゃった?」
「はい」
「そっか」
今にもしまった……と言い出しかねない顔をしていた。たぶんだけど、出流原さんはババ抜きとか弱いと思う。
「はい。まさか狼男(♂)が狼男(♀)だったとは。いや、世界はワールドワイドってやつですね。グローバリゼーションっすわ」
「そこじゃないでしょ! あとそれじゃあ馬から落馬と同じだから!」
俺はえっへへーと頭をかいた。
というかまた茶番に興じてしまっている。止められないのか? 俺の体に流れるラテンバイオリズムのビートを。
表向きではふざけているものの、頭の中では軽くパニック状態であった。こんな時、あらゆる事象に突っ込み尽くすスキルを持っていればと悔やんで仕方ない。それならテンションの赴くままにこのおかしい状況をツッコミツッコミ乗り切っただろう。
主人公スキルを育める環境ではあった。俺の周りは強烈なボケキャラばかりいる。母がその好例である。しかし、それについ張り合ってしまった。ボケで勝負を挑み続けていた。本職はボケなのだ。だから自分以上のボケ存在が現れるとどうも引っ込みがつかなくなってしまう。今更悔やんでもしょうがないことだが。
出流原さんの方を見た。自分自身を落ち着かせるためか。彼女は大きく息を吸い込んだ。深呼吸して、意志は固まったのか。先ほどの醜態は何処にもない。
俺は身構える。彼女の宣告を待ち受ける。
「み」
「み?」
「見られたからには仕方ない!」
「仕方ないんですか!」
「ええ。生きて帰しゅっ……生きて帰すわけにはいかないわ!」
「噛んだ!」
「ええ!」
フーフーとお互い肩で息。
何故だろう、あの狼男(♀)さんのせいで完全にブルっていたというのに、この人と話しているとなんだか楽しくなってくる。
「総統命令!」
出流原さんは右手を掲げた。左手は腰に構える。右手人差し指で天を衝く。上げた右手を、俺の方に向けて振り下ろす。彼女の指は俺を指していた。
他の誰にでもない。俺に対する命令だ。
「私はこの悪の秘密結社Kの総統、出流原キリカ。比呂川君。いえ、マモル君。あなたを今から私の右腕に任命するわ。存分に、力を振るってもらうからね。有無は言わせない。あなたに認められているのは、イエスだけ!」
こういう時、カッコつけずにはいられない性分らしい。彼女は不敵に笑って、そう宣言した。
「返事は?」
「――は、はい! キリカさん!」
勢いで返事をしてしまった。
名前で呼ばれたことを気にする素振りもなく、満面の笑みで彼女はうなずく。
「よろしい!」
面白おかしい世の中なんて。ドキドキハラハラの青春活劇なんて。みんなみんな、あの四角形の中の出来事だと思っていた。憧れて、夢焦がれて、なおも届かない四角形の王国。正義と悪のお話。
これから比呂川マモルの人生は、四角形にキリトラレ、非日常へと反転していく――そう、世界は斯くして戯画化されていく。
ああ、全く本当に。
どこにでもいる、男子高校生のお話だ。
どうやら俺は、悪の秘密結社と非正規雇用契約を結んでしまったらしい。
了 /第一話「世界は斯くして戯画化されていく」