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「ずびばぜんでじだ……ゴホォッゴホッ……オゥエェッッ!」
「……」
それから近くのベンチに移動することになった。
彼女が吐いてすぐ、周りの人たちの対応は早かった。魚屋のお兄さんが『あーはいはい、いつものことだから』とホースで水を撒き吐瀉物を片付ける。八百屋のオッサンが行き交う人々が混乱しないように誘導をする。
あまりに手馴れていた。どうして最初から助けなかったのかと聞く暇もなく、彼らは自分の役割をこなすと元の仕事に戻っていった。
とりあえず近所のお店で買ってきた水を彼女に与える。
こうして近づくことで一つわかったことがある。彼女は異常に酒臭い。顔はすっかり青ざめているけれど、どうやら相当お酒を召していたらしい。
俺が買ってきた水にゴキュゴキュと喉を鳴らす。ガラガラになってしまった喉を潤しているようだ。
改めて彼女を観察してみる。
ぴっちりと体のラインが出ている服は軍服のようにも見えた。マントも羽織っているし、おおよそ現代日本にはふさわしくない風体である。尖ったヒールの付いたブーツに踏まれたら新しい扉を開ける気がする。
吐いた勢い――仮にも麗しの乙女を描写するときにいちいち吐いた吐いたと言ってよいのか――なのか目元は少し濡れていた。
その豊満な体は、女性の色気というやつでムンムンだった。二十歳を超えているのはたぶん間違いないだろう。我が国の法律的にそうじゃないと困る。
しかしまあ、それに比べて顔は若干幼いように見える。童顔ってやつだ。若々しいってやつだ。男子高校生憧れのお姉さんってやつだ。いわゆるJDってやつだ。
さて、どうするか、この状況。
まあ、やるべきことは一つしかないのだけれど。
「改めてこんにちは、初めまして。俺は比呂川マモルって言います」
あなたは? と問い返す。
比呂川マモルはナイトの称号を持っているし、ティーにはミルクジャブジャブだし、生まれてこの方フィッシュアンドチップス以外食べたことがない掛け値なしのジェントルだ。いつだってジェントル、オーケービッグベン。
彼女は少し驚いた表情をした。
しかしそれも一瞬で、咳払いをして喉の調子を確かめている。彼女は姿勢を改めた。
「あ、あの……まずは見苦しいところを見せてしまってすみません。それと介抱してくれてありがとうございます」
「俺はいえいえそんなことないですよー」と首だけ振る。
「私の名前は出流原キリカです。ありがとうね、比呂川君」
ふんわりとかそういう擬音が似合う笑顔だった。
おお、ちょっと前までオロロロロしていたとは思えない。
女の子は皆恋するアクターみたいな言葉があった気がする――なかったら今俺が作ったから皆使っていいぞ――ので、彼女もその類なのだろう。
「野暮ついでで聞いちゃうんですけど、どうしてあんなところでマーライオン?」
「聞いちゃうんだ!?」
「礼儀かなと思いまして」
「そんな礼儀聞いたことないよ!」
「聞いて欲しかったんだるぉう?」
「なんで挑発的!!?」
頬赤らめ涙目で、先ほど正した立ち居振る舞いはあっという間に崩れた。若干ヤケクソになっているのかもしれない。
確かに、目の前でゲロを吐いた上に名前交換までしちゃって、おまけに『ホワイ? ゲロゲロバー? アァハン?』みたいなことを聞かれたらヤケっぱちにもなるだろう。
「……いろいろあるんです。察してください」
出流原さんは涙目で睨みつけてきた。俺はすぐに両手を上げる。本当はもう少し聞きたいこともあったけれど仕方ない。
『なんでまだ夕方なのに吐くほど飲んでるんですか』とか。
『商店街の人たちのあの対応はどういうことなんですか』とか。
『その服はコスプレですか? エロくていいですね』とか。
『お姉さんところで何カップですか?』とかエトセトラエトセトラ。
数えれば枚挙に暇がない。
さすがに会ってすぐの美人さんに嫌われたくはないのが高校生男子の本音だ。これは心の引き出しにしまっておこう。後半の方の質問は鍵付きの引き出しに。
「察しました」
「よろしい」
彼女はコホンと咳払い。再び柔和な笑みを浮かべる。
「改めてありがとうございました。何かお礼をしなければダメですね」
お礼! なんと淫靡な言葉だろう!
「でも、具体的に何をしてあげられるのか思い浮かびません。私の出来ることだったら何でもするんだけど……」
何でも! そんな甘美な言葉がこの世に存在していたのか!
「それで、どうですか? 何かありませんか? たとえば困ってることとか。これでも昔は人助けの真似事みたいなことをやっていたからそういうのでも良いんだけど……」
たった今良からぬ妄想に頭が支配されて困っております、はい。
「そう言われるとなあ……なかなか思い浮かばないものです」
思い浮かんだものを口にできないだけです。
目元が濡れているせいか、出流原さんの困った感は増していた。上目遣いまでされているので脳味噌はノックアウト寸前だ。このままだと脊髄反射を自制できる気がしない。
俺の『下心エンジン』は全開一歩手前であった。
下心エンジン、それは健全な高校生男子に備わるという魂の内燃機関である。その力は瞬間最大百万馬力(種馬式換算)にも及ぶ。往々にしてまったく社会の役に立たない方向に力が注がれるのだが、時にそれが正しく(?)作用して大人の階段を一気にスターダムしていくのである。
俺に紳士的かつ鋼の自制心がなければとっくにスターダムであったに違いない。
それにしても、困っていることか。困っていること……。
「あっ」
現在進行形の物があるじゃないか。まあ、これを相談したところで解決は難しいだろうけど、目の前のこの人の気持ちに応えることくらいは出来るだろう。
出流原さんはお礼をしなければ気が済まないという目をしている。
「何かありましたか?」
「はい。えーと、なんていうか。俺、今アルバイト先を探してるんです。今日、こっちの方に来たのもそういうわけで」
「なるほど……あ、もしかしてその制服は川むこうの高校かな? 比呂川君、全然見ない顔だもんね」
「そうですよ。よくわかりましたね」
「いつも商店街にいるから、よく来る人とか覚えちゃうの。あっちの方の高校生がこちらに来るのは珍しいからね。ほら、最近出来たスカイタウンのせいで」
大した記憶力だと感心する。俺なんて人の顔覚えるのは苦手な方だ。よっぽどでなければ記憶に残らず霧散する。
出流原さんはすっかり調子を取り戻しているようだった。自然と言動も砕けた感じになっている。
「で、アルバイト先を探しているねえ」
出流原さんはこめかみの辺りに人差し指を当てて考え始めた。つんつーん。何か心当たりを探しているらしい。
むむ、意外と真面目なのか。これはまた困らせることになりそうだ。
まずったなあと思っていると、出流原さんは人差し指をこめかみから離してクルクルと回し始めた。無意識の癖なのか、ものすごく可愛いらしい仕草だ。
「八百屋さんは、大丈夫。魚屋さんも。お肉屋さんは忙しそうだけど夕方はお子さんたちが手伝ってるから……むむむ」
「……あー出流原さん?」
「ちょっと待ってちょっと待って! 今ね、検索中だから!」
「あっ、はい」
出流原さんは腕を組み始めた。おっぱいのせいでちゃんと組めてないけど。
あーでもないこーでもないと悩む、そんな彼女を見ているのが楽しい。こうしていると、出流原さんの表情の多さに気付かされる。それは単純に顔の表情というだけでなく、身振りであったり手振りであったり、あれやこれやとクルクルと回る。
そんな様子を見ながらしばし暇つぶし。
この人は、よく商店街にいると言った。どこかのお店で働いているのかな。それとも単に常連なだけか。
先程から聞こえる彼女の独り言から察するに、あの商店街での顔は広いようである。
こんな不思議な格好をしているわけで、何か特殊なお店を想像してしまったりするのだけど、あんな人畜無害な商店街ではそういうことも無いだろう。新仲見世サンバカーニバル通り商店街なんて間抜けな名前だし。
「ふぅ……」
検索が終了したらしい。ため息から察するに結果は芳しいものではないようだけど。
顔がこちらに向けられる。
「比呂川君」
「はい」
「これも何かの縁だよね?」
「はいっ!」
出来れば良縁であれと願っている所存でございます。
「じゃあ、うち来ちゃおっか?」
「はい……はい?」
「そうと決まればレッツゴーだよ」
そういうと出流原さんはベンチから立ち上がった。握りこぶしを作ってサムズ・アップ。座っている俺に付いて来てねと促す。
えーと、それでどちらに行くんです?