短冊の挿話〜promise〜
私はずっと其処にいました。
はるか遠い昔から。
其処はいつも、かなしい夕暮れでした。
其処には桃の木と、広い広い草原と、きれいな川がありました。
あかく咲くもみじの森と、匂やかな梨の木と、
背の高いすすきの草原と、赤い花に見送られるきれいな川がありました。
川の流れは清かに、紅い森に映え、ちいさな舟を運びます。
ながれに沿って進む舟は、あかるい場所に行きつきます。
ながれと反対に進む舟は、冥い場所に行きつきます。
冥い場所には少しのあかりも無いのだと、いつか誰かに聞きました。
誰から聞いたのかは、どうしても思い出せないのでした。
其処にはたくさんの人が訪れます。
みんな何も話さないで虚ろな目をしていました。
だから私も黙ったまま、その人たちを舟に乗せてあげました。
どちらの舟に乗せるかは、手をつないだらわかりました。
どうして何故わかるのかは、やはり思い出せないのでした。
ある時、誰かに話しかけられました。
幼い男の子でした。
私は彼と手をつなぎました。
けれど行き先はまだ、わからなかったのです。
こういう人は自分の名まえを思い出して、すぐに元の場所に還っていくものでした。
けれど思い出さなかったら、舟に乗らなければならないのです。
彼ははじめこう言いました。
『私はおとなになれずに此処へ来てしまったのが、すこし哀しい』
だから私はこの子をおとなに変えてあげました。
私もこの子に合わせた姿になりました。
私たちはしばらく一緒にいました。
もみじを集めたり、冷たく澄んだ川に触れて遊んだり。
彼は川岸の赤い花を摘んで、
簪に見立て、私の髪に飾ってくれたりました。
広い広い草原を歩いたり、川に入って遊んだり、
時々手をつないだりしました。
彼は、人を舟に乗せるのを手伝ってもくれました。
私たちは様々なことを話して、そこにはたくさんの笑顔がありました。
いつからか私は、このときが永久に続けばいいと、
願うようになりました。
それは、どうしようもなく幸せで、
狂おしいほど悲しい気持ちでした。
けれど、お別れのときが刻々と迫っているのを私は知っていました。
ひとはいつまでも其処にはいられません。
どこかに進まなければならないのです。
彼のような人は、みんな還還っていきました。
還らない人はいませんでした。
彼も当然そうなると思っていました。
けれど、どうしてか。
いつまで経っても名まえを思い出さなかったのです。
このままだと私は彼を、
舟に乗せることになるでしょう。
私は彼の手をひいて梨桃の木のところへ行きました。
本当はいけないことなのですが、私は彼に、その梨の実桃を食べさせてあげました。
そうしたら彼は、自分の名まえを思い出しました。
禁じられた事をしたら破ったら、当然その報いが訪れます。
けれど後悔はありません。
あの人の名まえを知りたくてした事なのだから。
こうして流れと反対に進む舟に乗せられて、
冥い場所に行きつくとしても。
でも、このままでは絶対に終わらせない。
待っていて。
いつかまた、めぐり逢うまで。