世界を繋ぐ星巫女
〜〜〜
この世界には、“星脈”と呼ばれる巨大な魔力の流れが存在する。
大地を巡り。
海を循環し。
空に季節を運ぶ、世界そのものの血流。
もし星脈が止まれば、春は訪れず、海は腐り、空は砕ける。
だから人々は、代々《星巫女》を捧げてきた。
星脈を制御し、世界を繋ぎ止めるための生贄を。
――もっとも。
そんなこと、俺が知ったのはずっと後の話だ。
「アレン! 見て見て!」
春の丘。
桜の木の下で、少女が笑っていた。
風に揺れる栗色の髪。
花びらを両手いっぱいに集めながら、彼女は子どもみたいにはしゃぐ。
「桜の匂いって好き!」
「匂いなんかあるか?」
「あるもん!」
「いや絶対気のせいだろ」
「もー! アレンってほんと情緒ない!」
そう言って頬を膨らませる。
でも次の瞬間には、また笑う。
ころころ表情が変わるやつだった。
アリシアという。
村でも有名なお人好しで。
困ってる人を見つけたら放っておけなくて。
雨の日には捨て猫を拾い。
冬には凍えた子どもへ自分のマフラーを巻くような。
どうしようもなく優しい少女だった。
だからきっと。
世界は、そんな彼女を選んでしまった。
〜〜〜
アリシアはよく笑う子だった。
花を見ればしゃがみ込み、猫を見れば追いかけ、俺が剣術の訓練で負ければ腹を抱えて笑った。
「アレンって、本当に才能ないよね!」
「うるさい!」
「でも、頑張ってるから好き!」
そんなことを、平気で言うやつだった。
――それが今。
王城最奥、“星祈りの間”。
巨大な魔法陣の中心に座る彼女は、まるで別人だった。
白銀の髪。
透き通るような肌。
閉じられた瞳。
感情の消えた顔。
世界中の魔力循環を制御する存在。
《星巫女》。
それが、今のアリシアだった。
「本日の接続率、安定しています」
神官が安堵した声を漏らす。
「さすがは星巫女様だ」
「これで今年も冬を越せる」
周囲は称賛する。
誰も疑問に思わない。
十六歳の少女が、人間をやめさせられていることを。
「……アリシア」
俺が名前を呼ぶ。
ゆっくりと、彼女の瞳がこちらを向いた。
「どちら様でしょうか」
胸が、軋んだ。
昔の彼女なら、ありえない言葉だった。
「俺だよ。アレンだ」
「アレン……」
彼女はその名前を口の中で転がす。
まるで知らない単語を確認するみたいに。
「重要記録に存在しています。幼少期に交流のあった人物ですね」
記録。
交流。
まるで書類だ。
あの頃、一緒に泥だらけになって遊んだ記憶が、そんな言葉に変わってしまった。
「……お前、それでいいのかよ」
「世界維持のため、必要な処置です」
「そういう話じゃない!」
思わず声を荒げた。
神官たちが眉をひそめる。
「無礼だぞ」
「星巫女様に向かって」
違う。
違うだろ。
なんで誰も怒らない。
なんで誰も、こんなのおかしいって言わない。
「感情同期率を下げなければ、星脈制御に乱れが発生します」
アリシアは淡々と続ける。
「個人感情は、世界維持の阻害要因です」
「だから消したっていうのか……?」
「はい」
あまりにも静かな肯定だった。
そこで俺は気づく。
ああ。
本当に、失ってしまったんだ、と。
怒りも。
悲しみも。
好きだったものも。
全部。
「……アレン様」
神官長が前に出る。
「星巫女様は世界そのものです。個人として扱うのはおやめください」
「世界そのもの?」
笑ってしまった。
乾いた笑いだった。
「ただの女の子だろうが……!」
空気が凍る。
神官たちが息を呑む。
まるで禁句を口にしたように。
でも、構うか。
「こいつは世界なんかじゃない」
「花が好きで、甘い菓子が好きで、雷が怖くて……」
「泣いて、笑って、怒る、ただの女の子だ!」
叫ぶたびに、胸が痛んだ。
だって、その“ただの女の子”は、もうどこにもいない。
神官長が冷たく言う。
「世界を守るためには必要な犠牲です」
「犠牲?」
頭の中で、何かが切れた。
「じゃあお前がなれよ」
「……何?」
「そんなに尊いなら、お前が人間やめろよ!」
怒号が響く。
兵士たちが動く。
でも、その瞬間だった。
「――待機してください」
アリシアが言った。
兵士が止まる。
彼女はゆっくり立ち上がり、こちらへ歩いてくる。
白い足。
感情のない瞳。
でも。
俺の前まで来た彼女は、ほんの少しだけ首を傾げた。
「……不思議です」
「え?」
「あなたを見ると、胸部に異常な負荷が発生します」
心臓が止まりそうになった。
「桜の映像記録を閲覧した時と、似ています」
桜。
昔、一緒に見た。
村の丘で。
春になるたび、彼女がはしゃいでいた。
『来年もまた見ようね!』
その記憶が、喉を締め付ける。
アリシアは胸に手を当て、小さく呟いた。
「……なぜでしょう」
感情の消えたはずの顔。
その瞳から。
一粒だけ。
涙が落ちた。
神官たちがどよめく。
「ありえない……!」
「感情反応だと……!?」
俺は彼女の手を掴んだ。
冷たい。
機械みたいに冷たい。
それでも。
「帰ろう、アリシア」
「帰る……?」
「世界なんか知らねえ」
「お前が泣けなくなるくらいなら、そんなもん壊れていい」
世界がざわめく。
神官たちが青ざめる。
だが構わない。
彼女を道具扱いする世界なんて、知ったことか。
アリシアは長い沈黙のあと。
本当に、本当に微かに。
笑った。
ぎこちなく。
壊れかけたみたいな笑顔で。
「……はい」
その瞬間。
星を繋ぐ魔法陣に、亀裂が走った。
星を繋ぐ魔法陣に亀裂が走った瞬間。
王城全体が激しく揺れた。
天井から砂埃が降り、神官たちが悲鳴を上げる。
「星脈が乱れている!?」
「まずい、このままでは結界が――!」
怒号が飛び交う。
だが、俺はアリシアの手を離さなかった。
彼女もまた、俺の手を見つめていた。
まるで。
ずっと昔の記憶を探るみたいに。
「……温かい」
ぽつりと、彼女が呟く。
その声は、初めて“人間”のものに聞こえた。
「覚えてるか」
「……何を、でしょう」
「昔、お前。冬になるといつも手が冷たかった」
脳裏に、幼い頃の景色が蘇る。
雪の日。
村の外れ。
真っ赤になった鼻をすすりながら、アリシアは震えていた。
『寒いぃ……』
『だったら手袋しろよ』
『なくした!』
『またかよ!?』
呆れながら、俺は自分の手を彼女に押しつけた。
すると彼女は目を丸くして。
『わ、あったかい』
次の瞬間には、にへらっと笑った。
『じゃあアレン、ずっとこのままでいて!』
『嫌だよ!』
『ケチー!』
どうでもいい。
本当にどうでもいい記憶だ。
でも。
俺にとっては宝物だった。
アリシアは微かに眉を寄せる。
「……記録に、ありません」
「当たり前だろ」
「そんなもん、記録するようなことじゃねえ」
すると。
彼女の瞳が小さく揺れた。
「…………あ」
まるでノイズ混じりの機械みたいに。
不安定に。
「雪……」
俺は息を呑む。
「白い、丘……」
「冷たい手……」
思い出している。
欠けた記憶の底から。
必死に。
「アリシア!」
「頭部に異常負荷を確認」
「星脈接続率、低下――」
彼女が苦しそうに額を押さえる。
神官長が叫んだ。
「危険です! これ以上感情を刺激するな!」
「星巫女様の人格が戻れば、世界維持機構が崩壊する!」
「だからなんだ!」
俺は怒鳴り返す。
「そんなもんのために、こいつが死んでいい理由になるか!」
「数億の命が失われるのですよ!?」
「だったら他の方法探せよ!!」
沈黙。
神官たちは言葉を失った。
誰も探さなかったのだ。
最初から。
少女一人を犠牲にする以外の道を。
その時だった。
アリシアが、小さく笑った。
本当に微かに。
昔みたいに。
「……アレンって」
「昔から、怒ってばっかり」
俺の目が見開かれる。
「思い出したのか……!?」
「少し、だけ」
彼女は自分の胸に触れる。
「ここが、痛いんです」
その言葉に、泣きそうになる。
だって。
その痛みこそ、人間の証だったから。
「ねえ、アレン」
「……なんだ」
「私、昔。世界を守りたいって、本当に思ってたんですよ」
静かな声だった。
「みんなが笑ってるの、好きだったから」
それは、アリシアらしい理由だった。
昔から彼女はそうだった。
困ってる人を放っておけない。
誰かが泣いてたら、自分まで泣くような子だった。
だから、巫女に選ばれた。
優しすぎたから。
「でも……」
アリシアは空を見上げる。
巨大な魔法陣の光が、彼女の白銀の髪を照らしていた。
「怖かった」
その一言で。
胸が締め付けられた。
「忘れていくのが」
「好きだったものが、わからなくなるのが」
「アレンの顔を見ても、何も感じなくなるのが……」
声が震える。
感情を失ったはずの少女が。
今、泣きそうになっていた。
「なのに、誰も」
「大丈夫って、言ってくれなかった」
神官たちが目を伏せる。
誰も何も言えない。
当然だ。
彼女を、“世界を維持する装置”としてしか見てこなかったのだから。
俺は、彼女の手を強く握った。
「もういい」
「……え?」
「世界なんか背負わなくていい」
「怖かったなら、逃げてよかったんだ」
アリシアの瞳から、涙が零れる。
「でも、世界が……」
「知らねえよ」
即答だった。
「俺は、お前が笑ってるほうが大事だ」
魔法陣の亀裂が広がる。
光が暴走し始める。
警報の鐘が鳴り響く。
世界が壊れ始めている。
でも。
その混乱の中で。
アリシアだけが、昔みたいに泣いていた。
子どもみたいに。
ぼろぼろ泣きながら。
「……っ、わたし」
「まだ、桜を見たい……!」
その願いは。
世界を維持する神の言葉ではなく。
ただの、一人の女の子の願いだった。
崩壊の音が響いていた。
王城の壁が軋み。
空には無数の亀裂が走り。
星の光そのものが、不安定に明滅している。
神官たちは蒼白になっていた。
「星脈が限界です!」
「このままでは世界結界が完全崩壊します!」
「海が溢れるぞ……!」
誰かが絶望した声を漏らした。
大地の裂け目の向こう。
夜空そのものが崩れ始めている。
世界が、死にかけていた。
その中心で。
アリシアは静かに空を見上げていた。
涙の跡を残したまま。
けれど、その横顔はどこか穏やかだった。
「……やっぱり」
小さく呟く。
「世界、壊れちゃいますね」
「だったら!」
俺は彼女の肩を掴む。
「もうやめろ!」
「こんな世界、滅びればいいだろ!」
本気だった。
世界より。
彼女のほうが大事だった。
でも。
アリシアは困ったように笑った。
昔みたいな。
優しい笑顔だった。
「アレンは、昔から極端です」
「うるさい……!」
「覚えてますか?」
彼女は懐かしそうに目を細める。
「村の子たちが川で溺れた時」
「アレン、一人で飛び込んだんですよ」
そんな昔の話。
忘れていた。
『危ない!』
子どもたちの悲鳴。
濁流。
考えるより先に身体が動いていた。
結局、俺も流されかけて。
岸に上がったあと、アリシアに泣きながら怒られた。
『馬鹿ぁっ!!』
『死んだらどうするの!?』
あの時。
彼女は本気で泣いていた。
俺のために。
「アレンは、誰かを見捨てられない人です」
「……違う」
「違いません」
彼女はそっと俺の頬に触れる。
冷たかった手が。
少しだけ温かくなっていた。
「だから、私は」
「そんなあなたが、好きでした」
胸が止まりそうになる。
ずっと。
ずっと聞きたかった言葉だった。
なのに。
どうして今なんだ。
「……嫌だ」
喉から漏れた声は、情けないほど震えていた。
「行くなよ……」
アリシアは悲しそうに笑う。
「本当は、私も行きたくないです」
その一言が。
刃みたいに胸へ刺さる。
「もっと、桜を見たかった」
「もっと、色んな場所に行きたかった」
「アレンと……もっと、一緒にいたかった」
涙が零れる。
彼女も。
俺も。
止められなかった。
「じゃあ!」
叫ぶ。
「だったら生きろよ!」
「世界なんか放って逃げればいいだろ!」
「それができたら、よかったですね」
アリシアは空を見上げた。
崩れゆく星空。
泣き叫ぶ人々。
遠くで燃え始めた街。
その全てを見つめながら。
彼女は、静かに言った。
「……でも」
「私は、この世界が好きなんです」
優しい声だった。
「春の匂いも」
「夏の海も」
「秋の風も」
「冬の雪も」
一つ一つ。
愛おしむように。
「泣いてる人も」
「笑ってる人も」
「馬鹿みたいに喧嘩してる人たちも」
そして最後に。
彼女は俺を見た。
「あなたが生きてる、この世界が好き」
世界が軋む。
限界だった。
彼女の身体が淡く光り始める。
星巫女としての力が、再接続を始めていた。
「やめろ……」
「頼むから……」
手を掴む。
離さないように。
でも。
指先から少しずつ、彼女が光になっていく。
「アレン」
最後に。
彼女は、あの日みたいに笑った。
桜の丘で。
無邪気に笑っていた頃みたいに。
「私が愛した世界を、愛してください」
「――っ」
「だから」
「生きて」
その瞬間。
光が、世界を包み込んだ。
暴走していた星脈が止まる。
空の亀裂が閉じていく。
崩壊が、静かに止まっていく。
代わりに。
俺の手の中から。
アリシアが消えた。
まるで最初から存在しなかったみたいに。
何も残さず。
「……アリシア?」
返事はない。
冷たい風だけが吹く。
遠くで。
春の花びらが舞っていた。
その日から。
世界は救われた。
人々は星巫女を讃えた。
世界を守った聖女として。
永遠に語り継いだ。
でも。
誰も知らない。
彼女が、本当は泣き虫で。
甘い菓子が好きで。
冬になると手が冷たくて。
桜を見るたび、子どもみたいにはしゃぐ。
ただの女の子だったことを。
だから俺は。
春になるたび、丘へ行く。
桜の木の下で、一人空を見上げる。
そして。
風に向かって、呟くのだ。
「……ちゃんと愛してるよ」
お前が愛した、この世界を。
それから十年が経った。
世界は、何事もなかったみたいに回り続けている。
春になれば花が咲き。
夏には子どもたちが川ではしゃぎ。
秋になれば実りを祝い。
冬には雪を眺めて恋人たちが寄り添う。
誰もが日常を生きていた。
まるで。
一人の少女が消えたことなど、最初から存在しなかったみたいに。
星巫女の名は歴史に残った。
教科書にはこう書かれている。
『世界崩壊を防ぐため、自らを星へ還した聖女』
美談だった。
綺麗すぎるほどに。
けれど、その文章を読むたびに俺は思う。
違う。
あいつはそんな立派な存在じゃない。
ただ。
優しすぎただけだ。
困ってる人を放っておけなくて。
泣いてる誰かを見ると、自分まで泣いてしまうような。
そんな、普通の女の子だった。
春風が吹く。
桜が舞う。
俺は今年も、あの丘へ来ていた。
十年前。
アリシアと一緒に桜を見た場所。
『来年もまた来ようね!』
あの日の声は、今でも忘れられない。
俺は木の根元に腰を下ろす。
すると、小さな足音が聞こえた。
「おにーさん!」
振り向くと、女の子が立っていた。
七歳くらいだろうか。
白いワンピース。
陽の光を溶かしたみたいな銀髪。
不思議と目を引く子だった。
「どうした?」
「これ、落としました!」
差し出されたのは、古びた木彫りのお守りだった。
ずっと持ち歩いていたものだ。
昔。
アリシアが作った。
『へたくそとか言わないでよ!?』
『いや普通にへただろ』
『むー!』
そんなやり取りまで思い出して、少し笑ってしまう。
「ありがとな」
受け取ろうとした時だった。
少女が、じっと俺を見上げて言った。
「おにーさん、さびしそう」
どきりとした。
子ども特有の、妙に核心を突く声音だった。
「……そう見えるか?」
「うん。でもね」
少女は桜を見上げる。
花びらが、ふわりと髪へ落ちた。
「きっと、その人」
「ここにいるよ」
風が吹く。
桜が舞い上がる。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
花びらの向こうに、見えた気がした。
白い髪を揺らして笑う少女の姿が。
『アレン!』
懐かしい声。
振り返る。
もちろん、誰もいない。
夢みたいに消えていく。
「……あ」
気づけば少女もいなかった。
さっきまでそこにいたはずなのに。
ただ。
桜だけが静かに揺れている。
俺はしばらく空を見上げていた。
青空は、どこまでも綺麗だった。
――ああ。
お前、本当にこの世界が好きだったんだな。
春風が吹く。
どこかで、誰かの笑い声がした。
その音が妙に懐かしくて。
俺は、潤んだ瞳で澄み切った空を見つめ、
「アリシア」
と、その名を呟いたのであった。




