婚約破棄された変人王子、気づけば推し活令嬢に囲われてました
母に呼ばれたのは、昼をだいぶ過ぎた頃だった。
ギルバートは筆を置き、わずかに眉を寄せる。
今、ようやく一つの記述の繋がりが見えかけていたところだ。こんな時に呼び出されるのは、正直言って迷惑でしかない。
だが、呼んだのが王妃――母であるなら、無視するわけにもいかなかった。
「来たのね、ギル」
「……何の用だ」
「その言い方をする子に育てた覚えはないのだけれど」
「なら用件を」
「本当に可愛げがないわね」
呆れたように言いながらも、母の目はどこか優しかった。
向かいに座るよう促され、ギルバートは無言のまま椅子を引いた。
「あなたのことが心配なの」
「必要ない」
「必要あるわ」
即答に、今度は母が即答を返した。
「研究にばかり没頭して、周りは見えていない。食事は忘れる。寝台ではなく机で眠る。侍従は困り果てている。これで心配しない母親がいると思うの?」
「問題ない。研究は進んでいる」
「人は研究だけでは生きていけないのよ」
またその話か、とギルバートは内心で吐き捨てる。
母は昔からそうだった。私が成果を出しても、まず口にするのは体調や生活の話ばかりだ。理解がないとは思わない。だが、肝心なものを見ていないとも思う。
「それで」
会話を切るように言うと、母は一人の令嬢の名を出した。
「リリア・ファルゼン伯爵令嬢を知っている?」
「知らない」
「しっかりした良い子よ。聡明で、落ち着いていて、家格も申し分ないわ」
「……そうか」
「あなたの婚約者候補として考えているの」
ギルバートはしばらく無言だった。
断るべきかと思ったが、婚約そのものに強い興味がない以上、積極的に拒む理由もなかった。どうせ形式的なものだろう。王族として必要なら受ければいい。それだけの話だ。
「好きにすればいい」
母が一瞬、目を細めた。
その表情の意味は分からなかった。
「少しは喜んでくれてもいいのよ」
「なぜ」
「あなたを気にかけてくれる人ができるかもしれないから」
気にかけられる必要が、どこにあるのだろう。
だが母は、それ以上は何も言わなかった。
◆
リリアは、母の言った通りの女だった。
初対面の席で、彼女は柔らかく微笑み、よく通る声で言った。
「研究熱心なお方だと伺っております。とても素敵だと思いました」
素敵。
その言葉は、ギルバートにはひどく曖昧に聞こえた。
机に向かって文字を追い、古い書簡の綴じ目を確かめ、時に数日かけて一つの語句の解釈を定める。それのどこが“素敵”なのか、理解できない。
「……そうか」
返せたのは、それだけだった。
けれどリリアは気を悪くした様子もなく、穏やかに微笑んだままだった。
彼女は実際、よくやった。
必要な資料の取り寄せ、発表の段取り、学会の日程確認、仕立て直しが必要な礼服の手配に至るまで、いつの間にか整えられていた。
「こちら、王立図書館からの返答です」
「次回の発表会ですが、日程が重なっていたため、こちらで調整いたしました」
「昼食をお持ちしました。冷める前に少しだけでも」
有能だった。
実に有能だった。
余計なことを言わず、だが必要なことは抜かさない。
最初のうち、ギルバートはそれを“便利だ”と認識していた。
その認識が間違いだったと気づくのは、もう少し後のことだ。
「ギルバート様。明日の午後、お時間はございますか?」
ある日、リリアがそう言った。
「ない」
「では、三日後はいかがでしょう。庭園の茶会にお誘いしたくて」
「無理だ」
「来週でも構いません」
「研究がある」
リリアは一瞬だけ黙り、それから笑った。
「そうですよね。失礼いたしました」
断ることに、何の引っかかりもなかった。
茶会に出れば半日は潰れる。庭園を歩くことに何の意味があるのかも分からない。その時間があるなら、あと一冊史料を読める。あと二件、注釈を見直せる。
リリアは時折そうして誘ってきた。
茶会。
観劇。
夜会の後の小さな食事会。
王都で流行りの菓子店。
どれもギルバートには理解不能なものばかりだった。
「少しだけでも、ご一緒できたら嬉しいのですが」
「今、必要か?」
「……必要、というより」
「なら後にしてくれ」
その都度、彼女は引き下がった。
怒ることも、責めることもなく。
だからギルバートは、問題が起きていると気づかなかった。
ある時、発表の準備で夜更けまで机に向かっていたギルバートは、ふと違和感に気づいた。
必要な図版の下描きが届いていない。
確認するはずだった学会側の書簡も来ていない。
インクも切れかけている。
侍従に尋ねると、困ったような顔で答えた。
「それは……これまでリリア様が」
「呼べばいい」
「本日はお見えになっておりません」
「なら明日でいい」
だが翌日も、翌々日も、リリアは来なかった。
五日後、ようやく事情を聞かされた。
「……婚約は、解消されたそうです」
ギルバートは、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
「なぜだ」
「それは……」
「誰が決めた」
「先方よりお申し出があり、陛下と王妃殿下が……」
母の名を聞いた瞬間、嫌な予感がした。
だが母の私室を訪ねても、返ってきたのは静かな言葉だった。
「リリア嬢は、よく尽くしてくれたわ」
「ならなぜ」
「尽くすだけでは駄目なのよ」
「意味が分からない」
しばらく黙ってから、母は言った。
「あなたは、あの子を一度でも見たの?」
見た。
必要な書類を差し出してくる姿も、茶会に誘ってくる時の表情も、視界には入っていた。
「あなたは、あの子がいなくなって初めて困ったのでしょう」
「……」
「それは、人を失った悲しみではないわ。便利な手がなくなった不便さよ」
胸の奥が、わずかにざらついた。
「違う」
「では何が違うの」
返せなかった。
母は深く息をつき、視線を逸らした。
「もういいわ。あなたはまだ、誰かと生きるには幼すぎる」
その言葉は、不快なはずだった。
だが反論もできなかった。
それからしばらくして、母は病に倒れた。
母はもうひどく痩せ、白い手が寝台の上で細く見える。
「ギル」
呼ばれて近づくと、母はかすかに笑った。
「あなたのことが、心配だわ」
「……必要ない」
「そうね。もう、言っても仕方ないものね」
その言葉が妙に耳に残った。
「人はね、誰かに支えられることを、恥だと思わなくていいのよ」
「俺は一人で問題ない」
「本当に?」
その問いにも、ギルバートは答えなかった。
母は目を閉じ、そして小さく続けた。
「あなたを見てくれる人が、いつか現れるといいわね」
それが、母と交わした最後のまともな会話になった。
母が亡くなってから、父王は露骨に態度を変えた。
もともと熱心な父ではなかったが、王妃という緩衝材を失ってからはなおさらだった。
研究費の申請は通りにくくなり、侍従の数は減らされ、共同研究者も一人、また一人と離れた。
確実な庇護を求めるのは当然だ。
ただ、結果として残ったのは静まり返った研究室だけだった。
◆
その日、廊下の先から微かに笑い声が聞こえてきた時、ギルバートは最初、聞き間違いかと思った。
研究棟に笑い声など似つかわしくない。
ましてや紅茶の香りまで漂ってくるなど。
眉をひそめ、机の上の文書を一段落させてから立ち上がる。
廊下を進むと、開け放たれた小部屋に丸テーブルが置かれ、三人が座っていた。
王太子妃。
王太子。
そして、ステラ。
「あら、ギルバート殿下」
最初に気づいたのは王太子妃だった。
にこやかな笑みがいかにも楽しそうで、少し腹立たしい。
「ちょうどよかったですわ。今、お茶をしていたのです」
「見れば分かる」
「棘がありますわね」
兄が苦笑する。
「まあ座れ。ちょうど一息ついてたところだ」
「呼んでいないだろう」
「呼ばれないと来ないでしょう」
王太子妃があっさり返す。
その通りだったので、ギルバートは黙った。
ステラが立ち上がる。
一つ空いていた席の椅子を引いた。
「殿下、区切りがついたのですね」
「……まあな」
「では少しだけいかがですか。冷めないうちに」
そう言って差し出されたカップからは、柔らかな湯気が立っていた。
以前、ステラが“研究中でも邪魔になりにくい香り”と言って選んでいた茶葉だ。
なぜそんなことまで覚えているのか、自分でも分からない。
「無理に長く引き留めるつもりはありません」
ステラは淡々と言った。
「殿下の区切りの良い時に来てくだされば、それで十分ですから」
その言い方が妙に引っかかった。
来てくだされば、それで十分。
来るのが当然でもなければ、来ないことを責めてもいない。
ただ、席だけは用意されている。
ギルバートは無言のまま椅子に腰を下ろした。
王太子妃が、ほんの少しだけ目を細める。
兄は露骨に安堵した顔をした。
そしてステラは、まるで最初からそうなると分かっていたかのように、何事もなく自分の席へ戻った。
「本日は学会理事の話をしていたのです」
王太子妃が言う。
「次の発表の件で、王太子殿下にも少しお力添えをお願いしようかと」
「王家の利益になるなら構わない」
兄が肩をすくめる。
「ただし、ちゃんと成果を出せよ。弟」
「……出している」
「はいはい」
軽くあしらわれ、ギルバートはカップを口元へ運んだ。
温かい。
当たり前のことなのに、妙に意識に残る。
ステラが、書面を一枚差し出してくる。
「こちら、理事側が関心を示しそうな論点を整理したものです。殿下の以前の論文とも繋がるようにしてあります」
受け取って目を落とす。
簡潔で、無駄がない。要点だけを拾いながら、こちらの主張の軸はぶれていない。以前ならリリアがやっていたような補佐に近い。けれど決定的に違うのは、そこに“連れ出そうとする気配”がないことだった。
研究を止めないまま、外と繋げる。
「……よく読んだな」
「何度も読みましたので」
王太子妃が、面白そうにこちらを見ている気配がした。
兄は紅茶を飲みながら、何かを察したように視線を逸らしている。
ギルバートは書面を置いた。
ふと、思う。
母が言っていた。
誰かに支えられることを、恥だと思わなくていい。
あの時は理解できなかった。
今も、まだ分からないことの方が多い。
けれど少なくとも、目の前の女は“支える”という行為を、恩着せがましく差し出してはこない。必要な位置に必要なものを置き、あとは勝手に選べと言わんばかりに立っている。
それがひどく、楽だった。
「殿下?」
ステラが首をかしげる。
気づけば、三人ともこちらを見ていた。
「……何でもない」
「そうですか」
窓の外では、西日が研究棟の石壁を淡く染めていた。
母のいない時間は長かった。
父に期待することも、とうにやめていた。
気づけば、誰もいない静けさの中に閉じこもることが当たり前になっていた。
だが今、目の前には湯気の立つ紅茶があり、資料を整える手があり、兄と王太子妃のやり取りがあり、そしてステラがいる。
騒がしいと思う。
非効率だとも思う。
だが、追い払おうとは思わなかった。
カップを置き、ギルバートは低く言った。
「……次からは、始める前に一言伝えろ」
王太子妃の目が、ぱっと輝く。
「まあ。それは参加してくださるということですの?」
「区切りがついていれば、だ」
兄が吹き出しそうになるのを堪え、わざとらしく咳払いした。
「十分だな」
ステラはほんの少しだけ目を見開き、それから静かに笑った。
「承知しました。では次回も、区切りの良い時に」
ギルバートは答えなかった。
だが席を立ちもしなかった。
紅茶は、最後まで温かかった。




