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婚約破棄された変人王子、気づけば推し活令嬢に囲われてました

作者: 福嶋莉佳
掲載日:2026/03/20

母に呼ばれたのは、昼をだいぶ過ぎた頃だった。


ギルバートは筆を置き、わずかに眉を寄せる。

今、ようやく一つの記述の繋がりが見えかけていたところだ。こんな時に呼び出されるのは、正直言って迷惑でしかない。


だが、呼んだのが王妃――母であるなら、無視するわけにもいかなかった。


「来たのね、ギル」


「……何の用だ」


「その言い方をする子に育てた覚えはないのだけれど」


「なら用件を」


「本当に可愛げがないわね」


呆れたように言いながらも、母の目はどこか優しかった。

向かいに座るよう促され、ギルバートは無言のまま椅子を引いた。


「あなたのことが心配なの」


「必要ない」


「必要あるわ」


即答に、今度は母が即答を返した。


「研究にばかり没頭して、周りは見えていない。食事は忘れる。寝台ではなく机で眠る。侍従は困り果てている。これで心配しない母親がいると思うの?」


「問題ない。研究は進んでいる」


「人は研究だけでは生きていけないのよ」


またその話か、とギルバートは内心で吐き捨てる。

母は昔からそうだった。私が成果を出しても、まず口にするのは体調や生活の話ばかりだ。理解がないとは思わない。だが、肝心なものを見ていないとも思う。


「それで」


会話を切るように言うと、母は一人の令嬢の名を出した。


「リリア・ファルゼン伯爵令嬢を知っている?」


「知らない」


「しっかりした良い子よ。聡明で、落ち着いていて、家格も申し分ないわ」


「……そうか」


「あなたの婚約者候補として考えているの」


ギルバートはしばらく無言だった。

断るべきかと思ったが、婚約そのものに強い興味がない以上、積極的に拒む理由もなかった。どうせ形式的なものだろう。王族として必要なら受ければいい。それだけの話だ。


「好きにすればいい」


母が一瞬、目を細めた。

その表情の意味は分からなかった。


「少しは喜んでくれてもいいのよ」


「なぜ」


「あなたを気にかけてくれる人ができるかもしれないから」


気にかけられる必要が、どこにあるのだろう。

だが母は、それ以上は何も言わなかった。



リリアは、母の言った通りの女だった。


初対面の席で、彼女は柔らかく微笑み、よく通る声で言った。


「研究熱心なお方だと伺っております。とても素敵だと思いました」


素敵。

その言葉は、ギルバートにはひどく曖昧に聞こえた。


机に向かって文字を追い、古い書簡の綴じ目を確かめ、時に数日かけて一つの語句の解釈を定める。それのどこが“素敵”なのか、理解できない。


「……そうか」


返せたのは、それだけだった。


けれどリリアは気を悪くした様子もなく、穏やかに微笑んだままだった。


彼女は実際、よくやった。

必要な資料の取り寄せ、発表の段取り、学会の日程確認、仕立て直しが必要な礼服の手配に至るまで、いつの間にか整えられていた。


「こちら、王立図書館からの返答です」

「次回の発表会ですが、日程が重なっていたため、こちらで調整いたしました」

「昼食をお持ちしました。冷める前に少しだけでも」


有能だった。

実に有能だった。


余計なことを言わず、だが必要なことは抜かさない。

最初のうち、ギルバートはそれを“便利だ”と認識していた。


その認識が間違いだったと気づくのは、もう少し後のことだ。


「ギルバート様。明日の午後、お時間はございますか?」


ある日、リリアがそう言った。


「ない」


「では、三日後はいかがでしょう。庭園の茶会にお誘いしたくて」


「無理だ」


「来週でも構いません」


「研究がある」


リリアは一瞬だけ黙り、それから笑った。


「そうですよね。失礼いたしました」


断ることに、何の引っかかりもなかった。

茶会に出れば半日は潰れる。庭園を歩くことに何の意味があるのかも分からない。その時間があるなら、あと一冊史料を読める。あと二件、注釈を見直せる。


リリアは時折そうして誘ってきた。


茶会。

観劇。

夜会の後の小さな食事会。

王都で流行りの菓子店。


どれもギルバートには理解不能なものばかりだった。


「少しだけでも、ご一緒できたら嬉しいのですが」

「今、必要か?」

「……必要、というより」

「なら後にしてくれ」


その都度、彼女は引き下がった。

怒ることも、責めることもなく。


だからギルバートは、問題が起きていると気づかなかった。


ある時、発表の準備で夜更けまで机に向かっていたギルバートは、ふと違和感に気づいた。


必要な図版の下描きが届いていない。

確認するはずだった学会側の書簡も来ていない。

インクも切れかけている。


侍従に尋ねると、困ったような顔で答えた。


「それは……これまでリリア様が」


「呼べばいい」


「本日はお見えになっておりません」


「なら明日でいい」


だが翌日も、翌々日も、リリアは来なかった。


五日後、ようやく事情を聞かされた。


「……婚約は、解消されたそうです」


ギルバートは、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。


「なぜだ」


「それは……」


「誰が決めた」


「先方よりお申し出があり、陛下と王妃殿下が……」


母の名を聞いた瞬間、嫌な予感がした。


だが母の私室を訪ねても、返ってきたのは静かな言葉だった。


「リリア嬢は、よく尽くしてくれたわ」


「ならなぜ」


「尽くすだけでは駄目なのよ」


「意味が分からない」


しばらく黙ってから、母は言った。


「あなたは、あの子を一度でも見たの?」


見た。

必要な書類を差し出してくる姿も、茶会に誘ってくる時の表情も、視界には入っていた。


「あなたは、あの子がいなくなって初めて困ったのでしょう」


「……」


「それは、人を失った悲しみではないわ。便利な手がなくなった不便さよ」


胸の奥が、わずかにざらついた。


「違う」


「では何が違うの」


返せなかった。


母は深く息をつき、視線を逸らした。


「もういいわ。あなたはまだ、誰かと生きるには幼すぎる」


その言葉は、不快なはずだった。

だが反論もできなかった。


それからしばらくして、母は病に倒れた。


母はもうひどく痩せ、白い手が寝台の上で細く見える。


「ギル」


呼ばれて近づくと、母はかすかに笑った。


「あなたのことが、心配だわ」


「……必要ない」


「そうね。もう、言っても仕方ないものね」


その言葉が妙に耳に残った。


「人はね、誰かに支えられることを、恥だと思わなくていいのよ」


「俺は一人で問題ない」


「本当に?」


その問いにも、ギルバートは答えなかった。


母は目を閉じ、そして小さく続けた。


「あなたを見てくれる人が、いつか現れるといいわね」


それが、母と交わした最後のまともな会話になった。


母が亡くなってから、父王は露骨に態度を変えた。


もともと熱心な父ではなかったが、王妃という緩衝材を失ってからはなおさらだった。


研究費の申請は通りにくくなり、侍従の数は減らされ、共同研究者も一人、また一人と離れた。

確実な庇護を求めるのは当然だ。


ただ、結果として残ったのは静まり返った研究室だけだった。



その日、廊下の先から微かに笑い声が聞こえてきた時、ギルバートは最初、聞き間違いかと思った。


研究棟に笑い声など似つかわしくない。

ましてや紅茶の香りまで漂ってくるなど。


眉をひそめ、机の上の文書を一段落させてから立ち上がる。


廊下を進むと、開け放たれた小部屋に丸テーブルが置かれ、三人が座っていた。


王太子妃。

王太子。

そして、ステラ。


「あら、ギルバート殿下」


最初に気づいたのは王太子妃だった。

にこやかな笑みがいかにも楽しそうで、少し腹立たしい。


「ちょうどよかったですわ。今、お茶をしていたのです」


「見れば分かる」


「棘がありますわね」


兄が苦笑する。


「まあ座れ。ちょうど一息ついてたところだ」


「呼んでいないだろう」


「呼ばれないと来ないでしょう」


王太子妃があっさり返す。

その通りだったので、ギルバートは黙った。


ステラが立ち上がる。

一つ空いていた席の椅子を引いた。


「殿下、区切りがついたのですね」


「……まあな」


「では少しだけいかがですか。冷めないうちに」


そう言って差し出されたカップからは、柔らかな湯気が立っていた。

以前、ステラが“研究中でも邪魔になりにくい香り”と言って選んでいた茶葉だ。


なぜそんなことまで覚えているのか、自分でも分からない。


「無理に長く引き留めるつもりはありません」

ステラは淡々と言った。

「殿下の区切りの良い時に来てくだされば、それで十分ですから」


その言い方が妙に引っかかった。


来てくだされば、それで十分。

来るのが当然でもなければ、来ないことを責めてもいない。

ただ、席だけは用意されている。


ギルバートは無言のまま椅子に腰を下ろした。


王太子妃が、ほんの少しだけ目を細める。

兄は露骨に安堵した顔をした。

そしてステラは、まるで最初からそうなると分かっていたかのように、何事もなく自分の席へ戻った。


「本日は学会理事の話をしていたのです」

王太子妃が言う。

「次の発表の件で、王太子殿下にも少しお力添えをお願いしようかと」


「王家の利益になるなら構わない」

兄が肩をすくめる。

「ただし、ちゃんと成果を出せよ。弟」


「……出している」


「はいはい」


軽くあしらわれ、ギルバートはカップを口元へ運んだ。

温かい。

当たり前のことなのに、妙に意識に残る。


ステラが、書面を一枚差し出してくる。


「こちら、理事側が関心を示しそうな論点を整理したものです。殿下の以前の論文とも繋がるようにしてあります」


受け取って目を落とす。

簡潔で、無駄がない。要点だけを拾いながら、こちらの主張の軸はぶれていない。以前ならリリアがやっていたような補佐に近い。けれど決定的に違うのは、そこに“連れ出そうとする気配”がないことだった。


研究を止めないまま、外と繋げる。


「……よく読んだな」


「何度も読みましたので」


王太子妃が、面白そうにこちらを見ている気配がした。

兄は紅茶を飲みながら、何かを察したように視線を逸らしている。


ギルバートは書面を置いた。


ふと、思う。


母が言っていた。

誰かに支えられることを、恥だと思わなくていい。


あの時は理解できなかった。

今も、まだ分からないことの方が多い。

けれど少なくとも、目の前の女は“支える”という行為を、恩着せがましく差し出してはこない。必要な位置に必要なものを置き、あとは勝手に選べと言わんばかりに立っている。


それがひどく、楽だった。


「殿下?」


ステラが首をかしげる。


気づけば、三人ともこちらを見ていた。


「……何でもない」


「そうですか」


窓の外では、西日が研究棟の石壁を淡く染めていた。

母のいない時間は長かった。

父に期待することも、とうにやめていた。

気づけば、誰もいない静けさの中に閉じこもることが当たり前になっていた。


だが今、目の前には湯気の立つ紅茶があり、資料を整える手があり、兄と王太子妃のやり取りがあり、そしてステラがいる。


騒がしいと思う。

非効率だとも思う。

だが、追い払おうとは思わなかった。


カップを置き、ギルバートは低く言った。


「……次からは、始める前に一言伝えろ」


王太子妃の目が、ぱっと輝く。


「まあ。それは参加してくださるということですの?」


「区切りがついていれば、だ」


兄が吹き出しそうになるのを堪え、わざとらしく咳払いした。


「十分だな」


ステラはほんの少しだけ目を見開き、それから静かに笑った。


「承知しました。では次回も、区切りの良い時に」


ギルバートは答えなかった。

だが席を立ちもしなかった。


紅茶は、最後まで温かかった。

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― 新着の感想 ―
 自分にとって都合のいいイベントの調整や道具提供などをする助手や補佐として受け入れるものの、それに感謝する間もなく研究に再集中して当たり前として受け入れ、相手の趣味や主張への理解は一向に行わず……リリ…
リリアちゃん、このほろ苦さを糧にして、どこかでめっちゃ幸せになって! あなたは悪くなかった。悪かったのはタイミングと弟王子。リリアちゃんがいたから2件目のステラが上手くいったんだと思います。
リリアもいい子すぎねえか?・・・もしかして割と野郎ども割とロクデナシ多いなこの世界
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