頂点から覗く世界
窓ガラスに額を押し付けながら、美咲は三十七階から見下ろす街並みを眺めていた。午後の陽光が高層ビル群の隙間を縫って差し込み、遠くに霞む山々まで見渡せる晴れた日だった。
「こんなに高いところから見ると、人も車も点みたいね」
隣に立つ夫の健一に向かって呟く。結婚して十五年、二人でこうして同じ景色を眺めることも珍しくなった。健一は新聞から顔を上げることなく、曖昧に頷いただけだった。
美咲の手のひらは、窓ガラスの冷たさを通して外の世界の存在を確かめていた。ここから見える全てが自分のもののような錯覚を覚える。街を行き交う人々の喜怒哀楽も、渋滞に巻き込まれた車の運転手達のいらだちも、公園で遊ぶ子ども達の歓声も、すべてが手の中に収まりそうな気がした。
しかし、それは錯覚に過ぎないことを美咲は知っていたのだ。
───
エレベーターが一階に着くと、美咲は現実の重力を感じた。先ほどまでの浮遊感は消え、足音が確実にタイルの床を叩く音が耳に響く。
コンビニで買い物を済ませ、駅へ向かう道すがら、美咲は上を見上げた。自分たちが住むマンションが雲を突き抜けるようにそびえ立っている。あの高さから見えていた世界は、今や想像することしかできない。
電車に揺られながら、美咲は窓の外を流れる風景を眺めた。さっきまで点のように見えていた家々が、今度は窓の向こうに等身大で現れる。洗濯物を干すベランダ、猫が日向ぼっこをする屋根、学校帰りの制服姿の学生たち。
「上から見るのと、同じ目線から見るのとでは、こんなにも違うものなのね」
美咲は心の中でそう呟いた。
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その夜、美咲は夢を見た。
雲の上を歩いている夢だった。足下は柔らかな綿のようで、一歩踏み出すごとに雲が形を変えていく。空は無限に青く、太陽は優しく頬を撫でていく。
夢の中で美咲は歌っていた。声は雲に吸い込まれ、やがて風になって世界中に散らばっていく。その歌声に誘われるように、下界から多くの人々が浮き上がってきた。老人も子どもも、見知らぬ外国人も、みんなが手を繋いで雲の上で踊っている。
目が覚めると、枕元の時計は午前三時を指していた。隣で健一が寝息を立てている。美咲はそっとベッドから抜け出し、リビングの窓際に向かった。
深夜の街は静寂に包まれ、ビルの窓に灯る明かりだけが生命の存在を示していた。美咲は手のひらを再び窓ガラスに当てた。昼間感じた冷たさとは違う、夜特有の静謐な冷たさがあった。
────
翌朝、美咲は健一に夢の話をした。
「雲の上にいる夢を見たの。とても気持ちよくて、みんなで歌って踊っていたの」
健一は珍しく新聞から顔を上げて美咲を見た。
「それはいい夢だね。僕も時々、高いところから世界を見下ろす夢を見るよ。でも君のような楽しい夢じゃない。いつも一人で、なんだか寂しい夢なんだ」
二人は久しぶりに向かい合って朝食を摂った。窓の外では朝日が昇り始め、街を金色に染めていく。
「今度の休みに、一緒に山に登らない?」美咲が提案した。「本当の高いところから、本当の景色を見てみたい」
健一は微笑んで頷いた。「いいね。雲の上まで登れるかな」
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二週間後、美咲と健一は登山靴の紐を結んでいた。選んだのは標高千五百メートルほどの、初心者でも登れる山だった。
登山道は予想以上に険しく、美咲は息を切らしながら一歩一歩足を進めた。途中、何度か振り返ると、眼下に広がる景色が徐々に小さくなっていくのがわかった。
「マンションから見る景色とは全然違うね」健一が汗を拭きながら言った。「こっちの方が、なんというか、生きている感じがする」
三時間かけて中腹の展望台に着いた時、二人は言葉を失った。そこから見える景色は、人工的な高層建築から見下ろすそれとは根本的に異なっていた。山々が連なり、川が蛇行し、町が盆地に収まっている。自然の造形の中に人間の営みが溶け込んでいる光景だった。
「これが本当の『世界の頂上』からの眺めなのかもしれないね」美咲が呟いた。
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山頂に着いた時、美咲は思わず声を上げた。それは歌ではなく、喜びの叫びだった。その声は山々にこだまし、やがて風に運ばれて消えていった。
健一も同じように声を上げた。二人の声が重なり合い、山の空気を震わせる。下界では聞こえない、純粋な歓喜の音だった。
「こんなに気持ちよく声を出したのは、いつぶりだろう」美咲は深く息を吸い込んだ。
「空気がおいしくて、景色が美しくて、あなたがいて。本当に世界の頂上にいる最高の気分」
健一は美咲の手を握った。「君がいるから、僕もこの高さまで来ることができた。一人だったら、きっと途中で諦めていた...」
二人は頂上で弁当を広げた。コンビニで買った簡素なおにぎりとお茶だったが、この標高で食べると特別に感じた。
───
下山の道すがら、美咲は何度も振り返った。頂上はもう雲に隠れて見えなかった。
「また来ようね」健一に向かって言った。「今度はもっと高い山に」
「そうだね。でも今日のことは忘れないよ。この気持ちを忘れないようにしよう」
電車で家に帰る途中、窓の外を流れる景色を見ながら、美咲は歌いたくなった。口ずさむのは知っている曲のメロディだったが、歌詞は自然と自分の言葉になっていた。
「高いところから見える世界は、いつもより美しくて、いつもより優しくて、いつもより希望に満ちている…」
マンションに帰り着き、三十七階の窓から街を見下ろした時、美咲の心境は朝とは全く違っていた。今度は単なる観察者ではなく、この景色の一部である自分を感じていた。
点のように小さく見える人々も、渋滞の車も、公園の子どもたちも、みんなそれぞれの頂上を目指して歩んでいるのだろう。美咲はそう思った。
窓ガラスに手を当てながら、美咲は小さく歌った。その歌声は部屋に響き、やがて健一の耳にも届いた。健一も一緒に歌い始める。
二人の歌声は窓ガラスを通して外に漏れ、夜風に運ばれて、きっと誰かの元に届くだろう。高いところから始まった歌が、同じ高さを求める人々の心に響くように。
美咲は微笑んだ。世界の頂上は、きっと一つではないのだから。




