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白石ひよりという少女

作者: 諒

 僕、高坂廉治は中学2年生の、どこにでもいる子供だった。廉治という古風な名前は祖父がつけた名前で、地元で著名な建築家からとったらしい。祖父に建築物を鑑賞する趣味はなく、というよりもまったくその手の芸術に関心がないのに、どうしてそんな名前をつけたのかはわからない。

 それはともかく僕はその当時まだ14歳の子供で、未だ成長期を迎えていないせいで、クラスで身長順に並ぶと一番前にきてしまうようなガキである。殴り合いの喧嘩をしても、2つ上の姉にこてんぱんにされて負ける。成績も性格も凡庸であるから、童顔低身長はむしろ個性として受け入れるべきなのかもしれない。

 しかし精神のほうはもちろん14歳相応だから、そんな僕でも恋などをしていた。


 僕の初恋の相手は、3年生の朝倉千沙という女子生徒だった。朝倉は僕などとは違ってすらりとした長身に大人びて端正な顔、合奏部ではソロのソプラノパートを任され、そのうえ成績優秀という、絵に描いたような才女である。親は華道の有名な家元で、本人は華道に興味ないなどと言いつつも、それなりの賞をとっているらしい。

 大人になれば恥ずかしい部類の話になるのだろうけれど、思春期の男子というものは、こういうわかりやすい「高根の花」に惹かれてしまうものだ。まずこちらの内面が成熟していないので、相手の人柄の良さに惹かれるのは、もう少しあとの年頃になってからだ。


 とまれ、他の男子同様、この頃の僕もわかりやすく朝倉に恋焦がれていた。といっても、所詮は母親と姉以外の異性など知らぬガキだ。昭和のようにラブレターなどといったものを出す勇気もなく、友人たちと物陰からじっとりと視線を送るのが関の山であった。


 ところでその朝倉の破廉恥な写真が、掲示板に張り出されるようになったのは、確か夏休みに入る少し前のことだ。


 新聞部が張り切って作っているお粗末な学校新聞以外では、学校からのお知らせくらいしか張り出されないような、誰が見ているのかもわからないような掲示板に、ある日突然小さな写真が張り出された。

 もちろん僕らは沸き立った。沸き立ったというと、彼女には失礼だろうけれど、田舎の特に娯楽もないような場所で生まれ育った僕らには、ただ風にあおられたスカートがめくれているだけの写真が、とてつもなく煽情的なポルノに見えたわけだ。


 なんでもインターネットで見つけられるような今の時代には考えられないだろうけれど、あの頃の僕らが持っていたのは折り畳み式の「ガラケー」と呼ばれるものが主流で、インターネットそのものにさえ少しアングラな、オタク的イメージがあった。ネットでエロ画像を検索するのが普通になる、その少し前の時代である。

 特に僕らは田舎在住なので、中学生になっても道端に落ちている成人向け雑誌などを「お宝」と称して、回し読みするような環境だった。それを踏まえれば、僕らの興奮度合いも理解してもらえるかもしれない。


 朝倉の「ポルノ写真」は、もちろん即座に教師により撤去され、翌日の朝礼で「他人を傷つけるようないたずらは言語道断」と担任が説教を垂れた。写真の撤去までの時間が早かったおかげで、そのときはまだ、写真の現物を見ていない生徒も多かった。朝倉が被写体であったことを知らない生徒もいたくらいだ。

 とうの朝倉は、当然ショックを受けていただろうけれど、下足箱のところにいるのを目撃した限りでは、いつもと変わらぬつんと澄ました顔をしていた。そういった部分も彼女の「大人」な部分であるように見えて、僕などは見当違いにも感激したものだ。


 ところが事件はそれで終わらなかった。

 2日後、今度は朝倉が着替えている最中の写真が掲示板に貼り付けられた。着替えている最中といっても、制服のシャツのボタンを外しかけて、胸元から肌着が見えている程度のものだ。

 ところが以前と違い、今回はわざわざA4に引き伸ばされてフルカラーで印刷されたが貼り出されていた。視力のあまりよくない僕にも、人垣の向こうからはっきりと肌着――淡い水色のキャミソールが見えたくらいだ。まるで撮影者の、全生徒に「よく見てくれ」と言わんばかりの挑戦的な態度が、透けて見えるようだった。

 もちろんこれもすぐさま教師により撤去されるのだが、それからは毎日のように朝倉の写真が貼られるようになった。


 朝一番に教頭が正門の鍵を開け、掲示板を確認しても、写真は貼られていないらしい。ところが朝練の生徒がきて、その後僕らのような帰宅部や文化部が学校に来る頃になると、いつの間にか写真が貼り出されている。

 そのうえ、写真は日ごとに過激になっていった。もう少し進めば下着の下まで見えるのでは、と僕らに期待を持たせるような撮り方をするのである。

 教師が掲示板の前で見張りのようにしていても、気づけば写真が貼られてしまっている。写真が出没する時間もまちまちになっていき、昼休み前のこともあった。見張りの教師が犯人でなければ、もうそういう怪異と考えたくなるほどの所業である。


 そうこうしているうちに夏休みまであと4日というところになり、ついに朝倉から笑顔が消えてしまった。漏れ聞く噂によれば、親や教師は彼女に欠席を勧めているのだが、彼女が断固として拒否しているらしい。2年半皆勤賞だったのに、こんなことで諦めたくないと、意地になっているそうだ。

 しかし朝倉の写真はすべて制服か体操着の姿を写したもので、つまり犯人は学校関係者と言わないまでも、学校にいることは間違いない。まともな親なら、学校に近づくなと言いたくなるのも道理だろう。


(僕の潤いがなくなってしまった)


 平凡な日常を送る僕にとって、それは許しがたいことだった。

 僕のモラルが破綻していることは、指摘されなくともわかっている。そもそも朝倉の私的な写真を無断で撮ること自体、許してはならぬことだ。だが思春期の僕にとってあれはかなりの刺激物であり、拒むことのできぬ誘惑であった。無関心を装いながらも、今日はどんな写真だろうと密かに楽しみにしていたことは、正直責められても仕方のないことだと自覚している。


 ともかく僕は、思春期特有の好奇心と正義感のねじれを抱えながら、朝倉を欠席に追い込んだ犯人に怒りを覚えていた。

 僕の毎日の楽しみといえば、最近の写真掲示事件を除けば、朝倉の姿を垣間見ることであった。美しく人望のある上級生に話しかける勇気などない。ただ教室の窓から校庭をのぞいて、体操着姿の朝倉がすらりとした四肢を伸ばし、知的で勝気な笑みを浮かべているのを、ぼんやりと眺めている。それだけで満たされていた。


 まあそれはそれで朝倉にしてみれば、間違いなく変態的な行為だったに違いない。

 だが僕と写真掲示事件の犯人には、大きな違いがある。僕は少なくとも朝倉から笑顔を奪ってなどいない。それは僕にとって、自分を正当化し、犯人へ処罰感情を抱かせるには充分すぎるほどに決定的な違いだった。


 しかし、そうはいっても僕は14歳で、身長順に並べば一番前にくるだけの、ただのガキである。

 ()()()()()()()()()()()()()とはいっても、それをどう犯人探しに使えばいいのかもわからない。

 そんなとき大人ならきっと時系列を観察し、自分の持ちうるカードでどう戦うべきなのかを、思考するのだろう。だがその頃の僕には、恥ずかしながらそういった冷静さはなく、ただやり場のない鬱憤を関係のない何かで晴らそうとしか考えられなかった。


「理科準備室の扉が、僕が触る前に偶然閉まり、鍵がかかる」


 前日、僕はそう()()した。

 僕の少しだけ特殊な能力――()()()()()()()こと。

 理科準備室の扉がどうというのは、特に理由があってしたことではない。ただ僕が日直で、理科の授業の準備をしなければならなかったからだ。そう、理由などどこにもない。


 だから、僕の目の前で風にあおられた理科準備室の扉がばたんと閉まり、次いでがちゃりと鍵がかかった音を聞いたとき、その向こう側にぽかんと間抜けに口を開いた少女がいたことは、想定外だったのだ。



「――3年生の、白石ひより、です」


 理科準備室の鍵は、何故だか内側から開けられない造りになっていた。職員室から借りてきた鍵で開けた扉の向こうにいた少女は、どこかおどおどした様子で僕を上目遣いに見ながら、そう名乗った。とぎれとぎれに話すのは、そういう癖なのだろうか。僕と同じくらい童顔に低身長の、下手をすれば小学生に見えてしまうような生徒である。

 別に名乗るような流れではなかったが、僕もつられて「2年の高坂廉治です」と答えてしまう。


「鍵、開けてくれて、ありがとう」

「どういたしまして?」


 白石が閉じ込められたのは、僕のせいだ――と素直に白状するほど、僕も馬鹿ではない。白石にしてみれば、廊下の窓から吹き込んだ突風で()()扉が閉まり、築40年の古い校舎ゆえに建付けの悪くなった鍵が()()()かかっただけだ。

 職員室まで走ったけれど、授業開始までもう時間がない。僕は白石の脇を抜けて準備室に入り、教師が必要だと言っていた模型――物理でよく使う、振り子型のあれだ――を抱えた。見た目のわりに意外と重量がある。

 そのとき背後から、くす、と笑う声が聞こえた。思わず振り返る――白石が黄色い手のひらほどの大きさの付箋を、ぺたりと扉に貼り付けるのが見えた。『私語厳禁』??


「さっき、世界が、あんたに寄ったのを見た――あんまり好き勝手、しないようにね?」


 扉が閉まる。手から模型が滑り落ち、右足の甲に落ちたが、僕は悲鳴を飲み込んだ――なんだかここでは静かにしなければならないような気がしたからだ。

 一拍置いて、模型の角が当たった場所がずきずきと痛み始めた。もしかしたらヒビくらい入っているかもしれない。それくらい痛いのに、僕は声のひとつも上げられない。

 ――『私語厳禁』

 付箋の真ん中に可愛らしい丸文字で書かれたそれが、強制的に僕の口をふさいだことに、痛みで悶える僕はしばらく気づくことができなかった。


************


「私の能力は、『注釈』……そう、呼んでる」


 白石が廊下に出たとたん大きな物音がしたから扉を開いてみたら、僕が足を押さえてうずくまっていたそうだ。僕が歩けないらしいと察した彼女は、通りかかった生徒に僕のクラスへの伝言を託し、肩を貸して保健室まで連れてきてくれた。

 養護教諭の見立てによれば、僕の足の甲はやはり折れている可能性があった。折れていなかったとしても、とてもではないが歩ける状態ではない。教諭が僕の親に連絡を取ろうとしていたが、うちの親は共働きであり、しかもいわゆるバリキャリというやつだ。まともに晩飯を一緒にした記憶もないほどの働き者である。姉の方もすでに就職しており、新人特有の要領の悪さで残業続きだ。昼にもなっていない時間帯に電話したとて、誰も迎えにきてはくれないだろう。


 予定のあいている教師をつかまえて、車を出してもらうから――そう言って養護教諭が保健室を出て言ったあと、何故か白石は僕に付き添って、そんな打ち明け話をしてくれていた。あの付箋の秘密である。


「『注釈?』」


 痛みで半泣きになったところを見られてしまった恥ずかしさから、僕は必要以上にぶっきらぼうになっていたかもしれない。白石にはまだお礼も言っていない。だが、彼女と話していると気がまぎれたし、自分以外にも特殊な能力を持っている人間に出会うのは初めてだったから、つい興味を惹かれてしまったのだ。


「そう。付箋にね、少しだけ、注釈を書いて貼るの。さっきの『私語厳禁』のようなことを書いて、見える場所に貼ると、少しだけ、世界がその注釈に寄る。あんたも、声を出したくなくなったでしょう?」

「……無敵じゃない?」


 きっと普通の人間ならば、何を言ってるんだと鼻で笑う場面だったに違いない。だが僕は恥ずかしながらそのとき痛みで思考が麻痺していたから、彼女の特殊な能力について、ごく自然に受け入れていた。

 僕にも彼女のような能力があることを、彼女に確信させたのは、今にして思えばその態度のせいだったのだろう。


「そうでも、ないんだな」


 白石は、後ろで2つに分けて束ねた髪を両手でいじりながら、本当に何でもなさそうに言う。ただでさえ童顔の彼女がそういう仕草をすると、余計に幼く見えてしまう。


「実際に、ありそうなこと……たとえば、宿題のノートに『急ぎ』って書いた付箋を貼っておく。すると私のノートは、他の人より先に、採点してもらえる。教室がうるさいなって、思ったときに、『私語厳禁』と書いた付箋を、黒板に貼ると、なんとなくみんな静かになる……そんな感じ。世界の雰囲気を、少しだけ、私のほうに引き寄せるって、言えばいいのかな。多少は、長くなってもいいけど、長すぎると、効果を発揮しない。あくまで、注意書き。短い方が、効果も強い」

「じゃあたとえばだけど、僕の怪我が明日治るっていうのはできないんだ?」

「そう。あなたの足が、骨折していれば、1か月以上は、治るまでにかかるでしょう? そういうのは、できない。現実を捻じ曲げるほどの力は、私には、ない」

「なるほどね」


 僕の『予約』に似ている。僕の能力が世界にピンポイントで偶然を打ち込むのだとすれば、彼女の『注釈』は世界に薄く偶然のベールをかけるようなものか。どちらも偶然を引き寄せるだけで、無から何かを生み出したり、本来あるべき姿を歪めることはできないわけだ。


「できるとすれば、そうだね」


 言って、白石はポケットからボールペンと付箋を取り出し、さらさらと付箋に何かを書き込んだ。ボールペンの尻にくっついたうさぎのチャームが揺れている。


「『寝返りはゆっくり』」


 これを寝室の壁に貼ってみて、と白石が僕に手渡してくる。


「見えるところに貼らないと、意味がないから。あと、勢いよく寝返り打たないように、タオルケットか何か丸めて、そのそばで寝て」

「なんで寝返り?」

「足怪我してるときに、うっかり普段のように寝返り打つと、眠れなくなるくらい、痛いから」


 白石の経験によるアドバイスらしい。僕はありがたく付箋を受け取り、胸ポケットから取り出した生徒手帳に挟み込んだ。


「これがあればタオルケットは要らなさそうだけど」

「そんなことは、ない。あくまで、私の付箋は補助で、現実での努力は、必要。実際に起こるかもしれない現象を、ほんの少し、引き寄せるだけ」

「案外不便な能力なんだな」

「たいていの超能力って、そんなもんじゃない? 一日に2回しか、使えないし。きっと、あんたも同じ……あ、先生きた」


 ようやく車を出してくれる教師を見つけられたらしい養護教諭の姿が、窓から見える渡り廊下に出てきた。白石はまた素早く付箋に何か書き込み、僕の手に押し込んできた。


「私のケータイ番号」

「……なんで?」

「朝倉さんに、ひどいことをしている犯人を、捕まえたい。あんたに、どんな能力があるか、知らないけど――協力して」


 にこりと微笑んだ白石が、保健室の扉を開いて教師たちを迎え入れる。「私が、驚かしたせいで、高坂くんが」と白々しく泣いて見せて、養護教諭に慰められていた。どうやら白石のあのおどおどした態度は演技のようだ。性格のおっとりした母姉と暮らしている僕には、そういう女の性悪な部分を見抜く能力はないらしかった。


************


 さて、白石には「不便な能力だ」などと言ったけれど、僕の『予約』の能力も似たり寄ったりだ。むしろ僕のほうが不便な能力かもしれない。

 僕にできるのは、あくまで「起こりそうな偶然を翌日起こすこと」である。予約が実現するのは翌日――23時59分59秒までに予約したことが、0時以降の24時間以内に起こる。翌々日や翌週に予約することはできない。かなり使い勝手が悪いと言わざるをえない。


 予約の内容だってそうだ。たとえば、今日のように「理科準備室の扉が風にあおられて勝手に閉まり、勢いで古びた鍵がかかってしまう」ことは予約できても、「宝くじで一等が当たる」とか「嫌いなやつが事故にあって死ぬ」という、偶然の範疇にあったとしても、規模が大きかったり人の命にかかわるような偶然を引き寄せることはできない。これは絶対的なルールだ。

 僕にできるのはせいぜい「自動販売機のボタンを押したら飲み物が2本出てくる」という程度だが、そういう自分に有利に働くような偶然を招いたときには、必ず反動がある。

 たとえば、だ。以前コーラが2本ほしくて試してみたら、2本目は僕の大嫌いなおしるこが出てきたことがあった。近くにはおしるこを押し付けられる人間もおらず、家族全員おしるこが嫌いなものだから、僕は顔をしかめながら缶をあける羽目になってしまった。

 何度同じことを試してみても、2本目は僕の嫌いなものが出てきて、飲まざるをえない状況に追い込まれてしまう――捨てればいいだって? 冗談じゃない。食べ物を粗末に扱っていいと思えるほど、僕の育ちは悪くないつもりだ。


 どうやら世界には、僕が自分のために起こした偶然による幸運を、打ち消す力があるらしい。

 他人の不幸を願う類の予約をしたことはないけれど、恐らく今までの検証から推測すると、倍返しがあってもおかしくはなかった――人を呪わば穴二つというやつだ。相手にはささやかな偶然、たとえば犬の糞を踏む程度の不幸が起こったとしても、僕には恐らく犬の糞が頭に降ってくるくらいの不幸が起こるかもしれない。

 だから僕は今まで自分の能力を、誰も不幸にならないような、巻き込まれる人間のいないような、ほんの少しの憂さ晴らしやいたずらにしか使ったことがなかった。

 白石ひよりはそういった意味では、僕にとって、記念すべきといっていいのかわからないが、最初に巻き込んでしまった被害者である。


『明日、昼休みに、体育倉庫の横で』


 僕が病院に行った日の夜、白石に電話をかけると、彼女は開口一番にそう言った。あの時代は、ケータイで長々と話すととんでもない通話料を請求される時代だった。白石はそっけなくそれだけを告げ、僕が承諾するとすぐに切ってしまった。僕の言えたことではないが、まったく情緒のない女だ。社交辞令的に怪我の心配くらいすればいいというのに。


 そうして翌日、昼休みに僕は松葉杖を机の横に放り出し、好奇の目で見てくる同級生たちを追い払って、体育館の裏手にある倉庫に行った。実際、松葉杖が必要なほどの傷ではなかったのだが、念のためにと持たされていたのだ。この年頃特有の、なんだか負傷さえ非日常であるような感覚を覚えて通学に松葉杖を使ってみたものの、実際には使い慣れない道具は邪魔でしかなく、僕は早々に片足跳び――ケンケンで移動する選択をした。

 先に待ち合わせ場所にきていた白石は、そんな僕に馬鹿な人間を見るような目を向けてきた。初めて顔を合わせたときの、どこかうさぎにも似た臆病な態度は、僕の前ではもう見せるつもりがないらしい。


「器用ね」

「なにが」

「それで階段、降りてきたんでしょ?」

「まあね」

「皮肉なんだけど……まあ、いいか」


 ふう、と白石が嘆息して、自分の隣をぽんぽんと叩いてみせる。剥き出しのブロックの上に2人で並んで座り、各々で昼食を食べ始めた。上級生の女子と2人きりでランチという、思春期の僕にとっては重大イベントのはずなのだが、どうにも気が弾まない。

 ちらりと白石を盗み見る――ぽちゃっとした丸い頬の、どこにでもいそうな少女だ。ただ黙っていれば小学生に見えるという以外、特筆すべきことはないように見える。制服も微妙にサイズがあっておらず、袖からは手が半分ほどしか出ていなかった。人によってはいわゆる「萌え」というものなのだろうが、残念ながら僕の好みではない。僕の好きなのは、朝倉のような大人である。


「で、廉治の能力ってなに」


 いきなり呼び捨てときたものだ。僕はコンビニで調達したおにぎりをお茶で流し込み、さて自分は彼女をどう呼べばいいのか考える。


「白石先輩のと似たようなものだよ」


 一応、無難な呼び方をしてみた。敬語も使ったほうがいいのだろうけれど、なんだか今さらという気もする。


「詳しく」

「詳しく、か」


 さて、どこまで彼女は信頼できるだろう――などと、僕は今さらなことを考える。僕は自分の能力が他人にはない、特殊なものだと自覚している。僕程度の知能では悪用できるものではないが、悪知恵の働く類の人間ならば、何かしら悪用できるかもしれない。

 白石は無害な少女に見えるけれど、内面が外見と一致していないのは、すでに承知のとおりだ。


「1日1回、偶然を引き寄せる。そう、予約する」

「それだけ?」

「そう、それだけ」

「私を、理科準備室に閉じ込める、と予約したの? とんだ変態ね」

「とんでもない誤解だ。僕はただ、理科準備室の扉が閉まって鍵がかかる、と予約したんだ。そもそもそのときまで先輩のことは存在さえ知らなかったんだ」

「どうして、そんなことを?」

「意味なんかないよ。先輩はもしかして、すべてのことに対して理由を求めるタイプ?」

「わりと、ね」


 とりあえずその程度の話をしたのだが、白石は僕が思っていたよりも頭が良いらしい。小動物のようにパンを咀嚼して飲み込んだのち、丸い目をこちらに向けてきた。


「影響の大きな現象を起こすことはできない。あなたの知らない場所、たとえばケープタウンの学校で同じことを起こすこともできない。事前に関知していない危険を回避することはできない――そんなところ?」

「……正解」


 白石の口からすらすらと言葉が出たほうに、僕は驚いてしまったのだが。言葉をところどころで区切るのは、わざとなのだろうか?


「ふうん。偶然を起こすときに対象が廉治の視界に入っていなくとも問題ない?」

「うん」

「それだけって言ったのは、撤回するわ。かなり便利ね、それ」

「そうかな」

「そうよ……ところで、昨夜は、よく眠れた?」

「おかげさまで」


 また独特のしゃべり方に戻ってしまった白石に、僕は不本意ながら礼を言う。白石の付箋のおかげかわからないが、昨夜は痛みで目が覚めるということもなかった。寝る前に飲んだ鎮痛剤のおかげではないかとも思うのだが、それは言うだけ野暮だろう。


「それで、朝倉先輩を助けるって話だけど」


 僕はコンビニの袋にゴミをまとめ、ついでに白石の食べ終わったパンのゴミも放り込んだ。彼女は小さく「ありがと」と言ってから、右手で髪をいじり始めた。どうやら何かを考えるときの癖らしい。


「朝倉さんの、写真を撮ってる犯人は、多分、学校の中に、いるでしょう?」

「だろうね」

「そいつを捕まえて、やっつけたいの」

「……先生や警察に任せたらどう?」


 至極当然の提案を、白石は首を横に振って拒否した。低い位置で結ばれたツインテールも一緒に左右に揺れる。


「大人なんて、あてにできたことが、ある?」

「普通はあると思うけど」

「私は、ない」


 きっぱりと、これ以上ないほどにきっぱりと否定された。どうも見た目ほど素直な育ちではないらしい。


「だから、この手で捕まえるの。あなたにも、手伝ってほしい」

「……なんで、僕なんだろ? 足もこれだし、」と僕はギプスのつけられた右足を見て、「いざというときの戦闘要員にもならないよ」


 実際、僕の体育の成績は悲惨なものだ。教師が恩情で、ぎりぎり進級や進学に響かない程度の成績をくれているに過ぎない。姉と喧嘩になればあっという間に叩き伏せられる。もしも朝倉を盗撮している犯人が大人だったり男だったりすれば、足を怪我していなくとも、太刀打ちできるとはとうてい思えなかった。


「そんなことより『校内撮影禁止』って『注釈』を貼ればいいんじゃないの」

「それくらい、もう試した。だけれど、だめだった。それに、大事なのは、捕まえること」


 白石が言うには、彼女の付箋が対象者の視界に入らなければ『注釈』の効果は発揮されないらしい。そういえば僕に付箋を渡したときも、彼女は確か「見えるところに貼らないと意味がない」と言っていた。

 学校中に貼り付ければよいのではとも思ったけれど、彼女の能力は1日2回しか使えないのだった。3枚目以降はただの付箋になってしまうということか。


「戦闘要員なら、気にしなくていい。だけど、犯人を見つけるには、私だけではだめ――だけれど、あなたの能力と、二重掛けすれば?」


 偶然を薄くベールに包む白石と、偶然をピンポイントで打ち込む僕。僕の『予約』のことはあまり詳しく話していないのに、彼女の中ではすでに策が出来上がっているらしい。

 どこか自信を見せる白石に、僕は嘆息して腰を上げた。ケンケン移動であることを考えれば、そろそろ教室に戻ってもよい頃合いだ。


「悪いけど、そんなにうまくいくとは思えない。僕らはただの無力な子供だよ。他の人より、ほんの少しだけ違うことができるだけ……素直に大人に頼りなよ」

「夏休みが、始まるまで、明日と明後日しかない。協力しなさい、廉治。そうでなければ、朝倉さんに、あなたがいつも、彼女を見ていることを、バラすわよ」


 とんでもない脅しがきた。そのときの僕はただの14歳の平凡なクソガキで、おっとりとした母と姉にさえ逆らえないほどの子供だった。だからこんな性悪女の命令を無視することなんか、最初からできなかったのだ。


************


 とにもかくにも、夏休みまで残りわずかだ。朝倉の盗撮写真の掲示は未だに続いている。犯人を捕まえることができるかどうかはともかく、犯人の顔だけでも割り出さねばならなかった。

 白石の指示で、僕は「学校内で撮影している人間に、僕が偶然遭遇する」と『予約』をかけた。その場に白石もいたほうがいいだろうということで、授業の合間の休憩時間や昼休みになるたびに、僕の教室に白石がやってきた。


「……おまえ、ついに春がきたのかよ」


 夏なのに、と含み笑いをするクラスメイトを軽く殴り、僕はあくまで朝倉派であることを主張した。今日も朝倉は元気がなく、綺麗な黒髪も艶を失っているようにさえ見えた。


 そうこうしているうちに、その日の授業は終わってしまった。

 僕は白石と合流し、最初に向かったのは朝倉が所属する合奏部の練習場、音楽室だ。しばらく張り込んだが特になにも起こらなかったので、その後はあてもなく校内をふらつく。

 傍から見れば校内デートか何かに見えたようで、たまたますれ違った数学教師がからかうように「外でやれ」と、僕らを追い出すような仕草をした。


「変な噂になったらどうしよう……」

「噂は噂。あんた、意外と、気が小さいのね」


 意外とという副詞は、白石のほうにこそふさわしい。意外と口の悪い女だ。

 とはいえ、面倒見が悪いわけでもないらしく、白石の手には僕の鞄があった。教科書をロッカーに置いていくタイプの生徒である僕の鞄は薄っぺらで、タオルと水筒くらいしか入っていない。それでも女性に荷物を持たせるのは気が引けるのだが、松葉杖をついている僕に気を遣ってくれたらしい――いかな僕とはいえ、学校中をケンケンで歩き回るほどの体力はない。


「もしかしたら、なんだけど」


 学校を一周した頃、僕は足を止め、あまり考えたくない推測を口にした。


「僕らが気づかなかったうちに、もう撮影してる人と遭遇してるんじゃないかな」


 僕が予約したのはあくまで「撮影している人間に、僕が遭遇する」ことだ。たとえば僕の背後で撮影している人間がいたとしても、僕がそれを意識に留めなかったらどうだろう。

 白石も足を止め、ツインテールをいじろうとして、両手に鞄を持っていることに気づいて肩を竦めた。


「……その可能性は、ないと、思う」

「どうして?」

「『遭遇』の意味を、考えてみて。予期せぬ出会い。偶然の出会い……つまり、あんたが、相手を意識しなければ、それは、遭遇の定義には、合致しない」


 たとえば、僕が歩いている近くに熊がいたとする、と白石は事も無げに説明してみせる。僕の後ろを熊が静かに通過すれば、それは僕にとって『遭遇』ではない。何故なら僕の記憶に、熊の存在自体が刻まれていないからだ。このとき熊がこちらに気づいているかどうかは関係なく、あくまで『遭遇する』の主語は僕だ。僕が熊の存在に気づいて初めて、僕は「熊と遭遇した」と現状を認識する。

 白石が言いたいのは、そういうことだ。


「朝倉先輩は、まだ学校にいると思う?」

「いるわよ。まだ部活が、終わってないもの」

「……よく知ってるね?」


 さすがの僕も、朝倉の部活動――合奏部の予定までは把握していない。


「逆に、なんで、朝倉さんの追っかけのくせに、それくらい、知らないの?」

「帰宅部だし……」

「放課後も、付きまとってるんだと、思ってたわ」

「親が共働きだし、姉ちゃんも帰り遅いからさ。掃除したり飯作ったりするのは俺の仕事なの」


 ぴた、と白石が固まる。


「……付き合わせて、よかった?」

「足怪我してから家事免除になったから平気。当面は各々外食になったし、掃除も週末に誰かがまとめてやることに決まった」

「そう。なら、大丈夫、か」


 軽く言って、白石は再びとことこと歩き始めた。僕としてはそんなことよりも、足の骨にヒビが入っている人間をずっと歩かせている方に気を遣ってほしいと思う。


「とりあえず、3階まで上がったら、音楽室に、戻りましょう」


 今日は何も起こらないかもしれない、とは白石は考えていないらしい。僕は彼女の小さな背中を追って階段をのぼりながら、ふと疑問を口にした。


「もしかしたら、『予約』が効力を発揮してないとは思わないんだ?」

「何故? 最初に会ったとき、あんたのそばに、世界が寄るのが、見えたもの。あんたは、本物よ」


 くるり、と彼女が振り返る。ツインテールも回った。


「もう少し、あんたは、自分を信じなさい」

「……はい」


 なんとなく白石が姉と被って見えて、僕は視線をそらしてしまう。無条件な信頼を向けられて平気なほど僕は暢気な人間じゃないし、僕の能力も半端でしかない。『予約』が反映されず、失望したことだってたくさんある。

 それなのに白石は、僕の能力のことなんて推測で知った気になっているはずの彼女が、そうやって姉のようなことをえらそうに言う。年上の女という生き物は、皆そうなのだろうか。


 そんな渋い感情を胸に階段を登り切ろうというとき、ぴたり、と先行する白石が立ち止まった。しぃ、と指を唇に当てて、そっと手招きする。

 白石は足音を殺しながら、廊下の角に身を潜めるようにしゃがみこんだ。僕もその背後についていき、同じように体をかがめて、向こう側を覗き込む。


 3階の廊下の端、その窓のところに、誰かいるのが見えた。窓から差し込む逆光のせいで、顔ははっきりと見えない。だが、ワイシャツにネクタイを締めた服装から、生徒でないことだけははっきりとわかった。

 その人物は、シルエットからするとどうやら背の高い男のようだ。窓にかじりつくようにして、望遠レンズを付けたカメラをどこかに向けて、何度もシャッターを押しているように見えた。

 正直、異様な光景だった。学校内で望遠レンズ付きのカメラなんてものを振り回していれば当然目立つのに、僕らはその人物の存在にこれまで気づきもしなかった。外から見れば、きっとカメラを構えた姿が見えるだろうに――

 ふと、雲が太陽を隠したのかわずかに陽が陰った。神経質そうな横顔が、見えた。


「……あいつ」


 思わず小さくつぶやいた僕の顎に、白石の小さな拳が黙れとばかりに軽くヒットする。白石が体をよじり、その場を去ろうと合図する。僕は焦る気持ちを必死に抑え、やつにこちらの存在を悟られないよう、不自由な足で階段をなんとか1階まで降りきった。


「犯人は、わかった」


 正面玄関までたどり着いて――ようやく白石が、口を開いた。静かな声音だがそこには隠しきれぬ怒りがにじんでいる。


「廉治、明日は6時半に、学校にきて」

「早すぎない?!」

「早すぎない。今は6時45分に、正門が、あいてる。合唱部の練習は、朝7時から。コンクールが迫ってるから、夏休み前でも、終業式の日でも、朝練は絶対に、ある。そこから、張り込むわよ」


 それから、と言いながら白石は僕に鞄を押し付けた。


「明日の『予約』の、内容は――」


************


 白石ひよりは、大人しそうな見た目に反してその実、不登校気味の不真面目な生徒である。

 もっともこの不真面目という印象については、のちに彼女から事情を聞いて即座に撤回した。白石は複雑な家庭環境のため、普段はあまり登校していなかった。

 もともと頭は良いらしく、ホームスクーリングというやつを自主的にやっていて、定期試験の順位は毎回一桁台だそうだ。だが出席数がぎりぎりのため、成績自体はよくない。本人曰く、高校に進学する予定はないから問題はないのだそうだ。


 翌日は9時から終業式で、その後教室で通知表やらなにやらを受け取り、11時半には終了となる。半不登校児であるところの白石は、終業式にも通知表の受け取りにも出席せず、1日中、昨日発見した犯人を見張るということだった。


「終わったら、ケータイ、鳴らして」


 盗撮犯を女子がひとりで見張るというのは危険ではなかろうか。常識的な心配を口にした僕に、白石はいつもの調子でそう告げて、さっさと行ってしまった。2人で7時頃から音楽室周辺を見張っていても成果はなく、例の写真もいつもの如く掲示されてしまっていた。事が起きるとすれば、これからだというのに。


 僕は白石が気になって仕方なく、やっと学校から解放されて夏休みが始まるというのに、気もそぞろに通知表を受け取った。中身も見ずに鞄に押し込み、さっさと退屈な担任の話が終われと念じる。


「今日も白石先輩とデートか? 楽しくやれよ。避妊だけはしろよ」


 とんでもない下ネタを言うクラスメイトの頭を松葉杖で殴りつけてから、僕は急いでケータイで白石の番号に連絡した。あらかじめ白石とは、僕がケータイを数回鳴らして切り、白石はマナーモードにしたケータイで僕からの連絡を受け取ると、その場を離れて折り返し電話をかけ、僕に現在地を教えると決めていた。

 白石が犯人の近くにいる以上、ケータイの着信音や会話で存在を知られてしまってはまずいので、そういうことに決めたのだ。


『昨日と、同じ。3階の、理科準備室のそば』


 押し殺した声で告げた白石に、僕は「すぐ行く」と答え、松葉杖を抱えてなるべく急いで向かった。

 僕の学校の校舎を上空から見ると、コの字型になっている。それぞれ教室の並ぶ棟と、理科室や音楽室といった部屋のある専門棟、部室や物置きなどのある棟だ。中心部分にはグラウンドがあり、隅の方に体育館が建てられている。

 もともとこの学校が創立された当時は、3つの棟すべてを埋め尽くすほどの生徒がいたらしい。高度経済成長とベビーブームが終わったのち生徒数は下降をたどり、今は1つの棟に押し込められる程度の生徒しかいない。そのため余った部屋を生徒たちが贅沢に使うことを許され、部員2人の文学部にも、たった1人のアマチュア無線部にも、1つずつ部室が与えられているほどだ。


 合唱部にも、もちろん部室が与えられていた。それも男女用に2部屋も。練習には音楽室や体育館を使っているが、着替えをするのは部室のほうだ。

 何故合唱部が着替えをするのかというと、うちの学校の合唱部は体育会系と揶揄されるほどスパルタだからだ。毎日校庭をランニングし、筋トレをし、大声を張り上げられる腹筋を作っている、のだという。帰宅部の僕にはよくわからない世界だし、これが一般的な合唱部の在り方なのかも知らない。


 ただ、校舎の構造を頭に入れると、専門棟から盗撮をするのは理にかなっていた――掲示されていたすべての写真がそうではなかったが、今にして思えば、確かに専門棟から盗み撮りしたのであろうアングルが多かった。

 3階の理科準備室に面した廊下。僕と白石が出会ったあのあたりは、着替えを行う部室も、ストレッチを行う体育館もよく覗ける立地だ。今の時期はエアコンのない部室は蒸すため、女子たちも窓を開けて着替えを行うのだ。もちろんカーテンは閉めているだろうけれど、風が吹けば、中が見えてしまってもおかしくはない。


 夏休みを迎えた生徒たちは、あっという間に下校を始めたようだ。専門棟は静けさに包まれている。僕は自分の足音が響いているように少々びくつきながら、階段の手すりにすがって3階までたどり着いた。後ろから別の足音がついてくる。心臓がどきどきと跳ね回った。

 階段を上がったすぐそば、廊下の角になった部分の壁に隠れていた白石が、僕に気づいて振り返る。小さく頷いて、指で先をさした。僕も彼女に向かって、自分の背後を指さす。いいタイミングだ。彼女に倣って壁の向こうを覗き込んだ。

 ――ビンゴ。まさしく現行犯。昨日と同様に、犯人がカメラを構えて熱心にシャッターを押していた。


「……行くわ」


 僕が姿勢を整えたことを確認して、すぐ――何のためらいもなく、白石は壁の陰から飛び出した。犯人が振り返るよりも先に、小さな体でタックルする。がしゃん、と音を立ててカメラが廊下に落ちた。

 盗撮犯が叫ぶ――白石がうさぎのように俊敏にカメラに飛びついて、僕の方に放り投げた。白石もあせっていたのか、それともカメラの重量のせいか、僕の潜んでいた場所のかなり手前に落ちた。思いきり足を踏み出す。ギプスの中で骨が悲鳴を上げたけれど、無視した。

 落下の衝撃でどこか壊れたのだろう、長いレンズが外れていた。ずいぶんと小さくなったカメラ本体だけを拾い上げ――僕は思いきり、自分の背後、階段の下に向かってカメラを放り投げた。


 派手な音が響いた。


 僕は手すり越しに、投げたカメラがそこにいる人物に当たっていないことを祈りつつ、恐る恐る覗き込んだ。

 用務員が不思議そうな顔をして、カメラを拾い上げた。彼はこれを投げた犯人を捜す様子もなく、カメラを手にすぐに姿を消した。

 用務員のいた場所のそばに貼られた黄色い付箋には、この場所からは見えないけれど、こう書いてあったのだ。


『落し物はすぐに職員室へ』


 用務員は、この『注釈』の能力に従ったというわけだ。


「……うまくいくなんて」


 僕は手すりに体重をかけて、大きく息を吐いた。足が痛む。だが興奮しているせいか、そこまでひどくは感じられなかった。

 白石に指示された、僕の『予約』はこうだ。


『僕がカメラを投げた先に偶然用務員がいて、彼がカメラを拾う』


 もしもそこに白石の『注釈』がなければ、用務員は怒り狂って、カメラを投げた犯人を探していただろう。

 もしもそこに僕の『予約』がなければ、白石や僕がカメラを投げたり奪い取ったりしたところで、誰にも回収されなかったろう。そうこうしているうちに僕らは犯人に殴り倒されて、カメラを取り返されていたかもしれない。

 能力の二重掛け。

 白石の策がこうもうまく機能したことに、僕は驚きを隠せなかった。


 今頃あのカメラは用務員の手により、職員室に運ばれている。終業式が終わったばかりの今日この時間、職員室には多くの教員がいるはずだ。

 あれはまだ珍しいデジタル式の高級なカメラだ。ネガではなくデータで写真を保存しているため、職員室ではすぐに「誰のものか」と調べようと、中のデータを確認するだろう。運よくカメラが壊れていなければ、中のデータはすぐに確認できるはずだが、それが可能かまではわからない。結構派手な落とし方をしてしまった。

 そして今時珍しい、あの高級なデジタルカメラを持っている人物のことを、職員たちは皆知っている――生徒である僕らも、知っているくらいだ。


 写真が趣味なんですねとおだてられたカメラの持ち主が、運動会や社会科見学など、様々な場面でカメラマンを買って出ていたのを、多くの人が目撃しているのだ。


「先生、最低ですね」


 床に倒れたままの白石が、攻撃的な表情で言った。

 盗撮犯――数学を担当する教師は、真っ青な顔で僕と白石を交互に見つめていた。


************


 僕らの学校には、夏休みの途中に出校日が設定されている。その日に戦争教育をするという名目で、お盆の真っ最中に呼び出すのだから、僕らとしてはいい迷惑である。もちろん旅行だの帰省だので出席していない生徒も多い。

 悲惨な戦争を描いた映画を見せられたあと、残り2週間の夏休みに羽目を外すなとくどくど担任に注意され、ようやく解放された僕は、なんとなく1階の廊下の掲示板に目を向けた。


 新聞部が熱心に作った新聞には、朝倉の所属する合唱部が県大会の予選を通過したとあった。副部長である朝倉が賞状を手に、晴れやかな笑顔で写っていた。

 その他には、野球部が地区大会で惨敗したとか、バスケ部がどうとか、部活動の情報ばかりが並んでいる。ただ珍しいことに、最後のほうに小さく「数学の茂木先生がご家庭の都合で退職されました」と書かれていた。


 あの日から、朝倉の写真は掲示板に貼り出されていない。


 僕はクラスメイトたちと残りの夏休みに遊ぶ予定をいくつか立て、通学路の途中で別れた。松葉杖はとうに使わなくなり、自宅玄関の傘立てに突き刺されたままだ。

 2年生の夏休み。何も考えずに遊べるのはこれが最後だ。来年の今頃には、僕らは受験に向けて泣き言を言っているに違いない。


 ふと、ポケットの中でケータイが震えた。僕が出ると相手はそっけない声で『今から町立図書館、来られる?』と言い、承諾するとすぐに切れた。まったく情緒がない。


 家に帰る予定を変更し、僕はのんびりと図書館へ向かった。やや小高い丘の上に作られた図書館へ、だらだら続く坂を上る。怪我をする前のような歩き方で足に体重をのせてみると、やはりまだやや痛む――そういうことをしているから治りが遅いのだ、ちゃんと松葉杖を使えと、姉になじられたことを思い出した。


「……まだ足、治ってないんだ」


 図書館前の日陰に置かれたベンチで本を読んでいた白石は、開口一番そう言った。見慣れた制服ではなく、白とラベンダー色の可愛らしいワンピースを着ている。半不登校児である白石は、案の定出校日もサボったらしかった。


「足の怪我は長引くそうだから」


 僕は何の遠慮もなく、白石の隣に腰を下ろした。白石は僕をちらりと見て、本に視線を戻した。ずいぶん分厚い本だけれど、紺色で無地の表紙には外国語らしきタイトルが箔押しされているだけで、どんな内容なのかは想像がつかない。


「今日は何の用事だったの?」

「用事がないと会っちゃダメなの?」


 とぎれとぎれではない言葉で思わぬ質問を返されて、僕は白石の横顔をまじまじと見つめてしまった。ぽっちゃりとした丸い頬には、恋をした女の子らしさはどこにもない。


「そういう冗談、真に受けるタイプなんだ?」

「……育ちがいいもんで」

「そう」


 ふふ、と彼女は小さく口の端で笑った。そういえば白石が笑うところを初めて見たかもしれない。


「実は、就職が決まったの。それを知らせたくて」

「え、おめでとう。あれ、まだそういう時期じゃなくない?」


 中卒で就職する人間は少ないものの、田舎だからか都会に比べれば多少はいる。そのため夏休み明けには地元企業が求人情報を学校に持ち込み、進路指導の教師が面接練習などに応じるようになる。例の掲示板には、そういった紙はまだ貼られていなかったはずだ。


「私は特別だから」

「特別?」

「そう……『注釈』の能力。そういった特別な能力を持った人間を集めた管理局があるの。そこにずっと前から誘われてた」

「管理局……秘密組織的な?」

「男子はそういうの好きよね」

「好き嫌いの話じゃなくて……」


 どう言えばいいのだろう。そういう漫画じみた、秘密結社が本当にあるのか、と聞きたいのだが。しかし、あるのかもしれない。だって僕や白石の能力こそ、非現実的なのだから。

 困ってしまった僕に、白石はしばらく無言でいて――ぶ、と本に顔を隠して噴き出した。


「やっぱりそういう冗談、真に受けちゃうんだ」


 けらけらと白石が声を立てて笑った。そうやって笑う白石はごく普通の、どこにでもいそうな、僕と同じくらい童顔で低身長なだけの女の子だった。


「まあ冗談はさておき、就職が決まったのは本当。知り合いの会社で働かないかって誘われたの。それも住み込みで」

「住み込みで?」

「そう。卒業してから行くところがなかったから、正直助かったわ」


 このときの僕はまだ白石の家庭事情を知らなかったから、唐突に放り出された告白に戸惑い、「そう」と気の利かない応答をすることしかできなかった。


「そうそうそれで、茂木先生はね、私たちの仲間だったんだよ」


 いきなり白石の口から例の数学教師の名前が出た。僕は話題の転換の唐突さに振り回されてしまう。


「どういうこと?」

「不思議に思わなかった? あれだけ目立つカメラを校内で使ってたら、誰かがおかしいと思うはずでしょう? 外からレンズが反射することだってあったろうし」

「……確かに」


 あの教師が盗撮している現場に「遭遇」したときのことを思い出した。カーテンなどついていない大きな窓のそばで、誰の目もはばかることなくカメラを構えていた異様な姿。


「先生の能力は、『隠れ身』とでも呼べばいいのかな。周りに自分の存在を意識させなくするの」

「存在感が薄いってこと?」

「まあ、そう、かな。風景として目に入っているはずなのに、あまりに自然だから、そこにいることに気づかない。そんな感じ。廉治の『予約』が世界を引き寄せなければ、隙間からあいつを見つけることもできなかった。お手柄よ、廉治」

「……何言ってんのかよくわかんないけど、褒めてくれたことは嬉しいよ。でもなんでそんなすごい能力を持ってるのに、あんなことをしたのかな」

「そんな能力を持っているからでしょう」


 本を持たないほうの手でツインテールをいじり、白石が鼻で笑う。


「あいつは朝倉さんによからぬ感情を持っていたけれど、朝倉さんには彼氏がいたのよね。勝手に失恋して能力を使ってまで理不尽な報復するなんて、惨めな男」


 朝倉先輩に恋人がいたという衝撃的な暴露に驚いた僕は、白石の「まったく管理局も無様だわ」というよくわからないつぶやきを聞き逃してしまう。

 まあ、そうだよな。あれだけ綺麗で才能がある女性に、恋をしない男はいない。僕なんかが隣に並べるわけもなかったんだ。


 ショックを無理やり抑え込もうとしていた僕は、ふと気づいてしまう。


「あのさ、結局先生のこと、捕まえられなかったじゃない。盗撮はやめさせられたけど……白石先輩は、犯人を捕まえたかったんだよね?」

「廉治、見た目のわりに意外と記憶力いいのね」


 そちらこそうさぎのような顔で辛辣な言葉を吐くものだ。


「大丈夫。ちゃんと捕まえたから」

「?」

「まあ、忘れなさい――どれもこれも夏の一幕に過ぎないのよ、廉治。大人になれば思い出せないほどの、些細な出来事。そういう、ことなの。夏休みの前の少しだけ不思議な思い出だと思って、忘れなさい」


 言って、白石は体重を感じさせない動作で立ち上がった。白石は鞄を肩にかけ、こちらを見て、綺麗に笑ってみせた。


「最後にひとつ、私のために『予約』してくれない?」

「なにを?」

「素敵な運命に巡り合えるようにって」


 まるで少女漫画のようなことを無邪気に言うものだから、僕は苦笑してしまった。運命という壮大なものを引き寄せるほどの能力は僕にはなく、そんな予約はきっと無効になるだろう。

 だからこれはきっと、予約というよりも、祈りだ。


「『白石ひよりは明日、素敵な運命と偶然出会う』」

「予約完了?」

「うん」

「ありがと、廉治。楽しかったわ」


 じゃあね、と白石が白とラベンダー色のワンピースを翻して坂を下っていく。この話をするためだけに、彼女は足にヒビの入った僕を、小高い丘の上まで呼び出したらしい。そしてそのまま放り出してひとりで帰っていった。なんとも気ままで、情緒がなくて、可愛らしい少女だ。



 なにはともあれ、これが僕と白石ひよりの出会いだった。

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