シニア寿命計画
不老不死の医学と薬学はない。
現代の医学と薬学は大きく進歩した。
その恩恵で、わたしはここに居られる。
老害であり高次脳機能障害の老座害者でも生きていける。
ありがたいことである。
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わたしは脳梗塞発症一年。
救急車で搬送され、緊急手術。
医療と薬の発達で一命をとりとめ、軽い後遺症で済んだ。医学と薬学の進化に感謝である。
術後、半年の治療と一年の脳梗塞リハビリを経て自宅で暮らせるようになった。
医療保険のシステム、国保制度に守られ、わたしは自立生活を
送っている。幸運であった。偶然の幸運が重なった。
わたしは古希になる。
それだけで十分に長生きであり、この世を楽しませてもらった。
2人の子と3人の孫の顔を見ることもできた。海外も百数十ケ国、出張させて貰った。
2つの病院を退院し自宅からの通院治療を始めた。
このタイミングで妻の同意もあり、40数年の結婚生活の終焉に子供達も合意した。離婚して、わたしは単身、沖縄へ移住した。
古希、高次脳機能障害のわたしは老残害者である。
現代医学と薬学の進化に助けられ、わたしは生きてこの世日本居られる。
医学と薬学に感謝である。
進化なければ、わたしは彼岸へ移っている。
ありがとう、現代医学と薬学。
わたしは障害手帳と介護保険証で守られて生活をしている。
リハビリ中の病院では、たくさんの先輩諸氏が暮らしていた。
自立歩行できない老婆。
スプーンでしか食事できない爺さん。
車椅子でトイレへ行く30代男性。
午前2時、院内廊下を俳諧する50代女性。
午前4時決まってケータイで息子さんに電話する老女。
午前ゼロ時を過ぎると、各病室から廊下まで、「お迎えに来てくれ」という哀願声の合唱が病院内を巡る。
布切りハサミを看護師に請求して泣き叫ぶ仕立て屋の老女の刹那さそうな顔、夕食前の年中行事であった。
廊下はフロアごとに施錠されている。
階上階下への階段踊り場扉は、リハビリ要員が施錠して回っていた 。
わたしは幾つまで生きられる?
何歳まで、単身でトイレ風呂に入れるだろうか?
あと3年、箸で食事出来るだろうか?
あと5年、痴呆を避けて、生きられるだろうか?
深夜のベットでこの先が不安になる。
想像できない自分のヨタヨタ姿へ流される。
ベットから出れなくなれば人生は終わり。
下の世話を他人様に頼むようじゃ終わり。
朝食がなんだったか?わからなくなれば終わり。
不老不死の医学も薬学も現代ではない。
それがいつか?わからねども、あと3年?あと5年?
きっと10年以内であることは間違いあるまい?
以前、夕食後に、病院職員員や介護士が帰宅仕舞いをしつつ身内だけで雑談していた。
幾つで死にたい?
看護士も看護師も職員も、答えは近かった。
「70ヨ、古希超えたら出来るだけ早く」、「75才ネ」
わたしは75という数値を35点の脳に記憶した。
あと5年。たっぷり時間はある。
反省したり悩んだりしなきゃ、5年で十分。わたしは人生の代わりに最後の5年は野生になると結心した。0〜70 人間、子供男大人親漢として生きてきた。
70〜75は野性として駆け抜けていく。
わたしの肩の荷物は軽くなった。
今後の医療費や生活費の目処が計算できた。
子供や兄弟、知人との交際費もスマホ回線料も家賃も計算出来る。
週1で桜坂へ出かけられる。何より、過剰な延命措置術を受けなくて良い。検査をすれば必ず病巣がみつかるオンボロ身体。35点脳は10点を切ったあとの痴呆を心配せずに済むはず。
わたしは野生。70〜75才の老残障害野性である。
今日一日の朝から昼、昼から夜を生き延びれば、それだけで良し。快楽の途中で、意識が消え芯の臓が停止しても構わない。その後、行くプロセスもプランニングしてある。
緊急病院で死亡証明を世話になり、市役所で死亡届け、焼却許可証、その後遺体は遺骨となり、那覇市識名園の共同納骨堂で永遠の眠りにつく。後継の居ないお一人様のラストランである。
70才の人生と5才の野生で、この世におサラバ。
お世話になりました、ありがとうございます。
この那覇市営納骨堂で知人や友人と永久に眠る。
75とゴールをおくことで、心は快晴、青かった。
小学生以来の軽い足運び。
空も青い。
心も青いなぁ。
「やっと来たな」
「その声って、牛ちゃん?」
「そう、ワシじゃ。後ろにいる」
「あぁ、牛ちゃんが居るなら安心。
初心者だから、
世話になります。色々、知らないことを教えてね」
「あれ、その声、カズさん?」
「その声は桜坂のAさん?」
話していたとおり、此処に来たのね」
「お世話になります」
わたしはわたしの寿命を決める。
意識を維持しつつ、人生を閉じる。
そして、野性として、残りの年月を生きる。
欲望、夢、執着、全て、洗い流して、両肩の荷物を軽くして、野性として生きる。
自分の寿命は自分で決める。




