捜査
捜査会議の内容が不満だったのだろう。助手席の高木は口元を歪めてムンとしている。シンとした車内で、不機嫌な高木といるのは息苦しい。何を話せばいいのか、山川は会話の糸口を探した。今、捜査について話すのは、高木をより不機嫌にするかもしれないので後回しにしよう。しかし、捜査以外のことで高木と共通の話題は思い浮かばない。どうしようかと思った時、今朝、警察署で起きたちょっとしたトラブルを思い出した。
「今朝、署は大変だったみたいですよ」
山川がフロントガラスに顔を向けたまま言った。
「何かあったのか」
シートを倒していた高木が体を起こした。
「署に中年の男性が現れて、受付で何か話しかけた途端に口から血を吐いて、そのままバタンと倒れたそうです。受付はパニックだったそうですよ」
「警察署がそんなことくらいででパニックになるなよ」
「確かにそうですけど、対応したのが受付の女性だけでしたから」
高木はフンと鼻を鳴らしシートを倒した。高木はこの話に興味がないようで、車内はまたシンとしてしまった。山川は運転に集中することにした。
「その男性は警察署に何しに来てたんだ」
高木は急に訊いてきた。さっきの話は終わってなかったようだ。
「いやー、それは訊いてませんでした」
「なぜ訊かない。一般人が目的もなく警察署には来ないだろ」
「それは、そうなんですが、俺には関係ないことなので」
「警察がそんなことじゃダメだ。後で訊いておけ。その男性がどこの誰で何しにきたのかくらいはな」
「はい、わかりました」
山川は返事したが、自分たちに全く関係ないことなのに面倒臭いなと思った。しかし、調べておかないと、後で高木にネチネチと言われるだろうから、後で受付の女性に訊いておこうと頭にメモした。
「それで、大丈夫だったのか」
「えっ、大丈夫って、何がですか」
「今は署で倒れた男性の話をしてるんだろ。大丈夫といえば、その男性の命に決まってるだろ」
「いやー、そこまでは訊いていませんけど」
「そうか。無事だといいんだがな」
高木が少しだけ笑みを浮かべた。高木の機嫌が少し回復したようなので、捜査会議について触れてみることにした。高木の考えをしっかり訊いておかないと、これからの捜査がやりづらい。
「やっぱり、事件は通りすがりの喧嘩だったんですかね」
捜査会議では酔っ払った陣内が、あの辺りにいた若者かチンピラとトラブルになり殺害されたと見ていた。その方向で捜査を進めるというのが上の判断だった。
「上は簡単に決めつけすぎだ」
高木は吐き捨てるように言った。
「高木さんは通りすがりの喧嘩じゃないと思ってるんですよね」
「決めつけて捜査するべきじゃないと言ってんだ。確かに通りすがりの喧嘩かもしれないが、そうでない可能性も充分に考えられる。怨恨、顔見知りの犯行の可能性もある。なのに、奴らは通りすがりの喧嘩だと決めつけて捜査しようとしやがる。手抜きにもほどがある」
「でも、上は高木さんの好きなように捜査させてくれてるじゃないですか」
「あいつらは、俺を説得するのが面倒臭いから俺のやり方を認めただけだ。あいつらは俺の捜査で犯人逮捕が出るとは思っていない。うるさいから好きにやらせておけと思ってるだけだ」
「けど、これで犯人逮捕にこぎ着けたら、高木さんがヒーローじゃないですか」
「別にヒーローになりたいわけじゃねえ。少しでも早く事件を解決したい。被害者の無念をはらしたい。それだけだ」
「高木さんはこの事件をどう見てるんですか」
「俺は怨恨の線が強いと思っている。それを調べるためにも今からの聞き込みは大事になる」
「わかりました。高木さん着きました。そこですね」
白地に緑色の文字で書かれた三和タクシーの看板がフロントガラスの右側に見えた。
「そうか、着いたか」
高木は窓の外を眺め「よしっ」と声を発した。
山川が来客用の駐車スペースに車をとめるとすぐに高木はシートベルトを剥ぎ、助手席から降りた。山川も慌てて降りて、三和タクシーの事務所へといきり立つ高木の背中を追いかけた。
「陣内が殺されたなんて、本当にビックリしましたよ」
三和タクシー人事部の柳原は薄くなった頭を掻いた。体は小柄だが、声はよく通る高くて大きい声だった。
「その件で、いろいろとお伺いしたいことがあります。お忙しいところ申し訳ないですが、事件の早期解決に向けてご協力をお願いします」
山川が柳原に向けて頭を下げた。
「ええ、そりゃもちろん協力させていただきます」
童顔な柳原の顔がキリッとしまった。
「では、まずですね。陣内さんは昨日は仕事はお休みでしたか」
「ええ、陣内は昨日は休みでした」
「一昨日は仕事でしたよね。仕事は何時まででしたか」
「一昨日の陣内は、午後六時に退社しています」
午後六時に退社してそのまま居酒屋弁慶に行ったのだろう。
「一昨日は仕事を終えてから、陣内さんは誰かに会うようなことは言ってませんでしたか」
「いやー、何も言ってませんでした。無愛想なやつでしてね、いつも挨拶くらいしかしませんので」
「そうですか。柳原さんは居酒屋弁慶という店はご存じですか」
「いやー、知りません。私は下戸なもので」
「それでは、最近の陣内さんについて変わった様子はなかったですか」
「すいません。思い当たりません」
陣内は運転手なので、ずっと職場にいるわけではなく、本社勤務の柳原との会話は特に少なかったのだろう。
「陣内さんを恨んでいる人物に心当たりはないですか」
「陣内を恨んでいる人物ですか。うちの従業員では思い当たらないですが、お客さんとのトラブルが多かったのは事実です。私から陣内には、その都度注意しましたが、なかなかなおりませんでした。しかし、お客さんは恨んでるというより怒ってる、または怖がってるといった方が正しいでしょうかね」
「お客さんとのトラブルですか。具体的にどんな内容ですか」
「いろんなのがありましたね。少し待ってください」
柳原がテーブルの端に置いていたタブレットを手元に寄せて指を滑らせていた。しばらくして、山川の方にタブレットの画面を向けた。
「今年だけですが、大体、こんな内容です」
山川が「拝見します」と言ってタブレットの画面を覗きこんだ。表題に『お客様からのご意見』と書いてあり、運転手名の欄には『陣内晃』とあった。
タブレットの画面を下へとスクロールして、そこに書いてある文章を目で追った。読み終わると、また下へとスクロールした。それを何度も繰り返してから、山川は「多いですね」と柳原に顔を向けた。
柳原は「そうなんですよ」と眉をハの字にした。
高木が「何が書いてあるんだ」と山川に訊いてきた。
『運転手から暴言を吐かれて途中で降ろされた』
『渋滞に巻き込まれて運転手の機嫌が急に悪くなって運転が荒くなった』
『近くなのにタクシーを利用するなと怒鳴られた』
『運転手に口説かれて怖かったので途中でタクシーを降ろしてくれと言うと、運転手が怒りだした』
『運転手が急にタクシーをとめて体を触りにきた』
そんな内容だと山川が高木に説明をした。
「これら全てが陣内さんに対するクレームですか」
「はい、そうです」
「それにしても内容も酷いですね」
陣内がこんな人物なら、高木の言うとおり、殺害理由が怨恨の線も充分に考えられる。
「陣内は元々大手の商社で働いていまして、若くして部長までした男ですからプライドも高かったんでしょうね。お客さんのなかには酔っ払って横柄な物言いをする人も多いですから。他の運転手はそういう時、グッと堪えているんですが、陣内はそれが出来なかったようです。それに加えて陣内は女性にもだらしなかったようですからね」
「陣内さんは、ここで働く前は五味商事で働いていたんでしたね」
「うちに来る前にも何社か働いてたようですが、最初は五味商事の部長だったと聞いています。それがうちみたいなタクシー会社で運転手として働くことになって、プライドがズタズタになったんじゃないですかね」
「三和タクシーさんも立派な会社じゃないですか。僕はよく利用させてもらってますが、運転手の方は皆さん礼儀正しくていい方ばかりですよ」
「ありがとうございます。私どもは運転手の接客には特に力を入れてきましたから」
柳原が笑みを浮かべ胸を張った。
「陣内さんに対するクレームはこれですべてですか」
「いえ、これは弊社のホームページに送られてきたものだけで、電話でのクレームもありました」
「その電話のクレームの内容もわかりますか」
「はい、わかりますけど、このホームページにきた内容とさほど変わりませんが」
「それでも結構です。拝見できますか」
「紙の資料になりますので、ちょっと待ってください」
柳原が席を外した。高木が湯呑みを口にしてから「とんでもねえ奴だな」と呟いた。
「恨んでる人物は多そうですね」
山川も湯呑みを口にした。
「まあ、けど、ここにクレームを言ってきた人物が犯人の可能性は低いな。ただ陣内という男は誰かから恨まれていてもおかしくないな」
「お待たせしました」
柳原が資料を持って戻ってきた。
「お忙しいのにお手数をおかけします」
山川が柳原に頭を下げた。
「最近では陣内に二件のクレームの電話がありました」
柳原が一枚目の資料を刑事たちに向けた。
「拝見します」
山川は資料に視線を落とした。
「こちらはですね、よくうちを利用してくれている建設会社の社長さんなんですがね、急に運転手の機嫌が悪くなってタクシーから引きずり降ろされたということで電話がありました。常連のお客さんで上得意な方でしたので、なんてことするんだと、陣内にはだいぶ怒ったんですがね」
「確かにホームページに来ていたものと似た内容ですね」
「ええ。この時はすぐに代わりの車を手配して、後でお詫びにも伺いました」
「もう一件はどんな内容ですか」
「こっちはもっと酷かったですね。若い女性のお客さんでしたけど、彼女はですね。陣内からストーカー行為を受けたという内容でした」
「ストーカーですか」
「ええ。陣内に問いつめましたけど、陣内はストーカー行為は認めませんでした。陣内の話では、それはたまたま通りかかった時に偶然会っただけだと言ってるんです。けど、最初に陣内がやった内容を聞くとストーカー行為だったと言われても仕方がありません」
「詳しくお聞かせいただけますか」
山川が高木の顔を見た。高木は頷いた。
「はい。その女性の話では、会社の飲み会の帰りに女性三人で陣内のタクシーに乗ったそうです。先に二人が順に降りて車内は陣内と彼女二人っきりになったそうでして、そこで陣内が彼女にこれからドライブしようとか言ってきて、口説きはじめたそうです」
「これと同じような内容がホームページにありましたね」
「ええ、そうですけど、こっちの方が酷いです」
「どう酷いんでしょうか」
「彼女は怖くなってすぐに降ろしてくれと言ったそうですけど、陣内は聞く耳を持たず、そのままタクシーのスピードを上げて、ドンドン人気のない山道へと入っていったそうです」
「うーん、それは恐ろしかったでしょうね」
「だと思います。私にも年頃の娘がいますけど、自分の娘がそんな目にあっていたらと思うとゾッとします」
「それで、彼女は大丈夫だったんですか」
「ええ、さすがに彼女もだいぶ興奮したようで、陣内にきつい口調で抗議したそうです。さすがの陣内もあきらめたようで、彼女を自宅近くまで送り届けたそうです」
「ストーカー行為はそれからですか」
「彼女は自宅近くまで送ってもらったのが悪かったと後悔していました。数日後に彼女が帰宅する時に陣内が駅前に車をとめて立っていたそうです。陣内は彼女を見つけると近づいてきて、食事を誘ってきましたが、彼女は断ったそうです」
「偶然だったんですかね」
「しかし、それが何度かあったみたいで、彼女が付きまとわないで下さいと言うと、自惚れるなと言って怒鳴って帰って行ったそうです」
「それで、彼女から会社に連絡が入ったわけですか」
「そうです。陣内には注意したんですが、先にお話した通り、たまたま駅で客待ちしていたら、彼女が駅から出てきたので声をかけただけだと言いはってます」
「うーん、陣内さんの言い訳には無理がありますね。それから彼女から連絡はありましたか」
「それからはありません。なので、多分大丈夫だと思っているのですが」
自分の娘だったらゾッとすると言っておきながら、多分大丈夫だとは呑気なことだ。まあ、他人はそんなものかと山川は変に納得した。
「ありがとうございます。それにしても、陣内さんはいろいろあったようですね」
「まあ、なにせトラブルは多かったですね。実は社長とも相談して辞めてもらおうかと考えていたところなんです。けど、今の世の中、簡単にクビにはできないでしょう」
「そうですか。それでしたら、あなた方は陣内さんが死んで良かったと思ってるわけですな」
高木がニヤリと笑みを浮かべて口を挟んだ。すると、童顔な柳原の目がつり上がった。
「陣内には辞めてほしいとは思いましたけど、さすがに死んでほしいなんて思ってませんよ。私たちが陣内を殺したとでも言うんですか」
柳原が高木を睨んだ。
「すいません。そういうつもりはないんですが、警察としてはありとあらゆる可能性を考えさせていただきますので、お気を悪くしたのなら申し訳ございません」
山川が高木の代わりに頭を下げた。
「ああ、それと最近、社員に臨時ボーナスのようなものを出したことはありましたかな」
高木に詫びる様子はない。
「いやー、ないです。この不景気にそんな余裕はありませんよ」
なるほどと高木が口を尖らせた。
「陣内さんが五味商事を辞めた理由はご存じですか」
高木が続けて訊いた。
「面接で聞いた時は、五味商事はプレッシャーがすごくて精神的に追い込まれて体調を壊したからと言っていました。大企業で若くして部長になったので大変だったのかなと思って、その時は聞いていました」
「そうですか。まあ、面接で本当のことは話さんでしょうがな」
「五味商事を辞めた理由は他に何かあったんでしょうか」
柳原が高木に逆に質問してきたが、高木は「いやいや、それはこれからの調べになりますな」と手のひらを横に振った。
「ところで、ここの職場で陣内さんと親しくしていた従業員はいましたか」
柳原が「陣内と親しくしてた従業員ですか」と言ってから、宙に視線を向けてから「そうですね、強いて言えば村山ですかね」と答えた。
「村山さんですか」
「ええ、まあ陣内はあまり人づきあいがいい方ではありませんでしたが、村山とはよく喫煙所で話していました」
「村山さんからお話を聞きたいんですが、今ここに呼んでいただくことは可能でしょうか」
「今ですか」
「はい、出来れば」
「ちょっと待ってください。村山の勤務を確認してきますので」
柳原が席を立った。山川は「恐れいります」と言って柳原を見送った。
「高木さん、さっきのストーカー被害の女性をどう思いますか」
「微妙だな。今の話だけなら、何とも言えない」
「お待たせしました。村山に連絡が取れました。近くを走ってましたので、十分かそこらで戻ってくると思います」
「ありがとうございます」
しばらくすると、ドアをノックして、村山が入ってきた。三十代くらいの痩せた男だった。村山は柳原に椅子をすすめられて少し戸惑いながら腰をおろした。
「お仕事中、申し訳ありません」
山川が警察手帳をかざした。
「あ、はい」
村山は背筋を伸ばした。緊張している様子で、山川と高木の顔を交互に見た。
「陣内晃さんの件はご存じですか」
「ええ、さっき柳原さんから聞きました。殺されたとか」
村山が柳原の方を見てから答えた。
「それを聞いてどう思われましたか」
「どう思ったも何もビックリしたとしか言いようがありません」
「陣内さんとは親しくされていたようですね」
「うーん、親しいというほどでもないです。喫煙所で雑談するくらいです。運転手でタバコを吸う人間が減ってきたんで、喫煙所で陣内さんと二人きりになることは多かったですから」
「プライベートで飲みに行ったりすることはなかったんですか」
「プライベートではないですね」
「そうですか。では、最近陣内さんに変わった様子はなかったですか」
「あの人自身がすでに変わってましたけど、最近特に変わった様子というのはなかったです」
「誰かに恨まれているとか、何かトラブルに巻き込まれているとか、そんな話は聞いたことなかったですか」
「いやー、聞いたことはないです」
「そうですか」
村山が「あっ、そうだ」と言って手を打った。
「何ですか」
山川は村山の顔を見た。
「関係あるかわかりませんけど、最近やたらと気前がよくなりました。煙草や缶コーヒーを奢ってくれたりして、それでボートで儲けたんですかって訊いたら、もっとでかいやつだとか言ってました」
「もっとでかいやつですか」
山川は高木の顔を見た。高木の眉間に皺が寄った。
「ええ、確かそう言ってました」
「具体的に何か言ってませんでしたか」
「いやー、そこまではわかりませんけど、俺にも運がまわってきたよって言ってました」
「運がまわってきたですか。柳原さんはそれに心当たりはありませんか」
「いやー、すいません。ありませんね」
柳原は首を傾げた。
「高木さん、どう思います?」
山川が高木の顔を見た。
「今の話といい、臨時ボーナスの話といい、気になるな」
「貴重な情報をありがとうございます。他に何か思い出したことがあれば、こちらに連絡いただけますか」
山川が村山に名刺を渡した。
村山は「わかりました」と言って名刺を受け取った。
「最後に、お二人は昨晩の午後十一時から午前一時の間、どこで何をしていましたか」
「私たちのアリバイですか」
柳原が口元を歪めた。
「申し訳ありません。関係者全員にお伺いしていますので、ご容赦ください」
山川が頭を下げた。
「その時間だと、私は自宅の布団の中ですよ。証明してくれるのは嫁さんくらいしかいませんが」
まず柳原が答えた。
「俺は起きてましたけど、自宅でテレビ見てました。一人暮らしですから誰も証明してくれる人はいません」
「そうですか、わかりました。ありがとうございます。ご協力ありがとうございました」