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修復

 幸仁は病院の休憩室の自販機に百円玉を滑りこませてコーヒーが出来上がるのを待っていた。椅子に座っている向日葵に目を向けるとテーブルの前で俯いたままだ。

 それを見て、「ハァー」とため息が出た。このため息は誰に対してのものなのか、向日葵に対してなのか、親父に対してなのか、さっきの刑事に対してなのか、自分自身に対してなのか、幸仁自身もよくわからなかった。

 向日葵に訊いておかなければならないことが山ほどある。内容次第では、この先、二人は夫婦としてやっていけないかもしれない。これから話す内容は他人には聞かれたくない。休憩室に誰もいなくてよかったと思った。

 取り出し口の赤いランプが消えたので紙コップを取り出した。紙コップを持って向日葵の座るテーブルへと向かった。向日葵はまだ顔を上げていない。

「ほい、コーヒーだ」

 向日葵が座るテーブルの前に紙コップを置いた。

「ありがとう」

 向日葵が消えいりそうな声で言った。

 自販機へ戻り、自分のコーヒーを買った。向日葵の様子を覗き見るが、コーヒーに口をつける様子はない。「チェッ」と舌打ちして、自販機に体を向けてコーヒーが出来上がるのを待った。

 赤いランプが消えて、自分のコーヒーを手に持ち、向日葵の前に腰をおろした。向日葵を見るが、顔を上げる気配はない。幸仁は湯気の上がるコーヒーを口にしてズズズと音を立てた。

「冷めるから、早く飲みなよ」

 幸仁は苛立ちを隠し、いつも通りの口調で言った。

 向日葵は「うん」と言って、やっと顔を上げた。

「さっきの話はどういうこと。何から訊けばいいのか、頭が混乱して、わけわかんねえんだけど」

「ごめんなさい」

「まず向日葵と親父は今日初めて顔を合わせたわけじゃなかったってことだよな」

 幸仁はそれを確かめようと思った。なぜ向日葵と親父はこれまでに会っていたのか。そして、そのことを向日葵は幸仁に隠していたことも気になる。

「うん。これまで黙っててごめんなさい。ユキくんに内緒で、お義父さんとお義母さんに会いに行ってた」

 向日葵の言葉を聞いてショックで頭に血がのぼるが、取り敢えず落ち着いて訊くべきことを訊いておこう。

「いつから親父とおふくろと会ってたんだ」

 怒りで声が震えそうになるのを必死で堪えた。

「ユキくんと結婚してすぐにあたしからお義父さんとお義母さんに挨拶に行ったの。それからずっと会ってた」

「そんなに前からかよ」

 幸仁はなんともいえない気持ちだった。長い期間、向日葵に騙されていたことに怒りが沸点に達する。手にしているコーヒーを向日葵にぶっかけたい気分だった。

「俺に内緒で何のために親父なんかとコソコソ会ってたんだよ」

 声が震えた。もう我慢の限界かもしれない。

「最初は、ユキくんとの結婚をお義父さんとお義母さんに認めてもらいたかったから、それで会いに行ったの」

「別にあいつらに、俺たちの結婚を認めてもらわなくてもいいんだよ。それにさっきの刑事の話が本当なら、親父は殺人犯だぞ。こっちから縁を切りたいくらいだ」

「それはあたしのせいだから」

「それも、わけがわかんねえ。向日葵の実の父親は生きてたってことだよな」

「そうだったみたい。俺がお前の実の父親だって急にあたしの前に現れたの」

「なんで、強請られなきゃならねえんだよ。向日葵が悪いわけじゃねえのに。向日葵のおふくろとばあちゃんとじいちゃんが悪いんじゃねえか」

「違うわ」

 向日葵がキリッとした目で幸仁を睨んだ。幸仁はその目を見て、少し怯んだ。

「じゃ、じゃあなんでだよ」

「きっと、お母さんもおばあちゃんもおじいちゃんも悪くないと思う。あの陣内が悪い男だったからよ」

「全員が死んでるから、真相はわかんねえけどな」

「あたしを生んでくれたお母さんと育ててくれたおばあちゃんとおじいちゃんをあたしは信じてる」

「親父の話が本当から、陣内って奴は、向日葵のおふくろさんが向日葵を堕ろしておけばよかったんだって言ってたみたいだし、向日葵に金を要求してたのは事実だから、確かに陣内って奴も悪い男だったんだろうけどな」

「きっとそう。お母さんとおばあちゃんとおじいちゃんは、陣内からあたしを守ってくれたんだよ」

「けど、親父もそいつを殺すことはなかったよな」

「あたしがユキくんに早く本当のことを話しておけばよかった。そうしたらこんなことにならなかったのに」

 向日葵は首を折った。

「なんで、話さなかったんだ?」

「ユキくんがあたしがお義父さんとお義母さんと会ってること知ったら怒り出すかもしれないし、そうなったら本当に終わっちゃうかもしれないから、ユキくんに話すタイミングをお義父さんとお義母さんと相談していたところだったの」

「陰でコソコソしやがって」

 幸仁は飲み終わった紙コップを握り潰した。

「本当にごめんなさい」

 向日葵はテーブルに額をこすりつけた。

 それを見て、幸仁は「フン」と鼻を鳴らした。

「お義父さんとお義母さんからユキくんの小さい頃のことをいろいろと教えてもらったよ。ユキくんは子どもの頃、アトピーが酷かったから食べさせるものが大変だったってお義母さんが言ってた。お義母さんは自分の若い頃の食生活が悪かったせいでユキくんはアトピーが酷かったのかもしれないって反省してた。それから、お義母さんはスーパーミウラの仕事の時間を減らして、ユキくんのために、毎日、アレルギーに注意して料理を作るようにしたんだって。お義父さんもユキくんのためにはその方がいいからって、忙しくて大変なのに、お義母さんにお店を手伝わせなかったらしいよ。お義父さんはお義母さんに、お前は幸仁のために体に良くて美味しい料理をいっぱい作ってやってくれって言ってたんだって。ユキくんはお義父さんからも愛されてたんだよ」

「もしかして、向日葵の料理はおふくろの影響を受けてたのか」

 向日葵の料理は最初から旨かったが、斗真が生まれたくらいから味付けが少し変わってきた。豚の生姜焼きの味がおふくろに似てきたし、どの料理も幸仁の好きな味付けになった気がしていた。最初は不思議に思ったが、さほど気にはしていなかった。それと健康志向が強くなった。食品添加物のことをすごく気にするようになった。幸仁は、向日葵が斗真のことを考えて、そうしているだけだと思っていた。

「よくわかったね。さすが、ユキくん。あたしがユキくんの好きな料理をお義母さんに教えてほしいってお願いしたら、ユキくんの好きな味付けの仕方をいろいろと教えてくれたの。豚の生姜焼きをお義母さんに教えてもらった通りの味付けに変えてから、ユキくんが美味しそうにバクバク食べてたって話すと、お義母さんはすごく嬉しそうにしてたよ」

「そういうことか」

「もっと言うとね。誕生パーティーのお肉も桃もお義父さんからもらったの。お義父さん、嬉しそうな顔して、幸仁はこの桃が大好きなんだって言ってね」

「みんなで俺を騙してたわけかよ」

「違うよ、騙したんじゃなくて、黙ってただけだよ」

「それを騙したって言うんだよ」

「そうかな」

「そうだよ、向日葵も親父もおふくろも俺を騙してたんだ。親父もおふくろも、やり方が汚えよ。向日葵だって俺に黙って親父とおふくろに会ってたなんて、俺への裏切りだ」

「あたしもお義父さんもお義母さんも、ユキくんを騙してなんかいないし裏切ってなんかいない。あたしたちは黙ってただけなの。本当は、あたしもお義父さんもお義母さんも、ユキくんに話したくて話したくて仕方なかった。けど、ユキくんに話すタイミングがわからなかった。下手に話したらユキくんが怒りだすから。やっぱり家族みんなで仲良くしたかったからね。だから、あたしたちは騙したんじゃない。ユキくんとお義父さんが仲直りできるタイミングが来るのをずっと待ってたの。でもね……」

 向日葵がそこまで言って、幸仁に一歩近づいて、幸仁の顔をじっと見上げた。向日葵の目から大粒の涙が頬を伝った。幸仁は向日葵の目を見ることができなかった。

「でもね」と向日葵が幸仁を見上げたままもう一度言った。向日葵の目からは次から次へと大粒の涙が溢れ出て頬を伝った。

「向日葵」

 幸仁が言うと、向日葵は急に「グワーァ」と子供のように声をあげて泣き出した。

「急にどうしたんだよ。そんな大声で泣くなよ」

 幸仁は自分の胸に向日葵を引き寄せた。向日葵は幸仁の胸の中で「グワーァ、グワーァ」と泣き続けた。

「わ、わかった、わかった。俺が悪かった。だ、だから向日葵、もう泣くな」

 幸仁は赤ん坊をなだめるように向日葵の背中をテンテンと手のひらで叩いた。斗真じゃあるまいし、向日葵は赤ん坊みたいに泣きすぎだろ。

「何に対して悪いと思ってるのよ」

 向日葵が幸仁の胸に顔を当てたまま泣きながら言った。

「それは、親父やおふくろや向日葵に対してだよ」

 斗真をあやす時のように向日葵の背中を擦った。

「なぜ、悪いと思ってるのよ」

「それは、俺が意地張ってたから、親父と喧嘩になって、親子の関係をグダグダにしてしまったことかな」

「ほんとに、悪いと思ってるの」

 向日葵はずっと幸仁の胸で涙を拭いている。

「思ってるよ。さっき、刑事が来る前に親父に謝るつもりだったんだから。それが本当の俺の気持ちだ」

「ほんと」

 向日葵が幸仁の胸に埋めていた顔を上げた。幸仁が見下ろすと、向日葵の目がキラキラしていた。

「ああ」

「じゃあ、今から仲直りして」

 幸仁を見上げる向日葵の顔が満面の笑みに変わっていた。さっきまでの大粒の涙は一体なんだったんだ。まあ、いい。向日葵はやっぱり笑顔の方がいい。そこで幸仁は気持ちを切り替えた。

「わかった。斗真も待ってるし病室に戻るか」

 幸仁が言うと、向日葵は「はーい」と幼稚園児のように右手を高く上げた。

 幸仁は向日葵の笑顔を見て、嘘泣きかよと苦笑いを浮かべた。

 病室に入ると、斗真が親父のベッドの上でチョコンとご機嫌に座っていた。普段、斗真は幸仁と向日葵の姿が見えないとすぐに泣き出すのに、今はニコニコしている。親父とおふくろはベッドの上の斗真に夢中で、幸仁と向日葵が病室に入ってきたことに気づいていない様子だ。幸仁は向日葵と目を合わせた。

「もうしばらく、このままにしておくか」

 幸仁が声を出さずに口だけを動かした。

「そうね」

 向日葵も口だけを動かした。

 幸仁と向日葵は並んで、親父とおふくろと斗真の様子を見ていた。

「ジージ、キャッキャ、バーバ、ケラケラ」

 親父は「斗真は本当にいい子だな」と斗真の頭を撫でながら目を細めていた。親父、なにデレデレしてんだよ、似合わないんだよと思い、幸仁は声を出して笑い出しそうになった。

 おふくろは「斗真くーん」と言って斗真の頬にキスしていた。おい、おふくろ、キスなんかして斗真に変な病気うつすなよと心の中で呟いた。

 親父とおふくろの表情は幸仁の位置からは見えないが、きっと、顔をくしゃくしゃにして笑っているのだろう。二人の声のトーンで想像できる。なぜ、もっと早くこうしなかったのかと、幸仁は熱いものがこみ上げてきた。

 親父とおふくろは、その後もずっと斗真の頬を擦ったり、手を握ったり、足を揉んだり、横腹をこそばしたりと斗真の体を触りまくっていた。斗真はその間ずっとケラケラと笑っていた。親父の笑い声も病人とは思えないくらい元気な声だった。これから自首しようとする男とは思えない。斗真には周りの人を幸せにする力があるんだなと思った。これは母親譲りなんだろう。


「親父、帰る前に話を聞いてくれるか」

 こみ上げてきたものを沈めるように、幸仁は大きく深呼吸した。幸仁が席を外してくれと向日葵に目配せをした。向日葵が「斗真のオムツを替えてジュースでも飲ませてきます」と言って、斗真を抱えて病室を出ていった。

 親父が斗真に手を振った。斗真も親父に手を振り返した。幸仁は病室を出ていく向日葵の背中を見送ってから、親父に深々と頭を下げた。

「親父、意地張ってわがままばかりでごめん」

 頭を下げると同時に床に涙が落ちた。幸仁は顔を上げることが出来ず、しばらく落ちる涙を見ていた。

「謝るのは、俺の方だ。あの時に斗真を堕ろせなんて言った俺がすべて悪いんだ。幸仁は向日葵と斗真のために、今日までよく頑張った。ゴホン、ゴホン」

 親父は言い終わってから苦しそうに咳をした。

「あの時、意地をはらずに、俺が頭を下げるべきだった。向日葵とのことを認めてもらうべきだった。そうしてたら、俺たち家族はもっと幸せに過ごせた」

「済んだことだ。これからやり直せばいい」

「けど、……」

 もう遅いよ、と言いかけて、幸仁は言葉を飲み込んだ。

「幸仁、俺はお前の名前をつける時、周りの人を幸せにしてくれる人間になってほしいと思って名前を決めた。お前はその通りに生きてくれた。向日葵や斗真を幸せにしてくれたし、職場でもそんな存在だと最上さんから聞いている。俺はそれを聞いて誇らしくて本当に嬉しかった」

「けど、俺は親父とおふくろを幸せにできていない」

「そんなことない。俺は幸仁のおかげで十分幸せな人生だった」

「いや、やっぱり、俺は親不孝だよ」

 幸仁は首を折った。

「向日葵は素晴らしい女性だ。その向日葵を選んだのは幸仁、お前だ。それに、俺は斗真を見て、今すごく幸せな気分になった。その斗真を育てると決めたのも幸仁、お前だ。お前はなにも悪くない。全て俺が悪かったんだ」

 親父は唇を噛みしめていた。 

「俺の力じゃない。向日葵のおかげだ。俺は向日葵に感謝してる。向日葵がいなかったら、俺は……」

 そこで声が詰まって、また涙が止まらなくなった。

「これからは向日葵と斗真とお母さんを幸せにしてやってくれ」

「わ、わかった」

 それしか言えなかった。親父もだよとは言えなかった。

「それを聞いて安心した。幸仁、今日はありがとうな。俺は今すごく幸せな気分だ」

 親父は頬を緩め遠くを見つめていた。

「俺、これからも頑張るけど、まだまだ未熟者だ。これから親父に助けてもらわないといけない」

 幸仁がそう言うと親父は首をゆっくりと横に振った。

「俺がいなくても幸仁なら大丈夫だ。向日葵もついてるしな。ゴホン、ゴホン、ゴホン、ゴホン」

「大丈夫かよ」

「ゴホン、ゴホン、ゴホン、ゴホン、ゴ、ホ、ン」

「おい、親父、どうした、おい」

 幸仁は親父の背中を擦った。親父は苦しそうに咳を続けた。



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