自首
「じゃあ、行ってくる」
幸仁は大きく息を吸って胸を膨らませた。
「うん、頑張ってね」
向日葵が幸仁の目をじっと見つめた。笑みを浮かべているが、向日葵も今は緊張しているはずだ。それを出さず、笑みを浮かべてくれるところが彼女のいいところだ。幸仁はこれまでに何度もこの笑顔に助けられた。
向日葵の肩に手を置いて彼女の目を見つめてから、幸仁は踵を返した。目の前の白いドアを見つめ、右拳をギュッと握った。握った拳の中がジワリと汗ばんでいくのがわかる。目の前のドアをノックするだけのことなのに、それが出来ないでいた。背中に向日葵の視線を感じ、ゴクリと唾を飲み込んでから、覚悟を決めて、トントンとドアをノックした。
昨日、最上店長にこの病院に連れて来られた。その時、親父が末期ガンだと聞かされた。店長は時間がないから早く親父と仲直りしておけと言った。幸仁は頭が混乱して、そこから逃げ出してしまった。
今、見舞いに行かないと一生後悔するだろう。それは幸仁もわかっていたが、気持ちの整理がつかなかった。店長の車から飛び降り、仕事に戻る気にもなれず、そのまま早退して、行くあてもなく町を徘徊した。夕方になり自宅に帰ってからも幸仁は親父のことが頭から離れなかった。向日葵は幸仁の異変に気づいて、何があったのかと、しつこく訊いてきた。幸仁は最初はごまかしていたが、向日葵には通用しなかった。いつもとは違う向日葵の迫力に圧倒されて、幸仁は涙を堪えて本当のことを話した。
「あたしと斗真もいっしょに行くから、明日、お義父さんのお見舞いに行きましょう」
向日葵は親父が癌で入院していると聞かされても驚く様子はなく、冷静で落ち着いた口調で幸仁を説得した。
「いや、やっぱりやめとく」
幸仁はそれでも見舞いに行く気になれなかった。意地をはってる場合じゃないことはよくわかっている。しかし、こっちが勘当された側だから、親父の方から勘当を取り消すまでは会いに行くわけにはいかない。勘当された時点で親父とおふくろとは死別したんだと思えばいいんだ。そうすれば、今、親父が末期ガンだからと苦しむ必要はないはずだ。
「いい加減、大人になってよ。こんな時に意地はってどうするのよ」
向日葵がめずらしく目くじらをたてて怒り出した。向日葵に抱かれていた斗真がビックリして泣き出した。
「お、おい、斗真がビックリしてるぞ」
幸仁は向日葵の迫力に圧倒された。
「斗真はビックリしたんじゃない。斗真もユキくんに怒ってるのよ」
斗真の激しい泣き声を聞き、向日葵のきつい視線を受け、そこで、幸仁は見舞いに行くことにした。
病室から「はい」というか細い声がしたので、幸仁は汗ばんだ手でドアノブを回した。ドアを少し開けて、その隙間から恐る恐る中を覗くと、椅子に座っているおふくろと目が合った。
おふくろの目が大きく見開いたのがわかった。幸仁は目を逸らし俯いてしまった。
「幸仁、よく来てくれたわね」
懐かしい声を聞いて、顔をあげると、おふくろは椅子から立ち上がって笑みを浮かべた。立っているおふくろの姿を見て、体が一回り小さくなった気がした。幸仁に向かって笑みは浮かべているが、顔色は青白く目は真っ赤だ。キンキンとヒステリックに声を上げて、幸仁を怒っていたおふくろとは別人のようだった。幸仁の胸がジンと傷んだ。おふくろの立つ横にはベッドがあり、そこに親父がいるはずだが、今のこの位置からだと衝立が邪魔をして見えない。もう一歩入れば親父の姿も見えるのだろうが、まだ、その勇気がなかった。
「幸仁、来てくれたのか」
衝立の向こうから親父の声がした。掠れて聞き取りにくい声で、あの日、幸仁に向かって「出ていけ」と怒鳴った迫力ある声とは別人のようだが、親父の声に間違いなかった。幸仁は返事をしなかった。
「幸仁」
また、親父の声が聞こえた。最初の声より聞き取りやすく大きな声だった。親父と顔を合わせるのが恐かったが、ここまで来てそのまま帰るわけにはいかない。幸仁はもう一歩奥に入り、衝立の向こうを覗いた。塚原農園に行った日のことを思い出して、必死で笑みを作った。
「親父、久しぶり」
声が上ずり震えた。泣き出しそうで、それだけ言うのが精一杯だった。親父の顔はまだ見ることができず俯いていた。
「元気そうだな。ゴホン、ゴホン」
親父の声は掠れて苦しそうだった。
幸仁は「ああ」と短く言ってから、そこではじめて親父に顔を向けた。目の焦点が合わないのか、涙のせいなのか、視界がボヤけて親父の顔がはっきり見えなかった。幸仁は目頭をおさえてから、もう一度親父の顔を見た。瞬きを繰り返すうちに、親父の顔がはっきりと見えてきた。
久しぶりに見た親父の顔だった。笑みを浮かべていたが頬はげっそりこけて、顔色はドス黒く、塚原農園で見た陽焼けした赤みのある艶やかな黒さではなかった。
「よく来てくれたな」
ベッドに座っていた親父が幸仁に右手を差し出した。パジャマの裾から見えた腕は、筋肉が盛り上がり血管の浮いた幸仁の知っている親父の腕ではなかった。枯れ枝のような腕を見て、胸が痛くなったが、幸仁は親父の差し出した右手を握った。
「心配ばかりかけやがって」
親父は握る手に力を入れたが弱々しかった。幸仁が右手に力を入れると、親父の右手が壊れそうな気がして、そっと優しく握っていた。親父の目を見ると涙を浮かべていた。
「こっちの方こそ心配してるよ」
幸仁は涙が堪えきれず、左手で目頭をおさえた。
「ハハハ、大丈夫だ。幸仁に心配されるようじゃ、俺も終わりだな」
「俺、親父に謝らなければいけない」
この後、幸仁は親父に頭を下げて向日葵と斗真を紹介し、家を飛び出したことを詫びようと思った。
「幸仁が謝ることはない」
親父が首を横に振った。微かに笑みを浮かべ、優しい表情だった。
「いや、だけど、……」
幸仁がそこまで言うと、『トントン』とドアをノックする音がした。幸仁は話を中断して、ドアの方を見た。
おふくろが「はい」と言って首を傾げて、幸仁と親父の顔を交互に見た。親父も首を傾げた。
幸仁も誰が来たのかと首を傾げた。休憩室で待たせている向日葵なのかと思ったが、まだ早過ぎる。向日葵と斗真の登場は幸仁が親父に謝った頃を見計らって病室に来てもらう予定にしていた。
ドアがゆっくりと開いてドアの隙間から覗く顔はやはり向日葵ではなかった。
「失礼しますよ」と二人の男が病室に入ってきた。全く見知らぬ男たちだった。おふくろを見ると、おふくろも知らない男たちのようで首を傾げていた。
「どちら様でしょうか」
おふくろが男たちに訊いてから親父の顔を見た。親父は、男たちのことを知っているのか、彼らを見た後、唇を噛みしめて目を伏せた。
「家族団欒中に申し訳ないですな」
二人のうち年配の男の方が言った。申し訳ないと言いながら、そういう態度には見えなかった。横柄な感じで、幸仁は苛立った。
「なんなんですか、あなたたちは」
おふくろも苛立ったのか、おふくろらしいキンキンとした声をあげた。幸仁は子どもの頃、この声でよく怒られた。
「あなたが三浦孝士さんですな」
年配の男はおふくろの言葉を無視して親父の方に体を向けた。
親父は「ええ、そうです」と頷いた。
「申し訳ないですが、お二人は少しの間、席を外してもらえますかな」
年配の方が幸仁とおふくろを順に見て言った。
「いや、外さなくていい」
親父がきつい口調で言った。
「いいんですか」
若い男の方が親父の顔を覗きこんだ。
「ええ、二人は私の家族ですから」
親父はそう言って深い呼吸をした。
そこで、ドアをノックする音がして、全員が一斉にドアの方を見た。今度は向日葵がドアの隙間から顔を覗かせた。向日葵は病室にいる全員に視線を走らせ、見知らぬ男たちがいることに目を白黒させていた。
「もしかして、あなたが佐山向日葵さんですか」
若い方の男が向日葵に訊いた。
「あっ、はい、そうですけど」
「ちょうどよかった。あなたも中に入ってください」
若い方の男がドアを開けて、向日葵を中に招いた。斗真を抱いた向日葵が恐る恐るといった感じで中に入ってきた。
「あなたたち、一体、なんなんですか。他人の病室にいきなり入ってきて、失礼じゃないですか」
おふくろは少し切れ気味だった。幸仁も見知らぬ男二人が入ってきて、我が物顔でいることに切れそうになった。それも、よりによって、これから親父に頭を下げて許してもらい、向日葵と斗真を紹介しようとする大切な時にだ。
出て行けと怒鳴ってやろうかと思った時、若い方の男が上着の内ポケットから何かを取り出しておふくろに見せた。
「すいません。実は私たちはこういう者です」
おふくろがギョッとした顔を浮かべてから親父を見た。親父は黙ったまま天井を見上げてから目を閉じた。
病室に現れた二人は捜査一課の刑事で年配の方が高木、若い方が山川と名乗った。そして、二人は親父に訊きたいことがあると言った。
「三浦孝士さん、単刀直入にお伺いします」
山川が言った。
「はい」
親父は目を閉じたままだった。
「あなたは陣内晃さんという男性をご存知ですよね」
幸仁は知らない名前だった。隣に立つ向日葵を見ると、その名前を知っているのか、なぜか俯いて唇を噛みしめていた。
「ああ、その前に、あなたに確認したいことがあるんですわ」
高木が割って入った。
「はい、なんでしょうか」
親父が訝しげな表情で高木を見た。高木はニヤリと笑みを浮かべた。
「あなたは警察署の受付の前で倒れて、ここに運ばれたんでしたな」
「はい、そのようです。倒れてからの記憶はありませんが」
「なぜ、あなたは警察署に行ったんですかな」
高木が訊くとおふくろが前に出た。
「わたしも不思議だったわ。警察署で倒れて、ここに運ばれたって聞いたから。あなた、なぜ、警察署になんか行ってたの」
おふくろが親父の顔を覗きこんだ。親父は唇を噛みしめていた。
「まず、警察署に行った理由を話してもらえませんかな」
高木が親父の顔を覗きこむが、親父は口を開きそうになかった。高木はしばらく親父が口を開くのを待っていたが、最後は諦めたようで頭を掻いてから続けた。
「話してもらえそうにないですな。まあ、いいですわ。後で、ゆっくり聞かせてもらいますかな」
高木がそう言って一歩後ろに下がって、山川に進めろといった感じで顎を突き出した。今度は山川が一歩前に出てから病室にいる全員を見渡した。
「実は、現在、私たちはある殺人事件の捜査をしています」
山川の言葉を聞いて、おふくろの口から「えっ、殺人」と声が漏れた。
「それがうちの主人となにか関係があるんでしょうか」
おふくろが不安そうな表情を浮かべて山川に訊いた。
「殺されたのは陣内晃さんという男性です。公園で何者かに右頭頂部を強打されて殺害されました。三浦孝士さん、あなたは陣内晃という男性をご存じですよね」
山川はおふくろの問いに答えず、親父に質問した。親父は相変わらず言葉を発しない。
「陣内晃さんについて、三浦孝士さんと佐山向日葵さんにお話しが訊きたいんですが、お時間取っていただけませんか」
山川は続けた。
「あなた、どういうことなの」
おふくろが親父の肩に手を置いて顔を覗きこんだ。
「向日葵、どういうこと?」
幸仁は親父と向日葵の顔を交互に見た。
誰もが口を閉じて、病室内は暫く沈黙が続いた。沈黙を破ったのは親父だった。親父から信じられない言葉が飛び出した。
「陣内晃を殺害したのは私です。申し訳ありませんでした」
親父はそう言うと、ベッドに座ったまま体を二つに折った。幸仁は親父の放った言葉の意味をすぐに理解できなかった。親父が今発した言葉を反芻した。殺害したのは私ですと言った。殺害したのは私、殺害したのは私、幸仁は頭の中でその言葉を何度も繰り返したてから、ハッと親父の顔を見た。
「親父、何言ってんだ。殺害したってどういうことだよ」
幸仁の頭は混乱した。
「あなた」
おふくろもわけがわからないという様子で何度も首を横に振っていた。
「お義父さん」
向日葵が幸仁の横で泣き出した。そして斗真まで泣き出した。
「やはり、そうでしたか。でしたら、今から陣内晃さんの殺害方法や動機について詳しいことを訊かせてもらえますかな」
高木は混乱する病室の中にも関わらず、淡々とした口調で親父に話しかけた。
「あなた、どういうことなの。殺人事件ってなんなのよ。全くわけがわからない」
おふくろはパニック状態のまま親父の肩を何度も揺すった。
「本当に申し訳ない」
親父は体を二つに折ったままの状態だ。
「親父、何してんだよ。ほんとにその陣内って男を殺したのかよ」
幸仁は親父の胸ぐらを掴み、二つに折っている体を起こし激しく体を揺すった。親父は抵抗せずに幸仁にされるがままだった。
「おい、やめなさい」
山川が幸仁の二の腕を握り、幸仁を親父から引き離した。
「幸仁、すまん」
「親父、本当なのか、本当に人を殺したのか」
幸仁は山川に羽交い締めにされたまま喚いた。
「ユキくん、落ち着いて。お義父さんの話を聞きましょうよ」
向日葵はボロボロと涙を流していた。
「佐山向日葵さん、あなたにもお話しを訊かせていただかねばなりません」
「はい、わかりました」
「向日葵、お前なにか知ってんのか」
向日葵は「ごめんなさい」と言って幸仁に頭を下げた。向日葵はギュッと唇を噛みしめている。
「では、まず、三浦孝士さん、陣内晃さんの殺害方法について訊かせてください」
親父は「はい」と言ってから天井を見上げた。それからしばらく沈黙した。親父は深呼吸を繰り返してからゆっくりとした口調で話し始めた。
「公園の名前はわかりませんが、鉄道の高架下にある小さな公園でした。そこで陣内と口論になり、カッとなってしまい陣内の後頭部をそこの公園にあったブロックで殴りました。その時は陣内が死んだとは知らず、そのまま逃げて帰りました。次の日にニュースで陣内が死んだと知りました」
「殺すつもりはなかったということですかな」
「はい、殺すつもりはなかったです」
「陣内さんとあなたは以前からのお知り合いだったんでしょうか」
「いえ、あの日はじめて会いました」
「はじめて会った人を殺害したわけですか。その辺の動機について詳しくお訊かせもらえますかな」
「動機ですか」
親父は深く息をした後、幸仁でもおふくろでもなく、なぜか向日葵の顔を見ていた。向日葵が親父に向かってなぜか頷いた。そして親父も頷いた。刑事たちは向日葵にも話が訊きたいと言っていた。なぜ向日葵が関係あるのか全く意味がわからなかった。
「あなたの写真を犯行現場近くにある居酒屋弁慶の店員に見てもらいました。店員があなたのことをよく覚えていました。陣内さんが殺害された日、あなたが陣内さんといっしょに飲んでいたと証言してくれました。それに間違いはないですか」
「間違いありません。あの日、陣内と居酒屋弁慶で飲んでいました」
「そこではじめて陣内さんに会ったというわけですか」
「はい、そうです」
「なぜ、そこから陣内さんを殺すことになってしまったのでしょうか」
「陣内と酒を飲んでいると、ちょっとしたことで、口論になってしまいました。腹が立ったので、私は一旦、店を出て冷静になろうと思いました。しかし、怒りは収まりませんでした。なので、陣内が店から出てくるのを待って、公園まで後をつけました。公園に入った陣内に向かって、私は彼に謝れと言ったんです。しかし、陣内は私を無視しました。それでカッとなって、公園にあったブロックで陣内の頭を殴りました」
何をしてくれたんだ。このままだと斗真が殺人犯の孫になってしまうじゃねえか。こんなやつの見舞いになんて来なければよかった。せっかくやり直そうと思って、ここに来たのに、これじゃあ、勘当されたままでよかったじゃねえか。
「居酒屋弁慶の店員は、二人が揉めている様子はなかった。最初から最後まで楽しそうに会話していて、陣内さんは終始上機嫌だったと話していますが」
「店員さんにはそう見えたのかも知れませんが、あの時、私は怒り心頭に発していました」
「なぜ、あなたは陣内さんに怒りを覚えていたのでしょうか。陣内さんと口論になった理由も教えていただけますかな」
「今、思えば大したことじゃありせん。私の会社を貶されたからです」
「あなたはスーパーミウラの社長ですよね。居酒屋でたまたま隣に座った陣内さんと最初は話が弾んでいたが、自分の会社の悪口を言われて、カッとなって殺したということですか」
「はい。申し訳ありませんでした」
幸仁は親父を睨みつけた。こいつはなんてバカなんだ。自分のプライドを傷つけられたくらいで人を殺すなんて。やはりこいつはあの時と変わっていない。
「あなたはこれまでにも居酒屋弁慶にはよく行ってたのですか」
「いえ、あの日、はじめて行きました」
「なぜ、あの日、居酒屋弁慶に行ったのでしょうか。あなたははじめから陣内さんを殺害するつもりだったんじゃないですか」
「いえ、そんなことはありません。たまたまです。急に酒が飲みたくなってフラーっと居酒屋弁慶に入ったんです」
「たまたまですか」
高木も山川も納得していない様子だった。
「はい。たまたま居酒屋弁慶に行って、陣内の隣の席に座ったんです。確かに、店員さんのおっしゃる通り、最初は会話が弾んでいました。けれど、私がスーパーミウラの社長と知った途端、陣内の態度が変わりました」
「急に陣内さんの態度が変わったんですか。それはどうしてですか」
「私がスーパーミウラの社長だと告げると、陣内の顔色が急に変わりました。お前の店の弁当を買って食べた後に腹を壊したと因縁をつけてきました。それからスーパーミウラは物は悪いくせにボッタクリのように値段が高い。従業員の教育もなっていないし、最低の店だと言ってきたんです」
「陣内さんはスーパーミウラの客として、社長のあなたにクレームを言ってきたわけですか」
「まあ、そんな感じです。私はスーパーミウラは地域一番の店だと自負しています。それを貶されてカッとなってしまいました。それで、頭を冷やそうと一旦は居酒屋を出て帰るつもりでしたが、どうしても腹の虫が治まらず、陣内に謝らせようと外で待ち伏せしました。そして、出てきた陣内の後を追って、あの公園で陣内に謝れと言ったんです。しかし、あいつはスーパーミウラは最低だと何度も繰り返して喚くので、それで殴ってしまいました」
「なるほど、そういうことですか。あなたのプライドを傷つけられたことに腹を立て殴ったということですか。それが事実なら、三浦さん、ちょっとやり過ぎですな」
高木は納得してない様子で口を尖らせていた。
「申し訳ありませんでした」
親父が体を二つに折った。
「ちょっと待ってください」
甲高い声が病室に響いた。声の主は向日葵だ。向日葵は一歩前に出た。
「向日葵、どうしたんだ」
幸仁は向日葵の肩に手をやった。向日葵の肩が震えているのがわかった。
「嘘です。お義父さんは嘘をついています」
向日葵は幸仁の言葉には答えず、また甲高い声を上げた。
「向日葵は黙ってなさい。ゴホンゴホン」
親父が苦しそうにしながらも声を荒げた。
「お義父さん、あたし本当のことを話します」
「やはり、佐山向日葵さんも今回の事件に関係しているんですな」
高木が言うと向日葵は「はい」と言って頷いた。
幸仁は何がなんだかわけがわからなかった。
「では、佐山向日葵さん、真相をお話しいただけますかな」
高木がさっきまでとは違い、柔らかな口調で言った。
「向日葵、どういうことなんだ?」
幸仁が向日葵の二の腕を強く握り引っ張ったが、山川が「ご主人、冷静に」と言って、幸仁の両肩をおさえた。
向日葵が幸仁の方に振り向いた。向日葵は申し訳なさそうに、「ユキくん、ごめんなさい」と言って頭を下げた。
「佐山向日葵さん、本当のことをお話しいただけますかな」
高木が念を押した。
向日葵は幸仁に「お願い」と言ってから斗真を幸仁に預けた。幸仁は何がなんだかわけがわからないまま、斗真をギュッと抱きしめた。
「陣内晃はあたしの実の父親なんです」
向日葵の口調は、さっきまでとは違い、比較的落ちつきを取り戻していた。
「えっ、どういうこと?」
幸仁は一段とわけがわからなくなり、向日葵と親父を交互に見た。向日葵は真顔で刑事たちをじっと見ていた。親父は向日葵が話し始めてから首を折った。
「あたしは祖父母からあたしの父親はあたしが生まれる前に事故で死んだと聞かされていました。でも、あたしの父親は死んでなかったんです。あたしの父親は陣内晃だったんです」
「陣内さんが実の父親だということを、あなたは何故知ったのですか。その辺のことも含めて、もう少し詳しく聞かせてもらえますかな」
向日葵の実の父親が生きていたというのか。向日葵は、何故そのことを自分に話してくれなかったのか、幸仁は、向日葵が隠し事をしていたことにもショックを受けた。
「はい。あたしの父親はあたしが生まれる前に死んだと、祖父母から聞かされていました。あたしは父親の顔も知らないしどんな人だったかも知りませんでした。あたしは幼い頃からずっと父親がどんな人なのか知りたくて仕方なかったんです。でも、祖父母は教えてくれませんでした。それで、亡くなった母親が持っていたライターが父親の形見ではないかと思い、ユーチューブでこのライターの持主の知合いはいないかと問いかけてみたんです。そのライターには『A・Jinnai』と刻まれていました」
「あなたは、ユーチューブでは有名人みたいですな。私はその辺のことは全くわかりませんが」
高木ぎ頭を掻きながら言った。
「それから数日後に陣内があたしの前に現れました。陣内は自分が、あのライターの持ち主であたしの父親だと言いました」
「それで、あなたは陣内さんが自分の父親だと知ったわけですか。それから陣内さんはあなたに何を要求してきたのでしょうか」
「陣内は、あたしが母親のお腹にできた時に結婚するつもりでいたけれど、あたしの祖父母に猛反対されて二人の仲は引き裂かれたんだと言ってました。祖父母から二度と顔を見せるなと言われ、母親に会うこともできなくなり、あたしが生まれたことも知らなかったそうです。陣内は当時大きな会社の部長をしていたそうですが、母親との仲を引き裂かれ、あたしは堕ろされたものだと思いこみ、ショックで仕事への熱意もなくなり、会社を辞めて浮浪者のような生活をしていたと言ってました」
「陣内さんは会社を辞めた理由をそう話したんですか」
山川が顔をしかめて不服そうな表情を浮かべていた。確かに酷い話だと幸仁は思った。好きな女性との仲を引き裂かれ、自分の子どもと会うことも出来ず、堕ろされたと思ってたなんて、自分がそんな目に合わされたら、気が狂ってしまうだろう。気力を失い仕事を辞めて浮浪者になった陣内という男性が不憫でならないと思った。どうして、向日葵の祖父母はそんな酷いことをしたのだろう。向日葵から聞いていた祖父母の印象とは全く別人だ。
「今はタクシーの運転手をやっていると言ってましたが、いまだに当時のことを悔やんでいたそうです。そんな時にユーチューブであたしのことを知ったそうです」
「そういうことでしたか。その後、陣内さんとあなたとの関係は良好なものだったんですか。今回の事件を考えると、良好だったとは思えんのですがな」
「あたしは父親に会えた嬉しさもありましたが、祖父母が陣内に対してそんな酷い仕打ちをしていたことにショックを受けました。陣内はお金に困ってるので工面してほしいと言ってきたので、祖父母のとった行為のお詫びの気持ちもあり、その時は五万円を渡しました」
「いきなり、やっと会えた実の娘に金を無心してきたんですか」
山川は呆れた顔をしていた。
「あたしは祖父母のおかげで幸せな生活をしていましたが、知らないところでで実の父親が辛い思いをしていたと思うと、これくらいはしなければと思い現金を渡しました」
「しかし、それで終わらなかったわけですな」
「はい。陣内はそれから何度もお金を要求してくるようになったんです。さすがにあたしも変だなと思うようになりました。考えてみれば、あたしの祖父母は陣内が言ってるような酷い人ではないと思いました。もしかして、この陣内という男はあたしを騙してるんじゃないかと思いました。だから、これ以上は現金は渡せないと言ったんです。そうしたら、陣内はお前の旦那の父親はスーパーミウラの社長だから、お義父さんに頼めと言ってきました。お義父さんには、ただでさえ迷惑をかけているのに、そんなこと無理ですと言うと陣内は自分で頼みに行くと言ってきました。それだけはやめてほしかったので、仕方なくそれからも陣内に現金を渡し続けました」
「なるほど、それがなぜこのような結果になってしまっ
たんでしょうか」
「お義父さんがあたしの異変に気付いたのはそれからすぐでした。あたしが最近元気がないとお義父さんに問い詰められて、陣内のことを相談してしまいました。お義父さんは自分が陣内と話をつけるから、向日葵は心配するなと言ってくれました。それから陣内が殺されたことをニュースで知りました。だから、あたしのせいなんです。お義父さんは悪くないんです」
向日葵は顔をグシャグシャにして泣いていた。
「三浦孝士さん、今の話は本当ですか」
親父は首を折ったまま口を開かなかった。
「陣内さんと佐山向日葵さんが会っていたことは、近くの西田珈琲という喫茶店での聞き込みでわかっています。その時の様子は佐山向日葵さんが陣内さんに強請られているようだったと喫茶店のマスターは証言しています。封筒のようなものを佐山向日葵さんが陣内さんに渡しているところも目撃されています。さっきの佐山向日葵さんの話は信憑性があると思うのですが、三浦孝士さん、いかがでしょう。本当のことを話していただけませんか」
親父はそれでも口を開かなかった。
「あなた、ちゃんと本当のことを話してくれる」
おふくろが親父の横に座って、親父の肩に手を置いた。
親父は「わかった」と言ってからしばらく遠くを見ていた。しばらく病室に沈黙が続いた。
「どういうことなんだよ。意味わかんねえよ」
「ユキくん、ごめんなさい」
向日葵が泣きながら頭を下げた。そこでやっと親父が口を開いた。
「確かに向日葵から陣内のことで相談は受けました。しかし、それが理由で、私は陣内を殴ったわけではありません。向日葵は今回の事件と全く関係ありません」
「そうですよね。私もそこがひっかかるんですよ。佐山向日葵さんがあなたに相談した時点で陣内さんが佐山向日葵さんを強請るネタがなくなったわけですから。そこで陣内さんの悪行は終わりなんです。なのに、なぜあなたは陣内さんを殺してしまったんですか。そのまま、陣内さんを無視しておけばよかったわけじゃないですか」
「はい、そのつもりでした。居酒屋弁慶でもうこれきりだと、伝えるつもりで陣内の隣に座りましたが、陣内はやたらと上機嫌でしたので、そのことを言い出すタイミングを失ってしまいました。下手に話し出して陣内が怒りだしたら店にも迷惑もかかりますので、私は一旦弁慶を出てから、外で彼と話すことにしました」
「それで陣内さんが帰るのを待って殺害現場の公園で話し合ったわけですか」
「そうです。そこで私がスーパーミウラの社長で向日葵の義理の父親だと伝えました。だから陣内にこれ以上向日葵に近づくな、現金を要求しても無駄だからこれで終わりだと言いました」
「それに対して、陣内さんが怒り出したわけですな」
「はい。それで陣内は私を罵り出しましたが、そんなことだけで、私は陣内を殴ったりはしません。もちろん殺す気なんてなかったです。なので、私は陣内に言うべきことだけを言って、そのまま帰るつもりでした」
「しかし、あなたは陣内さんをブロックで殴っています。何故ですか。そのまま帰っておけば、その後は陣内さんから佐山向日葵さんが強請られることもなく、殺人事件も起こらなかったのに」
「はい、あのまま帰ればよかったんです。でも、あいつは最後に許せないことを口にしたんです。絶対に口にしてはならないことをあいつは口にしたんです。それでカッとなってしまいました」
「陣内さんは最後にあなたに何と言ったんですかな」
高木の表情は穏やかだった。
「あいつは最低な男です。絶対に許せませんでした」
親父は末期ガンの患者とは思えないくらいに顔を赤くして興奮していた。
「一体、陣内さんは何と言ったんですか」
山川が同じことを訊いた。
「あいつは、あの女があの時に向日葵を生まずに堕ろしておけばよかったんだと言ったんです。向日葵の母親、佐山孝恵が、向日葵を堕ろしておけばよかったんだと言ったんですよ。そんなこと言う陣内を許せますか。私は許せませんでした。向日葵を堕ろしておけばよかったなんて許せません。向日葵はうちの息子を幸せにしてくれた大切な女性ですよ。それで頭に血がのぼってしまい、自分でもわけがわからなりました。気がついた時には陣内が私の足元で倒れてました」
「事情はよくわかりましたわ。では、この後、この山川に署に連絡させますので、署から他の者がここに来ると思います。その時、あなたは自首してくださいな」
「えっ、自首ですか」
「ええ、あなたは、あの時、自首するつもりで、警察署に来たんですな」
「はい、そのつもりでした」
「自首するつもりだったが、その寸前で倒れて意識がなくなってここに運ばれた。そうですな」
「ええ」
「ですから、この後、あなた自身で自首の続きをしてくださいな」
「あ、はい、わかりました」
「では、我々はこれで失礼します」
高木が慇懃に頭を下げて病室を出て行った。山川もそれに倣って頭を下げて高木に続いて病室を出て行った。
幸仁は何がなんだか、いまだに意味がわからなかった。呆然としたまま、病室を出ていく刑事たちを見送った。刑事たちが出ていってから、誰も口を開かず、病室はシンとしていた。
しばらく沈黙が続いたが、それを破ったのは斗真だった。
「ジィージ、バァーバ、マーマ」と言って笑った。
「斗真」
幸仁は斗真をギュッと抱きしめた。
そして斗真が幸仁に向かって、「パーパ」と言って笑った。