聞き込み
山川は塗装が剥がれ錆びの浮いた鉄製の階段を不動産屋の男に続いて上がっていった。すぐ後ろから高木がカツカツ、カツカツ、とせわしない足音をたてているので、山川は落ち着かなかった。高木が不動産屋の呑気な足取りに苛立っているのは見え見えだった。
「歳取ると、これくらいの階段でも疲れますわ」
不動産屋は階段を上がりきったところで、振り向いて笑みを浮かべた。そんなことはどうでもいいから早くしてくれ。山川は心の中でぼやいた。
「それより、陣内さんの部屋はどこなんですか」
山川は不動産屋を急かした。
「ああ、この部屋なんですわ」
不動産屋は階段を上がってすぐの部屋のドアを手のひらでパンと叩いた。
「すぐに鍵を開けてもらえますか」
山川が言うと、不動産屋は「はいはい」と相変わらず呑気な口調で言って、ドアノブにポケットから出した鍵を差し込んだ。そこからまた時間がかかった。ガチャガチャと鍵を回そうとしているが、引っ掛かっているのか、なかなか鍵が回る気配がなかった。不動産屋が「あれ、おかしいな」と言って、山川に苦笑いを浮かべた。笑ってる場合じゃないんだ。早くしてくれ。
「その鍵で合ってるんですか」
山川は不動産屋の顔を覗きこんだ。
「間違いないはずですけどね。違ってたら事務所まで取りに帰らないといけなくなるな。それは大変だし合っててくれよ」
不動産屋がブツブツ呟きながら鍵を回していると、いきなりガチャリという音を立てて鍵が回った。
「合ってましたね」
不動産屋が山川にニヤリと笑みを向けた。
「開きましたか」
「ええ、鍵が間違いでなくて、良かったですわ」
不動産屋は言いながらドアを開けると、ドアがギィーという嫌な音を立てた。
「お手数をおかけします。終わりましたらお電話させていただきます」
「どれくらいかかりそうですかな」
不動産屋がおもちゃみたいな腕時計を見た。
「そうですね。一時間くらいで終わると思います」
山川も腕時計を見て高木の顔をうかがった。高木は無言で頷いた。
「一時間くらいでしたら、事務所に戻るには中途半端ですし、外で待っているには少し長いんで、この近くの喫茶店で休憩しときますわ」
「お忙しいのに申し訳ないです」
「いいですよ。最近は暇ですから」
不動産屋はにこやかな表情を浮かべた。
「その前に陣内さんについてお話を訊いてもよろしいですか」
「陣内さんのことはほとんど知らないんですよ。陣内さんと顔を合わせたのは、ここに入居した時だけでしたからね」
「そうですか、このアパートの住人とトラブルとか聞いたかとはなかったですか」
「いやー、ないですな」
不動産屋は首を横に振った。
「家賃の滞納とかはなかったですか」
「それもなかったですわ」
不動産屋はさっきまでの呑気さとは打って変わって、早く休憩させろといった感じだった。
「そうですか、わかりました。ありがとうございます。ご協力感謝します」
「じゃあ、私、すぐそこの角を曲がったところの喫茶店で待っていますんで」
「ご迷惑おかけします。終わったら電話します」
山川が不動産屋に頭を下げる後ろで、高木は玄関から室内を覗いていた。
不動産屋が喫茶店へ向かっていく後ろ姿を見送ったあと、高木と山川は部屋に足を踏み入れた。
「それにしても、汚ねえ部屋だな」
高木がそう言ってから、三畳ほどの台所にある冷蔵庫のドアを開けた。後ろから山川が冷蔵庫の中を覗きこむと缶ビールと缶チューハイだけしか入っていなかった。高木は冷蔵庫の横に置いてあるゴミ袋を持ち上げて中を覗きこんだ。
「カップ麺やコンビニ弁当の容器ばかりだな」
高木はゴミ袋を置くと、今度は六畳の部屋へと移動した。山川が部屋の蛍光灯の紐を引っ張った。パチパチと音を立ててから部屋が明るくなった。小型テレビの前には脱ぎっぱなしの衣類が散乱している。折り畳み式の小さなテーブルの横には布団が敷きっぱなしだった。
「なんだこれ」
高木がテーブルの上に置いてあった一冊の本を手にした。ペラペラとページを捲って、うーんと首を傾げた。
「レシピ本ですかね」
山川も首を傾げた。この部屋にこの本があるのは違和感でしかない。
「ここで料理をしている様子はねえしな。なんでこんなもんがあるんだ」
「もしかしたら、陣内さんがこれから料理でもはじめようと思って購入したのかもしれませんね」
「まあ、その可能性もあるが、この本は若い女性向けだ。陣内さんが読みそうには思えない。まあ中を見てみろ」
高木がレシピ本を山川の胸の前に突き出した。山川はそれを受け取りページを捲った。最初の章は、山川が子どもの頃、母親が作ってくれた昔懐かしい和食の写真がズラリと並んでいた。一人暮らしをはじめてからは、こういった料理はほとんど食べていない。山川も陣内と同じくカップ麺とコンビニ弁当が主な食事だ。年に数回、徳島の実家に帰った時に母親の手料理を食べると、子どもの頃とは違い、すごいご馳走に感じた。母親のありがたさを感じる瞬間だった。
レシピ本のタイトルは『お婆ちゃんの料理は健康的でダイエットにもいいよ』となっていた。ページを捲ると、次の章は『イケメン男子は実は和食が大好き』というタイトルで、そこからページを捲ると、『実は男子はキャラ弁が好き』とあってキャラ弁のレシピ写真が並んでいる。キャラ弁の絵柄はヒマワリのものばかりだった。
「確かに陣内さんとは全く結びつきませんね」
山川がレシピ本を閉じようとした時に、本に挟まっていた紙切れがヒラヒラと床に落ちた。山川は落ちた紙切れを床から拾い上げて確認した。
「高木さん、これ、このレシピ本を買った時のレシートですよ」
山川は高木にそのレシートを差し出した。
「おお、そりゃ貴重だな。この本はいつ、どこで購入したもんだ」
「えっとですね、店は牧野書房ってとこですね。日時は六月十日の五時五分になってます」
「てことは二ヶ月くらい前か。二ヶ月前にしてはこの本はきれいな状態でレシートも挟まったままだな。このレシピ本を陣内さんが使った形跡はねえな」
「そうですね。間違って買って、そのままにしてたんですかね」
この部屋の中で、このレシピ本の艶のある表紙が一番輝いて見えた。
「牧野書房はこの近くか」
「ええっと、西宮駅前ですね」
「西宮か、陣内さんはなぜそんなところで本を買ったんだろうな」
「さあ、どうなんでしょう。ここからそんなに遠くはないですけど」
「すぐにその牧野書房に行って話を訊いてみるか」
「あ、はい、わかりました。すぐに行きますか」
「まあ、待て。それよりこれを見ろ」
高木がテーブルの横にあった屑入れから紙切れを取り出した。
「それもレシートですか」
「そうだ。こっちは喫茶店のレシートだ。それも同じようなのが二枚ある」
高木が二枚のレシートを山川に渡した。山川は二枚のレシートを見比べた。レシートは同じ喫茶店のもので、どちらもコーヒーとオレンジジュースを注文していた。違うのは記された日時が五日前と十日前ということだ。時間はどちらも午後一時頃だった。
「こっちはわりと最近ですね。ここは陣内さんの行きつけの喫茶店ですかね」
「男一人でコーヒーとオレンジジュースを注文するか。それにわざわざ一人で尼崎から西宮まで行くのもおかしいだろ。山川、ちゃんと考えて推理しろよ。だから、お前はいつまで経っても半人前なんだ」
「すいません」
山川は口を尖らせたが、確かに高木の言う通りだと思った。
「陣内さんは五日前と十日前にこの西田珈琲で誰かと会っていたんだろうな。コーヒーを陣内さんが注文したとすると、オレンジジュースを注文したのは女の可能性が高い」
陣内さんの周辺の女性で、今のところ思い当たるのは、三和タクシーの聞き込みできいたストーカー被害者の女性くらいだ。
「三和タクシーできいたストーカーの被害者ですかね」
「こんなものもある」
高木が山川の話を無視して、今度は屑入れから白い封筒を取り出した。
「銀行のロゴが入ってますね」
「ところで、なぜ、ここに鑑識が入ってねえんだ」
「俺に訊かれてもわかりませんが、犯行現場じゃないからですかね」
「今回の事件を、あいつらは通りすがりの喧嘩だと決めつけて捜査してるようだが、俺は怨恨の線の可能性の方が高い気がする。すぐに陣内さんの人間関係を洗いなおさないとダメだ」
「高木さんは最初からそう言ってましたよね」
「そうだ。だからすぐ、ここに鑑識をまわすように連絡しろ。この封筒の指紋も調べてもらえ」
「けど、俺から言って、鑑識が動いてくれますかね」
「つべこべ言うな。言われた通りにしろ」
「わかりましたよ」
山川はスマホを取り出した。
「それから、電話が終わったら、さっきのレシートと封筒の写真を撮っておけ」
「今からその本屋と喫茶店に聞き込みに行く。それと陣内さんの元妻の住所が西宮だ。ついでにそこにも行って話を聞いておくかな」
「わかりました」
陣内さんの元妻なんて二十年も前のことで関係ないと思うのだが、山川は高木に従うしかなかった。下手に意見するとどやされるだけだ。
「おい、さっさとしろ」
高木は言うことだけ言って部屋を出ようと玄関で靴を履きはじめた。
山川は慌てて鑑識に電話をして、それからスマホでレシートと封筒の写真を撮った。
「鑑識に電話して、レシートと封筒の写真も撮りました」
山川は玄関に立つ高木に告げた。
「よし、行くぞ」
高木がドアを開けて出て行こうとした。
「ちょ、ちょっと待ってください。不動産屋にも終わったことを連絡しないといけませんでした」
「先に不動産屋に電話しておけよ。相変わらず、お前は要領が悪い」
高木は出るのをやめて、開けたドアを勢いよくバタンと閉めた。
間口は狭いが店内に入ると思ったより中は開けている。明るい店内にはずらりと一面に本の背表紙が並んで見える。入ってすぐのマンガ本のコーナーには立ち読みの列ができていて、その列の後ろを通り抜けると、赤いエプロン姿の若い女性店員が屈んで本の整理をしていた。
「すいません」
山川が女性店員の顔を覗きこむように少し屈んで声をかけた。
「あ、はい、いらっしゃいませ」
女性店員は慌てて立ち上がった。立ち上がったが、屈んでいる山川と目線が同じくらいの小柄な女性だ。
「ここの責任者の方とお話がしたいんですが」
「あ、はい。店長でいいですか」
若い女性店員は首を傾げた。
「はい。お忙しいところ、申し訳ないですが、お願いします」
女性店員は、少し訝しげな表情を浮かべたが、「わかりました。少々お待ちください」と言って奥へと消えていった。
山川はレシピ本の並ぶ棚に視線を向けた。レシピ本だけでもいろんな種類がある。陣内の部屋にあったレシピ本と同じものを探してみたが、どれも同じに見えた。
すぐにさっきの女性店員が戻ってきて、その後ろに女性がついて来ていた。彼女が店長だろう。眼鏡をかけた読書姿が似合いそうな三十代くらいの女性だった。山川は向かってくる女性に向けて頭を下げた。女性も少し不安そうな表情を浮かべながら頭を下げた。
「店長の井ノ上ですが」
色白でショートカットの黒髪がよく似合っていた。
「お忙しい時間に申し訳ありません」
山川が井ノ上の目の前に警察手帳をかざした。
「あ、はい、な、なんでしょうか」
井ノ上の眼鏡の奥の目に緊張の色が浮かんだ。山川は笑みを浮かべて井ノ上の緊張をほぐそうと試みた。しかし、あまり効果はなかった。後ろに立つ高木の人相のせいだ。相変わらず、苦虫を噛み潰したような顔をしている。容疑者と話すわけじゃないんですから、笑みくらい浮かべてくださいよと言いたいところだが、山川が言えるはずもなかった。
「実はこれなんですけど、見ていただけますか」
山川がスマホを操作し、陣内の部屋で撮影したレシートの画像を開いてから、井ノ上にスマホの画面を向けた。井ノ上が「は、はい」と言ってスマホの画面を覗きこんだ。
「これ、この店のレシートですよね」
井ノ上が目を凝らしてから、「そうですね、うちのですね」と頷いた。
「実はですね、ある事件の関係者の自宅にこのレシートがあったんです。その人物の足取りを追うためにご協力をお願いしたいのですが」
「あ、はい、わかりました。どのようにすればよろしいですか」
「レシートの日付を見ると二ヶ月前なんですが、この本を購入した人物の記憶があれば、お訊かせいただきたいんです」
「二ヶ月前ですか、いやー、どうでしょうか」
井ノ上がポロシャツから覗く白くて細い首を傾げた。
「このレシートに記載されている、この時のレジの担当者の大山さんからお話しが訊ければありがたいんですが」
「大山なら、今レジに入ってます。少しお待ち下さい」
井ノ上がレジの方へと向かった。
「二ヶ月前のお客さんのことなんて覚えてますかね」
山川が高木に小声で訊いた。
「うーん、わからんな。よほどインパクトがないと覚えてないかもしれんな」
一分も待たずに井ノ上がこっちに向かって少し早足で歩いてきた。井ノ上の後ろから歩いてきているのが大山だろう。ふっくらとした体型とニコやかな表情は接客に向いているんだろうなと山川は思った。
井ノ上が「お待たせしました。彼女が大山です」と紹介してくれた。
大山は、「大山です」とにこやかな表情を山川にも向けた。
「刑事さん、もう一度、さっきのレシートの画像を見せていただけますか」
井ノ上が山川に言った。少し緊張がほぐれた様子で、店長らしくテキパキとした感じに変わっていた。
「あ、はい」
山川がスマホを指で操作して画像を開いてから二人にスマホの画面を向けた。
「大山さん、これ覚えてる。何かの事件に関係する人が持ってたんだって」
井ノ上が山川の代わりに説明してくれた。大山は山川の手からスマホを手に取り、目から近づけたり遠ざけたりして、最後は眼鏡を外して近づけて見ていた。
「あーあ、覚えてるかも」
大山の言葉に山川と高木が顔を合わせた。
「この時のこと覚えてるんですか」
「うん、覚えてるわ。なんか変やったからね」
大山は井ノ上とは違い、最初から緊張している様子はなかった。
「このお客さんなんですが、どんな人でしたか」
「えーっとね、確か、この本を買うようなタイプじゃなかったのよね。これは若い女性向けのレシピ本なのに、わたしと同世代くらいのおじさんが買って行ったわ。だから、すごく覚えてる」
陣内さんに間違いないと山川は高木に向かって首肯した。高木が続けろと顎を突き出した。
「その時の様子を詳しくお聞かせいただけますか」
「ええ、いいですよ。そのお客さんがレジにこの本を持ってきた時に、私がこの本は誰かにプレゼントですかって訊いたんですよ。そしたら、いえって言って照れ臭そうに笑ってました」
「プレゼントではなかったということは、本人が使うつもりだったってことですか」
「ええ、それでねプレゼントじゃなくて、お客さんが料理するために買うのなら、他におすすめの男性向けのレシピ本があるから、そっちにした方がいいですよって言ったんです」
「なるほど、その男性は、それに対してなんて言ったんですか」
「このレシピ本は、自分の知り合いが書いたものだから売上に協力するんだみたいなこと言ってましたね」
「知り合いが書いた本ですか」
「ええ、そう言ってましたね」
「なるほど。すごく参考になりましたわ」
高木がめずらしく少し興奮したように山川には見えた。
「ありがとうございました」
山川が大山に頭を下げた。
大山は「いいえ」と言って満足そうだった。最後に「これ、何の事件なんです?」としつこく山川を見上げてきたのは少し面倒臭かった。高木はそれを無視して先に店を出て行った。
本屋から出て数分歩いたところに、次の目的地はあった。木目調の外壁の落ち着いた雰囲気の店だ。
「ここですね」
山川が建物を眺めた。
「先にコーヒーでも飲んでからにするか」
高木はさっさと店に入っていった。山川が後を追うと、高木はすぐに空いた席に腰をおろしたので、山川も高木の前に腰をおろした。
「聞き込みはしないんですか」
山川がき訊くと、高木は、「その前にコーヒーが飲みたくなったから奢ってやるよ」と目尻に深い皺を寄せた。
高木にしては珍しいなと思った。牧野書房で大山という店員から聞いた情報のおかげかもしれない。大山から話をきいた時の高木はすごく興奮していた。少しずつだが、犯人に近づいていく手応えを山川も感じていた。
若い女性店員が注文をとりにきたので、高木がホットコーヒーを、山川はアイスコーヒーを注文した。
「お前は今回の事件をどうみてる」
高木がコーヒーカップを口にして、山川を上目遣いに見た。
「俺は高木さんの意見に賛成です。通りすがりの単なる喧嘩ではないと思います」
「フン、何、俺に合わせてんだ。俺の機嫌をとったところで何の得もねえぞ。出世もできねえし、給料も増えねえ。逆に上から目をつけられるだけかもしれん」
「俺だってそんな為だけに捜査しているわけじゃありませんよ」
「じゃあ、何の為だ」
「そりゃあ、事件の早期解決、犯人逮捕をして被害者の無念を晴らすためですよ」
山川が言うと、高木は「バカな奴だな」とニヤリと笑みを浮かべた。
コーヒーを飲み終わった後、マスターをよんでもらい、山川は警察手帳を見せた。マスターの顔が一瞬強ばったのがわかった。前にいる人物が警察の人間だと知ると、誰もがそうした表情を浮かべるのを山川は何度も経験してきた。
「ここのお客さんのことで、少しお話をお聞かせいただけますか」
山川はいつものように、相手の緊張をほぐすための笑みを浮かべた。今回は高木の表情も柔らかかったので、マスターの顔の強ばりはスッと引いてくれた。
「うちのお客さんのことですか」
「ええ、このレシートなんですが、ある事件に関係している人物の自宅のゴミ箱にあったんです。これはここのレシートですよね」
山川がスマホを操作してからレシートの画像をマスターに向けた。
「ええ、うちのレシートです」
マスターがスマホの画面を覗きこんだ。
「このレシートのお客さんのことわかりますか」
「ああ、はい、このお客さんならよく覚えています」
マスターが何度も首肯しながら答えた。
「えっ、本当ですか」
山川は興奮して、椅子から立ち上がる勢いだった。
「ええ、ええ、このお客さん、何度もうちに来てくれてましたし、なんかヤバそうだったので、よく覚えています」
山川はマスターの言葉を聞いた後、高木を見ると目が鋭く光っていた。その後、山川に向けて、早く続けろと顎を突き出した。
「ヤバそうってどういうことですか」
マスターが「えっとですね」と言ったところで、頭を整理しているのか、言葉を詰まらせた。
「まず、このレシートを見るとコーヒーとオレンジジュースが注文されてますが、そのお客さんは二人だったんですかな」
高木が口を挟んだ。
「ええ、そうです。でも、正確に言うと三人なんですよ」
「正確に言うと三人とは、どういうことですかな」
「女性が赤ん坊を連れてましたので」
「とういことは、そのお客さんは子連れの夫婦といったところでしょうか」
山川が高木の後を引き継いだ。
「いやー、男性と女性の歳はだいぶ離れてるようでしたので、最初見た時は子連れの夫婦というより、おじいちゃんと娘と孫かなと思いましたけど」
「そうすると、男性は五十代から六十代くらいですかな」
「多分、五十代くらいじゃないですかね。女性は若かったです。二十歳くらいに見えました」
「もしかして男性はこの方じゃないですか」
山川はスマホを操作して陣内の画像を開いてからマスターに向けた。マスターはその画像を見て頷いた。
「はい、この方です。間違いないです」
山川は高木の顔を見た。高木の鼻の穴が大きく膨らんでいるのがわかった。
「いつ頃から来るようになりましたか」
「確か、二ヶ月くらい前からですかね。はっきりとは覚えていませんが」
二ヶ月前となると、陣内があのレシピ本を買った日あたりだ。
「いつも、三人で来てたんですか」
「そうですね、三人で来てたというか、ここを待ち合わせ場所にしてたんじゃないですかね。大体、女性と赤ん坊が先に来て、遅れて男性が来てました」
「マスターはそのお客さんのどういうところを見てヤバそうと思ったんでしょうか」
「はい、それはですね、最初に来店された時はお二人はすごくなごやかだったと記憶しています。それこそ男性は孫を連れた娘と会ったおじいちゃんのような感じでした。ですが、来店する度にお二人の雰囲気が変わってきました。女性は来る度に表情が暗くなっていきました。男性もきつい表情になっていきましたし、女性に向かって大声で怒鳴ることもありました。それと、うーん、まあ、これはちょっとよくわかんないんですけど」
マスターがそこで口ごもった。
「何でしょうか。隠さずにお話いただけますか」
「いや、隠すわけじゃないんですが、間違ってたら申し訳ないですので」
「記憶違いや思い違いは、誰にでもあります。あなたがおっしゃったことの真偽については、私どもで調べます。間違っていても構いませんので、気になることがあるのなら、お話いただけますか」
「そうですか。えっとですね、実はこのお客さんのことで、私が一番気になっているのは、女性が男性に封筒のような物を手渡していたことなんです」
それを聞いた高木の表情が変わった。
「その封筒は銀行の封筒じゃなかったですか」
「ちゃんと見てないので、銀行の封筒かはわかりませんでしたけど、封筒を渡す時の女性の表情が気になりました。すごく険しくて男性のことを恨んでいるように見えました。反対に男性はケラケラと笑って嬉しそうに封筒を受け取って上着の内ポケットに入れてました。だから、私は女性が男性に強請られてるのかと心配しました。けど、どうすることも出来なくて、申し訳ありません」
「マスターの責任ではないです。それより、その封筒はこれじゃないですかね」
山川がスマホを出して、陣内の部屋の屑入れにあった封筒の画像を開いてマスターに向けた。
「うーん、多分ですけど、これだった気がします」
「女性が封筒を渡していたのを見たのは一度だけですか」
「私が目にしたのは二度ですね。それ以外にも渡していたのかもしれませんが、ずっと見ていたわけではありませんので」
「そりゃそうですよね。ところで、二ヶ月前から、何度くらいここに来店されてましたかね」
「さあ、どうでしょう。週に一回くらいのペースだったと思いますので、十回くらいは来てたんじゃないですか」
「その若い女性に心当たりはありますか」
「いやー、知らない女性でしたね。アイドルみたいに可愛い女性でしたので、一度見たら忘れないと思います」
「若い女性が気になりますね」
山川が高木に向けて言うと高木は無言で頷いた。
「わかりました。すごく参考になりました。また、なにか思い出したことがありましたら、こちらまでご連絡お願いできますか」
山川がマスターに自分の名刺を渡した。
「わかりました。ところで、これ、何の事件の捜査なんですか」
「申し訳ありません。現在捜査中ですので、お答えすることはできません」
「そりゃそうですよね」
マスターが苦笑いを浮かべた。
「次、行くぞ」
高木がスッと立ち上がって喫茶店を出て行こうとしたので、山川は慌ててコーヒー代の精算をした。