「神農黄帝食禁」之書
「さあ、お召し上がりください」
ぼくの耳元で、シェフが囁いた。
皿に山盛りの、シャキシャキのキャベツの千切り。
形よく切って並べられた、肉厚のトンカツ。
揚げたての黄金色の衣に包まれたカツのうちの一つだけ、こちらに肉がみえるように、向きが変えてあって。
薄いピンク色のその肉は、いかにも肉汁が多く、柔らかそうだった。
横に添えられた黄色い辛子と、味噌だれ。
ほかほかのご飯と、湯気のたつ味噌汁。
味噌汁には三つ葉が浮かべられ。
料理はぼくに食べられるのを待っている。
ああ、なんて美味しそうな、トンカツなんだ。
――深夜まで一人で残業中、後ろから背中をどつかれた。
ふりかえると、上司の、漆原課長の丸顔があった。
「今日も苦戦しているようだな、おい」
誰のせいだよ、内心そう思ったが、顔には出さない。
「なに、責めてるわけじゃないんだ」
肥満して、顔にまでむっちり肉のついた課長が、眼を糸のように細くして笑った。
「がんばっているお前に、ひとつ褒美をやろうと思ってな」
「は?」
「お前は、もう少し栄養を付けた方がいい。優しい上司としては、常々、そう思っている」
ぼくは、でっぷりした課長とは対照的に、かなりの痩せぎす体型だ。食も細いほうだ。困ってはいないが。
「おれの奢りで、美味い店に連れて行ってやるから。お前、金曜日の夜は空けとけよな」
漆原課長が美食家なのは、職場の誰もが知っている。
美味しい料理を食べることに対する課長の情熱、それはすでに妄執の域に達しているといっていいだろう。
課長は、誰も聞いたことがないような店を、どこかから見つけてくる。それが隠れた名店というやつで、あいつに店を選ばせれば接待は間違いがないと、会社の上層部からもたいへん重宝がられているのだった。
そして金曜日。
ぼくは、タクシーの中で、おずおずと聞いた。
「課長、今日は、肉料理とのことですが、いったいどんな……?」
「うむ、トンカツだ」
「トンカツ、ですか」
意外だった。
課長のことだから、もっと珍しい料理かと思っていたのだ。ぼくの気持ちを見透かすように、
「今日のトンカツは、なかなか他では食べられない逸品だ。期待していいぞ」
そしてぼくの目の前に、この、至高のトンカツがある。
「さあ、遠慮なくやれ」
言われるまでもなく、ぼくはもう、その黄金のトンカツを食べたくてたまらなかったのだ。
カツを一切れ、箸でつまみ、辛子とタレをつけて、口に運ぶ。
香ばしい衣がパリパリと砕け、肉を噛みしめると、じゅわっと芳醇な肉汁が広がっていく。
「おふうぅ……」
思わず声が漏れた。
なんだこれは!
脳が痺れるような衝撃。
美味い。
美味すぎるのだ。
味噌汁を啜る。濃い目の赤だしの味噌汁が、肉の味を引き立てた。
瑞々しい千切りキャベツの甘みが口中をさっぱりさせ、さらに食欲をかきたてる。
粒の立ったお米の味と、タレのついたトンカツの味、そして辛子のツンとくる刺激の、絶妙なハーモニー。
箸が止まらない。
「おかわり、おかわりください!」
ぼくは叫んでいた。
「ああ……」
最後の一口を呑みこみ、ぼくは恍惚感に包まれていた。
なんという味だ。
もっと、もっと……頭の奥でそんな声がこだまする。
ぼくの中に、二度と消すことのできない飢餓感が巣くった。
それにしても、旨味のあふれ出すこの豚は、さぞや名のあるブランド豚に違いない。
「課長、いったいこの豚はどこの豚なんですか、きっと有名な……?」
「ん? 豚?」
課長がいった。
「それは、豚なんかじゃないぞ」
「えっ、豚じゃない? だって、課長、ぼくにトンカツって」
「――『神農黄帝食禁』という、中国の書物がありましてね」
と、シェフの囁く声。
「そこに載っている食材に、トンというものがあるのですよ」
「トン……」
「漢字で書くと、肉月に貪るという字になるのですがね」
シェフは淡々と続けた。
「極めて危険な食材として、古代皇帝、神農と黄帝が食することをかたく禁じたという――ああ、まだ、締めてないやつが、一匹、厨房の檻にはいっていますが、お客様、ご覧になられますか?」
耳を澄ますと、奥の方からカサコソという物音、そしてキイキイと甲高い獣の啼き声。トンの肉を食べたぼくには、そいつがなにを言っているのかよくわかった。(ハラヘッタ、ナニカクワセロ)
課長は、にやりと笑って言った。
「お前も、これで大丈夫だな」
それからのことは、もう言うまでもないだろう。
トンに脳を犯されて食欲が止まらず、すっかり外見も変ってしまった今のぼくの社内でのあだ名は、リトル漆原である。
「さて、課長、今日はどこの店にしましょうか」
楽しんでいただけたでしょうか。「神農黄帝食禁」という書物は、実在しますが、内容は散逸して現存していません。肉月に貪と書く漢字は、実際にはありませんので探さないで下さい。