隠者の夢
7歳の1人娘が養子に出た。父である自分に無断で。
仕事から帰ってきたら、すべてが済んだ後だった。オンラインの面接たった1回で、自分で決めたという。妻は俯きながら「本人も気に入ったみたいだし」と言う。
相手の家庭にも、同じぐらいの年頃の娘がいるらしい。その子と気が合ったのだろう。今頃は2人で学校に通っているのだろうか。
「時間です、いらしてください」
声を聞いた私は額を叩き、僅かに混乱した頭を整える。すべては夢だった。だが、既に起きた現実でもあった。
首からぶら下がるプラスチックのロケットペンダントを開くと、名門小学校の門の前で、お澄まし笑顔を浮かべる制服を着た娘の写真が入っている。長い金髪に、星型の飾りを着けている。
この時代、髪飾りなど売られていない。だから、娘は自分で作った。ほぼ完璧に左右対称の星飾りを6つ。それぞれ自分、父、母、数学、音楽、言語を表しているのだと言っていた。そんな娘は自分のところから去った。それでよかったのだ。
固いベッドから身を起こして、幼子のぬいぐるみのように添い寝していたライフル銃を手に取る。着替える必要はない。朝から夜まで、このゴワゴワとした軍服だけが衣類だ。
急ぎ三段ベッドが寿司詰めになっているだけの部屋から抜け出し、廊下にでる。そこには、狭い即席の机でパソコンを叩く軍服の職員が何人もいた。机が無い者さえいる。その脇を走り抜け、階段を昇り切るとそこには大きな窓があった。
漆黒の星空の中に、地球が視界いっぱいに広がっている。汚れた水蒸気を多く含んだ大気が、海や大地を埃のように覆い隠している。
ふと大地の一箇所で小さな、点のような炎が巻き起こった。あの場所を、北インドと呼ぶべきか、中華ユーラシア共同体の南端と呼ぶべきか。この問いへの答えは難しい。決着を着けるため、今も多くの人が死んだ。十人やそこらでは済むまい。
「戦況の概要をお伝えさせてください」
報告を始めようとする部下に私は分かったといって、作戦室に入ってゆく。そう、あんな炎のことなど、いまはどうだってよい。ただの日常の1コマに過ぎないのだから。
*
地球に小隕石が激突した。そして西暦は終わった。場所は、太平洋のど真ん中だったから、被害はオセアニアの約百万人が死んだぐらいの軽いもので済んだ。
「大陸に墜ちていれば、こんな数では済まなかった、という意味だった。誤解を与えたことを詫びる」
ある汎ヨーロッパ連合の政治家の弁だ。当時、海で良かったね。軽傷で済んだ。と言った政治家やコメンテーターは何人かいて、全員が謝罪や辞任に追い込まれた。だが今、それを嘲笑うものはいない。
理由は2つ。
まず、「海で良かったね」は誤りだったから。隕石の衝突により生じた粉塵が地球を覆い、全球で寒冷化が進んだ。温暖化はもはや問題ではない。そんな意見も出た。だが、宇宙航空や気象の学者達は絶叫した。寒冷化など数十年の話に過ぎない。大気中の水蒸気が、過去と比べて大きく上昇したのだ。塵が大気から消えれば、水分という名の布団が世界を包み続け、圧倒的な温暖化が進む。数十年後か数百年後か。予測に幅はあるが、いずれ人類が生きられる場所は北極と南極付近だけになる。そのため、人類は半分以下に数を減らすだろう、と。
次に、隕石温暖化説を信じる者と信じない者に分かれ、果てしない抗争が始まり、それどころではなくなったから。何しろ、破滅的な温暖化が進むと言っても、気温はどんどんと下がっているのだ。「記録的な冷夏、冷害」なんて言葉が毎年飛び交い、もはや性質の悪いボジョレーヌーボーのキャッチコピーのようになった。
それなのに「温暖化対策」という冷害対策とは真逆のことに多額の税金が投入される。娯楽は禁止され、電飾は外され、福祉は削られる。このことに、多くの人は耐えられなかった。
「温暖化は嘘。アメリカ自由貿易協定が、せっかく砂漠を緑地に変えて軌道に乗ってきたアフリカ統一機構の農業を潰そうとしている」
「未だに温暖化説を否定するものを滅ぼさねばならない。愚かな彼らと心中する必要はない」
そんな電子空間で始まった激しい論争が、戦争になるのは早かった。今や、もはや数十万人が死んだぐらいではニュースにならない。
「神、あるいは地球史の視点に立って考えてみよ。いまや人類は、温暖化が迫る前に自主的に数を間引いて、自然と勝者の遺伝子だけを未来に残そうとしている。悪くないではないか」
中華ユーラシア圏を中心に、こんな破滅的な主張を唱える隠者の集団も現れ、これはこれで世界に広がっていった。だが、全体として人類は、坂道をブレーキが壊れた自転車で下っている状態にあった。眼下にはガードレールの無い急カーブがあって、曲芸的なターンを決めなければ破滅は確実だ。
*
報告は、いつもながら凄惨で、同時に聞き飽きた内容だった。α地点ではこちらが勝ち、β地点では負け、大量の死人が出た。それだけだ。
「続いて、播種計画の進捗です」
将校は小難しい説明を始めるが、平たく言えば順調ということであった。そう、これこそが重要だ。実のところ、もう温暖化対策に予算は使われていない。多大な努力にも関わらず、地球の温暖化を抑止する計画はことごとく挫折した。残るは、日傘計画という、太陽光を遮る巨大な傘を宇宙空間に置く無茶なものぐらいだ。
だから、宇宙航空技術を持つ国々は貴重な資源を地球からの脱出に投入した。そして、様々な技術的革新を成し遂げた。惑星地球化計画、小惑星からの資源抽出技法、飛来隕石の破壊技術。だが、どれも意味がなかった。火星や月にまともに人が住めるようになる――つまり子を産み育てられるようになる――まで、数百年は掛かると見做されたからだ。当然のことだった。惑星規模で環境を変えるのが簡単ならば、まず地球の環境を変えればいい。それができないから問題になっている。
しかし約10年前、決定的な理論が生まれ、全ての意味が変わった。重力膜を使った超光速航法。これが実用化すれば、居住可能な惑星を見つけて移住するという道が生まれる。いわゆる先進国と呼ばれていた国々は、ここに注力した。名付けて播種計画。宇宙の彼方へ人類の版図を広げるものだ。
皮肉なことに人類を救う偉大な技術は、世界的な争いの決定的要因となった。南極や北極には僅かな人類しか住めない。そこにはインフラ開発をリードした先進国の教育水準の高い人々が多く住む。宇宙に活路を見出すのも先進国。賭けではあるが、発展途上国や教育水準の低い人々にはそもそも機会すら与えられない。
かくして、「我々にこのまま死ねと言うのか」という途上国の派閥と、「温暖化は陰謀論」という派閥が悪魔合体して月に集結した。
「会議中失礼します。フェンリルとの交信が復活しました。地球の裏側を通過中の異常なし。予定通り着弾します」
北欧神話に登場する、神々も呑み込む狼。その名を持った兵器は、月の神を完膚なきまでに打ちのめす目的で作られた。
播種計画に反対する陣営は月の都市アルテミスに集結している。その昔、火星までの経由地として作られた歴史ある場所だ。そこへフェンリル、即ち数十発のステルス核弾頭ミサイルを送り込む。しかも、恐るべき速度で。
それでも、命中しないという見方が支配的だ。既に何回か使われているのだ。流石に防ぐだろう。これ以上、人類の未来を損ねるのならば容赦しない。そんな少しスパイシーな外交メッセージに過ぎない。
「着弾まであと10分、最終確認を願います」
「そのままだ、当てろ」
「りょ、了解! フェンリル、予定軌道を維持!」
管制官の声が震えた。緊張しているのだろう。無理もない。アルテミスには反対派が何億人もいるのだ。子供も多いと聞く。戦争だから仕方ないとはいえ、過去に例を見ない大量虐殺になるのだ。もし、当たればの話だが。
「着弾5分前」
「君、コーヒーを……と、もう無いんだったな。私のスコッチがあったはずだ。持ってきてくれ」
そう私は後ろも見ずに命令すると、深く椅子に腰掛けた。
「着弾3分前」
「お、お持ちしました」
最も若い部下が、強張った顔でウイスキーが注がれたテキーラのショットグラスを持って来る。私は呑まずに軽く舐めるだけにした。部下の前で無理にあおった挙句、咳き込むのは避けたかった。
「着弾2分前! 敵エネルギー防壁を感知できません!」
途端に、周囲が騒がしくなる。フェンリルが防がれるとしたらこのタイミングだったからだ。
「着弾1分前!」
もはや誰もが立ち上がって画面に大きく映る月にて煌めく一点を見る。あの光る点が新月都市アルテミスだ。
「着弾20秒前!」
もう言葉を発するものは居ない。誰もがこれから何が起きるのかを知っていて、それでいて受け入れることができなかった。
「着弾3秒前……あっ」
目の前、月の一点がチカチカと何度か瞬く。
「着弾……。衝撃拡散光は観測されず……」
どの士官より最も発音が明瞭であるはずの管制官が小声で呟く。今度は先程の火花とは違うのだから、仕方の無いことだ。この瞬間、数億人が月の砂と化した。
「か、火星が! 火星基地の通信途絶! 通信途絶!」
突然、全身が火に包まれたかのように管制官が叫ぶ。それから作戦室は大騒ぎとなった。だが、私はただスコッチを舐める。予定通り、亜光速で小惑星が衝突したのだろう。これで、我が方の本部も綺麗さっぱり消えてなくなった。数億人の同胞もだ。妻も苦しまずに逝っただろう。
「気がつきませんでした。あなたは隠者派だったのですね」
私の前に先ほどウイスキーを運んで来た若い将校が立つ。もはや、その瞳に怯えはなく、ただ虫けらを見るように私を見下ろしている。構わず今度はスコッチを煽ると、胸に一際強い焼けつきを感じた。強いアルコールだけが原因ではない。この若者の手には短銃があり、今しがた発砲したばかりなのだ。この距離で外すマヌケはこの船に乗ることはできない。自分の胸がどうなっているか、見る必要はないだろう。
それから、椅子から崩れ落ちる短くも永遠の間、机の上にあった写真たてを私はずっと見ていた。
2人の少女が並んで笑っている。左の金髪の少女こそ、可愛い我が娘。私と妻の性格は合わなかったが、遺伝子の相性は良かったらしい。論理的思考のみならず音楽や文芸にも恵まれた実に優秀な子だ。隣には、いたずらが好きそうな不敵な笑みをした黒髪の少女がいる。娘を受け入れてくれた疎開先の家族の次女だ。この子も非常に優秀で、しかも娘を助けてくれることも多いそうだ。
この数分で人類は良い感じに減った。もう間引く必要はない。戦争は終わりだ。貴重な物資と時間を残すことができた。
いま地球に居る人々は何世代か苦しい時を過ごすだろうが、日傘計画が成功せずとも生き残れるだろう。宇宙に居る者たちは、一部が播種船に乗って分の悪い賭けに乗り出すだろう。だから、金星の宇宙ステーションに住む子ども2人が戦いに巻き込まれることはもう無い。そして、きっと播種船に乗れるだろう。
生き残れ、娘よ。その為に人類へ貢献せよ。逆ではない。生きて自分の遺伝子を、文明を後世に繋げ。それこそが第一欲求、すなわち本質だ。
意識が薄れていく中、私は自分の願いが叶うことを確信して笑みを浮かべた。
[受け継がれたメモリーノート]「生存は、文明の第一欲求である」これは地球時代の後期に書かれた小説に登場する文言だ。
遠き未来は以下。
葦原星系から空を越えて ―星間航行士ルイの文明再生記―
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