男爵夫妻の離婚の成立
「私が初めて君の元を訪れて見せた契約書のことだ。熟考してくれと伝えた書類に君はすぐにサインした。もちろんお互いに控えを持っているはずが、まさか読まずに署名なんて貴族にあるまじきことしていないよね?」
そう言われたジェイクは薄ぼんやりと思い出した。確かに控えを渡されたが、どこに置いたかの記憶はない。王太子に直で渡されたことに舞い上がり、急いでサインをしたことしか覚えていない。言葉に詰まるジェイクに王太子は書類を差し出した。
「もしかしてと用意した控えの写しだ。『不義があった際は、領地を相手に明け渡す』これはエリーゼに捨てられるかもしれない君を守るためにと書き記したんだが、逆になってしまって残念だよ。ついでに嫡男はエリーゼの希望でそのままだ。妾と君には悪いが国に報告済みだし、出来もいいみたいだからね。真実の愛の二人で、平民らしく慎ましく生活してくれ。」
軽いため息と、全く残念とは思っていない声音で伝えた王太子に、ジェイクは膝から崩れ落ちた。腕にくっついたままだったマリアンヌは手を離し、一人立ったまま息子に顔を向けた。
「あぁ愛しい我が子。あなたは私を守ってくれるでしょう?あなたを産んだのは私よ。親子ですもの、お母様を守って。」
マリアンヌの高い声にビクリと震えたルイはエリーゼの後ろに隠れた。エリーゼはルイを守るようにマリアンヌに対峙する。
「そうだ、ルイ。私は父親だ。お父様がずっとそばにいよう。これからはマリアンヌと三人で男爵邸で暮らそう。エリーゼはお前のお母様じゃない。血が繋がっていないただの他人だ。お前は利用されている。エリーゼを男爵領から追い出して、親子三人で助け合って楽しく暮らせるんだ。殿下、エリーゼになぞ男爵領を任せられません。経営だってエリーゼにはできっこない。私がルイを支え、領地を守ります。」
無様に膝立ちのままルイに向かって歩くジェイクに、後ろから男の笑い声が聞こえた。同時に王太子が兵を命令して、エリーゼとルイを守るように囲んだ。
「昔から変わった人だなぁと思っていましたが、結婚してから増しましたか?南の気候が良かったのかな。」
笑い声にジェイクが振り向くと、どこか自分と似た同じ髪色、同じ色の瞳の若い男が立っていた。まさかとジェイクが名を呼ぶ前に、男は肩を竦めて礼をした。
「お忘れですか?サミュエル伯爵家の現当主です。」
にっこりと笑う顔には幼い頃の弟の面影があり、いつの間にか成長した姿に目を見開いた。
「ノア」
「お久しぶりです。男爵となられた後は初めましてですね。領地の経営不振の責任を取って父は隠居となりました。代わって私が伯爵となり、皆様の助力をいただいて、サミュエル領を立て直しております。」
皆様と言った時の目の動きから、ライルや王太子たちのことだと分かる。であれば、サミュエル領はすぐに以前の勢いを取り戻すかもしれない。息子とはいえ関わりが少なく、エリーゼや義母が守っているルイよりも幼少期を共にした弟の方が御しやすいかもしれない。ターゲットをノアに変えようとした矢先、ノアの目が笑っていないことに気付きジェイクは口を閉じた。
「しかしサミュエルに戻らないのは、とても懸命な判断だと思います。サミュエルの貴族籍に戻っても恐らく殺されますし、たとえ平民でも片目くらいは失うことになるでしょう。乳兄弟だったジェシーを覚えていますか?彼はローズ様を裏切った手引きをしたと父に邸に入ることを禁じられ、実家とは絶縁、婚約者からも婚約破棄されたそうです。主のように他に相手がいてもおかしくないと。領内では彼が一番恨んでいて殺しに向かう所でした。私が門番の役を与えていなければこうしてお会いすることも叶わなかったでしょう。他の者も少なからず同じ思いですから、生涯サミュエルに立ち入らぬことを警告しますよ。私も危うく婚約者を手放す所でしたから、王城での再会を王太子に感謝いたします。」
言外に他で会えば危害を加えると言われていることくらいジェイクにも分かった。サミュエルには頼れない、ルイもエリーゼに隠れたまま、その近くにいたローズに自然と目が行けば、その夫が鋭く冷たい眼差しでローズを自分の後ろに隠した。
「兄弟の再会を邪魔して悪いが、そろそろ契約書の内容を履行したい。ついでにジェイクと妾の結婚も私が証人になってあげるよ。私が祝福しよう。」
ジェイクが旧知の顔を見ている間に王太子が文官に書類を用意させ、若い司祭もいつの間にか同席している。
「では、まず離婚だな。」
ジェイクが口を開く前に兵が左右に分かれ、その先から現れたエリーゼが離婚申請の書類にサラサラとサインをした。
「さようなら、旦那様。王都にはあなたとの良い思い出ばかり。ここで別れるのが運命かもしれませんわね。領地はしっかり栄えさせますわ。安心なさって。」
久しぶりに見たエリーゼの笑顔に固まりながらも、エリーゼの言葉にジェイクは我に返った。
「エリーゼ、君に領地の経営は難しいだろう。補佐官だって雇用し続ければ多額の金がかかる。ルイが大きくなるまで、ルイと王都で暮らすといい。私が男爵として責任もって領地を経営するよ。」
ルイが懐柔できないならば、領地を盾に取ろう。エリーゼには経営に関わることなど分からないだろう。離婚してマリアンヌと結婚できることには賛成だが、貴族籍を抜かれ平民になる気はない。ルイが成長するまでに男爵として残る方法を考えることが現時点での得策だとジェイクは考えた。最悪の場合は金を持ってマリアンヌと逃げるまでだ。
「あらやだ。話を聞いていなかったの?不貞をした者は領地を明け渡すのよ。私が男爵領をもらうんだから我が領地の名を名乗らないでね。弟も許さないみたいだから実家の名だって名乗れない。貴族籍を消されるのよ。そんな相手が領地を経営する権利などないわ。それに六年経ってもまだサインしか仕事が出来ない男爵なんて、同世代にはいないでしょうね。成長する気もないんだから、大人しくお得意のサインをしてちょうだい。」
エリーゼに威勢よく離婚申請用紙を眼前に突き付けられ、そういえばと付け足される。
「あなたは気付いていなかったかもしれないけれど、私は三年前から領地の経営に参加しているわ。村の北側に橋を建設したのは私の案よ。今年の予算案も補佐官から修正なしで褒められたわ。離婚したら自分のサインで動けるようになるの。腕が鳴るわ。」
商人たちに絶賛された橋の建設案にはジェイクですら覚えがあった。呆然としている間にエリーゼは踵を返した。引き留める前にすぐに兵がエリーゼの姿を隠す。文官に用紙を机に置かれペンを持たされたジェイクは男爵になって以降、書類を渡されるがままに書き続けたサインをせざるを得なかった。
「せめてルイを産んだ褒賞金をちょうだい。次期男爵を産んだのは私よ。宝石でも構わないわ。ジェイク様は要らないからその分お金をちょうだい。」
ルイに与することを諦めたマリアンヌは金切り声を上げた。周囲が眉をひそめる中、王太子はマリアンヌに笑いかけた。
「ジェイクを手放すと考えるのは時期尚早じゃないかな。彼にだって個人資産はあるだろう?それに今君が身に着けているドレスに宝石、なかなかの値段じゃないのか?」
「父が兄に自分の資産から渡していました。サミュエル領が経営不振に陥ったのはご存じでしょう?その一端となったのが、その金ですよ。六年分の人件費を考えても、まだまだあるはずです。」
王太子とノアの言葉にマリアンヌは暫く黙りこみ、エリーゼのいる方に声をかけた。
「邸にある私のドレスも宝石も譲らないから。それで手を打ってあげる。」
「もちろん、あなたの物なんて残されても迷惑だわ。あなたたちが住んでいた部屋の中の物は調度品まで全て平民の家を買って置いてあげるわ。港町の中心部、それが私からの餞別よ。」
エリーゼの返答に満足したマリアンヌは司祭に促されながら婚姻届にサインをして、未だに朦朧とするジェイクにも署名を書かせた。
これにてエリーゼとジェイクの結婚生活は終止符が打たれた。
読んでいただき、ありがとうございます。
まず手始めの平民落ちです。
続きは来週投稿します。




