四話 『初恋あとの朝』
…………ょうさま……お嬢様!」
「はっ!」
リーンに呼ばれて、クリスは気を取り戻した。
聖女に恋してしまった翌日。クリスは、隙があれば、ぼーっとしていた。着替えの時も、夕食の時も、お風呂の時も。寝るときだけは枕を抱えてごろごろ悶えていた。そして、そのたびにリーンが正気に戻した。今も朝食を食べていたのに、ぼーっとしてしまっていた。
考えてしまうのは、もちろん、あの美しい聖女のこと。あの銀色の髪を思い出すだけで、胸が高鳴ってしまう。将来の自分のようにはならない、ならないが……
――少し、少しだけ、ほんのちょっとだけ、触れ合えないものでしょうか――
そう思ってしまって、でもダメなのに、と思考の渦に沈み込んでしまうのだった。
今回もリーンのおかげでそこから脱すると、父と母が心配そうな声で話しかけてきた。
「リーン、ありがとう。私たちがいくら呼んでも答えないんですもの。ねぇ、クリス、本当に大丈夫なの? 昨日からちょっと変よ?」
「なんでもお父さんに言いなさい。頼りなく見えるかもしれないが、これでも偉いんだ。なんとかできるさ」
いえ、偉いのは知っていますし、わたしは大丈夫ですわ、とクリスは父母にいつものように返事をした。いつも優しい母と、弱気に見えても頼りになる父。クリス自慢の両親である。ちなみに、クリスの金髪は母譲りのものであり、碧眼は父から受け継いだものだ。どちらもクリスの自慢である。
さて、クリスの父が国でどのくらいの地位にいるのかというと、モーグ家がそもそも王の分家の血を引くので偉い。さらに、国祖の三本の短剣のうち最後の一本を預けられるくらいには偉い。万が一現王家が滅んだとすれば、あとを継ぐのはモーグ家だろうと言われるくらいには偉い。つまりは、モーグ家は王家を除けば一番偉いのだ。一貴族であるクリスが王女マリーとの親交は、この地位から始まったものである。
そんなモーグ家の当主なので、王家の子にまだ実権がないことを考えると、国のナンバーツー、あるいはスリーと言っても過言ではないのだ。
「父さんがあの短剣に触らせたからじゃない? 誕生日だから、とか言ってさ」
とても軽く、父をからかうように言ったのは兄だ。髪の色を両親から受け継いだからか、くすんだ金の髪をしている。十六になり、背が高くなってきたこともあって親に反抗したい年頃だ。最近、当主になるための勉強を本格的にし始めた。
「ううん、短剣自体は由緒正しいものだし、手入れも欠かしてないから、そんなことないと思うんだけどなぁ。それに、触らせるんだったら今年しかないと思ったんだよね」
「……ちなみに、その根拠って何だったんですか、あなた」
「もちろん直感さ。王家由来のね」
自慢げに父が笑う。母は誰の目にもわかるように怒った。
――あなた、ちょっとお話が……。
父が引きずられていった。いくら頼りなく見えても、母より体は大きいはずなのだが……。国でどれだけ偉くなっても、いくら戦いが強くなっても、おそらく父が母に勝つことはない、のかもしれない。
「なぁ、クリス」
父と母を見送った後、兄が不安そうな声音で話かけてくる。両親がいるときとは別人のようだった。
「本当に大丈夫なんだな? なにかあったら言うんだぞ。お兄ちゃん個人の伝手もあるから多分なんとかできるからな」
「えぇ、本当に大丈夫ですわ。何事もありませんし、心配もいりませんわ」
父母の前以外では優しい兄なのだ。いると、いつも誰かしらからかっているが。
朝食を終え、部屋に戻るや否や、クリスはリーンに両肩をつかまれ向き合わせられた。リーンの顔を改めてみると、紫紺の瞳がよく透き通っていて、黒い髪は日の光を綺麗に反射するほどの艶があり、顔の造形はまるで計算されたように整っていた。
「綺麗、ですわ」
「お嬢様、そういうことではございません」
褒められても表情を一切崩すことはなく、リーンは一度息を深く吸って。いいですか、と前置きした。
「お嬢様。昨日も申し上げましたが、火種は小さいうちに対処するに限ります。なにかあってからは遅いのです。お嬢様に何かあったら、リーンは……」
そこで、リーンがうつむいた。肩が力強く握られ、見えていなくても、いつも欠片も変わらない表情が歪んでいるように感じた。家族からこんなにも心配されて、リーンにこんなにも、悲しそうにさせて……。それでも、あの少女を頭のどこかで考えてしまう自分を、クリスは情けなく思った。
そして、クリスは決めた。この想いは断ち切ると。そもそも、完全にあきらめられればあの夢のように、未来の自分が罪を犯すこともなく、親友に首を切られることもなく、平穏にすごせるはずなのだ。
「心配はいりませんわ、リーン。本当に何でもないですの。ちょっと、催し事二連続で疲れてしまっただけですわ」
「本当、ですか……?」
リーンの声が震えているように聞こえた。
「えぇ、本当。約束しますわ。ほら、指きりしましょう」
お互いに小指を出して、結んだ。はーりせんぼんのーます、と指を切った。クリスはふふっと笑った。リーンはそんなクリスを見て安心したようで元の調子に戻っていった。
(大丈夫ですわ。リーンと約束したんですもの。きっと、この約束はずっと守れますわ)
こうして、新たな決意を胸に、クリスの初恋とその最初の朝は終わった。
最も、その決意も、クリスとリーンの約束も、クリスの側からすぐに破られることになるうえ、初恋もまだ続くのだが。