『夢……?』
気がつくと、クリスは白い空間の中にいた。死んでしまったかと錯覚するほど真っ白で、いったい自分がどうなっているかなんてまるでわからない。落ちているのかもしれないし、昇っているのかもしれない。
そんな中にもかかわらず、クリスは全く動揺していなかった。むしろ、ここ最近で最も安らいでいると言っていい。自分の手のひらを見て、しわを数える余裕すらある。ひとつ、ふたつ、と数えるが、しかし余りにも暇だった。ここには本当に何もない。どこをどのように見ても、自分以外は見当たらない。空と地を分ける境界もないので、天地が逆転していてもまるでわからないだろう。
しかし、安心はする。不安が溶けていく。不思議な場所だった。溶けるような、と言っても、分解されていくようなものではなく、スッと、粉を水に溶かすような、そういうものだった。
クリスが、いくら、シャルが、マリーが、リーンが、と思っても、そのそばから消えていく。失ってしまった、と思っても、また消えていく。絵の具を無限の水で希釈するように。
(――――こっち……)
突然、どこからか声がした。興味本位で、クリスは一歩軽く踏み出してみた。すると、
(――――こっち……)
また声がした。今度は別の方向へ、もう一歩踏み出す。
(――――こっち……)
もう一回。
(――――こっち……)
それから、モグラ叩きが始まった。声が聞こえれば、クリスが一歩踏み出す。始めは軽く踏み出したものが、徐々に重く、強くなっていく。しかし、標的は叩けない。また別の方向で声がするだけだ。その声も、内容が全く変わらない。馬鹿の一つ覚えみたいに「こっち」と繰り返すだけである。
ぜぇぜぇと息を切らして、そろそろ諦めようかと思った時、変化が起きた。
(((――――こっち……)))
今度は全方向からだった。流石にもう踏み出せない。疲れてしまったので、クリスはどこだかわからない場所で大の字に転がった。幸運なことに、次の変化はすぐに起きた。
視界の端の空間が歪んだ。白だらけの場所に、ペンキをそこにぶちまけたみたいにピンクが生まれ、円状に歪んでいく。クリスは思わず身を起こし、そちらに目を向けた。変化は止まらない。円から腕が生えた。人間の腕だ。多分、クリスのものより若干小さい。それは、ぴょこぴょことなにかを探るように動いて、円の縁に手をかけた。もう片方の腕も生えた。同じように動いて、反対側の縁に手をかけた。そのまま、自分の体を引っ張るように力を込めていく。
頭が飛び出る。その勢いのまま、体もズロンと出てきた。そのまま、空中で一回転。地に着くころには、クリスと同じように大の字になっていた。
小さい。身長はクリスよりないし、そのピンクの髪だってクリスより短い。しかし、見合わぬ色気があった。服装は、明るいピンクで上から下までひらひらで統一され、そのうえ透けている。その薄い布地からは、胸部のかすかな膨らみが見て取れた。
その小さな胸が、一、二回上下した。
「やっっと繋がったあ!」
見た目に沿う蠱惑的な声である。本人にはいたってそのつもりはないのだろうが、欲情を煽るには十分なものだろう。
「……誰、ですの」
しかし、クリスにとっては怪しさいっぱいである。この白い空間自体が不可解と言えばその通りだが、唐突に表れたこの女も十分に怪しい。女はクリスの問いを聞いているのかいないのか、よっ、ほっ、と勢いをつけて立ち上がった。
「はじめましてー、くりすちゃん。私、夢魔のリリ。きっと、長い付き合いになるから、よろしくねぇ?」
どうやら聞いてはいたらしい。しかし、夢魔。クリスは目の前の女をもう一度よく見る。やけに小さい背丈、すけすけの衣服、かすかでも確かに主張する胸部。それは、どちらかと言えば、
「いん……」
「夢魔よ」
間延びした声ではなくなっていた。本当に嫌らしかった。
「それで、い「夢魔」……。夢魔が何の用ですの」
怪しい目の前の女だが、このよくわからない状況が夢魔によって作られたというなら、納得できなくはなかった。夢なんだから、何でもありだ。
「くりすちゃん。名前で、呼んでー?」
女は手を合わせて体をくねらせた。クリスは睨みつけたが、まるで女に効いている様子はない。名前を呼ばれなければ、話を次に進める気はないようだ。
「……リリ、何の用ですの」
声はいつもよりかなり低かった。文字通り不機嫌である。
「今日はぁ、顔合わせと、ほけんー」
「…………」
言っている意味がわからない。
「ちょっと、殺風景、かなー」
クリスを蚊帳の外に、女はどこからか水を手に汲んだ。透き通っているがすこし青い。そして、そのまま白い空間に垂らした。絵の具が混ざるように、空間が混ざっていく。青と白の混沌は時間を経たずに収まり、気づくと、空が広がっていた。
「どー? 私の、お気に入り」
クリスはただ唖然としていた。この光景はさっきまでの空間と比べれば、確かに美しい。上下に空がゆったりと広がる景色は、きっと現実世界では楽しめないものに違いない。だが、理解が追いつかない。しばらくして、こうまでたやすく、夢を捻じ曲げられるものなのか、と目の前の脅威を確認したのだった。
「そんなに、警戒することないのにー」
女が笑顔で近づいてくる。クリスは身がまえた。しかし、女が目の前から消えた。意識から外したわけでは当然ない。ふっと、息を吐くかのように、そこから消えた。クリスは焦って振り返った。いない。左右を確認した。いない。ならばと上を見た。やはりいない。この瞬間に限って、あの夢魔はこの空間から消えていた。
「どこに……」
「こ こ ?」
クリスの耳に息がかかった。思わず、飛びずさる。
「大丈夫だよぉ。別に、食べたりはしないからー」
それより、早く用を済ませたいかな、とゆっくりクリスに近づく。クリスは恐怖で動けなくなってしまった。
「んっ、ふっ、ふー。すぐに済むからねー」
女はクリスの手を取って、人差し指でなにかを書いていく。ばつ、三角、四角、図形は様々だったが、ただ線を描くことも多く、全体として何を書いているのかはわからない。最後に、大きく丸を書くと、どうやら終わったようで、夢魔は手を放した。
「ごめんねー。あと、ちょっとだけー」
そうして、夢魔は唱え始めた。表情が消える。
――汝、王たる器に非ず。されど、剣に見いだされし者なり。故に、『夢』の名において、閉じた園への道を渡さん。汝に道を開かぬ幸運があることを――
「はーい。これでー、おしーまい。ごめんねー、怖かったー?」
唱え終わると、夢魔の表情が戻った。呑気に、なにか話している。
しかし、クリスは動けなかった。何をされたのかわからない。顔合わせは、わからなくはないが、”ほけん”とは何のことなのか。クリスに思い当たるものはない。
「失敗、しちゃったかなぁ」
怖がらせちゃった、と肩をすくめ、しょんぼりした様子を見せた。
「次は、ちゃんとお話しよーねー」
クリスの足元がひび割れ、割れる。その先には闇が広がっていた。
「ちょ、ちょっと……!」
クリスは落ちていく。どこまでも、深く暗い闇の中へ。先程の空間が輝いて見えた。しかし、その裂け目も徐々に閉じていく。最後に、夢魔が笑顔で手を振っているのが見えた。
「いったい何だったんですのーーー!」
その叫びは闇へと消えた……。
そして、クリスは上半身をガバリと起こして、目を覚ました。叫び声を上げるということもなかった。その代わり、汗をかいてしまった手を、握ったり、開いたりした。そのあと、別の手で自分の頬を思いっきりつねった。痛かった。
「ふゅめ、ですわよね……?」
リーンが起こしに来るまでの間を、自分の頬を引っ張ったり、手のひらを指で弾いたりして、夢だったという確認にあてたクリスであった。
 




