二十一話 『月におねがい』
その日の夜、クリスはベッドの中で悶えていた。枕を抱えて、あっちへごろごろ、こっちへごろごろ。その表情は恋する乙女のそれであった。
「ふふ、うふふ」
思わず、笑みがこぼれる。マリーがあんな提案をしてきたときは驚いたが、まさか聖女さまに会えるとは。それも、儀礼の時のように遠くからではなく、直近で、お茶を飲みながら。しかも話せるときた。クリスは、今日、寝られないかもしれなかった。
(いったいどんな人なんでしょう)
思い出すのは、あの銀色。未来の自分を狂わせ、そして、今の自分も変えてしまった、月の光。そのようなものであっても、美しいものは美しく、胸のときめきは止まらない。
(優しい人だと嬉しいですわね)
願わくば、あの夕焼けのような瞳のように。
(お声も気になりますわ。儀礼の時は呆けてしまいましたから)
あの光に似合う、夜想曲のような声なのだろうか。それとも、太陽のように弾むような声なのだろうか。クリスは想像して、笑う。
「うふ、うふふふふ」
そしてまた、ごろごろ、ごろごろとベッドの端から端まで往復を始めるのだった。
満足するころにはすっかり夜も更け、月も西に傾いていた。
(それにしても、意外でしたわ。マリーがあんなことを言うなんて……)
思い出すのは、今日の訓練を終え、解散しようとしたとき。マリーが仕事の相手が聖女であったことを思い出すところまでさかのぼる――
「私の明日のお仕事、相手が聖女さまなんだもの」
「へ?」
クリスは間抜けな声を出した。多忙を極める聖女のスケジュールは、王家であっても時間が取れるものではない。それなのに、明日のお仕事、と、聖女の予定を確保していたとマリーは言ったのである。
茫然とするクリスを前に、マリーは深呼吸をした。少しすると、落ち着いてきたようで、元の口調に戻った。
「アンネ、すこし部屋の外で待っていてください。クリスに大事な話が……」
ふむ、とアンネ。
「そうか。では、あまり長くならないようにしろよ。今日は早く休むに越したことはないからな」
そう言うと、アンネはさっさと部屋を出ていった。
そして、クリスの秘密を知る者だけが、部屋に残された。その中で、まず口を開いたのはクリスである。
「せ、聖女さまとお仕事って、いったい何をしましたの?」
王家がよほどの強権を使ったのかとクリスは思った。支援者への顔見せならば王とモーグ家当主だけで事足りるし、わざわざマリーとまで話す必要は何もない。しかも、マリーはまだ王家の仕事は何一つできないのだ。
さあ、私にも、とマリー。その表情からしても、王家自体が圧力をかけたようではないようだった。
「ただ、聖女さま自身が年の近い王家の娘に興味をもった、とだけ。しかし、」
これは好機です。マリーがにやりと笑った。
「ここに、私が平民を連れ出せば明らかに問題になるでしょうが、モーグ家ならば話は別。それに、クリスと私は年齢もほぼ同じ。友人、と言えば無下にされることもないでしょう。つまり……」
「わたしも、聖女さまと、お話ができる……?」
「そういうことです」
マリーは、ふふんと胸を張った。クリスは数秒だけ固まった。まさか、お話ができるかもしれないとは、全く思っていなかったのだ。
「で、でもわたし、聖女さまと何をお話すればいいかなんて……」
いくら、十三にもなって人前で肩車が恥ずかしくないクリスでも、初恋の人と初めて話すのはドキドキする。マリーも一緒、とはいっても、なにかとっかかりが欲しいところだった。
「私もわかりません」
無情である。そもそも、人見知りの気があるマリーには当然だったかもしれない。
「で す が」
「クリスには、伝えなければならないこと、ありますよね?」
クリスのあの夢を現実にさせるわけにもいきませんし、とマリー。
「ま、まさか……」
「ええ、そのまさかです」
「クリス、聖女さまに告白、してみませんか?」
――思い返すほど、マリーに頭が上がりませんわね。
場を用意してくれたことだけで、感謝が止まらない。
しかし、まさか、マリーの方から、告白してみたら、と言われるのは予想していなかった。確かに、一度告白して、万が一良いならあの未来は訪れないだろうし、だめでも恋に諦めがつけば回避は決定的。これ以上ない良案だった。一目ぼれしてから数日で、というのは淑女としてどうかと思わなくもないが。
(でも、確かに、明日想いを伝えなければ、ずっと伝えられないかもしれませんわ)
聖女は大陸すべてを巡らなければいけない都合上、王都に戻ってくるまでには膨大な時間がかかる。最短で五年という記録もあるが、ほとんどが十年以上かかるうえ、魔獣と戦わなければいけないため、万が一ではあるが、死ぬこともあり得た。魔獣の数自体は減っていることもあり、年々一周にかかる時間自体は少なくなっているものの、それでも、今回も十年はかかるとみるのが現実的だ。
さらに言えば、クリスは地位が高いため、その行動範囲は大きく制限が付く。王都か、その近郊の都市か。魔獣の討伐要請が出れば、その外に行くこともできるが、魔法を使って短時間で戻ってこなければならない。しかも、聖女がいる地域からは、ほぼそんな要請は出ないことを考えれば、クリスが聖女と会える機会は、やはり凱旋のタイミングしかないだろう。
(でも、告白するにしても、なんて言えばいいのでしょう)
純粋に、『好き』でも良いし、浮つく台詞を重ねてもそれはそれで良いかもしれない。
(でもやっぱり、まっすぐ伝えることの方が大事、ですわね)
拒絶されても、それでよかった。あの少女と話せることが楽しみだった。ただ、それでも、
(ちょっと不安ですわね)
もしも、その前に粗相をしてしまったら、もしも、クリスのことなど眼中にも入れない人だとしたら。そういうことが、すこし頭によぎった。
クリスはおもむろにベッドから降り、窓に向かう。そして、夜の空気が感じられるように、開けた。涼しい風が吹いた。
丸い月がよく見える。
(こんなに、こんなに恵まれて、欲張りだとは思っていますけれど)
(どうか、お月様。あの女の子と仲良く話せますように)
 




