十九話 『アンネとリーン』
「………」
「どうした、マリー達が心配か?」
「ええ」
浴場を出た後、リーンとアンネは、呼ばれればすぐにでも駆けつけられるように立っていた。
「大丈夫だ。マリーは一度似たような訓練を終えているし、クリス嬢の筋もいい。なにより、本当になにかあれば、控えている王家のメイドが手を打つさ」
それに、一芝居うってしまっただろう? 、とアンネ。
「…………」
そう、リーンが何の抵抗もなくクリスのいる浴場を後にしたのは、クリスとマリーが二人で話せる場を作るためだった。厳密には影に隠れたメイドたちもいるが、本人たちにとってみればいないも同然だろう。
「それとも、クリス嬢が魔法で何かするとでも?」
「いえ、そのようなことは……」
リーンから見ても、クリスの水魔法は安定しているように見えた。経験者のマリーだって信頼のおける人物であるので、魔法に関しての心配はしていなかった。アンネの言った通り、王家のメイドがいつでも出てこれるように準備していたのもわかっていた。ただ、二人の関係だけが心配だった。
「……あの二人についてなら、なおさら心配はいらないだろうよ。なにがあったのかは知らんが、そう簡単にひびの入る関係でもあるまい」
「あなたに、なにが……」
「さあな。何も知らん。知っているのは、クリス嬢に対しての、我にもよくわからん嫌な予感だけだ」
「……それは、今のお嬢様にも……」
「感じないな。まあ、我の見間違い、というオチになるだろうよ」
「……」
「ただ、我はマリーを信頼しているのでな。とるに足らんことで友人を捨てるような人間ではないと信じているだけだよ」
「それは、お嬢様だって」
「そうだな。クリス嬢とは短いが、簡単にマリーを切り捨てるようなことはできんだろうな」
「……ええ」
リーンは、それこそクリスにつきっきりなのだ。マリーとクリスが遊んでいるのに付き合ったり、喧嘩してしまった時などは積極的に仲裁に向かうようにしていた。そうやって、間近で見てきたリーンだから、今回のことも大丈夫だと信じてはいる。しかし、万が一、億が一を考えずにはいられなかった。
「無用な心配だと思うがな」
そんなリーンの様子を見て、アンネは言った。
「…………」
話は済んだ、とばかりにリーンが黙った。その表情には焦り、心配の表情は一切感じられない。無論、隠しているだけであるが。
時間がたっても、この二人はお嬢様以外のことをまるで話そうとしなかった。否、アンネが話しかけても、リーンが返事をしなかった。怪しげな占い師であり、謎の魔法指南役。さらに、主の気にしていたことをやすやすと当てたこの人物を、リーンは信用するわけにはいかなかった。
「…………」
「……暇、だな」
「…………」
水音は、遠くに聞こえた。
「あー、しりとりでも、するか?」
「…………」
リーンは目を閉じている。会話の意思はないようだ。
「ちっ」
アンネが舌打ちをした。今日は反省して音を立てずに入室したというのに、ひどい態度だ、とアンネは思った。いや、それはそれでお嬢様方をびっくりさせてしまったようだが。
「……おまえ、本当になにも覚えていないのか?」
ふと、アンネが聞いた。
「……どういった意味にございましょうか」
リーンが反応した。
「お嬢様に見初められてからの記憶は、すべて先ほど起きたことのように思い出すことができますが」
「いや……。そうではなくてだな」
「では、どういった意味でしょうか」
それ以前の記憶はなくても気にしていないと言わんばかりだった。どこまでも、クリスお嬢様一筋である。
「いや……。その……。改めて言うと恥ずかしいし、自分でも何を言っておるのだと思うのだが、」
「なんでございましょうか」
「……この宇宙の成り立ち、とかな」
「リーンが知る由もございません」
ばっさり、だった。そうか、とアンネは残念そうだ。
ふと、お嬢様たちのいる方から、滝が打ち付けるような音が聞こえた。
「お嬢様!」
リーンは脇目もふらずにクリスの元へ向かう。あっという間に、アンネからは届かない位置へと行ってしまった。
「……やれやれ」
何をしてくれたんだあのお嬢様たちは、とアンネは頭をかいた。訓練自体は、時間をかければ達成できるし、急いでやって、仮に制御に失敗しても、そこまで大事にはならない。
「ちょっと魔力を込めすぎでもしたか?」
大方、クリスにいいところでも見せたかったのだろうと結論付けて、ひとまず思考を打ち切った。
「それにしても、本当に何も覚えていないのだな」
明らかにこの世界に不釣り合いな技術で構成された、リーンの体。『いったい、直してやったのは誰だと思ってるんだ』とアンネは怒っているというよりは寂しそうにつぶやいた。
「まあ、無理に思い出させる必要もないか。現状で戦力は十分どころか過剰気味だ。使う機会だってありゃしない。それに、万が一足りなくなったとしても、我とあいつで埋められる。そうでない敵ならば、どのみち世界が終わるだろうからな」
それに、とアンネは続ける。
「幸せそうなやつにいらんものを押し付ける趣味も、我にはない」
さて、マリーとクリス嬢にタオルでも持って行ってやるか、とアンネは背伸びをしてから、リーンとは別方向へ向かった。
お嬢様、ご無事でしたか! と遠くで声が聞こえた。
なお、お嬢様たちに、暖かいものを、とか着替えを、とか考えているうちに、またアンネが遅れてしまったのは言うまでもない。
 




