一話 『悪い目覚め』
「それはヤベェですわ!」
貴族令嬢クリスティーナ・モーグ、寝起き一番の叫びだった。とんでもない夢だった。成長した自分が処刑されることはともかくとしても、長い長い罪状を自分が行ったというのは貴族である彼女にとって到底ありえてはいけないことだった。さらにその動機はただ一人の少女を手に入れるためときた。その有様で最後に笑うというのは、頭がおかしくなってしまっていたんじゃないかと思う。本当に何だったのだあれは、と頭を抱えた。
そもそも、マリーと敵対することは絶対にない。王家の娘であり、親戚のような彼女はずっと前から、それこそ、生まれた時からの付き合いと言っても過言ではない。だからあれは夢、ただの夢だ。ありえない。
しかし、同時に実際に起こりうるような気もしてはいる。というよりは、なんだか元から知っていたような、今日偶然思い出しただけなような、そんな気がするのである。もう一度頭を抱えた。
少しすると、屋敷のそこらからドタドタと音がする。どうやら、クリスの叫びは部屋だけに収まらなかったらしい。今頃、使用人は大慌てだ。
その中で一つの音だけ、クリスの部屋に徐々に近づいていく。靴音が聞こえる。おそらく、走っているのだろうその音は部屋の前でぴたりと止まった。
バン、と勢いよくドアが開かれた。クリスの部屋に踏み込んだのは、専属メイドのリーン。専属でないときを含めて十年ほどの付き合いであり、クリスの年齢が昨日十三歳になったことを考えれば、非常に長い期間仕えてくれている従者ということになる。最も、容姿だけ見ると会ったときの十八歳程度からなにも変わっていないのが怖いところだ。
「お嬢様!」
いつも無表情で鉄面皮のリーンにしては珍しく動揺した様子だった。メイド服も若干乱れており、走ってきたことがうかがえる。しかし、それもつかの間の出来事だった。主人の姿。窓開け。カーテンの裏。ベッドの下。天蓋。勉強道具が置かれている机。お嬢様の秘密の宝箱。こっそり書庫から持ってきていた本。そんなものの確認を行い、部屋を隅々まで探索すると落ち着いたようで、ほっ、とため息をついた。その後、乱れていた服をさっさと直すと、手の甲で額を拭った。
「どうやら問題はなかったようですね」
「主の様子ぐらい聞いたらどうですの!」
リーンは完全に一仕事終えたような顔していた。が、主の訴えにそれもそうですね、と同意すると、クリスの頬を両手で優しく挟み込んだ。まじまじと見つめられる。しばらくそうしていると、リーンは主の不調? の原因がわからなかったようで、額同士をくっつけた。リーンの端正な顔が眼前に迫った。同性なのに、ドキッとする。
「熱もございませんが……」
「べ、別に体調のことは言ってませんの!」
メイドは、ふふっと笑い、額をはなした。
では失礼、と一礼までしてみせる。すこしイラつくほどに優雅だった。
「では、お嬢様、ご機嫌のほどはいかがでしょうか。お声から察するに、何か尋常ではないことがあった御様子。よろしければこのリーンめにお手伝いさせていただけないでしょうか」
――どうしてそれが維持できませんの……――
クリスは内心あきれながらさっきの夢の話をしようとした。しようとしたが、言葉に詰まった。夢、とはいえ、自分がそうなってしまうかも、なんて一瞬でも思ってしまった悪夢。他人に話しても良いものだろうか。
――いいわけありませんわ! 自分が大罪人になるかも、なんて、たとえリーンであっても――
実際には、言ったところで「ハイハイ大丈夫ですよ、お嬢様がそうなるわけありませんから」と流されるのがオチなのだが、クリスは思い出したような妙な確信のせいで自分が本当に大罪人になるかもしれないと思っていた。それこそ、長い付き合いのリーンでさえ自分を憲兵に突き出すのはないかと疑うくらいには。
言いたいけど言ってしまえば……、とクリスがもごもごしていると、流石のリーンも本当に何かあったのかと思ったようで
「……お嬢様?」
と問いかけた。クリスはハッとした。とりあえず、自分が招いた状況ではあるが、この場をどうにかしなくてはならない。しかし、お嬢様は十三歳になったばかり。今日もメイドに振り回されっぱなしなのにそんなスキルがあるはずもなく。
「な、なんでもありませんわ。ええ、なんでも。とくに夢見が悪かったわけでもなんでもないったらなんでもないですの」
誰がどう見ても、百人が百人「本当に何もなかったのかい?」と声をかけるような反応を返した。お嬢様は嘘が下手だ。声は上ずっているし、目は泳いでいるし、リーンが何も言わなくともなんでもないを連呼している。
従者はそんな主人を初めて見た。大事にしていたカップを割ったことを問い詰めても、ここまで露骨に隠すことはなく、すぐに打ち明けてくれたというのに。はじめの対応を間違えたかもしれないと思った。
「なんでもない、なんでもない」を連呼していたクリスだったが、突然、柔らかな感触に包まれた。感じたのは、ふわふわな布と、それに隔たれたあたたかなぬくもり。手入れの行き届いたさわやかな香りが鼻孔を突いた。リーンに抱きしめられていた。あっ、と声が漏れる。頬もあつくなっていく。
「……お嬢様、申し訳ありません。リーンは判断を間違えたようです。どうか、お嬢様の身に何が起きたのかをお聞かせ願えませんでしょうか」
「そ、そんな大したことじゃありませんわ!えぇ!」
リーンがあまりにも大胆な手段をとってきたので、クリスは照れ隠しに声を張った。このメイドはたまにこういうことをするのだ、ちょっと困る。
「……本当に、そうでございますか?」
ゆっくりと、念を押すようなその問いかけは、でもたしかな慈愛を感じさせる声だった。
リーンは心から心配している。その忠誠を疑う余地はない。しかし、
「問題ありませんわ!」
胸がチクリと傷んだが、夢の内容を知られるよりまし、と主人は嘘をついた。信じられないもの、というのはわかっているが、それでも自分の記憶であったかのような感覚が打ち明ける選択肢を潰していた。
「本当でございますね?」
「ええ、もちろん」
「なら、良いのですが……」
リーンはゆっくりと抱擁を解く。離れていく体温が名残惜しいが、クリスにとっては誤魔化すことが最優先だった。仕方がない。胸がまた痛んだ。
完全に離れきろうとしたとき、リーンがクリスの両肩をつかんだ。しっかりと二人が向き合う。お互いの顔がよく見える。視線が交差する。そのまま離せない。
リーンが慎重に口を開いた。
「お嬢様、なにかあれば、リーンでも、屋敷のものでも構いません。すぐさまお申し付けください。火種が小さいうちならば対処可能なものも、悪化してしまえばどうなるかはわかりません。ぜひ、お早いうちに」
「っだから、大丈夫ですわ!」
かき消すようにクリスは答えた。頬はまだ上気している。
その様子に、渋々、リーンは引き下がった。肩からも手を離した。
今度こそ、主従の体は完全に離れた。
「……では、一度、リーンは報告に行ってまいります。戻ってきたら、お召替えを。本日はマリー様とのご予定がありますので、無駄な時間はありませんよ」
あ、とクリスは思い出した。今朝のごたごたで忘れていたが、マリーと聖女の凱旋を見に行こうという約束だった。聖女は世にはびこる災いである魔獣を払うことができる唯一の人間で、王都から世界各地を周り、再び王都に戻ってくる。しかし、今回の凱旋は代替わりをしたばかりの聖女で、顔も名前もまだわかっていない。だから、今回は特別なのだ。
一体どんな人なんだろう、楽しみだねと昨日話したばかりだったのに。友人との約束をひと時でも忘れるなど、貴族にあってはいけないと教わってきたのに。まさか、親友との約束を忘れるなんて……。
――あの夢さえなければ忘れなかったのに。今日はもうさんざんですわ……――
もう突っ伏して寝てしまいたかった。こんなに疲れるのも、全部夢のせいだ。あと、誕生日後に処刑される悪夢は縁起が悪すぎる。寝なおしたい。とりあえず寝なおして、今日の朝を全部なかったことにしたい。
「……もう一回、眠るわけにはいかなくて?」
「いけません」
無情な宣告だった。