十二話 『こうはなりませんわね』
クリスはいつもより早く目を覚ました。安心して、深く眠ってしまったためかもしれない。
(……トイレ)
寝起きで、まだ眠い眼をこすりながら部屋のドアに向かう。どうやら、使用人たちはもう働いているらしく、耳を澄ませるとパタパタと音がする。
部屋から出て、トイレへと向かう途中で、リーンがほかのメイドと話している声が聞こえた。
「……――ええ、では、そのように手配しましょう」
「ありがとうございます」
「ただ、お嬢様を――」
「わかっています。リーンはお嬢様の専属メイドですから」
「なら、いいのだけれど」
なにか、リーンが頼み事をしているようだった。まだあまり頭が働いていないクリスは、その会話を深く考えることなくトイレへと向かった。
用を足し、自室に戻り、少し会話の内容を考えた。しかし、考えるうちにうとうとして、もう一度夢の中へ旅立ってしまったのだった。
…………リス。クリス」
優しい声音だった。ふんわりと、そして春風のような。
ただ、クリスが知っている人の中で、そういう話し方をする人はいなかったので、誰だろうかと不思議に思った。視線を向けると、銀の髪が視界に入った。
「クリス」
「せ、聖女さま!?」
いるはずのない人がそこにいた。あの日に見た聖女その人だった。
「もう、何回呼んでも起きないんだから」
ぷんぷん、と聖女はその神聖さからは考えられないほどかわいく怒った。
「ほ、本日はお日柄もよく、そ、それを象徴するかのようなく、雲一つない青空が広がっておりますが、聖女さまにお、おかれましてはどのようなご、ご用件でしょうか!?」
クリスの目はぐるぐるだった。どうしてこんなところに、まだ覚悟が、やはりお美しいなど、それらの感情が一気に押し寄せてきた。クリスの頭では処理しきれなかった。ちなみに青空かは確認していない。
「ふふ、へんなクリス」
聖女は可愛らしかった。
「今日は一緒に魔法のお勉強、するんでしょう?」
言われてみれば、そんな気がした。
「そ、そうだったかもしれませんわね」
「そうだったの。ほら、一緒に」
魔法の教書? のようなものを開き、聖女は身を寄せた。クリスはドキドキした。
(ちかい、ちかいですわ!)
「もう、逃げないのっ」
聖女はクリスの体を抱き寄せた。
(ピャアアアアアア!?)
「つかまえた」
ほら、お勉強、しよ?
そうして、聖女はクリスの手を取って……。
「そこまでだ! クリス嬢!」
巨体が降ってきた。土煙が舞った。コホコホと咳をしていると、いつの間にか、煙は晴れてきた。
そうして、姿を現したのはなぜか半裸のアンネローゼだった。
「何をしていますの!?」
わけがわからなかった。どうしてそんな姿なのか、どうして空から降ってきたのか。突っ込む暇はなかった。
「クリス嬢! 今日は我と【神級魔法位階 〜悪魔の呪法を添えて〜】を読む予定だったではないか!」
「なんですのそれは!?」
アンネは禍々しい本をどこからか取り出した。複数。
「なんなんですのそれらは!?」
聖女は舌打ちをした。
「行こう、クリス!」
「どこへ!?」
どこって、もちろん、と聖女。
「二人きりになれる、ば〜しょ?」
そう言うと、彼女はクリスの手を引いて走り出す。普通であれば、クリスは幸せを感じていただろう。普通であれば。アンネが、鬼の形相で後ろから追いかけてきていなければ。
二人は走った。聖女がどのように走っても、不思議とクリスはついていけていた。いつの間にか草原を走っていた。
(ああ、こんなものでなければ……!)
クリスはふと後ろをみた。その体躯と禍々しい気配の本が合わさって、本物の鬼が見えた気がした。クリスと聖女の前方が、小鳥が鳴きそうなほど穏やかなことを考えると、前門の天国、後門の地獄といったところだろう。
「クリス、もっとはやく!」
「もっとと言いましても……!」
聖女に引っ張られている今が、クリスの最高速度だと感じた。背後の禍々しい鬼が加速した気がする。ああ、アンネを止められそうなマリーはいったいどこで何を……。
(クリス、聞こえますか、クリス……)
(マリー!)
クリスにはマリーの声が聞こえた。周辺に気配はなかったが。
(クリス、一度止まってください。そしたら、なんとかしますから)
(本当ですのね!)
(はい、本当です)
クリスは急ブレーキをかけた。
「わ、わ! クリス!?」
聖女が困惑した。
「マリー、はやく!」
パチンとどこかで指が鳴った。その途端、クリスは影に引き込まれた。
「…………う……ん……」
次にクリスがいたのは、玉座の前だった。玉座には、マリーが座っていた。こう、女王様、って感じの格好をして。
「なにをしていますの!?」
「何をって、今日は私と遊ぶって約束したじゃないですか」
照れながら、マリーが言った。格好に照れているなら、一刻も早く着替えるべきだろう。しかし、遊ぶとはどういう意味だっただろうか。とりあえず、手に持っている鞭と剣をどこかにおいてほしい。
「……マリー……。わたしたち、なにをして遊ぶんでしたっけ?」
「そんなの決まっているじゃないですか。クリスの、い・け・ず?」
クリスは逃げ出そうとした。マリーが指を鳴らした。メイドに取り押さえられた。
舌なめずりをしながら寄ってくるマリー。その頬は赤く染まっていた。
「わ、わ、たすけ」
助けて、リーンと心の中でクリスは叫んだ。
取り押さえていたメイドが吹っ飛んだ。
「ゴブジでしょうカ。オ嬢様」
ところどころおかしかった。右腕に大砲のようなものがついてるし、その標準をつけるためか、左目に覆いかぶさるように透明なゴーグルのようなものがついていた。なにか大きいかばんも背負っている。
「オォォォォォォ! クリスゥ!」
空間を割って鬼が飛び出てきた。
「クリス!」
さらに割れて、聖女が出てくる。手には、儀礼で持っていた杖が握られていた。
「クリス? 遊びましょ?」
「オ嬢様。ワタシ、イッショ」
「クリスゥ!」
「一緒にお勉強、しよ?」
「「クリス! クリス! クリス!」」
いつのまにか、クリスの知っている人が集結していた。国王すら、クリスを連呼している。
「「クリス! クリス! クリス!」」
「やめて、やめてくださいまし!」
合唱は止まない。
「「クリス! クリス! クリス!」」
「あー、もう!」
「みんな、みんな相手してあげますわ! だから、それを、」
とめてくださいまし、というところで目が覚めた。口元を拭う。唾液がついていた。熟睡の証だった。
ちょうど、コンコン、とドアがノックされた。お嬢様、とリーンがクリスを呼んだ。
「ちょ、ちょっと待ってくださいませ!」
はい、ではちょっと、とリーンが下がった。冷静になって、ふむ、と今日の夢を考えた。
「ああはなりませんわね」
いいですわよー、とクリスがリーンに合図する。リーンが今朝していた会話のことなど、既に頭から消え去っていた。




