十話 『お風呂とオークション』
しゅる、シュルリと衣擦れの音がする。クリスは涙が止まって落ち着いたあと、リーンとともにメイドから着替えとタオルを受け取り、そのまま湯殿に向かった。クリスを脱がせているのはもちろんリーン。このままお嬢様を洗うことも彼女の仕事である。手慣れた手つきで下着まで脱がせ終わると、今度はリーンが脱ぎ始める。
長年着ているメイド服をテキパキと取り払う。水を垂らしても水滴が崩れないと思わせる玉のような白い肌が披露された。下着を外すと、今度は程よい大きさの形の良い胸があらわになる。
普段なら、リーンを見て、自分の胸に手を当て、悔しそうにするのがお決まりだ。そんなクリスに、リーンがまだまだこれからですよ、と返し、浴場に向かうのだが、今のクリスは多少落ち着いたとはいえ、そんな余裕はなかった。
リーンがクリスの長い金色の髪をゆっくりと丁寧に洗う。クリスの綺麗な髪は、母譲りのものだが、それが今まで維持されているのはリーンのおかげだった。
「……ねぇ、リーン」
湯気のこもった浴場に声が響く。
「はい。なんでしょう。お嬢様」
しゃわしゃわと手は止めない。
「…………なんでもない」
しゃわしゃわ、しゃわしゃわ。
しばらく無言の時間が続いた。クリスの髪を洗う音だけが響いていた。
毛先まで洗い終えたときのことだった。
「……リーンは、なんでわたしに仕えてくださいますの」
「お嬢様がリーンを選ばれたからですよ」
「そうではなくて……!」
確かに、クリスは専属のメイドが欲しいかと言われたときにリーンを選んだ。しかし、リーンがクリスの世話をしているのはもっと前からなのだ。リーンは、ふふっ、と笑って答えた。
「ええ、あの時よりも前にも。お嬢様はリーンを選んでくださいました」
「えっ……」
言葉に詰まったのはクリスである。リーンは、気が付けば一緒にいた。それこそ、リーンのいない記憶を思い出せないくらい、昔から。
お嬢様の本当に小さなときです、とリーンは話始めた。
――そのとき、お嬢様は旦那様に抱えられて、オークション会場に来ていたそうです。話に聞くところには、誕生日のプレゼントを、と王都の品すべてを見せても、お嬢様は欲しいとは一言もおっしゃらなかったのだとか。
そこで、少し教育に悪くても、と一縷の望みをかけて会場に来られたそうです。大陸中の選りすぐりが集まるこの場なら、と。
奴隷だったのか、ですか? いいえ、人身売買の類は行われておりません。そもそも、この大陸では、奴隷、というものは空想の存在になりましたから。
結局、お嬢様のお目にかなう商品はなく、場は淡々と続いていったそうです。モーグ家が参加してるのにつまらない、などと言われていたみたいですよ。
そして、最後にリーンが出品されました。――
「――おとうさま。あれ。あれ、きれい」
モーグ家長女、クリスティーナは、目の前のボロボロの人形――服だけは綺麗に着飾ってあったが――を指し、そう告げた。人にもっとも近い人形との触れ込みで運ばれてきたものだったが、髪は多少整えてあるものの薄汚く、眼は色のない透明なガラス玉のようだった。遠目で見れば人間に見えるかもしれないが、ここからは似てはいても気持ち悪く見えた。
「クリス、あのお洋服なら買ってあげよう」
「ちがう。あれ。あれがほしい」
父は困った。困っているうちに、入札が始まってしまった。なんせ、悪趣味なことこの上ない。そのようなものを娘に買い与えるのは、親としていかがなものだろうか。いや、決めつけるのはまだ早い。クリスは幼い。幼いがゆえに、うまくものをさせていないのかもしれない。幸い、金をかけることが目的の酔狂な人間が入札しているので、まだ時間に余裕はありそうだった。
(内緒で来ちゃったからなぁ)
このあと妻からの大目玉が待っていることを踏まえても、あの人形を買うのは避けたかった。
父は娘にあれかな、これかな、と人形以外のものを提示していく。娘は首を横に振るばかりだ。モーグ家の長女がいるためか、幼い少女がいるためか、熱狂しすぎるものが出ることはなく、比較的淡々と入札が行われていく。今入札しているのはマネーゲームに狂っている者だけだろう。
父はしまいには人形を運んできた手押し車まで指し始めた。当然娘は縦に首を振らない。次第に、入札していくものも少なくなっていった。もう時間は残されていなかった。
父は思考した。クリスの欲するものは王都にはなかった。これから大陸を探すとなると、まず誕生日には間に合わない。しかし、親の意地で誕生日に送りたい。だが、同時に教育上は良くないと親の直感が告げている。
そして、いよいよ、入札者がいなくなった。
入札の現状最高額が声高々に叫ばれる。一回、二回。あともう一度この声を聞けば、あの人形とは二度と会わないだろう。
父は娘を見た。愛らしいわが子は、こちらの葛藤などお構いなしに人形をじっと見つめていた。そして、その小さくも可愛らしい指で人形を指し、もう一度言ったのだ。
「あれ、きれい。ほしい」
視界の端で、人形の目に、紫の光が見えた気がした。
そして、父は手をあげ、到底手の届かないような金額を告げたのだった。
――お嬢様があの時、きれいと言って選んでくれたからこそ、リーンはここにいるのでございます。
そう話は締めくくられた。話をしているうちに体まで洗い終わったようで、リーンは手を止めた。クリスの頭には大量の疑問と少しの納得、そして多大な混乱が詰め込まれた。だから、一番聞きたいことだけを聞くことにした。
「……いったいどうして、動けるようになったんですの?」
「それもお嬢様のおかげでございます」
どうにも、幼いクリスが壊れていると言ったところ、父が王に相談し、宮廷時計技師の目に留まり、直されたらしい。
「どうなってますの……」
クリスは自分が怖くなった。それもそうだが、今考えるべきはそこではない。
「い、いえ! リーンが人形である証拠なんて、な、んて……」
リーンの方へ振り向くと、腕をカポカポと取り外したりくっつけたりしていた。クリスは驚いて、一瞬言葉に詰まった。
「そのつなぎ目はさっきありませんでしたわ!」
クリスは叫んだ。さっきまで落ち込んでいたのが嘘のようだった。
「はい。ですので、これはこうすると……」
リーンが腕をくっつけてからそのままにしておくと、ほんの少しの時間でつなぎ目は見えなくなった。もはや、人間にしか見えない。明らかに大陸の技術ではなかった。
「ふー……。世界って、広いんですわね」
クリスは考えるのをやめた。リーンはリーンだ。それでいいではないか。国祖の収める前のものかもしれないと、ふと浮かんだが、確かめる方法もなかった。
「そうですね……。ああ、そうだ、ここも……」
そう言って、リーンは自分の首に手をかけた。
「そこはやめてくださいまし!」
クリスの元気な声が浴場にこだました。
クリスは髪を束ねて浴槽に浸かった。リーンは自分の体を洗っている。胸を張って主のすぐ後ろを歩くのだ、と自分にも手を抜かない。優秀なメイドである。
「……でも、リーンの話がお役に立てたようでよかったです」
リーンの声は喜色が多分に含まれていた。すこし、いたずらっぽかったかもしれない。あ、とクリスはいつもの自分が戻っていることに気づいた。リーンの奇天烈な機構と父の過去の破天荒な行動に吹き飛ばされていたが、自分は落ち込んでいたのだった。
ただ、もうここからいろいろ考えるのは面倒くさかった。考えても、ろくなことになる気がしなかった。
湯加減もあり、クリスはふーっと気持ちよさげに息を吐いた。そのあと、もう吐き出すことにした。自分の信頼するメイドに、自分の嫌な秘密を。
「ねえ、リーン。わたしのお話も聞いてくれる?」
――約束、破ってしまいましたけれど。
そう付け足しても、リーンはそれを意に介さない。たとえクリスが忘れてしまっていても、幼いクリスがリーンを選んだように、
「はい。もちろん」
主はメイドの特別なのだから。
 




