第89話
「なあリンカ、さっきテラスで俺の前の学校の話してたんだろ?」
隠すことでもないかと沢里の問いに素直に頷く。
「あ、うんごめん。聞かれたくなかった?」
「いやいいんだ。前にも少し話したし。まあその続きなんだけど。俺は前の学校では親のビッグネームのせいで浮いてたんだ。教師でさえ親の顔色を伺ってたせいで、えこひいきだって言われて。親のすすめで入った芸能科の、音楽コース。そこのやつらには本当に嫌われたよ。あまりにも思うように歌えないから、そいつらから逃げてきたって言っても過言じゃない」
やはり大変な思いをしていたのだ。沢里が私のことを慮ってくれたのも、自分の経験からきた行動だったのかもしれない。私は沢里の話に相槌を打ちながら、歩幅を合わせてくれるその横顔を見つめる。茜日が目に染みた。
沢里はふと歩みを止め、私に向き直る。私も沢里をじっと見たまま続く言葉を待つ。
「だからリンカが中学時代のやつらを気にする気持ちもわかる。表舞台に立ってまた負の感情をぶつけられるのが怖いんだ。でもな、俺はそいつらにこそリンカの歌を聴かせてやりたい。リンカはそいつらに潰されてなんかない、どうしようもなく歌を愛して歌に愛されてるんだって、思い知らせてやりたい!」
「沢里……!」
夕日を背負う沢里がどんな表情をしているのか、逆光で見えない。けれどその言葉はストレートに私の胸を打った。沢里の方が私よりも私のことを考えてくれる。いつだって沢里が明るい方へと導いてくれるのだ。
沢里にだって不安はあるだろう、辛い思いをしてきただろう。なのに自分のことは後回しにする。そういう人間なのだ。もうとっくに理解している。
そんな沢里のために、私も一歩踏み出したい。
「私も同じだよ、沢里。沢里の前の学校の人たちに、沢里の歌を聞いてほしい。親の名前なんかなくてもすごいんだって、分からせてやりたい。だから私、私は……」
勢いでそこまで言って息を吸う。これからは呼吸すら沢里に頼ることになる。それでも私はやり遂げたいと思った。思わされてしまった。沢里の強い力に引っ張られて、私という存在がどんどん形を変えていく。
「私、沢里のために歌うよ。沢里が私のために歌ってくれるように」
そんな在り方でもいいんだと思った途端、体の力が抜ける。音が私の周りを取り囲んで、音と音が繋がる。一小節、二小節とどんどん鳴り響き、鼓動がリズムを刻んでいく。
私は歌が好きだ。誰かと合わせて歌う歌も、誰かのために歌う歌も。それを思い出させてくれたのは他の誰でもない沢里だった。
気付くと沢里の両手が私の頬を挟んでいる。見えるようになったその表情は酷く真剣だ。
「いいのか、リンカ」
「うん、今度は私から言わせて。沢里……私と一緒に歌ってほしい!」
沢里の目を見つめて言うと、次第に沢里の目が潤んでいく。また泣かせてしまったかと一瞬焦るが、沢里はそのままがばりと私の肩に顔を伏せた。
「うん」
それは今まで聞いた沢里の声の中で一番小さくて、そして一番嬉しそうな声だった。




