第86話
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「もう、せっかく初春のお友達が来てくれたのにいきなりスタジオに引っ張って行っちゃうんだから」
ふわりと微笑むその姿は女神のよう。沢里はお母さん似だなと思いながらいい香りのする紅茶を頂く。
お洒落なお茶請けに混ざって私の作ったアップルパイが並ぶのを複雑な気持ちで見つめていると、沢里のお母さんはまたふわふわ笑う。
「初春がお友達を家に連れてくるなんて小学校の時以来。仲良くしてくれてありがとうね」
「あっいえこちらこそ沢里くんにはお世話になりっぱなしで。今日はsawaさんに相談したい事があって、お邪魔しました」
「そうだったの。最近あの子がよく笑うのはきっと凛夏ちゃんのおかげね」
パステルカラーのマカロンを頬張りながら私は首を傾げた。沢里はいつも笑っている気がする。そう告げると沢里のお母さんはまん丸の目をさらに丸くする。
「そう……なら初春は転校して正解だったのね。少し心配していたの。新しい学校では上手くやれてるのか」
転校。その言葉を頭の中で反芻する。確かに沢里は時期外れに現れた転校生だった。口の中に貼りつくマカロンに苦戦していると、沢里のお母さんは宙を見つめて話し続ける。
「前の学校は芸能科のあるところでね。セキュリティもちゃんとしているから中学受験させたんだけど……お父さんがあれだし、悪目立ちしちゃったみたいでね。なにをしても親の七光りだって文句を言われて、嫌な思いをしていたんだと思う」
ごくりとマカロンを飲み込む。そんな話を沢里もしていた。ただの沢里初春として歌いたい、その望みを叶えるために沢里は勇気を持って自ら足を踏み出したのだ。きっと大変な決断だったと思う。すごく悩んだだろう。
たった一人で新しい世界に飛び込んだのだ。変わりたいという願いを叶えるために。
それに比べて私は中学時代の悪夢から目を逸らし、楽になろうと一人で歌うことを選んだ。
それではどうにもならないと分かっていたのに。




