第85話
私はすごすごと戻ってくる沢里の二の腕をがしりと掴み、高い位置にあるその顔を思い切り見上げた。
「沢里! お願い、力を貸して。私息もれを治したい!」
「うおっ」
「特訓に付き合ってください!」
「……俺でいいんだな? だってずっと顔見て歌うんだぞ?」
「首が痛いのくらい我慢する!」
「そうじゃなくてさあー……ああもう。もちろん協力するよ」
「ありがとう!」とその両手を勢いよく掴むとまた沢里はぶつぶつとなにか言い始めた。上手く聞き取れずに耳を寄せようとすると逃げられてしまう。
息もれを治す道が見えた。私はそのことにひたすら安堵する。これから沢里と言われたように特訓をし、一曲歌いきれるようになりたい。いや、必ずなる。
心の中で決意していると、視界の端にまた一人スタジオに入ってくるのが見えた。
「ちょっと、二人とも! テラスで待ってるって言ったでしょう?」
ゆるいパーマがよく似合う小柄な女性だ。よく通る声が沢里親子に向けられたと思ったら、彼女は私を見つけて目を輝かせ始める。
「あなたがお友達ね? いらっしゃい、駅から歩かせちゃってごめんなさいね。疲れたでしょうお茶にしない? テラスに紅茶を用意しているの。まったくうちの男衆は気が利かないんだから。あらこれわざわざ持ってきてくれたの? 気にしなくていいのにありがとうね。ええとお名前は確か――」
「い、五十嵐凛夏です」
「凛夏ちゃんね!」
ゆるふわな見た目とは裏腹によく回る口だ。かろうじて名乗ると沢里が慌てて私たちの間に入る。
「母さん! 急に詰め寄るなよ!」
「えっ沢里のお母さん?」
横に並ぶと姉弟に見えるほど若い。素直にそう言うと沢里のお母さんはにっこり笑う。その笑顔は沢里とそっくりだ。
沢里のお母さんは沢里の抗議に耳も貸さず、私の手を取ってスタジオの外へと連れ出そうとするので、思わず沢里に助けを求める。
「ええと、どうしようか沢里」
沢里が返事をする前にsawaさんが「行ってらっしゃい」と手を振った。
「じゃあ俺も」
「待て春! さっきのふぬけた発声はなんだ! もっぺん歌え!」
「急に歌わせるからだろ!」
唐突に始まってしまった親子の言い合いを止める暇もなく、私たちはスタジオを後にしたのだった。




