第40話
沢里の長い指が鍵盤に乗る。差し込む夕日が影を作り表情は見えないが、その絵になる光景に思わず目を細めた。
沢里のことを好きになる人は、どんなところに惹かれるのだろう。やはりステータス? 屈託のない笑顔や、気さくな性格だろうか。
私には笑顔や性格よりも、今この時が一番魅力的に見える。彼のこの姿を知らないのはもったいない。今こうやって真剣に音楽に向き合っている姿を世界中の人に見てほしいような、独り占めしてしまいたいような、不思議な気持ちがせめぎ合う。
「これで合ってる? おーいリンカ?」
「――あ、うん! 続けて」
声をかけられて我に返る。ピアノを弾く沢里の姿に見とれていた、なんて。私はよほど疲れてしまっているに違いない。
繰り返されるコードに乗せて、メロディーを口ずさむ。時々止めて、五線譜に写し、また歌う。沢里は文句も言わずに黙ってピアノを弾く。作業的だと思いながら、どこか心が解けていくのを感じた。
「Just The Two of Us」
「え? ……それ」
沢里が呟いた英語に、私は聞き覚えがあった。ピアノを弾きながら、沢里は穏やかに笑っている。
「このコード進行。『Just The Two of Us』って呼ばれるジャズのコードだな。リンカ、ジャズも好きなのか?」
「――あ」
そう、それだ。父が教えてくれたこのコードの名前。小さい頃に母が好きだったジャズシンガーの曲に使われていた。大切な名前を取り戻したような気分に、胸が熱くなる。
「Just The Two of Us。――うん、そう。私の思い出の音なの」
「……そっか」
沢里はそれ以上なにも言わなかった。ピアノの音につられて、引っぱられて、驚くほど五線譜が埋まっていく。まるで魔法にかかっているようだ。
『もう沢里くんに近づくなよ』
そんな呪いの言葉さえ、かき消してしまうような。
「……【linK】のバックコーラス、やってみる?」
「え!?」
今日の私は絶不調。おまけに、頭に浮かんだ言葉がそのまま口に出てきてしまうポンコツだったらしい。
「やりたい!」
それはアンチの思い通りになりたくないという反骨精神からなのか、あるいは柔らかなピアノの音に心を動かされてしまったからなのか。
分からないままに私はまた不器用な一歩を踏み出したのだった。




