02 「バナナトースト」
「え?」
薫さんが振り向いた。
彼が手にしていたバナナトーストがあんまりおいしそうだったから、それを食べたいとねだったついでに、初めて名前で呼んでみたのだ。
十歳も年上の男の人。そんな人の名前を呼んだことなどなくて、心臓がバクバクした。
私は慌てて、両手を振る。
「……駄目、でしたか?」
「バナナはあるが」
「そっちじゃなくて」
薫さんが薄く笑う。
「駄目じゃねえけどな」
あ、と思う。慣れている。そう思った。
女性から好意をよせられるのに、慣れている。それでいままで結構迷惑してきた、そういう顔をしていた。
私はまた慌てて「薫さん」と呼びかけた。
拒絶されてもいい。彼の負担にはなりたくない。
だけど──呼びたい。『薫さん』って呼びかけたい。やっと──はっきりした自分の気持ち。その相手が目の前にいる。いまはただ、呼びかけるだけで十分。それ以上は求めていない。だから。
私はそっと深呼吸をする。震えた声になったらもっと薫さんを困らせちゃう。
「バナナトースト、楽しみです」
薫さんの顔がやわらぐ。
さすが。機敏に私の意図を察してくれた。
「すぐにできるから座って待っていろ」
カウンターのスツール椅子を指さされて、私は「はい」と返事をする。
*
それから、どれくらい薫さんのいるカフェへ通っただろう。
いつもほかに客はおらず、薫さんがひとりで私を迎えてくれた。
薫さんとの二人きりの時間。これ以上ないほど、穏やかで上質な時間。
カフェの扉を引くと必ずごはんを出してくれる薫さん。
メニューは選べない代わりにほとんどただ同然。
ビーフシチューにオニオンスープ。野菜たっぷりタコライスに鍋焼きうどん。
おみやげに毎回大きな塩むすびまでくれた。
トマトソースがたっぷりかかったハンバーグに半熟目玉焼きなんてついていたら、本気で泣きそうになった。
ここへ来るまで、時間にすると小一時間前まで、洋治郎たちに名前を呼ばれ続けていたのが嘘みたい。
──穂鳥、北二十四条の避難所で断水だって。この寒空にバケツリレーなんてしたら、またみんなの不満爆発だよ? どうする?
──穂鳥、後志にいった連中がまだ戻らない。このドカ雪で足止めくらったみたいだ。応援を出す? どうするの?
──穂鳥、樽前山近辺で小さい地震が頻発。火山性微動かな。火山屋の教員に調査依頼する? ああでも、あのひと大雪山いってるんだ。どうしよう。
穂鳥、穂鳥、穂鳥──。
少しは自分で考えてとはいえずに私は疲労困憊。
それが、薫さんのごはんを食べるとみるみる癒えていく。身体に力がみなぎるだけじゃなくて、気持ちまで潤うのがわかる。
こんなふうに私は薫さんに救われてばかり。
たとえここがカフェだろうと、あまりに一方的で申し訳なくて。
なにかできないかと薫さんを見るけれど、薫さんは穏やかな笑みを浮かべるばかりだった。
くすぐったそうな笑み。
私の隣のスツール椅子に座って、薫さんは満足そうに私が食べるのを見ていた。
それを見るのがとても好き。もっともっと笑ってほしくて、私は彼のごはんを目尻をさげてたくさん頬張る。
だけど──。