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ふれたい唇  作者: 天川さく
2/7

02 「バナナトースト」


「え?」


 薫さんが振り向いた。

 彼が手にしていたバナナトーストがあんまりおいしそうだったから、それを食べたいとねだったついでに、初めて名前で呼んでみたのだ。

 十歳も年上の男の人。そんな人の名前を呼んだことなどなくて、心臓がバクバクした。

 私は慌てて、両手を振る。


「……駄目、でしたか?」

「バナナはあるが」

「そっちじゃなくて」


 薫さんが薄く笑う。


「駄目じゃねえけどな」


 あ、と思う。慣れている。そう思った。

 女性から好意をよせられるのに、慣れている。それでいままで結構迷惑してきた、そういう顔をしていた。

 私はまた慌てて「薫さん」と呼びかけた。

 拒絶されてもいい。彼の負担にはなりたくない。

 だけど──呼びたい。『薫さん』って呼びかけたい。やっと──はっきりした自分の気持ち。その相手が目の前にいる。いまはただ、呼びかけるだけで十分。それ以上は求めていない。だから。

 私はそっと深呼吸をする。震えた声になったらもっと薫さんを困らせちゃう。


「バナナトースト、楽しみです」


 薫さんの顔がやわらぐ。

 さすが。機敏に私の意図を察してくれた。


「すぐにできるから座って待っていろ」


 カウンターのスツール椅子を指さされて、私は「はい」と返事をする。



 それから、どれくらい薫さんのいるカフェへ通っただろう。

 いつもほかに客はおらず、薫さんがひとりで私を迎えてくれた。

 薫さんとの二人きりの時間。これ以上ないほど、穏やかで上質な時間。


 カフェの扉を引くと必ずごはんを出してくれる薫さん。

 メニューは選べない代わりにほとんどただ同然。

 ビーフシチューにオニオンスープ。野菜たっぷりタコライスに鍋焼きうどん。

 おみやげに毎回大きな塩むすびまでくれた。

 トマトソースがたっぷりかかったハンバーグに半熟目玉焼きなんてついていたら、本気で泣きそうになった。


 ここへ来るまで、時間にすると小一時間前まで、洋治郎たちに名前を呼ばれ続けていたのが嘘みたい。


──穂鳥(ほとり)、北二十四条の避難所で断水だって。この寒空にバケツリレーなんてしたら、またみんなの不満爆発だよ? どうする?

──穂鳥、後志(しりべし)にいった連中がまだ戻らない。このドカ雪で足止めくらったみたいだ。応援を出す? どうするの?

──穂鳥、樽前山(たるまえさん)近辺で小さい地震が頻発。火山性微動かな。火山屋の教員に調査依頼する? ああでも、あのひと大雪山(たいせつざん)いってるんだ。どうしよう。

 穂鳥、穂鳥、穂鳥──。

 少しは自分で考えてとはいえずに私は疲労困憊。

 それが、薫さんのごはんを食べるとみるみる癒えていく。身体に力がみなぎるだけじゃなくて、気持ちまで潤うのがわかる。

 こんなふうに私は薫さんに救われてばかり。


 たとえここがカフェだろうと、あまりに一方的で申し訳なくて。

 なにかできないかと薫さんを見るけれど、薫さんは穏やかな笑みを浮かべるばかりだった。

 くすぐったそうな笑み。

 私の隣のスツール椅子に座って、薫さんは満足そうに私が食べるのを見ていた。

 それを見るのがとても好き。もっともっと笑ってほしくて、私は彼のごはんを目尻をさげてたくさん頬張る。


 だけど──。



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