01 「塩むすび」
どうしよう。
その指先にふれたくて、唇にふれたくて。
──じりじりする。
*
おむすびを頬ばる。
食べなれた薫さんの塩むすび。
しっかり利いた塩が口いっぱいに広がって、いつになく身体に、ううん、心にしみて。
ぽろぽろと涙がこぼれた。
どうして私、泣いているんだろう。
洋治郎のことをあきらめたから?
じわりと気持ちが胸いっぱいに広がっていく。
違う。
まばたきをする。なんど目を開いても浮かぶのはただひとり。
薫さんだけ。
少しのびた顎鬚。うしろでひとつにたばねた黒髪。がっしりした身体つきに、胸元から膝までの長くて黒いギャルソンエプロン姿。
はっきりとした大きな瞳に力強い眉。細く伸びた顎にうっすらと髭が伸びて。いつだって少し呆れたような顔つきで長い指で顎鬚にさわる仕草。
その顔つきとは裏腹に、まったくの他人事の私の話を真剣に聞いてくれて。
薫さんの遠くを見るまなざし。長いまつげ。整った鼻筋。
それから──ごはん。
薫さんが出してくれたごはんはどれも、しみじみと美味しかった。ついついたくさん食べたくなる味わい。
それから、それから。
ああそうか、私。
いつから?
カフェのカウンターの奥から顔を出した薫さんを思い出す。本気で心配していた、あの顔つき。
──そうだ、はじめて会ったあの日から私は薫さんが。
*
カフェの噂を聞いたのはいつだったかな。
──白塗りの壁にグレーがかった木の扉なんだって。
──何時間いてもよくて、すっごくクールな雑貨とかもあってお茶もおいしいらしくて。
──でもね。
──そのカフェに入ると、別人みたいになるんだって。
のんきそうな声だったから、多分、まだ地震が起きる前。世界が穏やかだったころ。
まさかマグニチュード8クラスの地震が毎月あって、火山もあちこちで噴火して、日本だけじゃなくて世界中の人が被災するだなんて思ってもみなかった。
でも、起きちゃったし。それでも世界は終わらないし。
だから必死で生きていくしかなくて。
私は大学ではじめていた被災者ボランティア活動に加わった。ボランティアセンターというより救助センターみたいなところ。だって私はもちろん誰もが被災者だったから。
おまけに代表の教授が相次ぐ地震で緊急会合から戻れなくなって、その代理をするはめにまでなって、ただただ必死の日々が過ぎていて。
そんな中でカフェがやっているなんて思いもしなかったのだけれど。
噂どおりにあったカフェには、ギャルソンエプロン姿の薫さんがいた。