恋擬
その時、陽はもう大分西に傾き、校舎の窓からは西日が射していた。
ある月曜日のこと、廊下に、同級生に見える少女が立っているのを知ってか知らずか、はたまた西日が眼に痛いからなのか、目つきの悪い少年は廊下を足早に通り過ぎようとしていた。それだけではただの日常なのだが、彼らの間にはどことなく気まずいような雰囲気があった。
さて、少年が丁度そこを通り過ぎようとした時、少女が何の前触れもなく口を開き、一言言ったのだ。
「……隆史君、この前の話についてなんだけどさ――」
それは、つい昨日の夕暮れ時の事だった。
――木曜の朝、前触れの無いいきなりの要求に、少年は動きを止めた。
しかしそれも無理はないだろう。その要求とは、『十日間だけ付き合って欲しい』という物だったのだから。だからそう言われた彼は最初、言われた意味が全く分からずに、まるで阿呆のような声を出すばかりだった。
すると、返事にすらなっていない彼の態度を見て、彼女は、無理もないか、とでも言いたげな表情を作って言う。
「じゃあ、明日のこの時間、ここで待ってるからね」
そう言って少女は、廊下を走り去って行った。それは少年にとってはまさに夢のような出来事であった。いや、ぜひとも夢であって欲しい出来事だった。
その翌朝、つまり金曜日に登校した直後のこと、少年は、その場所で再びあの少女と出会った。そして少女は少年に、『返事』を求める。しかし生憎、彼はその返答について全く考えていなかった。丁度この時彼女を廊下で見かけるまで、あの出来事はただの夢だったのだ、とまで思っていたというのだから、それが当然とも言えるだろう。
それもさらに悪いことに、彼女はとても容姿が良かった。俗に言う美少女なのである。そしてそれがさらに拍車をかける形になり、彼はその出来事をただの夢だとしか考えなくなっていた。
しかし、夢だったのだろうと考えていたというのに、一応確認がてら来たのだから、良く言えば律義、悪く言えば臆病者である。
彼女の話は続く。
「で、協力してもらえないかな……? えっと、桐島くん、だよね?」
全く、名前もよく知らないのに交際を申し込むとは。彼は、彼女にそう言ってやりたい気持ちをグッとこらえ、その理由と、彼女の名前を尋ねた。
どうやら彼女の名前は鈴木香凜で、十日間の交際を望む理由は、ただ単に、家族に恋人がいると見栄を張ってしまい、家に連れて来なければならなくなったから、という物のようだった。それを聞いた彼はもちろん、見栄を張っていたことを白状し謝ることを勧めたのだが、彼女はそれを聞かず、彼に、彼女自身の恋人役になることを望んだ。
元来彼は、人の頼みを断るという事が苦手で、結局は彼女の頼みを受け入れてしまった。要するに、『ノー』と言えない典型的な現代日本人なのだ。その上、実は彼自身も恋愛経験がないことを自分の弱点だと思い込んでしまっていたため、一度だけ形式上は断りかけたものの、すんなりと受け入れてしまったのだった。
こうして、彼にも恋人ができたわけである。もっとも、十日間限定な上に、先程まではお互いの名前すら知らなかった程度の仲なのだが。
彼は、これからの設定を決めておこうと彼女に持ち掛けたが、いつの間にかすでに日は沈み、下校時刻が近づいていた。そこでとっさに機転を利かせた彼女が、彼に持ち掛けた。
「あのさ、メール交換しよう!」
……と。
その日の夜、彼は、彼女とメールを送りあい、仲良くなる、というくだらない妄想をしてから床に就いた。結局のところ、彼らの仲はそう変わるものではないのだろう。
翌朝少年が目を覚ますと、枕元で彼の携帯が振動していた。どうやら、何者かからメールが届いたようだ。それくらいは寝起きの彼にでも十分わかったため、彼は携帯を持ち上げ、電源ボタンを軽く押し、メールを確認した。無論、送り主は彼女――香凜だった。
そのメールの本文には二人の設定が書かれていて、その内容を簡潔にまとめると、数年前に町で知り合った二人がメールのやり取りで仲良くなり、交際を始めて今に至る。というような内容だった。彼の心中には、その設定について何かと不満が残ったが、彼はそれを口にはせず、ましてやメールで伝えることもしなかった。それはただ単に、自分で考えるのが面倒だったというだけである。ましてや彼にとっては、あと九日間が乗り切れればその後のことはどうでもいいのだ。凝った設定など必要がない上に、別に相手側の家族からどう思われようが気にしていなかった。
時は流れ、もうすぐ正午になろうかという時、少年の携帯にメールが届いた。送り主は、無論香凜である。本文を見る限り、彼女は、駅で彼と待ち合わせをしたいらしい。『目的は不明だが、とにかく行こう』その考えが彼を動かした。決して彼女に会いに行きたいわけではなく、今朝のメールについて話す必要があるから、という理由だという点が残念だが、彼は駅に向かった。
彼は駅に着いたが、そこに彼女の姿は無かった。どうやらまだ来ていないようだが、しかし彼には好都合であった。なぜなら彼は、他人に自分から話しかけたことがないからである。遅れてきたのであれば、きっと相手側から声を掛けられるだろう。
持参した本を読みながら待つ事三十分。その時彼は、『実は自分は騙されているのではないか』と考え出していた。
もしかすると今頃彼女は、自分が彼女に騙され、今もこうして待っているという事を嘲笑っているのかもしれない。そんな風に考えたのだった。しかし、別段悲しくはない。どこか知らないところで笑いものにされたりする事は一向に構わない。そう、彼は思っていた。するとそこに彼女が現れた。いつも通りの軽い調子で、「ごめーん、待った?」と言う彼女の声に拍子抜けした彼は答える。
「……あぁ、待ったぞ。大体三十分くらいな」
期待外れの回答を受けた彼女は一瞬固まったが、またすぐにいつもの軽い調子を取り戻し、言った。
「いやいや、そこで正直に答えちゃダメでしょ……、ほら、デートなんだからさ!」
なんと理不尽なのだろうか。先程まで考えていた悪い妄想を忘れて彼はそう思ったが、口には疎か、顔にもそんな感情は一切出さず、この後の予定を聞いた。すると彼女は、「え、デートコースくらい考えてよ……」と愚痴をこぼした。だが生憎、彼は今日することがデートだ、などという事は先程まで知っておらず、そもそもデートとは何なのか、あまり理解してはいなかった。
結局その日は彼女の案で買い物に行くことになった。彼にとって、その選択は比較的楽なものだったため、すんなりと承諾した。
何をするのか決まったところで、彼は彼女に言った。
「じゃあ、俺はホームセンターにでも行ってるから、買い物終わったら電話してくれ」
何気なく言ったその言葉に、彼女が答えた。
「あ、じゃあ携帯の番号教えて」
彼らは、互いの携帯の番号すら知らなかったのである。
彼女にそう言われた彼は、自分の携帯を手渡した。別に見られて困るようなものはなかったのだから、そのほうが合理的だ。そう判断したのだが、彼女は驚いていた。まさか彼女も、携帯ごと渡されるとは思わなかったのだろう。
彼らは携帯の番号を交換し終え、彼がホームセンターへ向かおうとしたその時、彼女が言った。
「いや、待って。なんで初デートで別行動しようとしてるんだ私たちは?」
――盲点だった。
その日は買い物をして終わり、数時間にもわたり荷物持ちをさせられ酷く疲弊した少年は、家に帰るなりすぐに寝てしまった。
そして月曜日。
この国、いや、この世界の大半の人々が憂鬱であろうこの日、いつものように少年が登校すると、いつもと違い、クラスメートの女子に突然話しかけられた。それまでになかった突然の出来事に彼は驚いたが、落ち着いてそのクラスメートの言葉を聞いた。
「桐島君さ、香凜と付き合ってるってホントなの?」
どう答えればよいのだろうか。彼は一切表情を変えずに悩み始めた。確かに付き合ってはいる、が、今日を入れて七日後には別れると決まっている。そんな状況で、果たして周りに知られて良いのだろうか。
わずか一秒、しかし彼にとっては永遠にも思えるほどの時間悩み、その結果彼はその問いに、「一緒にいることはあるが、決して付き合っているわけでは無い」とだけ答えた。その否定を表す返答に満足した様子のクラスメートは、彼の席から離れて、元居たグループの会話に戻って行った。
そして昼休み、彼は弁当を持ってきていないため、いつものようにコンビニに行こうとすると、香凜がそれを阻んだ。何がしたいのか、彼がそう聞くと彼女は、「お弁当作ってきたから、一緒に食べようと思って」と答えた。すると彼はその言葉を聞くが早いか、ぶっきらぼうに「……用件はそれだけか? じゃあ食いに行くぞ」と言い歩き出す。後から彼女が追いかけ、二人は校舎裏の階段の前まで来ていた。
彼曰く、そこは風通しが良い上に日陰になっているため、昼食を摂る場所としては一番適している穴場らしい。
その後昼食は何の問題もなく終わり、さらに彼女が料理上手だという事を発見した上、食費も浮いたのだから、彼にとっては良いことだらけだった。しかも、彼の胃袋はたった一食で掴まれてしまったようで、彼はいつの間にか、彼女がまた明日も弁当を持ってきてくれないか、などと、今までの彼なら考えられないような期待をしていた。
翌日、火曜日の昼休み。
少年――桐島隆史はまた、少女の作った弁当を食べていた。前日と比べ、心の余裕があり、かつ彼女が彼を誘うことに全く躊躇せず、昼休み開始のすぐ後に誘ったこともあり、前日と比べて、食事後の時間に余裕ができていた。そのためだろうか、彼女が彼に言った。
「あのさ、あと六日しかないんだし……そろそろ、名前で呼び合わない?」
当然とも言える考えだ。確かに名字で呼び合うというのは、この年齢だと他人行儀に見られてしまう。大人ならまだしも、彼らはまだ子ども。名前で呼び合ったほうが自然だ、とも言えるのだ。彼はそれを承諾した。ただし、条件を付けて。
その条件とはとても簡単なもので、クラス、すなわち教室内や、他の同級生の前では今まで通り名字で呼び合い、会話は最低限に留める、というものだった。彼らはその条件のもとでは、必ず互いを下の名前で呼び合う、つまり、今いるこの場所では、絶対に名前で呼び合わなければいけないのだ。しかし彼がそれに気付いた頃には時すでに遅し、当たり前だがもう既に、条件は決まった後だった。
その時、彼女が口を開いた。
「で、隆史君。次の土曜日と日曜日の事なんだけど――」
彼女曰く、次の日曜日、二人は彼女の家に行く、という予定になっているようだ。そのためその前日の土曜日、彼女は彼と最後の準備をしたいのだそうだ。準備というものがどのようなものなのか良くわからないまま、しかし六日後には終わるのだから、彼はそれについても全て承諾した。
さらに翌日、水曜日の事。
隆史が登校すると、彼の席の前には、一人の少女――鈴木香凜が居た。彼女は彼の姿を見付けると、彼の席の前から、その席の持ち主の前、つまり隆史の目の前に来た。気が付くと目の前に美少女が居たのだから、小心者の彼にとってはただの恐怖体験でしかない。自分は何かしてしまったのかと考え、社会的な死を覚悟する程であった。
しかしその美少女が香凜だと気づいた瞬間、彼は落ち着きを取り戻し、いつも通りの対応をした。
「……一体何の用だ?」
一見冷たくも見えるその対応だが、これは彼なりの優しさである。あえて内容を先に聞くことで、相手の話しやすい環境を作ることが出来る、と彼は思っているのだ。もっとも、実際には彼の目つきの悪さも相まって相手を萎縮させるだけなのだが。
だが、彼女はその対応に全く臆すことなく、それこそ彼の思いやりに応えるかのように自然と返答した。
「あのさ、今日は一緒に帰らない? 駅前のお店に用があって……」
その頼みには、彼にとって何のデメリットもなかった。駅は彼の帰り道にあり、かつ彼もその日の放課後は暇だった。そのため彼は、何を悩むこともなく承諾した。昼食のお礼という大義名分もあるため、彼が承諾したことにも頷けるだろう。
やはりその日の昼休みも彼らは、彼女の作ってきた弁当を食べていた。彼女はそれで楽しいのかどうなのか、彼にはあまり良くわからなかったが、顔を見る限り苦痛ではないように見えたため、気にせず昼食を摂っていた。
その時彼は、放課後の話ならこの時にしたら良かっただろうに、などというようなことを考えたが、口には出さなかった。
そして放課後、ホームルームが終わった瞬間、彼女は彼の席までやってきて言った。
「よし、じゃあ帰ろう!」
その瞬間、クラスの空気が一瞬固まり、そしてざわつき出した。その空気を感じ取った彼女は、彼を連れて教室から逃げるように去って行った。
その後彼女が彼に叱られたのは言うまでもないだろう。しかし、その叱り方はやけに優しく、それが原因で彼女が悩むなどといったことはなかった。どうやらこれも、彼なりの思いやり、優しさのようだ。
彼女の言った『駅前のお店』とは、先週の土曜日に行った所のようだった。どうやら土曜日に、水曜日に卵の安売りがある、という事を知ったらしい。さらに、その卵は一人一パックまでしか買えないのだ。それ故に彼女は、彼を誘った。
そんな理由を聞いた時彼は正直、『オカンだ……』と思ったが、決して口には出さず、顔にも出さないように努力していたらしいが、なかなか仕様もない努力である。
そうしてその日の放課後もまた、土曜と同じように買い物をして終わるのだった。内心彼は、終始何かが起こることを期待していたが、彼が期待するようなことは起こらず、本当にただ買い物をしただけに留まったのだった。
そして店から駅までの短い道中、横並びに歩きながら彼は彼女に聞いた。
「なんで香凜はわざわざ俺を連れてきたんだ? 卵なら一パックでも良いだろ?」
そんな彼の質問に対する彼女の答えはいたって簡単なものだった。
「え、いや、この関係は日曜日には終わっちゃうけど、お弁当は私が勝手に作ってるだけだから、月曜日からも隆史君のお弁当を作るため……だよ」
その返答を聞いた彼は気恥ずかしさ故かとっさに顔をそらした。するとその反応を見た彼女もまた、自分の発言に恥ずかしくなったようで、同じように顔をそらした。
しかし気付くと、彼の歩調は大分ゆっくりになっていた。まるで彼女に合わせるかのように遅くなり、彼らはゆっくりと歩いて行った。
その翌朝、木曜日。
二人の関係の残り時間も、その日を入れて僅か四日程になってしまったが、隆史が登校したとき、教室内に香凜の姿は無かった。彼はいつも始業の五分前に教室に到着しているため、その時間に教室に居ないという事は、トイレにでも行っているか、もしくは欠席、または遅刻だ。彼は特に気にせず、一時限目の準備を始めた。
その日の昼休み、彼女はまだ学校に来ていなかった。いつもの場所に行ってみてもそこにもやはり彼女は無く、彼は一人で昼食を摂った。
五日ぶりに食べたコンビニの惣菜。彼は、昨日までの三日間、当たり前のように食べていた彼女の弁当のありがたみを、改めて実感することになった。
その日の放課後、彼は彼女の事が急に心配になってきたようだった。彼は彼女にメールを送った。「どうした? 何かあったのか?」と。返信はすぐに返ってきた。彼女はどうやら風邪で寝込んでいたらしい。彼は、彼女の家へ見舞いに行こうか、などと彼らしくない事も考えたが、如何せん彼は彼女の住所を知らなかった。
するとその時、彼の目の前を、数人の女子クラスメートが通り過ぎようとした。そのうちの一人は、何やらプリントのようなものを持っていて、「なんで私なんだろう、桐島君に頼めばいいのに」というような愚痴をこぼしていた。そんな発言に対して他の女子が、「まぁまぁ、私たちもついていくからさ」などと返している。それを見た彼は、小心者なりの勇気を出して彼女らに話しかけた。
「本来俺が頼まれるべきことだ、と言うんなら、何か俺にできることなんだろう、手伝わせてくれないか?」
彼の狙いは、香凜と仲が良いであろう女子クラスメートを助け、住所を教えてもらう、という、あまりにも単純で安易な物だった。
彼の問いに対して、彼女らの内の一人――先程愚痴をこぼしていた者が答えた。
「え、いや、あのね、このプリント香凜に届けなきゃいけないんだけど、私この後は用事があってさ……」
きっと嘘だ。行けないのではなく、ただ面倒なだけなのだろう。彼はすぐに気付いたが、あえてそれを口にするようなことはせず、ならば住所を教えてくれれば自分が届けに行く、というようなことを言った。すると彼女らはその答えに対して、『住所は知らない』と返した。
しかしまだ話は続いている。
「住所は知らないけど……そこの角を曲がってずっと前に歩くと、突き当り正面に香凜の家があるよ」
彼女らの内の一人がそう答えた。それを住所というのだが、細かいことは気にしていられない。だから彼は、ただ一言礼を言い、プリントを受け取って香凜の家に向かった。
――ここが香凜の家か……。
彼女らに言われた通りに道を進むと、確かに表札に『鈴木』と書かれた一軒家があった。彼がインターホンのスイッチを押すと、数秒後に女性の声がした。
「鈴木香凜さんのご自宅でしょうか、プリントを届けに来たのですが」
そう言うとその女性は、「あら、わざわざどうもありがとうございます。今出ますね」と言って、通話を切った。そしてまた数秒後、玄関の扉が開き、おっとりとした印象を受ける女性が出てきて、彼の顔を見て言った。
「あら、もしかしてあなたが隆史君?」
「はい、そうですが」
彼はそう答えた。
「じゃあ、あなたが香凜の彼氏さんね?」
その女性が興奮気味に言った。その問いに彼は答える。
「はい、俺がその彼氏です。ところで、香凜さんのお姉さまですか?」
遠回しに『若く見える』とお世辞を言うつもりで彼は言った。すると彼の狙い通りその女性は、「お姉さまだなんて……そんなに若くないわよ? 私、香凜の母ですもの」と返してきた。そこで彼は、「失礼、あまりにも似ていたもので。香凜さんはお母さん似なんですね」と言うのだった。もはや定型文とまでいえるこの文章は、彼にとっても扱いやすかったのだろう。
最終的に、何故か彼はその家に上がることになり、何故か二階の香凜の部屋に入れられた。勝手に入って良いんでしょうか、そう聞くと彼女の母親は、良いのよ、というだけで、何の手応えもなかった。彼にとってその状況は、とても心臓に悪い物だった。
と、その時、寝ていたはずの香凜が、彼に話しかけてきた。
「……ごめんね、家のお母さんが……」
どうやら起きていたらしい。先ほどメールをした時に起こしてしまったのだろうか、そしてそのせいで眠れなくなったのだとすると申し訳ない。彼は負い目を感じていた。するとそれを感じ取ったかのように彼女が言った。
「……隆史に起こされたんじゃないの。なんだか寂しくて、朝からなかなか眠れなかっただけ」
それを聞いて彼は、逆にさらに申し訳ない気持ちになった。なんだか気を使われてしまったように感じたのだろう。
体調が悪いときは、心も弱くなる。だから彼女はそんなことを言ったのだろう。彼もそれには気づいていたが、それでもやはり自分が悪いと感じ、彼は一階に降り、彼女の母親に聞いた。
「何か、俺にできること無いですか?」
その問いに対する彼女の母親の答えは早かった。
「ただの風邪だから、別にそこまで考えなくても良いけど……そうね。じゃあ、今は香凜と一緒にいてあげて欲しいな」
そう言われて彼は一言、「ありがとうございます」とだけ言って、二階の香凜の部屋へ入って行った。その後ろ姿は、彼女の母親からはどう映ったのか。娘を狙う悪い虫か、ただの見舞い客か、どう映ったのかは彼には分からなかったが、彼は今、なんとか香凜のためになることをしたいと感じていた。これは自己満足だろうか、しかしその時の彼は、そのようなことは気にしなかった。
彼が香凜の部屋に入ると、部屋の主である彼女は、何やら嬉しそうな、安堵したような、そんな表情をした。大方、彼が彼女に黙って帰ったとでも思ったのだろう。そんな彼女を見て、彼もまた安堵した。目つきの悪い彼の顔も、大分柔らかい表情になっていただろう。
彼らはその日、一切自分たちの関係の事について話さなかった。設定などもってのほかで、ましてや、残り数日でこの関係は終わる、という事など考えもしなかった。
翌朝、つまり金曜日。
彼が登校し、教室に着いた頃には、彼女はもうすでに教室にいた。どうやら風邪は治ったようで、安心した彼は彼女にゆっくり近づき、初めて自分から彼女に話しかけた。
「今日、一緒に昼ご飯食べよう」
その一言を聞いて彼女は、一瞬驚いた後に、嬉しそうにはにかんで、それに二つ返事で賛同した。クラスは相変わらずうるさく、しかしその喧騒のおかげで、彼らの会話は他に聞かれなかった。
そしてその日の昼休み。この関係が続く最後の昼休み。彼らはいつものように昼食を摂り始めた。会話中に沈黙が生まれることもあるが、彼らは、その沈黙も嫌わない程には仲が良くなっていた。それこそ、それが最後の昼休みだと気付かないほどに。
その翌日、土曜日。
最終日の前日になるその日、隆史は香凜の家まで来ていた。連絡では駅に集合とのことだが、家を知っているのだから、直接迎えに行ったほうが良いだろう、との考えだった。
その数分後、彼女が玄関から外に出るとそこには、駅にいるはずの彼が居たのだから驚きだ。彼女が驚いて少しのけぞるように後ずさりすると、彼はその反応を見て、微笑むように笑った。
彼は彼女に、自分たちはどこに行くのか決めてあるのか、と聞いた。彼女の返答は早く、その場所は、隆史の家が良い、とのことであった。彼は確かに彼女に聞いたが、本当に家に招いても良いのか、否か、その二択で決めかねていた。
しかし、彼の決断は意外にも早かった。
「じゃあ、俺の家でも良いぞ」
それが、彼の出した結論だった。
香凜の家から歩いて四十五分ほどの距離に、隆史の家はあった。彼の隣で彼女が、「へぇ、隆史君の家ってこんなところにあるんだ」と一言呟いたその時、玄関の扉が開く音がした。どうやら、彼の妹が出てきたようだ。家から出てきた妹が、驚いたように言った。
「え、兄さん、その人誰?」
無理もない。つい最近まで男友達すら居なかった兄がいきなり、同級生らしい女子を家に連れてきたのだから。妹の問いに、彼は答えた。
「あぁ、こいつは香凜。ただのクラスメートだ」
彼のその声に香凜は、「……ただのクラスメートの香凜です」と、少し膨れっ面気味に言った。なんだか機嫌が悪いな、そう彼は思いながらも、無視して妹に問いかけた。
「ところでお前は、なんで出てきたんだ?」
彼等は特に大きな音を立てたわけでもないため、彼らに気付いて出てきた、という事はないだろう。しかし彼の妹は、まるでタイミングを見計らったかのように出てきた。彼が疑問に思うのにも無理はない。
「え、なんでって? ……あ、出てきちゃ悪かった?」
「いや、別に悪くはない」
彼は妹にそう言い、今香凜を家に入れても大丈夫か、と聞いた。すると彼女は、「兄さんのお友達? なら大歓迎だよ」と言って、玄関の扉を開けた。
隆史の家にはその時、隆史、香凜、そして妹の三人しかいなかったため、話す場所には困らなかった。ところで先程玄関から妹が出てきた理由だが、彼女曰く、暇だったからなんとなく出ただけ、ということらしい。
彼が香凜を居間に通すと、彼の妹が茶を出してきた。そして妹は机の上に、ついさっき沸かしたばかりの茶を置くと、客人用の綺麗な湯呑にお茶を注ぎ、それを香凜の前に置きつつ、質問を始めた。
「香凜さんって、兄さんとどういう関係なんですか? ……あ、もしかして彼女さんとか?」
笑いながら、冗談めかして言う。しかし、そんなことを言われた香凜は堪ったものではない。実際、フリとはいえ恋人なのだから。しかし隆史はというと、全く平気そうな顔をして、自分の湯呑にお茶を注いでいる。こうした状況から、香凜の顔だけがやけに赤くなったのだ。それを見て妹は、兄に向けて何やら非難めいた視線を向ける。そんな視線を、よりによって妹から向けられた彼は、低い声で「なんだよ」と呟くように言った。すると、「なんでも」と妹が軽く言い返した。
そんな兄妹のやり取りを見て少し緊張がほぐれたのか、香凜は出された茶を飲み始めた。
それを見て隆史が言った。
「……話は俺の部屋でしよう」
……妹が何やら勝手にキャーキャー言っている気がするが気のせいだ。彼はそう自分に言い聞かせ、香凜を連れて自室へと入って行った。
会議は始まったかと思うと、たった十数分で終わってしまった。話をまとめるとこうだ。最終日、つまり日曜日の朝十時、香凜の家に集合し、隆史は香凜の家族と昼食を共にする。もし昼食前に帰されてしまったら作戦は失敗。なお二人の設定は先日メールで送った物、という事だった。
その日の昼食は、隆史の妹が既に三人分作ってしまっていたため、香凜も一緒に彼の家で食事をすることになった。
最後の日、日曜日。
前日に話した集合時間より一時間早い九時ごろに、隆史は香凜の家へと向かって歩き始めた。本来なら五十分前に家を出るくらいでもよいのだが、余裕をもって早めに出よう、という判断だ。
二人の関係もこの日で最後。解放されて嬉しいような、なんだか寂しいような、彼自身も良くはわからない、ただただ不思議な感想を持ちながら歩いて行った。
しばらく歩いた後、彼が彼女の家に着いた頃には、時刻は九時四十分。インターホンのスイッチを押すと、玄関の扉が開き、扉の陰から香凜が顔を出していた。扉を押さえる彼女の腕は、よく見ると何故か小刻みに震えていて、顔の筋肉も少しこわばっているように見えた。どうかしたのか、彼が聞くと、どうやら彼女は、体を乗り出して扉を押さえていたらしいことが分かった。『横着せずに靴を履けばいいものを……』彼はそんな感想を抱いたまま玄関をくぐった。
「あら! 早かったわね!」
例のおっとりとした母親が彼を見て言った。『早くて悪かったっすね』彼は心中で悪態をついた。しかしまさか、見知って十日後に相手の親と会う学生カップルがあるだろうか、いや、普通はないだろう。ならば彼らは普通ではないのだ。そしてそれは親も然り。おっとりとした母親が、香凜の父親を呼んだ。すると二階から、妻に呼ばれた夫が降りてきて、隆史を見るなり言った。
「なるほど、君が我が家の義理の息子になるのか」
香凜の父親は、なんとも気の早い男であった。
小一時間経つ頃には、隆史も大分彼ら家族に馴染み、四人で談笑できる程に仲良くなっていた。話の途中で、気の早い父親が言った。
「で、十八になったらすぐに結婚するのかい?」
やはりこの父親は気が早かった。しかし隆史はそれに、「はい、そうですね……許されるなら今すぐにでも」と返した。どうやらこの一家の明る過ぎるほどの雰囲気は、この彼をもお調子者にしてしまうようだった。
談笑しながらも彼――隆史は、自分の発した言葉に、自分の想いを考えさせられているような気がした。自分は一体、香凜の事をどう思っているのか。最初はあまりにも面倒だったこの関係、今となっては、自分にとってどんな物なのだろうか。果たして自分は、この感情に何という名前を付けるのか。嬉しさか、楽しさか。はたまた悲しさか、それとも、いまだに退屈なのか。
彼はきっと、いつかは結論を出すのだろう。急ぎ出した結論に後悔しないために、きっとこれからも長い間悩み続けるのだろう。そして悩んで出した結論にもまた、後悔するのだ。……だが彼は気付けた。自分は香凜の事が『嫌いではない』という事に。だからこんなにも悩み、考え続けることが出来る。しかしそれは決して苦痛等では無かった。
気付くといつの間にか時計の針は正午を指し、食卓には料理が並べられていた。どれもこれも食欲を沸かせる物ばかりで――。
「……なんだか、香凜の弁当みたいだな……とても美味しそうだ」
彼自身も気付かぬうちに、隆史はそう呟いていた。するとそれを聞いていた香凜の母親が言った。
「それもそのはずよ。だって、今日のお昼ご飯は香凜が作ったんですもの」
彼にとっては初めての、温かい香凜の料理。いつもは弁当箱に入り、冷めてしまっていたはずの物。もちろん冷めても美味しいのだが、出来立てで食べられるという幸福感というべきか、その日の昼食は、今までの彼の短い人生史上最も美味しい物だったことだろう。
――さて、昼食を食べることが出来たという事は、即ち成功したという事なのだ。食後に彼はその事を思い出したが、嬉しくはならず、むしろ途端に悲しくなった。その記憶は、これが偽物の関係で、こんなに居心地の良い、とても優しい香凜の家族を騙しているという証拠なのだから。
そして彼は、もう一つ気付いた。
――桐島隆史は、どうしようもないクズだ――
時は流れ、もうすぐ日が沈む。隆史と香凜は、彼女の家の前に居た。
「……この十日間、どうだった?」
香凜がそう聞いた。彼はその質問に対して、「あぁ、楽しかったよ」と答え、そして最後に言った。
「……それと俺、やっぱりお前の事好きだ」
そう言ってから、彼は急に恥ずかしくなって下を向いた。しかし彼女の反応はそれとは異なり、一瞬驚いたように静かになった後、口を開いた。
「――じゃあ、この関係は終わりね。……今までありがとう……それと――いや、また明日、学校で」
彼女のその返事を聞き、彼は膝から崩れ落ちるほどの衝撃を受けた。が、すぐに立ち直り、別れを告げ、自宅へと歩き始めた。表面上は繕い、最後まできちんと冷静なままで。……彼は、どこまでも強いままで。実際はとても弱いというのに、虚勢にも程があると言わざるを得ない、ただひたすらに無駄な努力だ。
しかし無理もない。たかが十日、されど十日。短いようで長い、浅いようで深い関係が、まさに今、目の前で壊れたのだから。
「はは……浮かれてたのは俺だけだったって事かよ……」
彼女の家からの帰り道、彼は一人そう呟いていた。
その翌日、月曜日。
彼が教室に入ったその時、彼に話しかける者の姿は無かった。ただ、彼は一人で誰にも気づかれずに一時限目の準備をしていた。
昼休み、彼がいつもの場所に行くと、そこには一つの弁当箱が放置されていた。しかしそこに香凜の姿は無かった。
黙々と昼食を摂りながら、彼は、自分が独りになっていたことに気付いた。だが、それは十日前までと同じ。だから彼は慣れていた。……いや、慣れ過ぎていた。それ故に、自分から変えるという事をしなかった。
誰にも気を遣わず、誰にも話しかけられず、交流は無い。そんな彼の『理想の生活』がそこにあった。だというのに、彼は何も感じなかった。嬉しくも、また、悲しくもなかった。きっと彼の心は麻痺してしまっていたのだろう。……いや、もしかすると、彼にとってはそれが普通だったのかもしれない。
昼休みが終わる五分前、彼は教室に戻った。そして香凜の席に空の弁当箱を置いた後、いつものように自席に座り、五時限目の準備をしようと、机の横にかけられたカバンの中に手を突っ込んだ。すると何やら折りたたまれた小さな紙が入っていた。誰かのイタズラだろうか、彼はそう考え、その紙を開いた。中には一言、『夕方に教室前の廊下で待っています』と書かれていた。
――なるほど、これはイタズラなのだろう。彼はその紙切れを破り捨てようとした。だが、破らなかった。破る寸前で彼は気付いたのだ、その文字に見覚えがあるという事を……。
その日の放課後。
陽はもう大分西に傾き、校舎の窓からは西日が射している。
教室前の廊下に、同級生の少女が立っているのを知ってか知らずか、はたまた西日が眼に痛いのか、目つきの悪い少年は廊下を足早に通り過ぎようとしていた。それだけではただの日常なのだが、彼らの間にはどことなく気まずいような雰囲気があった。
さて、少年が丁度そこを通り過ぎようとした時、少女が何の前触れもなく口を開き、一言言ったのだ。
「……隆史君、この前の話についてなんだけどさ――」
その声を聞いた彼が彼女――香凜のほうを振り向くと、彼女が語り始めた。
「昨日の事でみんな騙されて、本当に私に彼氏がいるって信じ込ませることが出来たんだ」
どうやら、彼ら二人の作戦は大成功を遂げたらしいようだった。そのことを報告する彼女の言葉はさらに続く。
「えっと……、だから、今までありがとう」
彼女がそう言って少しだけ頭を下げると、そんな感謝の言葉を聞いた彼が、弱々しい声で何かを言い始める。
「『ありがとう』って……本当にこれで終わりなのか? 俺達、また他人になるのか……? それとも香凜は、楽しくもなんともなかったってことか……?」
――すでに解が出ているような、わかりきった質問だ。
彼は諦め半分で、しかしすがり付くように問いかけた。だが、彼女の出した答えは、彼の予想とは少しだけ異なったものだったのだ。
「……私は……ううん、私も、楽しかった。隆史君とのやり取りも、隆史君の変な言動とかも、全部、とても楽しかった。だから……これはきっと、上っ面だけ似せた紛い物なんだと思う」
彼女が言い出した関係、それに対して彼は、最初こそ抵抗していたものの、いつの間にかその関係が続くことを望むようになっていた。だから、そこに苦しみは無かった。
だがもしも恋が苦しいものだというのならば、逆説的にこれは、彼女が言うように上っ面だけで、ただの紛い物、それも巧妙な模造品なのだろう。誰もが、本人達の心さえもが騙され、最後まで決して見破られることの無かった恋擬き。小心者故の強さを持つ彼でさえこの関係に騙され、溺れていたのだから。
この関係は、明らかに、偽物。しかし、そうわかってはいても彼は、そんな結論には納得できなかった。納得したらきっと、彼にとって居心地の良い、その居場所がなくなってしまうから。
「それでも……! ……たとえこれが偽物だったとして、紛い物だったとして、俺はそれでも良い。俺は、香凛、お前と――」
「だから!!」
彼の言葉を制した彼女の、平時からは考えられないような鋭さを持ったその言葉は、次第に丸みを帯びて、優しい声になって続いた。
「――だから、考える時間が欲しかったの……! 何度も考えて、まちがった答えを出しては解きなおして、そうやって一晩考えて、ようやくわかった。……そして、多分これが、偽りの関係を終わらせることだけが、私が出せる、私たちの、唯一の正解」
彼女は、優しい声でそう言い切った。
そんな彼女の声に、彼は何も言い返すことができなかった。どうして居心地の良い居場所を去る――否、奪うんだ。何で偽物だからって幸せを手放すんだ。彼はそう思った。しかし、その思いは言葉にならず、彼は黙って、彼女の発言を許してしまうのだった。
「だからもし、昨日隆史君が言ったことが本心からの言葉だったのなら、私は、初めからやり直したい。……私たちはまだ、きっとやり直せるから……」
――本物として。
彼女はそう続けた。
その時、陽は完全に沈み、蛍光灯の光が廊下を、彼らを照らしていた――。
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