第一話
正午もだいぶ過ぎて、退屈な書類はなぜか減っていないように見えた。それにひるんだわけではないが、ゼブルは不真面目に、たっぷり数秒の間、今日の紅茶に思いを飛ばした。デスクワークに苦手意識はないが、どちらかといえば、机に座るときは覚悟を決める方だという自覚はある。
小さく開けた窓の外はいい陽気だった。郊外というには少々寂しい土地にあるヘヴンズの施設だが、今日は風に土の匂いがするせいか、実際以上に鄙びて感じられる。悪くはないとゼブルは思った。特務班のリーダーという立場から与えられた個室は、机と電話とキャビネットがむき出しで置いてある感じで殺伐としている。窓を開けて田舎の物置のようになるなら、その方がまだ雰囲気はましだった。
表のグラウンドで、十人くらいの集団がボールを蹴りあっていた。少年が多いが、少女や大人も混じっている。今は、おとなしくサッカーのルール通りにやっているようだった。今月中にまたボールを壊したら、資金班のジムはさすがに臨時支出を拒否するだろう。本当は、ちょっと能力を使ったくらいで壊れるボールの方が問題なのだ。ボールひとつにも自重していたら、十年後の能力者はストレス性の禿か白髪しかいなくなる。とはいえ、特務班リーダーが本音ばかりも言えない。ゼブルはうらやむような気持ちで外を眺めて、サインした書類を処理済の山に移した。
電話が鳴り、ゼブルは受話器を取った。
「特務班のゼブルだ」
「情報班のパークです。良かった、そこにいたんですね。レイガさんから電話です」
「レイガが電話してきた?」
「はい、そうです。ちょっと普通じゃない感じでしたけど、何かあったんですか」
ゼブルの勘違いでなければ、レイガは戦闘班の任務で出かけていて、電話してくるような用事はないはずだった。妙な感じがした。パークが電話をレイガにつなげた。
「ゼブルか?」
「ああ、どうしたんだ」
「敵にやられた。頼みがある」
ゼブルがかつて戦場で見たとき、レイガは悪夢から抜け出てきたように強かった。事が戦いなら、ゼブルはレイガを絶対的に信用している。心のどこかに、レイガが助けを呼ぶわけがないという思い込みがあったのかもしれない。首筋を氷で殴られたような気がした。
「どこにいる。相手は何だ」
ゼブルはペンを置いた。レイガに対処できない敵なら、当たるのは自分しかいない。
「サーストンとかいうボロい町だ。イノセントから車で半日くらいかかる。おかしな能力で攻撃された。何か、敵がいる。正体は不明だ。それと、トリスアギオンの連中と出くわした。俺が見たのは三人だが、たぶん他にもいる。あの攻撃はトリスアギオンの連中じゃないようだがな」
ゼブルは静かに息を吐いた。敵の正体がどうであれ、イノセントから半日の距離なら、レイガを傷つけるほどの脅威はまだここには来ない。トリスアギオンの人数などより、この場合はレイガの位置が最重要だった。
「わかった。どこで落ち合う」
「駅前に来い。鉄道は廃線だが、駅は町に着けばわかる。後はこっちから見つける」
「車だな。五分で着くというわけにはいかないぞ」
「俺だけならどうにでもなるが、こっちで女の子を一人拾った。そいつが問題だ。ただのカンだが、正体不明の敵はまだ町にいる。それと、トリスアギオンの連中もあの子が気になるらしい。まだ町をうろついてやがる」
「他に何かあるか」
「体が燃えたら気をつけろ。普通じゃない火だ。すぐにわかる。敵の攻撃だ」
「待っていろ」
ゼブルは部屋を飛び出した。珍しく自室を使っていたせいで、情報班の部屋までが普段よりも遠かった。当ての半分が外れて、情報班リーダーのグレーミアは調査で不在だった。敵の正体が不明の現状で、彼女の能力を頼れないのは痛かった。それでも、情報班のメンバーはゼブルの勢いに驚いただけで、すぐに事態を理解した。
「総裁にはまだ話してないんですか」
パークが、机の上に詰みあがったファイルの山をいじりながら聞いてきた。
「連絡をつける時間が惜しい。戻ったときに報告するさ」
ゼブルは応急キットとアームプロテクタをスポーツバッグに押し込みながら、パークに渡された新聞記事の切抜きに目を走らせていた。体一つで飛び込むにはサーストンは遠すぎ、負傷した人間までいる。サーストンについては、三ヶ月前ほど前に大事件が起きていたが、それよりもイノセントの南東にある人口五十人足らずの小さな集落だという基本地理が重要だった。ゼブルの記憶にあったのはサーストンの名前だけで、それも事件があったから覚えていたのだろう。町と呼べたのは動乱以前の事だったらしい。
「つまり、ゼブルさんが戻るまで、説明やら言い訳やら、細かい連絡は俺たちがやるという事ですね」
「すまないな」
「後で、起きた事は全部聞かせてもらうんで、いいですよ。俺がどうこうしなくても、うちのリーダーが絞りつくすと思いますけどね」
パークが顔色も変えずに言ったので、ゼブルは苦笑した。レイガを追い詰めるほどの敵と聞いても、パークはゼブルの生還を疑っていない。彼らしくもない無邪気な信頼が、ゼブルは少しおかしかった。ゼブル自身はもっと無味乾燥に割り切っている。雷神などといういかにも無敵そうな二つ名があったところで、結局、戦いには命を賭けるしかない。
レイガの任務内容は、パークから大雑把に聞く事ができた。サーストンまでの道がわかる地図と、食料等を詰めたスポーツバッグをつかむと、ゼブルは駐車場に向かった。立地の関係からヘヴンズの駐車場は規模が大きく、今は小型バスが隅に二台止まっているのと、十台ほどの車が点々と止まっているだけで、アスファルト舗装ばかりが視界いっぱいに広がっている。ゼブルは、ウォーレスが自分に向けて手を振っているのに気がついた。首を振って急ぐ事を示し、車に乗り込んだ。
運転席のドアが開き、ウォーレスが首を突っ込んできた。ゼブルはとっさにブレーキを踏んだ。ちょうどタイヤ半回転分ほど動いたところで、車はつんのめるように揺れた。
「どういうつもりだ、ウォーレス」
「無視するなんてゼブさん酷い。任務だったら教えてくださいよ。まさか、僕を特務班から外す陰謀が進行中だったりしますか。いや、でもですね、きっと今日は僕の力が必要だと思うんですよ」
ウォーレスは一人で盛り上がってまくしたてた。本人の言う通り、ウォーレスも特務班の一員ではある。赤っぽい髪は中途半端に長く、今日はデニム地のジャケットの下にピンクのシャツを着ていた。陽気で人見知りしない青年だが、役には立たない。特に荒事では、守ってやらなければいけないお荷物だった。
「戦闘任務だ。降りろ」
助手席から落ちた地図を拾いながら、ゼブルは険しい声で命令した。事情を説明するつもりもなかった。
「サーストンですか。たぶん、それが名前だ。間に合います。時間は問題じゃない」
ゼブルはウォーレスを振り返った。ウォーレスの目が、真正面から見返してきた。
「ゼブさんに言わないといけない事があるんです。サーストンの敵はもう何人も殺してる。見た目はまともでも、元に戻るには手遅れです。そいつも、それがわかっているから、ゼブさんたちを消そうとしてくる。迷わないでください。そいつの能力は危険です」
ウォーレスの変化は唐突だったが、ゼブルはとっさに頭を切り替えた。普段と違い、ウォーレスの能力が発動していた。彼の能力は未来予知と言われている。あるとき突然に、漠然とした未来を直感するというもので、天気予報に比べるとだいぶ使い勝手が悪い。ヘヴンズでは、誰もウォーレスの予知を当てにしない。それでいて、無視できる人間もいなかった。ウォーレスの予知は本物だった。
ゼブルは、ウォーレスの鼻先を見つめるようにして太い眉を寄せた。ウォーレスは、予知の中でサーストンの敵を見ている。確かめる事があった。
「わかる範囲で答えてくれ。俺はサーストンで敵と会う。相手は能力者だ。俺は、そいつが敵だと気づかない。合っているか?」
「サーストンの敵は人間で、能力者です。そのときになれば、誰なのかはわかります。ゼブさんが敵だと思いたくない相手なんです」
「トリスアギオンではないんだな」
「わかりません」
「そうか」
ゼブルは、ウォーレスが話しきるのを待っていた。ウォーレスが迷ったように目を自分の手元に落とし、また顔を上げた。
「もうひとつ、予知ではないんですが、聞いてください。能力はただの力です。力そのものに、人を幸せにする義務なんてない。力が人を傷つけるのは当たり前だと言ってやってもいい。ただ、僕たちは信じないといけない。能力者の能力が与えられたのには、必ず意味がある。手足と同じように、能力にもなすべき役割がある。どんな能力も例外じゃない。間違いはいつも人がする。能力を狂気扱いしたい人もいるんでしょうが、能力者自身が能力に罪を押し付けたら、能力者はただの怪物になる。能力者は能力の奴隷じゃない。こんな感じのことが、今どうしても話したくなったんです。わかってもらえますか」
ゼブルは頷いた。ウォーレスの言う理屈は理解できる。今、このときに言い出したわけはわからなかった。ウォーレスもわかっていないかもしれない。能力が発動しているときのウォーレスは、どこか神懸かったところがある。だが、ウォーレスが特別なのは人より早く未来がわかるからで、未来はいずれゼブルにもやってくる。ウォーレスが車から静かに身を引いた。
ゼブルはドアを閉じて車を出した。ヘヴンズの駐車場から道に出たときにはタイヤが鳴いていた。駐車場に立つウォーレスがじっと見送っているのが、ミラーの端に見えた。ゼブルは、ウォーレスに自分の生死は聞かなかった。死ぬまで聞くつもりはない。ウォーレスの予知能力が偽物なら聞いたかもしれない。不吉な予感というくだらない考えが湧いてきたので、ゼブルは運転に意識を集中させた。
情報班から聞いた話によれば、サーストン方面は第二次チャイルド戦争で廃れたまま復興が遅れている地域で、道路が良い割りに交通量は少ない。サーストンに着くまではどんな障害もなく、車は快調に走った。