雲の向こう
皆を背に空へと上がり、雲へと入ったそこは――地獄だった。
一切の視界が無いとさえ言える暗黒。
太陽光が一切差し込む気配すらない黒雲。
横凪に叩き付けられる雨粒。
幾度と無く鳴り響く轟音と雷光。
吹き荒ぶ暴風に操縦桿と方向舵はガクガクと振動を伝えてきた。
目の前が見えない。
雲の中に入るまでは非常に静かだったのに。
バシバシと雨粒が風防に当たり耳の感覚すらおかしくさせた。
前後傾斜計、旋回計、水平儀…挙句航空羅新儀までもがグルグルと忙しなく動いているようにすら感じる。
先尾翼機はその特性上縦方向の安定性が極端に悪く、最悪失速しかねない。
その癖発動機の精密製が悪かったこともあり分間想定回転数の二八〇〇を得られない。
故に電圧回転速度計の数字が一八〇〇辺りを行ったり来たりと上下する。
上下左右に揺さぶられる中、必死に操縦桿を握り締め速度を上げようにも発動機が先に悲鳴を上げそうだ。
――だが、この程度の暴風で落としてなる物か。
必死に機首を安定させ、雲に進入した際の姿勢を維持させ続ける。
横凪の突風に機体がふら付くも素早く方向舵を蹴って安定させる。
暴風であっても所詮は雲の中、突っ切ってしまえば後には青空だけだ。
もはや閃光や轟音には意識を向けない。
集中し続け、ただ出口となるであろう正面を見つめ続けた。
そしてその一瞬の閃光。
視界の端に、雲間からいくつもの『何か』が見えた。
一瞬そちらに顔を向けようとして、衝撃に機体を煽られた。
視線を前に戻し、機首を安定させる。
ただ、先ほどよりか雲の色は明るく雨粒の勢いも弱まっていた。
もう左右に揺さぶられる様子も一切感じられない。
安全になった事を確認してさっきのはいったい、と再度視線を横に移す。
しかし、そこにあるのは薄灰色の雲と加速によって後ろに流される雨粒の跡ばかり。
見間違いだったのか、とぽつりと呟きながら先ほど見た光景を思い出す。
漆黒とも言える闇の中、雷光に照らされた残骸。
片や飛行機、飛行艇、大型機、飛行船。
空の筈なのに艦船、漁船、輸送船、挙句は木造帆船。
見間違いにしてもいい趣味とはいえない。
…だが、妙に強い現実感を感じていた。
しかし突然顔面へと向けられた閃光に意識は正面へと向けられる。
太陽の光が自分の頬を照らした。
そう、あの暴風の雲間を抜けたという事をまざまざと実感させてくれたのだ。
左右と見回せば辺り一面ほぼ真っ白な雲の海の上。
上には雲一つ無い晴天とさんさんと照りつける太陽の姿。
ふう、と一息つきながら背を椅子へと傾けながら計器を見やる。
長針が三付近の位置を指している事から大よそ高度三〇〇〇m。
速度は一七〇ノット(三二〇キロ毎時)前後。
シリンダーや排気温度、問題のあった発動機油温も吸入口増設とこの高度もあり比較的安定している。
問題ない。
こんな所まで飛べた。
自分たちが作ったこの機体は十分飛べた。
その証明ができたことに安心と感動が一気にこみ上げてくる。
この感動と共に永遠と飛び続け、そのまま空の彼方――天国へと行けないかなぁ等と考えてしまう。
しかし、実際は無断で機体を飛ばして逃げてきたような物。
こいつと共に死ぬのも一興だが、やはりこのまま共に落とすのも気が引けた。
考える間にも燃料は減り続ける。
どうしたものかと考え続けていたその時、遠くの雲間に閃光が見えた。
雷ではない、雷にしては小さすぎる。
目を凝らすと小さな橙とも言えない光がいくつも見えた。
試験時に何度か見たことがある故にすぐに分かった。
機銃や機関砲の弾道を見る為の光る弾丸――曳光弾に間違いない。
既に日本は米国に降伏した。
ならば戦闘など起こりうるはずも無い。
そんな馬鹿なと思い目を細め、そして見つけた。
雲に掠るか掠らないかの高度で飛行する緑色の双発機が見えた。
形状から機銃を発砲しているのは日本軍の一式陸攻(一式陸上攻撃機)の機銃座だろう。
いったい何があったのか、と思い視線を曳光弾の先へと向ける。
そこに居たのは薄茶色をした双発機の姿が二つ。
資料や写真で幾度と無く見てきた双発重戦闘機――それが我が軍の陸攻を攻撃している。
その光景を理解するより先に操縦桿を引きスロットルを全開に押し出した。
―――
「後方に追撃機!」
連射速度の遅い二〇ミリ砲と七.七ミリの連装機銃を合わせた複合機銃座の発砲音が機内を振るわせる。
同時に機体尾部の発砲音と共に尾部銃手が悲鳴に近い声を上げながら叫んだ。
パイロットは即座に機体を滑らせるように雲海に触れるか触れないかのコースを取った。
雲海の中は万年大雨で危険である。
だが同時に、機体の設計上の特性から相手も雲海への進入は出来ない。
何せ軽量化の為に使用されている『浮遊鋼』の特性として、周囲に存在する水を吸着する。
その水が稼動部に付着し外気温によって冷却され氷着し操作不能となる危険性があるのだ。
「機種は!」
「ユニのスパークが二機!後方より尚も接近中!」
その言葉に可能な限り加速をして振り切ろうとエンジン出力を限界まで上げる。
だが敵は高出力双発エンジンによる瞬間加速、機首の一二.七ミリ機関砲四門と七.七ミリ機銃二門から来る瞬間火力に五つの機銃座を持つF‐22スパークボルト。
対するこちらの一式軽爆撃機「山峡」は改修に次ぐ改修で機銃火力は上昇した物の速度ではどうにも対抗出来ない。
「スパークさらに接近!」
「何としても撃ち落せ!帝様が乗っているんだぞ!」
その機長の声は狭い機内に居た全ての機銃手、そして爆撃機の搭乗員としては場違いな服装をした少女と、老練な彼女の補佐官にも当然聞こえる物であった。
「…云峡、神威基地は……」
「追撃機の接敵速度から恐らくは……」
帝と呼ばれる彼女は先程まで飛び地の視察に向かっていた。
それは本土防衛の要であり、また大和が保有する最後の前線基地である神威島の神威航空基地であった。
防衛網はもはや寸断され本土へと飛来する爆撃機の数も少なくない。
挙句幾つか保有していた浮遊島も、残されたのは神威島ただ一つ。
今でこそ本土爆撃は阻止できているが、残された戦力ももはや数えられるだけになりつつあった。
故に士気向上の為に若き国家元首たる彼女が神威基地へと赴いたのだ。
だが彼女が島を発つその時に神威基地が奇襲を受けた。
ただいつもの散発的な攻撃部隊ならば問題は無かった。
しかし敵の部隊はいつもの数倍以上に上陸部隊を乗せた揚陸浮遊船までも動員した本格的な制圧作戦であった。
基地守備隊は即座に離陸し、彼女も即座に機に搭乗し本土への帰路に入る。
その防衛体制はもはや尋常ではなく、稼動機はすべて離陸し敵機迎撃に出撃するほどであった。
何せはるか昔より大和を造り導いてきた帝の末裔であり残された最後の血筋、彼女がここで死ねば帝の血は絶える。
だが同時に神威基地を守り抜かなければ、本土への爆撃機襲来の数は今までの倍に増えるだろう。
護衛機をつけるか、基地防衛に回るか。
迷う基地部隊であったが、それに対して帝自らが「護衛は不要、基地防衛に全力を尽くせ」と啖呵を切ったのだ。
「…私の為に、また幾人もの国民が血を流したのですか……」
「帝様、お気を確かに」
「分かっている!…分かっているが……」
しかし、基地部隊の戦闘機の姿は無く追撃機が追いかけてきている。
まず間違いなく基地は制圧されたのだろう。
その戦いで流れた血はいったいどれ程の量なのだろうか。
自分を逃すために、いったいどれ程の国民が命を落としたのだろうか。
そう考えた彼女の声は、ただただ小さくか細い物だった。
「敵機真後ろ!発砲!」
次の瞬間、機体は大きく揺れる。
大型機ゆえ左右方向へのまともな回避機動は出来ず、下方は雲海で高度も落とせない。
後ろに付かれ回避も出来ない現状では機首を上げざるおえなかった。
しかし被弾は免れたものの高度が上がってしまう。
コレでは全方位から狙われかねない。
「敵機尚も接近!」
機銃手はその報告を叫びながら射撃を続ける。
世界でもごく少数しか生産されていない大口径二〇ミリ砲を搭載している物の、連射と命中は残念ながらそこまで高くない。
搭載弾数の関係で頻繁に再装填をする必要もあり破壊力に反して迎撃力が非常に低かったのも痛い。
だが、それでもなお機銃手の彼は必死に後方から迫る敵機を迎撃し続けていた。
7.7ミリならばいくつもの命中弾と被害は与えているが、肝心の二〇ミリが当たらず決定打とならない。
しかし相手も二〇ミリを恐れてか迎撃弾を見ると回避機動を取る位はしている。
互いにヒートアップし、先に落とそうと撃ち合いを続けた。
それがいけなかった。
「敵機上方!」
叫び声が聞こえた時には、もう一機のスパークが機体上方より急降下をかけていた。
二〇ミリと七.七ミリの弾幕を迫る敵機に浴びせるべく、彼女たちのほんの少し後ろにある上面旋回機銃座が音を上げる。
同時に吐き出された薬きょうが床にからからと落下し乾いた音を響かせた。
だが同時にバリバリという音と共に閃光が機内を突っ切る。
七.七ミリならば角度次第で外壁で弾けたのだろうが、一二.七ミリは別。
ガラスが散り金属が拉げ火花が炸裂し、うめき声と生々しい水と肉がはじけ飛ぶ音。
ぐちゃり、と旋回機銃座があった場所から赤黒い人だった物が力無く滑り落ちた。
「ぐ……」
「云峡!」
「た…ただのガラス片です…ご心配には……」
飛び散った破片に、彼女の補佐官――云峡はうめき声を上げた。
彼女は敵の弾が当たったのかと不安になり声をかけるも、彼は首を振り大丈夫だと答える。
その一言に安心すると敵の攻撃はと窓から敵を探す。
こんな状況では協力する以外無い、今はただひとりの小娘に過ぎないのだと彼女は行動に出た。
窓から外を見、右左と視線を動かし続けるとそこに双発の機体の姿を見つけた。
敵は旋回して再度同じ攻撃位置に戻ろうとしている。
機銃座を潰しても、反撃の迎撃弾に恐れて一度射線から逃げたのだろう。
だが窓からチラリと見た姿に大した被害は見て取れなかった。
自分にできる事をする。
彼女はそう自らを鼓舞して上部銃座に歩を進め、止まった。
先程まで叫び声を上げ戦っていた兵士「だった物」がそこにあった。
火薬と硝煙、血と体液。
いろんな感情と生々しい匂い。
目の前にある現実に頭がくらくらとする。
だが胃の中身を押し戻そうとする自分の体を無理やり押さえ込んだ。
補佐官である云峡はそんな彼女を止めるべく、怪我をハンカチで押さえながら止めようと追いかけた。
そんな彼と対照的に、彼女は彼は自分を守るべく命を懸け名誉の戦死を遂げたのだ、と言い聞かせ小さく黙祷をささげた。
その行動のおかげか気分を持ち直し、サッと機銃座への梯子へと視線を向けた。
血の付着した梯子の先に銃座がある。
動くかどうかは分からない、でもできる事はある。
彼女は梯子に手をかけ視線を上に向け……現実を知った。
ぽっかりと空いた元旋回機銃座。
そこから見て取れる青空には、先程のスパークが既に目前に迫っていた。
「帝様!お逃げを!」
「何処に逃げろと言うのだ!」
云峡の悲痛な叫びに彼女は気丈に返した。
もはや悲鳴を上げる必要は無い。
迫る敵を、ただただ睨み付けるだけであった。
走馬灯、とでも言うのだろうか。
彼女は世界がとても遅く感じた。
何か手は無いかと思考を回転させるも、目の前の現実を覆す答えは出ない。
しかしここで終いか等と考えるも、彼女は視線をそらす事は無かった。
急降下。
迫る敵機。
機銃口がこちらを睨み、キャノピーの向こう側にニヤニヤと笑みを浮かべた敵兵の顔がハッキリと見える。
が。
次の瞬間、敵機のキャノピー前装甲部分が閃光と共に炸裂。
ゆっくりと時間の進む世界の中、敵兵の顔が一瞬歪む。
飛来する閃光は、続いてキャノピー正面のガラス面に当たり炸裂。
まるで花でも咲くかのごとくクモの巣状に広がる鮮やかなヒビ。
そしてガラス上面より中へと襲来する閃光と炸裂により、ヒビの花は真っ赤に色付いた。
一瞬の出来事であった。
回避の為に操縦桿を引いたのか、それとも別の理由で引いたのか。
被弾したスパークは射撃する事無く、そのまま錐揉み状に回転しながら本機を避け雲海へと消えていった。
何が起きたのか。
彼女は目の前の出来事に呆けるも、すぐさま正気に戻り窓から外を覗く。
そこには先程まで本機を追いかけていたもう一機のスパークの姿があった。
だが先程までの狩人然とした姿は一切無く、慌てふためき逃げるように回避機動に徹している。
何かを追い払おうと機銃座が乱射を繰り返す。
右へ左へと無数の曳光弾が空に線を描く。
しかし次の瞬間、数条の閃光が敵機を貫いた。
否、貫いた等という生易しい物ではなかった。
左主翼の手前外縁部から左エンジンと胴体を通過して右のエンジンから繋がる尾翼部分を一閃。
文字通り、横一線に機体を『切り裂いた』。
被弾した機体は撃たれた所を中心に本当に真っ二つに割れ、エンジンがある側は上を向き、無い尾翼側は下へと向きを変える。
もはや操作など出来ない機体は木の葉が舞うようにひらひらと雲海へと姿を消した。
一瞬。
まさにその言葉通りに敵機は撃墜された。
その光景を見ていた彼女も、また機銃手やパイロット達も言葉を失った。
あれほど苦労していた敵をまるで赤子の手をひねるかのように撃墜したのだ。
そして、敵機が墜落するのを確認するかのように、電の如き速さで空を翔る一つの機影が空を震わせる。
その姿を見た彼女と云峡はその機体に描かれた円形章に目を見開かざる負えなかった。
「あのマークは…『ヒノマル』……?」
その国籍章は、彼女たちにとって英雄を意味していた。
ユニティス合併国主力戦闘機『スパークボルト』
型式番号F‐22
ユニティス合併国が正式採用した双発戦闘機であり、これ以外は現在開発中のため実質主力機と言える。
双発から来る加速性と大積載量を生かして機首に一二.七ミリ四門、七.七ミリ二門を装備。
さらに七.七ミリ連装防護銃座を機体後方尾部に一、エンジン上下に一ヶ所づつの合計五箇所に搭載。
ユニティスの『単発機不要論』から来る双発の重装備機となっているが、双発機ゆえに格闘能力は皆無。