その11
「吉之助さんと常助くんが乗っている小舟は、どこまで行ったのかなあ。浜辺からからり離れた沖合いまでやってきたけど」
敬太とワンべえは、小舟に乗って海の沖合いまでやってきました。敬太は、すぐに吉之助と常助が乗っている小舟がどこにあるのか探し始めました。この海の沖合いで吉之助たちが素潜り漁を行っていたようですが、敬太たちの小舟の周りにはそういったのは全く見当たりません。
「お~い! 吉之助さん、常助くん、どこにいるの?」
敬太たちは小舟を漕ぎながら、吉之助たちを大声で叫びながら引き続き探し続けています。しかし、敬太たちの行く手を阻むのが、強い風を伴った大雨と目の前に打ち寄せる波です。
「うわっ、次々と波が小舟に打ち寄せてきたぞ!」
「わわわっ、わわわっ! 敬太くん、小舟がずっと揺れて恐いワン…」
敬太は、小舟に打ち寄せる波が次々と打ち寄せる中であっても、必死に波を乗り越ながら漕ぎ続けています。しかし、ワンべえは波を乗り越えるたびに小舟が揺れるのが恐いので、敬太の足にしがみついたまま離れようとしません。
「ワンべえくんがいるから、海の中に潜って探すというわけにもいかないし…」
本来なら、海の中へ潜って探すことも必要ですが、小舟に乗っているのは敬太の他にはワンべえだけです。ワンべえを置き去りににして海中に入るわけにはいかないので、敬太は歯がゆく感じています。
そのとき、海面から人食いザメの大きな尾びれが現れました。サメの尾びれは、新たな獲物を見つけたかのように、敬太たちが乗っている小舟に向かって接近してきました。
「ふはははは! ちょうどいいところにおめえがやってきたのか。おれたちにとって、これほど好都合なことにめぐり合うことはないからな」
「人食いザメめ、それはどういう意味だ!」
「どういう意味だと? こういった悪天候であればあるほど、おれたちが人を襲いかかるのに好都合なのさ、ふはははは!」
人食いザメは、敬太たちの小舟の近くでいきなり顔を出しました。そして、人食いザメは敬太の顔を見ながら、悪天候のときほど人間を襲い掛かるのに好都合であると不気味な笑いを交えながら言いました。
「こうなったら、これでも…。うわわっ!」
「おれたちが悪天候であるほど好都合といったのはこういうことなんだよ! ふはははは、ふはははは!」
「小舟が揺れている限り、人食いザメの弱点である鼻面を狙いにくいし…」
敬太は、小舟に置いているモリを右手で持とうとします。しかし、波が押し寄せるたびに小舟が揺れてしまうので、敬太はモリをなかなか持つことができません。敬太は、波が穏やかなときのように攻撃態勢がなかなか取れません。
これを見た人食いザメは、悪天候である今こそが敬太に襲いかかるチャンスであると不気味な笑い声で言いました。一方、敬太は人食いザメの弱点である鼻面を狙いたいところですが、相変わらず波が高くて小舟が揺れている状態ではタイミングがなかなか取れません。少しでもタイミングが外れたら、人食いザメのエジキになってしまう可能性があり得るからです。
そんな敬太をあざ笑うかのように、仲間の人食いザメが海面から背びれを出しながら、小舟のほうへ急接近してきました。
「おめえには、わしの顔面に何回もくさいおならを食らわせた恨みを晴らさなければならないからな」
「いつまでも同じような攻撃が通用すると思ったら大間違いだぜ! おれたちの力を思い知るがいい!」
仲間の人食いザメは、過去に敬太から何度もでっかいおならを自分の顔面に命中されたことへの恨みを晴らすべくやってきました。自分たちの力を敬太に思い知らせようと、人食いザメたちはある作戦を考えました。
「行くぞ、そりゃああっ!」
「うわっ、人食いザメが小舟の上を飛び越えてきたぞ!」
人食いザメたちは、いきなり鋭い歯をむき出しにしながら海中からジャンプすると、敬太たちがいる小舟の上を飛び越えようとしています。敬太は、自分の体を屈めることで辛うじてサメからの攻撃をかわすことができました。しかし、人食いザメにとっては、目の前にある敬太を極上のエサとして噛み砕きたいということに変わりありません。
「これじゃあ、体を起こした瞬間に人食いザメのエジキになってしまうし、どうすればいいのか…」
「敬太くん、恐いワン…。本当に恐いワン…」
人食いザメは、小舟にいる敬太をターゲットにして左右両側の海面からジャンプしながら、鋭い歯で襲いかかってきます。敬太は、前屈みの状態でかわすのが精一杯であり、なかなか反撃に出ることができません。少しでも上体を起こしたら、そのまま人食いザメのエジキになってしまうからです。ワンべえも、交互に小舟を飛び越える人食いザメを見ただけで、体を震えながら恐がっています。
それでも、敬太は高い波で小舟が揺れている状態であっても、人食いザメを撃退するための方法を思いつきました。敬太にとっては、むしろ小舟を飛び越えて襲いかかるほうが反撃のタイミングが取りやすくて好都合だからです。
「人食いザメめ、これでどうだ! え~いっ!」
「ふはははは! わしの鋭い歯で食われに…」
敬太は、小舟に置いているモリをつかむと、すぐに上体を起こして立ち上がりました。高い波で小舟は相変わらず揺れていますが、敬太は人食いザメに立ち向かうべく右手でモリを握りました。
そして、小舟の左側の海面からジャンプしてきた人食いザメが大きな口を開けると、鋭い歯を見せながら敬太に襲いかかりました。これを見た敬太は、右手で握ったモリをサメの鼻面に思い切り突きました。
「うぎゃああっ、うぎゃああっ! いててててっ!」
「人食いザメめ、これでもまだぼくを襲う気か!」
人食いザメは、敬太にモリを鼻面を思い切り突かれたので、あまりの痛さに暴れながら苦しんでいます。敬太はすぐにモリを引き抜くと、自分を襲った人食いザメに対する強い怒りを見せました。
しかし、敬太の後方からは、もう1匹の人食いザメが大きな口を開けて狙っています。
「ふはははは! 人食いザメはもう1匹いることを忘れてもらっちゃいけないぜ! おれから見れば、おめえは後ろ向きで隙だらけだぜ!」
人食いザメは鋭い歯をむき出しにしながら、敬太を後ろから噛みつこうと大きな口を開けました。そして、人食いザメは水しぶきを上げながら小舟を飛び越えるためにジャンプしました。しかし、敬太は後ろから人食いザメが迫っていることにすぐに気づきました。
「おめえは、どうやっておれよりも高く飛び上がることができるんだ?」
「人食いザメがどこから襲ってこようとも、ばくは絶対に負けないぞ!」
敬太は左足でステップすると、そのまま真上へ高く飛び上がりました。そして、高く飛び上がる間に、敬太は180度回転しながら人食いザメの方向に向きを変えました。
人食いザメは、自分よりも高く飛び上がる敬太を見て驚きを隠せない様子です。強い雨が降り続いている状態の中であっても、敬太は勇気を出して人食いザメの襲撃に立ち向かって行きました。
「ぼくの右足の強い蹴りを受けてみろ! え~い!」
「ぐえっ! ぐえっ! ぐえぐえええっ!」
敬太はそのまま急降下しながら、人食いザメの鼻面を狙うために右足を出しました。そして、敬太はその右足でサメの鼻面に強烈なキックを食らわしました。
鼻面に強烈なキックを食らった人食いザメは、小舟の真上でかなり痛々しい表情でもがき苦しみながら、そのまま海中へドボンと落下しました。
「どうだ! 人食いザメめ、これでもまだ戦う気か!」
「おめえは、この前おれたちが言ったことを忘れていないだろうな。おれたちには頭領がいることと、おめえをこの鋭い歯で噛み殺して血の海にしてやることをな!」
「次に会ったときには、この海をおまえの墓場にしてやるからな! おぼえてろよ!」
敬太は、人食いザメに得意げな表情を見せながら、これでもまだ戦う気かと人食いザメを挑発するように言いました。敬太から屈辱を受けた人食いザメたちは、改めて自分たちに頭領がいることやこの海を敬太の墓場にしてやると脅すような怒声で言うと、敬太に鋭い目でにらみつけながら去って行きました。
「人食いザメの頭領って、やっぱり獣人のことを指しているのかなあ? イルカさんは鬼みたいな人間の姿をした黒幕の存在を聞いたことがあると言っていたけど」
敬太は、人食いザメが自分に向かって恨みつらみを言ったのを聞いて、少し前に人食いザメを撃退させた後にイルカから聞いたことを再び思い出しました。
イルカは、獣人という言葉を聞いたことがないので、鬼みたいな人間が獣人であるという確証はできません。しかし、敬太が山奥で暮らしていたときに初めて出会った獣人の姿は、角が頭から生えていないことを除けば、体つきとかは鬼とほぼそっくりだったことを覚えています。
しかし、その間も相変わらず雨が強く降っている上に、海が次第に大荒れの状態になってきました。大しけの海の中を進むにつれて、敬太たちが乗っている小舟も大きく揺れるようになりました。
「敬太くん、さっきよりも大きく揺れてとても恐いワン…。恐いワン…」
「うわっ! 海が大しけになって波しぶきが小舟の中へ入ってきたぞ! それに、小舟の揺れが大きくなってきたぞ」
ワンべえは、小舟が今まで以上に大きく揺れてきたので、敬太の足に再びしがみついたまま恐がっており、そこから離れようとしません。海の波しぶきが小舟の中にに入ったりするなど、大荒れの天気で小舟の進行もままならない状況です。それでも、敬太は必死で大きく揺れている小舟を漕ぎ続けています。
すると、目の前に小さい島らしきものが見えてきました。その小さい島を見つけた敬太は、海の大しけがおさまるまで退避することにしました。
「ワンべえくん、とりあえずあの島まで小舟を漕いで行くことにするよ。小舟が大きく揺れているけど、ぼくの足を離さないようにがんばってね!」
「大きく揺れて恐いけど、敬太くんの足を離さないようにがんばってみるワン!」
敬太は、小さい島に向かって大しけの海を小舟で漕ぎ続けています。ワンべえは小舟の大きな揺れを恐がっていますが、こんな悪天候の中で海に投げ出されたら命を落とす可能性が極めて高くなります。そのため、ワンべえは敬太の足を離さないようにしながら、必死になってしがみついています。
小さい島は、敬太たちが乗っている小舟からもはっきりと大きく見える位置までやってきました。その島には、小さいながらも海に面した浜辺も見えています。
「あれっ、あの島の浜辺に何か小舟みたいなものがあるような気がするけど…。もしかしたら…」
敬太は、その島にある浜辺を見ると、自分たちが乗っているのと同じような小舟らしきものがありました。これを見た敬太は、ひょっとしたら吉之助たちがこの島にいるのではと思い始めました。
もちろん、小舟らしきものがあるからといって、それが吉之助たちが乗っていた小舟であるとは限りません。この悪天候で海が大荒れになっていることから、素潜り漁の途中で吉之助たちが転覆してしまい、乗っていた小舟だけがこの島へ流れ着いたということも考えられるからです。
しかし、吉之助や常助がこの島にいる可能性があるかもしれないという思いから、敬太は2人の無事を信じながら小舟を漕ぎ続けます。
「もうちょっとしたら島に着くから、それまでぼくの体にしがみついてね!」
「わわわっ、恐いワン…。でも、敬太くんといっしょなら恐くてもガマンできるワン」
大しけの海を沖に向かって進んできた小舟は、もうちょっとで小さい島の波打ち際に着きます。敬太は、いつも赤い腹掛け1枚だけつけているので、波しぶきが自分の体にかかっても平気な顔つきをしています。小舟の揺れが大きいので、ワンべえは恐くて敬太の足にしがみついたままですが、敬太といっしょなのでずっとガマンすることができると言いました。
敬太は、小舟が小さい島の波打ち際に着くと、ワンべえとともに小舟から下りました。しかし、浜辺の波打ち際には相変わらず高い波が打ち寄せており、少しでも油断をすると波に足を取られてしまいます。敬太は、まだ体が小さい子犬であるワンべえのことを心配しています。
「ワンべえくん、急いで浜辺のところへ行ってね!」
「敬太くんは、どうして浜辺に上がらないワン?」
「ぼくは、この小舟を力こぶを入れながら真上まで持ち上げてから、浜辺のところまで持って行くよ!」
敬太は、自分よりも先に浜辺のところへ急いで行ってほしいとワンべえに言いました。ワンべえは、敬太にどうして浜辺へ上がらないのか聞きました。これを聞いた敬太は、自分たちが乗ってきた小舟を持ち上げてから、浜辺のところまで持って行くと言いました。
「うぐぐぐぐっ! うぐぐぐぐぐっ! えーいっ!」
敬太は、両腕に力こぶを入れて小舟を真上まで持ち上げると、そのまま浜辺まで持って行きました。その間に、ワンべえもすぐに波打ち際から浜辺へ上がりました。
敬太は両手で持ち上げた小舟を砂浜の上に置くと、すぐに自分がいる浜辺の周りを見渡しました。敬太が見渡すと、自分たちと同じような小舟がすぐ手前の波打ち際に打ち上げられていました。
「小舟みたいなものって、もしかしてこれなのかワン?」
「これはやっぱり吉之助さんの小舟だよ。だって、この小舟に吉之助さんといっしょに乗ったことを覚えているし、小舟の中に置いてあったモリも吉之助さんが持っていたものと同じだよ」
敬太とワンべえは、波打ち際にある小舟を見に行きました。その小舟を見た途端、敬太は吉之助たちが乗っていた小舟であることを確認しました。敬太は、小舟の中に置かれたままのモリを見つけましたが、そのモリは吉之助が使っていたものです。
「とりあえず、この小舟も砂浜の上へ置かないといけないね。このままだったら、沖のほうへ流されてしまうよ」
敬太は、吉之助たちが乗っていた小舟を持ち上げるために、舟底に両手を入れました。そして、小舟の舟底を両腕の力で持ち上げると、敬太はすぐに砂浜の上まで持って行きました。
敬太は、自分の小舟と吉之助たちが乗っていた小舟にそれぞれ置いていたモリを1本ずつ左右両手で持ちました。そのまま放置していたら、先端にある金属製の刺突具がさびて使い物にならなくなるからです。
「小舟が見つかったのはいいけど、吉之助さんたちはどこにいるかな?」
「敬太くん、ここに何か穴みたいなのがいくつもあるワン! ここに入って雨やどりをしようワン!」
「大きい洞窟がこの砂浜の右のほうにあるから、雨がやむまでこの中に入ろうかな」
吉之助たちが乗っていた小舟は見つかりましたが、肝心の吉之助と常助はまだ見つかっていません。そのとき、ワンべえは砂浜の後ろ側に穴があるのを見つけたので、敬太も後ろのほうを振り向きました。そこには、砂浜に沿って木が生い茂っている岩場があり、その岩場の中にいくつもの洞窟が存在します。
敬太は、大きい洞窟が砂浜の右側にあったので、ワンべえといっしょにその洞窟へ急いで入りました。敬太たちは、雨がやむまで洞窟の中で待つことになります。しかし、敬太は吉之助たちを探すという目的を忘れることはありません。
「ワンべえくん、ぼくはこの洞窟の中に吉之助さんや常助くんがいないか、これから探してくるよ!」
「ぼくも、この鼻でにおいを嗅ぎ取りながら、敬太くんといっしょに探すワン!」
敬太は、この島の洞窟の中に吉之助たちがいるかどうか探すことにしました。ワンべえも、敬太の後をついて行きながら、自分の鼻でにおいを嗅ぎ取っています。
洞窟の入り口付近は広い空間となっていますが、足元は大きな岩だらけで足を踏み外すと大ケガをする可能性があります。敬太たちは、足を踏み外さないように慎重に歩きながら進んでいます。
「わわっ、奥のほうへへ行くほど暗くて見えないワン…。何が出てくるか恐いよ…」
「でも、洞窟の中に吉之助さんや常助くんがいるかもしれないから、暗い中であっても少しずついっしょに進んでいこうよ」
しばらく進むにつれて、洞窟の中は次第に真っ暗になりました。ワンべえは、自分の周りに何も見えなくなったので、洞窟の中に恐ろしいのがいるかもしれないと不安になりました。敬太は、そんなワンべえにいっしょに少しずつ洞窟の中を進んでいこうと励ますとともに、自分も右手と左手にそれぞれ1本ずつ持っているモリを2本とも右手で持つことにしました。
「それにしても、吉之助さんたちはどこにいるんだろう…。ここにいなかったら、他のところを探さないといけないなあ」
吉之助たちが洞窟の中にいることを信じながら、敬太たちは手を壁伝いにゆっくりと歩いて行きました。しかし、暗い中をゆっくり奥へ進んでいっても吉之助たちの手がかりは何もありません。
そうするうちに、敬太たちの目の前が少しずつ明るくなってきました。どうやら、この洞窟は砂浜側とは別の入り口があるようです。
「向こうにも洞窟の入り口があるみたいだぞ。とりあえず行ってみようかな」
敬太たちは、足元の大きな岩に気をつけながら少しずつ歩を進めると、この洞窟の別の入り口のところまでやってきました。そこは、波打ち際と直接面しているので、洞窟の入り口のところまで波が打ち寄せています。
「わわっ、波がここまで入ってきたワン!」
「うわ~い、すごいなあ! 洞窟の入り口に波が入ってきたぞ!」
ワンべえは、洞窟の入り口に波が入ってきたのを見て、あわてて後ろのほうへ下がりました。そんな中にあっても、敬太は波が打ち寄せているのを見ながら、無邪気な表情を見せています。
「ワンべえくん、この入り口から波打ち際へ出てみようよ!」
「ぼくは、ここから外へ出たら波にさらわれてしまいそうだワン…」
敬太は、洞窟の新たな入り口から波打ち際へ出てみようとワンべえに言いました。しかし、ワンべえは高い波が洞窟の中にまで次々と打ち寄せてくるのを見て、洞窟から波打ち際へ出ることに二の足を踏んでいます。
「大丈夫だよ! ワンべえくんのことは、ぼくがちゃんと守ってやるからね」
「それじゃあ、ぼくも敬太くんの後をついて行くワン」
敬太は、ワンべえの不安がる様子を見て、自分がワンべえのことをちゃんと守ってあげるから大丈夫と明るい顔つきで言いました。ワンべえも、敬太の言葉を聞いてホッとしている様子です。
洞窟の外へ出た敬太は、鉛色の雲に覆われた空から降り続ける雨に打たれながら、かすかに見える向かい側の陸地を眺めています。
「おっかあは、今ごろどうしているんだろう…」
敬太は、海の向こう側を見ながら、もうすぐ赤ちゃんが生まれるかもしれないおみかのことを心配しています。赤ちゃんを生むためには、天井から吊るされた力綱を使って命がけでいきみ続けなければなりません。敬太は、おみかの体力が赤ちゃんの出産まで持つかどうか不安になってきました。
「敬太くんが吉之助たちを探しに行ってから時間が経つけど、大丈夫かなあ?」
「長老さま、大丈夫だよ。敬太くんは、いつもやさしい心の持ち主であるし、絶対に吉之助さんや常助くんといっしょに戻ってくることを信じているよ」
長老は、ムシロの上で座っているおみかを見守りながら、吉之助たちを探しに海の沖合いに向かった敬太のことが心配になってきました。それを聞いたおみかは、敬太がいつも心のやさしい持ち主であり、必ず吉之助や常助といっしょに戻ってくることを信じていると言いました。
「だって、あたしのお腹にいる赤ちゃんが生まれるのを、敬太くんも新吉くんも楽しみにしているんだもの。あたしも元気な赤ちゃんを生むようにがんばらなくっちゃ」
「ぼくも、おっかあの赤ちゃんが生まれるのを楽しみにしているよ!」
「新吉くん、あたしを励ましてくれて本当にありがとうね」
おみかは、自分の大きなお腹を両手で触れながら、もうすぐ生まれるであろう赤ちゃんの顔を見るのを今から楽しみにしています。そして、敬太と新吉が赤ちゃんが生まれるのを楽しみにしているからこそ、おみかはどんなに苦しくても元気な赤ちゃんが生まれるようにがんばるとやさしい顔つきで言いました。
おみかのそばにいる新吉も、元気な赤ちゃんが生まれるのを楽しみにしていると元気な声で言いました。おみかは、自分に対して励ましてくれた新吉に、感謝の言葉をやさしく述べました。
「ワンべえ、ちょっと見て! 洞窟がもう1つあるよ!」
「敬太くんのところへ行きたいけど、洞窟の中に波が入ってきて行けないよ~」
海の向こう側を見ていた敬太は、洞窟の方向へ向きを変えました。すると、敬太は洞窟の入り口が2つもあることにひっくりしました。敬太たちが今まで洞窟の中を歩いてきたのは左側の入り口のほうでしたが、それとは別に右側にも洞窟の入り口があります。
敬太はワンべえにも見せたいのですぐに呼びましたが、ワンべえは海から押し寄せる波が恐いので、いまだに左側の洞窟の入り口から次の一歩が踏み出せません。
「ワンべえくん、ぼくの左肩に飛び乗って! そうすれば、ワンべえくんだって波が打ち寄せても恐くないよ!」
敬太は、洞窟の左側にある入り口にいるワンべえのところへ一旦戻りました。そして、ワンべえがしゃがみ込んだ敬太の左肩に飛び乗ると、敬太は再び波打ち際に出ました。
「ぼくたちが出てきたのは左の入り口だけど、ここの洞窟には右の入り口もあるから、今度は右のほうから入ってみようかな」
「中へ入ると暗くて恐そうだけど、今は敬太くんといっしょだから恐くないワン!」
敬太たちは、波打ち際から今度は右側の入り口から洞窟に入って行きました。敬太とワンべえは、吉之助たちが洞窟の中にいるものと信じながら、洞窟の暗いところを手を壁伝いにゆっくりと歩いて行きます。
すると、かすかな声が洞窟の中に響くのを敬太が耳にしました。
「あれっ、ここにはぼくたちの他に誰かいるのかな?」
「敬太くん…。やっぱりここに何か恐いのがいるかもしれないワン…」
敬太は、この洞窟の中に自分たち以外に誰かいるのではと思い始めました。すると、ワンべえは暗い洞窟に響いたかすかな声を聞いて、何か恐いのがいるかもしれないと身震いしています。洞窟の中は、ほんのわずかな音であってもよく響くため、暗い中で歩くときには身震いするほどの不気味さを感じます。
「もしかしたら、この洞窟に吉之助たちがいるかもしれないぞ!」
「何かここは不気味な感じがするけど、敬太くんのことを信じてついて行くワン」
敬太は、この洞窟に自分たちが探している吉之助たちがいるかもしれないと期待を持ちながら歩き続けています。敬太の左肩に乗っているワンべえは、暗い洞窟が不気味な漢字がするのでとても不安ですが、敬太の言葉を信じてついて行きました。
敬太たちが暗い中をゆっくり進んでいくにつれて、洞窟に聞こえる声も次第に大きく響き渡りました。その声は、敬太が聞いたことのある声にほぼそっくりです。
「あの声は、やっぱり吉之助さんの声だよ! ワンべえくん、吉之助さんたちはやっぱりこの洞窟にいるんだ」
「敬太くん、本当にそうなのかワン」
「あの声は、素潜りの練習のときの吉之助さんの声とそっくりだったよ! 大きな声がこの洞窟に響いていれば、吉之助さんや常助くんがこの近くにいると思うよ」
敬太は、洞窟に響き渡る声を聴いた瞬間、吉之助の声とそっくりであることを自分の耳で確認しました。そして、敬太はこの洞窟の中に吉之助たちがいることを確信すると、壁伝いにゆっくりと歩きながら進んでいきました。すると、敬太たちのすぐ目の前にある壁面がわずかながら明るみを帯びてきました。
「暗い洞窟の奥まで入ったけど、なぜか少し先の壁面のところがほのかに明るいなあ。どうしてなんだろうか?」
敬太は、真っ暗な洞窟の中を歩いている途中で、なぜか壁面のところがほのかに明るくなっているので気になっています。そして、その壁面は左側の方向からの合流点のところにあります。
「あの壁面のところを目印にして行けば、何かが分かるかもしれないぞ」
敬太たちは、わずかに明るみを帯びる壁面を目印にしながら歩いて行くと、そこは洞窟の行き先が左右両方向への分岐点となっています。洞窟の分岐点へやってきた敬太は、すぐに後ろの方向を振り向きました。
「あっ、もう一方のほうに誰かがいるぞ! 壁面がほのかに明るかったのはそういうことだったのか」
敬太が後ろを振り向くと、自分たちがやってきた方向とは別の方向からろうそくの暖かい光が見えました。洞窟の壁面がかすかに明るかったのは、ろうそくの淡い光がその方向から届いていたからです。ろうそくに照らされた方向を敬太がじっと見つめると、そこには人間らしき人影が見えました。
「吉之助さん! 常助くん! 敬太だよ! ここにいるのかな?」
「敬太って、もしかして敬太くんがここまで探しにきたのか?」
敬太は、その場所に吉之助たちがいるかもしれないと判断すると、いつもの元気な声で呼んでみました。すると、吉之助から敬太に対してすぐに返事が返ってきました。吉之助は、敬太がこの島の中にある洞窟に入って探しにきたことに驚いている様子です。
「吉之助さん、この洞窟の中にいたんだね! 吉之助さんたちが素潜り漁から戻ってこないので村のみんなが心配していたよ!」
「敬太くん、おれたちがいるところは洞窟の天井が低いし、足元もかなり悪いから歩くときには気をつけてな!」
敬太とワンべえは、吉之助たちに再び会えるといううれしさも相まって、はやる気持ちを抑えることができません。でも、吉之助たちがいるところは洞窟の天井も低い上に、足元もかなり悪くなっています。そのため、敬太たちはケガをしないようにゆっくりと進むと、ようやく吉之助たちのところへたどり着きました。
そこには、素潜り漁に出かけていた吉之助と常助の2人がいます。2人は、いずれも裸にふんどしだけをつけている格好となっています。暗い洞窟の中で、吉之助が持っている1本のろうそくの暖かい光が、吉之助たちの周りををほのかに照らしています。
「敬太くん、ぼくたちを探しにきてくれてありがとう! うええええ~ん!」
「常助くん、洞窟の中でずっと寂しくて心細かったんだね。もう大丈夫だから泣かなくてもいいよ」
敬太の姿を見た常助は、自分たちを探しにやってきた敬太に抱きつくと、感謝の言葉を敬太に言いながら思わず泣き出しました。敬太は、もう大丈夫だから泣かなくてもいいよと常助を慰めました。
「敬太くん、どうやってこの島にたどり着いたんだ?」
「ぼくも、小舟に乗って吉之助さんたちを探していたときに、この島をたまたま見つけたんだよ。そのときに吉之助さんたちの乗っていた小舟を見つけたんだ。小舟の中に吉之助さんのモリが置いたままだったから、ぼくが持ってきたよ」
「小舟からあわてて降りたから、モリを置いたままにしていることに気づかなかったなあ。敬太くん、持ってきてくれてありがとう」
吉之助は、敬太が島のことを知っているはずもないのに、どうやってこの島にたどり着いたのか気になったので敬太に聞いてみました。すると、敬太はたまたま偶然この島を見つけてたどり着いたと答えるとともに、そのときに敬太とワンべえは吉之助たちが乗っていた小舟を見つけました。
敬太は、吉之助のモリが小舟の中に置いたままになっていたので、洞窟の中へ入るときに自分のモリといっしょに持って入りました。吉之助は、自分がいつも使っているモリを持ってきてくれた敬太に感謝の言葉を述べました。
「それはそうと、ここまでくる途中に人食いザメが海の沖合いに現れなかったか?」
敬太たちとの再会を喜んだのもつかの間、吉之助は硬くなった表情で意味深なことを敬太に言い始めました。吉之助が言い出したのは、村人たちが最も恐れている人食いザメが海の沖合いに出現したかどうかということです。
「人食いザメって、吉之助さんたちもサメに襲われたの?」
「おれは、沖合いでこのモリを使って素潜り漁をしていたんだ。でも、その素潜り漁を行っているときに、突然どう猛な人食いザメが海中に現れたんだ」
敬太は、吉之助たちが人食いザメに襲われたのか聞いてみました。すると、吉之助は自分が素潜り漁をしている途中に人食いザメが現れたと敬太に言いました。
「小舟には常助くんしか乗っていないので、おれは急いで海面まで浮上してから小舟に戻ったんだ。でも、その間に人食いザメが2~3匹の集団で小舟に迫ってきたんだ。おれたちはサメに襲われる前に小舟をずっと漕ぎ続けたこともあって、人食いザメからどうにか難を逃れたんだ」
吉之助はすぐに小舟に戻ると、常助といっしょに小舟を急いで漕ぎ続けたことで、何とか人食いザメからの襲撃から逃れることができたと敬太に言いました。
「でも、今度は天気が急に悪くなって強い雨が降り出した上に、大しけで高い波が小舟に打ち寄せてきたんだ。このまま無理をして村の浜辺まで戻ろうとしたら、小舟ごと転覆する可能性が大きいし…」
突然振り出した強い雨と大しけによる高い波で、このまま村の浜辺へ戻ろうとしたら小舟が転覆するリスクが大きくなることを吉之助はよく知っています。
「それで、吉之助さんたちは、洞窟で雨やどりをするためにこの島へやってきたの?」
「ああ、そういうことさ。この島は浜ノ沖島という名前で、今は誰も住んでいない無人島だけど、かつてはこの島にも漁をしながら暮らしていた人が何人かいたことを村人から聞いたことがあるんだ」
敬太は、吉之助たちが洞窟で雨やどりをするために浜ノ沖島へやってきたのか聞いてみると、吉之助も敬太の言った通りであると答えました。この浜ノ沖島は誰も住んでいない無人島であるけど、かつては漁業中心の自給自足による生活を送っていた島民が何人かいたそうです。
「ぼくたちは雨が強く降っている中で、吉之助さんたちを探しに小舟で海の沖合いまでやってきたんだ。でも、海が大しけで小舟が高い波で揺れているところに、どう猛な人食いザメが襲ってきたんだ」
敬太は、悪天候の中で吉之助たちを探している途中に、人食いザメが突然襲ってきたと言いました。
「大しけで小舟が揺れている中で、ぼくは海面から飛び上がって襲ってきた人食いザメを何とかこの手で撃退することができたよ!」
「こんなに悪天候で海が大しけの状態であっても、敬太くんはどう猛な人食いザメにひるむことなくやっつけたんだ! 相変わらず敬太くんはすごいなあ!」
敬太が人食いザメと戦ったのは、大しけが続いている海で小舟も揺れている不安定な足場です。しかし、敬太はそのような状況であっても、人食いザメ2匹を何とか撃退することができました。これを聞いた吉之助は、村人たちが恐れる人食いザメをやっつけた敬太のすごさに改めて感心しました。
「人食いザメをやっつけたのはいいけど、どうやってこの島へたどり着いたんだ?」
「大しけで波しぶきが小舟の中へ入ってきてどうしようかと思ったときに、たまたまこの島を見つけたので、大しけがおさまるまでここにいることになったんだ」
吉之助は、敬太たちが浜ノ沖島へどうやってたどり着いたのか尋ねました。敬太は、波しぶきがするほどの大荒れの天気の中で、たまたま見つけた浜ノ沖島へ大しけがおさまるまで退避することになったと答えました。
そのとき、敬太と吉之助の2人が話している横で、常助が落ち着かない様子でモジモジしています。
「吉之助さん…」
「常助くん、どうしたんだ?」
「ごめんなさい…。おしっこをもらしちゃったの」
吉之助は、常助が呼んだのでどうしたのか尋ねました。すると、常助はモジモジしながら、自分のふんどしにおしっこをもらしてしまったことを恥ずかしそうに言いました。常助の足元には、おもらしをしてしまったおしっこの水たまりがあります。おもらしをしちゃった常助は、顔を赤らめた表情で吉之助のほうを向いています。
「常助くん、おれはそんなことを気にしていないぞ。おねしょやおもらしもそのうち自然に治るから、気にしなくてもいいよ」
吉之助は、常助がおもらししたことを気にしていないと言うとともに、おねしょやおもらしも自然に治るから気にしなくてもいいと常助を励ましました。常助は、11歳になった今でも、時々おねしょやおもらしをしてしまうことがあります。
常助の様子を見た敬太は、すぐに常助のそばにやってきました。
「ぼくは、いつもでっかくて元気なおねしょをお布団にしちゃったのをおっかあに見せているよ! 常助くんも、しょんぼりしないで元気な笑顔を見せれば、おねしょやおもらしをしちゃっても気にすることはないよ」
「敬太くんもいつもお布団におねしょをするけど、いつも元気で明るい笑顔なんだね。ぼくも、敬太くんみたいに明るい笑顔を見せるようにがんばるよ!」
敬太は、自分がいつもおねしょしちゃったお布団をおみかに見せていることを常助に言いました。そして、敬太は常助にしょんぼりしないで元気な笑顔を見せれば、おもらしやおねしょをしても気にすることはないと笑顔を見せながら言いました。これを聞いた常助は、いつも明るい笑顔の敬太を見ながら、自分も明るい笑顔を見せるようにがんばると敬太に言いました。
「さあ、洞窟の中から一旦出て、海の中へ入っていっしょに洗おうね」
「敬太くん、海はまだ大しけで波が打ち寄せているだろうから、十分に気をつけてな」
敬太は常助を連れて、洞窟から浜辺へ出てから波打ち際から海の中へ入ることにしました。海の中へはいれば、おもらししちゃった常助のふんどしもつけたままで洗うことができるからです。吉之助は、海がまだ大しけで波打ち際にも次々と波が打ち寄せているようなので、海の中へ入るときには十分に注意するように敬太に忠告しました。
「洞窟から出るためには、暗い中を壁伝いにゆっくり歩かないといけないなあ。常助くんも、ぼくの後をゆっくりついてきてね」
敬太は、浜辺へ出るために再び暗い洞窟の中を壁伝いにゆっくり歩き始めると、常助も敬太の後をついて行きました。洞窟の途中には狭い隙間があるので、敬太は石壁に沿いながら横に歩くようにしました。その狭い隙間を通り抜ければ、目の先に洞窟の出入り口が見えてきます。
「常助くん、狭い隙間を歩くときにはカニさんみたいに横歩きをすると通り抜けることができるよ!」
「そんなことを言わなくたって、ぼくは吉之助さんから同じようなことを教えてもらったから大丈夫だよ」
敬太は、カニさんみたいな横歩きをすれば、狭い隙間を通り抜けることができると常助に言いました。これを聞いた常助は、吉之助から同じことを教えてもらったから大丈夫と言うと、敬太に続いて狭い隙間を横歩きしていきました。
そして、狭い隙間を通り抜けると、2人は薄明るい洞窟の出入り口のほうに向かって行きました。




