リタ・アグリアスの場合
「私のこと、恨んでるんでしょう?」
「……恨んでません」
「嘘よ! だって私はあなたに恨まれて当然なことをした……!」
だーかーらー、恨んでないっていってるでしょ、耳悪いの?
そう言いたくなる気持ちを押し殺して、私は目の前の女性を見つめていました。
あ、どうも。
私はリタ・アグリアスと申します。
つい先日までこの国の未来の王様の正妃候補だったものです。
過去形なのは言うに及ばず、現在は違うと言うことですね。
察しのいい人はお分かりでしょう、そうこの目の前の女性こそが新しい正妃候補なのです。
よくある話です。
聖女としてどこからかあらわれた女性に国の王子様が恋をする……。
なんて王道なお話でしょうか。
どこの絵本の世界だと思わなくもないですが、命を預け、預かった男女が色恋に発展しない訳がないのです。
というのも、聖女様と王子様と騎士団長様と賢者様の四人は世界を滅ぼさんとしてあらわれた魔王を討ち果たし、つい先日、見事我が国に戻ってきたところなのです。
そして魔王討伐の報酬に王子様が望んだのが聖女様をめとる権利だった、というわけです。
さて、これで前正妃候補だった私が“恨んでいるはず”といわれる理由もわかるかと思います。
婚約者を奪われ、恨んでいないはずがないだろう、ということですね。
だけど、本当に恨んでなんかいないのです。
幸い王家の方々が非礼を詫びて、謝礼金他を頂いたので利益的な面で恨みはありません。
両親も家柄や地位にこだわるタイプでもないので、私の心情の心配こそしてくれましたが、次は恋愛婚約が良いなどとのんきに話していたくらいです。
ただ、兄様が、これで王家に貸しひとつだと密やかに笑っていたのは少し怖かったです。
私自身も王子様に恋愛感情を抱いていたわけではなく、家の大きすぎる名前に踊らされ婚約した感が否めないので、肩の荷が下りてほっとしています。
だから、本当に恨んでなんかいないのに、目の前のお嬢さんの被害妄想とも言うべき詰問は終わりを見せません。
大体、こんなハレの日になんでこんな話をするんだろう、この人は。
ここはーーあなたと王子様の婚約記念パーティーの場なのに。
「恨んでいるのなら恨んでいると言ってよ。私のことが憎いと、言ってよ」
彼女の横に寄り添うのはこの国の王子様です。
殺気すら混じるような目で私を見る彼に苦笑が漏れそうになって口を引き結びました。
パーティーの主役とその敵役と言っても良い私の対峙に会場は静まり返っています。
オーケストラが奏でていた音楽も、招待客の祝福の声も、全て消え、代わりに聖女様と私の息遣いが響いているようにも思えます。
こんなに注目されるのは居心地が悪いです。
それ以上に身に覚えもない罪を背負っているような気分になるのが何より鬱陶しかったのです。
なんでこんなことに、と思いました。
ここで恨んでますと言えばそれすなわち国家反逆罪となる可能性があります。
ここで恨んでませんよと固持し続ければ聖女様の面子を潰すことになります。
どう転んでも、私の未来はそう明るくありません。
深く深く息を吸って、私は目の前の女性に笑いました。
「ーーええ、恨んでいます」
「!」
「っ貴様……!」
「とてもとても恨んでいますよ、聖女様」
これは嘘。
恨んでなんかいないのですが、私が恨んでると言わなければ聖女様は納得しないでしょうから。
ざわざわと会場に囁き声が満ちました。
国家への反逆ともとれる言葉のせいかもしれません、王子様の激昂した声をさらりと遮ったせいかもしれません。
「今も、あなたのことが嫌いです」
これも嘘。
よく知りもしない聖女様を嫌いになれるわけはありません。
そこそこ理屈っぽい人間なので、じっくりと人を見て判断するのが常です。
傷ついた顔をする彼女に私はそっと目を閉じました。
「……ですが、私はあなたに、とても感謝しています」
「え……?」
これは、本当。
伏せていた目を開いて、私は困惑する彼女を見据えました。
軽くドレスの裾を持ち上げ、片膝を床につけます。
片手を地面に、片手を太ももに置いて、頭を垂れる、これがこの国での臣下の礼の基本型です。
本来は婦人が床に膝をついたり、地面に手を添えるのはマナー違反なのだけれど、婚約破棄された上に冤罪を被ったとなれば名声など地に落ちたようなものでしょう。
今さら気にしません。
「この国と殿下を守ってくださり、ありがとうございます。これからも第一王子殿下と、お幸せに暮らしてください」
これも、本当。
私の突然の行動に驚いている聖女様に、にこりと笑顔を向けました。
「……どうか私が恨んでいるだとかそういう話は、オフレコでお願いしますね。きっとこの思いは時間と共に風化します」
これが本当の本題です。
恨んでるとか今だけの事だから国家反逆罪とかいって処罰はしないでくださいね、とオブラートに包んで言うと、聖女様はくしゃりと顔を歪めました。
泣きそうなその表情に思わず目を見開くと、彼女はひざまづいたままの私の頬に指先を寄せてきたのです。
「アグリアス嬢……あなたは、……」
「リタと、お呼びください。大変遅くなってしまいましたが、ご婚約おめでとうございます、王太子妃殿下」
ふわりと微笑んで見せます。
困ったときは笑顔で押しきれば良いと父様がいってました。
聖女様は私の顔を見て、何かを言いかけたけれど、呑み込むように泣き笑いを浮かべてありがとう、とこぼしたのです。
私は知りませんでした。
この後、私が生涯にわたって王太子妃の親友兼相談役として深く関わりを持つことになることも。
王と王妃になったお二人から産まれた子供の教育係として任命されることも。
何年も何年も未来に、王を愛し国を愛しながらも王妃になれず、しかし国のために生涯を尽くした臣下として高く評価されることも。
このときの私は知らなかったのです。