四、第一生徒会長
四、第一生徒会長
職員室の扉が一魅の隣りでガラッと開いた。
一魅は音につられて扉を見る。自分と同じ顔が驚いた様子でこちらを見ていた。
相手がこれ程驚いた顔をしているということは、自分も随分驚いた顔をしているだろう。容姿以上にこういう時の表情も、二人は瓜二つなのだ。
そして二人は文字通り目と鼻の先にいた。
「一魅!」
蓮司が惚けた様子の一魅の腕を取った。思い切って引き寄せる。二人は互いに手を伸ばせば届く距離にいたのだ。驚いている場合ではない。
「一魅!」
一姫がやっと我に返った。慌てて前に出ようとするところを箒の柄が制した。一姫の鼻先に箒の先がピタリと据えられていた。実際よりも大きく見える。一歩も動けない。
「槇……」
一姫は悔しげに自分の動きを封じる少女の名を呼んだ。
「あなたね…… 一魅が仲間に入れた元生徒会長は……」
一姫は職員室で審議委員会の担当者から、一魅が元生徒会長の入会を認めさせたことは聞いていた。しかし誰が入ったかは教えてくれなかった。今は誰が入ったかは一目瞭然だ。そして何故入れたかも分かる。何故なら狙われている一姫は、一歩も動けないからだ。
「できるわね…… 槇……」
槇が一姫を入口で押さえている間に、一魅と蓮司の二人は後ろに下がった。槇は二人が十分距離を取ったと見るや、自分も油断なく後ろに下がる。
一姫が職員室から出てきた。後に続いて麻由美と清雪が出てくる。一姫は前に立ち塞がる形の三人を見つめた。
「逃げるぞ」
蓮司は相手から目をそらさずに言った。目をそらしたらそのまま襲われかねない、野生の気が一姫から漂ってくる。そしてその一姫は一人どころか仲間を連れていた。
一姫は『義』に目覚めたらしい。蓮司はそう悟らされた。
「何でよ?」
一魅も目をそらさない。よく知っている。あの目をしている時の姉は――本気だ。
「状況は変わった」
「変わったのは向こうの状況だけ?」
「違います」
槇が自信を持って答えた。箒をあらためて構える。
蓮司は肩をすくめる。一姫は一魅が相手をするだろう。腕力や体力のスペックは同じだと信じたい。技や駆け引きも、互角に渡り合ってもらいたい。
よりによって一姫の仲間になっていた麻由美は槇にお願いしたい。情けないが蓮司では相手にならない。だが槇の箒さばきなら、麻由美に対抗できるだろう。
そうなると清雪は、消去法から言って蓮司が相手をするしかない。顔と名前は知っているし話もしたが、分かっているのはそれだけだ。
だがあの一姫が仲間に入れているのだ。ただ者ではないと見るべきだろう。蓮司は油断なく相手を観察する。
もう思い上がりは捨てた。客観的に判断する。蓮司もこの学校では、人並みなのだ。
蓮司はあらためて前に立ちはだかる三人を見る。一姫は真っ直ぐこちらを見ている。真っ直ぐ一魅を見ている。短い時間ながら今まで見てきた、ふざけ半分の表情ではない。獲物を狙う猛禽類の目だ。
「さてどうするか……」
蓮司は頭の中で組み合わせを変えてみた。蓮司が一姫の相手をする。瞬殺されるイメージしかわかない。朝の麻由美の二の舞だ。蓮司が麻由美の相手をする。結果は同じだ。
槇が一姫の相手をする。麻由美が蓮司か一魅を圧倒して、一姫の加勢に馳せ参じる姿が思い浮かぶ。ダメだ。蓮司は首を振る。
「お姉ちゃんは私が相手するわ」
「あれこれ考えとも無駄か? でも大丈夫か? あんな真剣な目の一姫、初めて見たぞ」
「あれぐらいしょっちゅうしてるわよ。我が家のおかずの取り合いは…… 凄いんだから」
蓮司はその様子を想像してみる。美少女姉妹の取っ組み合い。内容はおかずの取り合いだ。幻滅する。いや、今はむしろこの姉妹には、その方が似合っているような気がしてきた。
「おかずの取り合い……」
槇は息を呑む。おかずの取り合いが理解できない。想像できない。むしろ、尊敬してしまう。
「大丈夫。絶対に油断しないから」
「そうか…… 無理はするなよ」
蓮司は昼前の姉妹ゲンカを思い出す。遊び半分の取っ組み合いだったが互角の勝負をしていたはずだ。決着は着かなかった。それでいいと蓮司は思う。今有利なのは残り時間だけだ。
一魅は今回必ず一姫を倒さなくてはならない訳ではない。一姫が一人の可能性があったから、先程までは対戦を望んだだけだ。
状況は変わった。逃げ出したいぐらいだが、一魅は戦うことを選んだ。それでも時間切れまで粘ればいいのだ。この状況のまま逃げ切ってしまえばいいのだ。
一姫は違う。今日この戦いで一魅を倒したいはずだ。第一〇七生徒会をなくしてしまいたいはずだ。焦っているに違いない。蓮司はそう願った。
「槇」
蓮司が槇を呼んだ。槇は前方を警戒したまま蓮司に応える。
「分かってます。麻由美ちゃんは私が押さえます」
「それと……」
「……?」
蓮司は槇に耳打ちした。
一姫は一魅の目を見て離さなかった。それでも視界の端に写る蓮司と槇を観察した。
蓮司は要注意――
実際のところ蓮司の運動能力は、一姫にはよく分からない。だが策を立てるとすれば蓮司だ。一姫は油断しない。
槇は…… 隙がない…… 相当な使い手ね――
槇はプロフィールファイルに自分の特技として長刀を書いていた。そして目の前の実際の立ち姿。隙がない。自然体だ。一姫はやはり油断しない。
「麻由美。槇をお願い」
「スカッとお任せ!」
そう言って、合点承知と麻由美は目を輝かせる。
麻由美は喜色満面の笑みを浮かべる。まさかの敗者復活をはたしたのだ。しかも自分を倒した相手の味方になっている。
「あたしってば…… 何かのライバルキャラみたい!」
麻由美は嬉しくって仕方がなかった。虚心坦懐そのものの、無邪気な光が目に輝く。
「清雪は蓮司ね」
「分かりました」
清雪の方も蓮司がどういう生徒かは、よくは知らない。顔と名前しか分からない。そして関係がないとも思っていた。
「誰だろうと、負ける訳にはいきません……」
「一姫」
麻由美が何気ない調子で口を開いた。
「?」
一姫は話し掛けられるとは思っていなかったので、返事ができなかった。一姫は簡潔だが指示を出した。短い言葉だったが、優秀な二人にはそれで十分なはずだ。言い忘れたこと、確認し損ねたことはないはずだ。
「一姫は一魅をお願いね」
「ええ。任せました」
「……」
一姫はやはり返事ができない。
「どったの?」
「……あはは、そうね…… そのお願い。あは、任されたわ」
「何いきなり笑ってんのよ? 変な一姫」
「そう? そうかもね、あは」
誰かが自分を信じて任せてくれる。それ自体は昔からあった。でもそれは自分より弱い人間が庇護を求めて一姫の力に頼る場合がほとんどだった。
誰も対等に見てくれない。
家族以外は皆、腫れ物でも触るように一姫に接してきた。一姫の容姿と能力が皆を遠ざけてきた。少し寂しかった。
その分妹や家族は大事にしてきた。そしていつも変人を演じてきた。いつもちょっとおかしい行動をしてきた。
距離を置くぐらいなら、初めから近付いて欲しくはなかったからだ。気が付けば家族以外は自分の周りに近付かなくなっていた。
今は違う。麻由美は自分に真っ向から勝負を挑んだ。清雪は私事で怒り心頭の自分に臆せず話し掛けてきた。そして今また二人は、自分にも指示を出してくる。当たり前のように対等に。
目の前にも三人立ちはだかっている。正面から勝負を挑んできている。最愛の妹が自分で選んだ仲間と立ちふさがっている。対等になろうとしている。
「行きましょう」
一姫はその喜びを面に出すのを堪えるかのように、ゆっくりと前に出た。
一姫が動いたと見るや槇が前に出た。
「麻由美ちゃん!」
「おりょ! 私の相手してくれるのね! 槇!」
麻由美は機敏な動きで一姫の前に出た。嬉しくて仕方がないのか、欣喜雀躍と飛び跳ねるような動きで前に出る。
「ヤッ!」
槇が気合一閃、前に走り出した。蓮司が槇に続いて前に走り出す。
「何か企んでいるんですか?」
清雪が前に出た。そして疑問に思う。普通なら時間切れまで粘りたいはずの相手が、自分から仕掛けてきた。警戒するに越したことはない。
しかし吟味している時間はない。狙いがあるとすれば一姫に何か仕掛けてくるのかもしれない。清雪は一姫を守るべく、麻由美の横に並ぶ。
迫りくる槇を、麻由美が真っ直ぐに見据えた。清雪は蓮司から目を離さない。四人を挟んで一魅と一姫は睨み合っている。
蓮司は賭けに出た。自分達と同じ組み合わせで向こうも対戦する気でいるという賭けだ。槇に麻由美の名を呼びながら突っかかって行くように頼んだ。そしてもう一つ指示を出した。
「一姫!」
蓮司は声の限り叫んだ。
一姫は蓮司の声に反応しない。一魅から目を離さない。蓮司の相手は清雪がしてくれる。蓮司は一姫を倒しにはこられない。信じていた。
一魅も蓮司の声に動揺しない。一姫の相手は一魅だ。蓮司は認めてくれた。蓮司は一姫を倒しに行った訳ではない。信じていた。
清雪が蓮司に睨みを利かす。一姫に近付けさせない。その決意で槇と蓮司に目を凝らした。
「ヤッ!」
槇の大きな声が廊下に響いた。裂帛の気合いだ。走り込んできた足を止め、下から上へ箒を跳ね上げる。
麻由美は箒の軌道を見極めるべく、自慢の動体視力で槇の動きを追った。攻撃を防ぐべく両手を構える。
「あれ?」
麻由美が素っ頓狂な声を上げる。距離がおかしい。槇の狙いがおかしい。一瞬でそう見切った。麻由美は野性的な距離感に絶対の自信がある。自分を狙った攻撃にしては槇は近付き過ぎだ。そして、振り上げる箒の角度が違い過ぎる。
しかも先程一姫に突き出した柄の方ではない。
掃く方の先が――ブラシの部分が、うなりをあげて自分の――横の清雪を襲う。
「なっ?」
清雪は裏をかかれたと思った。『麻由美』『一姫』と二人は名前を呼んだが、それは自分を狙っていることを悟らせない為だ。
合点がいった。まだ間に合う。自分の鉢巻きは取らせない。清雪は後手に回ったが、自分の鉢巻きにすぐさま右手をやった。とっさに手の甲で、額を押さえようとする。
「やらせません!」
いける!
蓮司はその清雪の様子に確信する。
麻由美は理解できなかった。ブラシの先は少し重い。それに固くない。柄のように細い訳でもない。広がっている。空気抵抗は大きいはずだ。それ故に大雑把にしか扱えない。
ふるうなら柄の方のはずだ。柄でこすり上げて鉢巻きを外して取ってしまうのが槇の戦い方のはずだ。失敗はしたが、蓮司を狙った時はそうしていた。
「取れる訳な――」
麻由美が自分の目の前を素通りした槇のブラシの先を目で追う。清雪が鉢巻きを死守するべく右手を挙げていた。
「あっ!」
麻由美が驚天動地と目を見開いた時にはもう遅かった。槇の箒は清雪の顔を襲い、その大きなブラシで清雪の顔をなで上げた。ブラシに絡められた清雪の――眼鏡が弾け飛ぶ。
「なっ?」
清雪はやられたと思った。槇の狙いは――いや蓮司の狙いは――鉢巻きではなかった。戦力の削減だったのだ。自分の眼鏡を奪い戦力を削ぐことだった。
清雪の眼鏡は壁に当たり、上手い具合に蓮司の足下に転がってきた。蓮司は足を止め眼鏡を拾い上げて、レンズ越しに前を覗いて見た。蓮司の視界が歪む。
槇が後ろに跳んだ。眼鏡を胸ポケットに入れている蓮司の横に着地する。
「蓮司くん、上手くいきました」
「サンキュ」
蓮司はこれで少し戦いが楽になると思った。眼鏡を奪われた清雪は鋭い目付きでこちらを睨んでいる。元からあの細さだったような気もするが、この場合はああやって目を細めないとこちらの様子が分からないと考えるべきだろう。期待以上に戦力を削げたのかもしれない。
「何、作戦だったの? 蓮司?」
「おう、細かい作戦は任せろ」
「大将はどんとかまえておいて下さいです」
槇が一際凄みを利かせて、今度は箒の柄を前に突き出した。
「何スカッと、やらてんのよ? 清雪」
「そんな。別に、やられた訳じゃないですよ」
「そうよ。まだやられた訳じゃないわ」
一姫が軽く笑って言う。まだ始まったばかり。そう言いたげだ。そして一魅を見た。
「そう、まだ始まったばかり。そして終わりは……」
一姫は一魅の鉢巻きを取り上げている自分を想像した。
「そうじゃなくって…… ほら…… 何て言うかその……」
「何よ。麻由美? もじもじしちゃって?」
「スカッと…… 別に……」
麻由美は珍しく言い淀んで顔をそらした。戦いの興奮とは、また違った赤みがその顔に差す。
清雪はそんな麻由美の様子に気付かない。気を引き締めなおそうと、首を左右に振る。
「では、皆さん。反撃といきましょう」
そして決意を込めて一歩足を踏み出すと、
「あら。やられたのは、あなただけよ。清雪」
「スカッと同意ね」
「えっ? そんな!」
清雪は蹴つまずき、転びそうになりながら前に出た。
清雪が前に出ると、槇の箒がけん制してきた。
清雪は上体をそらして、僅かにかわす。視界はぼやけているが、槇の狙いが正確なのが逆に幸いした。自分なら狙うであろう隙を狙ってくる。清雪はこうであろうという軌道を読み、先に体を動かすことで槇の箒を避けた。
清雪の狙いは蓮司だ。一姫に任されたのは蓮司だ。それに自分の眼鏡を狙う指示を出したのは、直前に槇に耳打ちした蓮司に違いない。借りを返すなら蓮司だ。
槇は清雪に二度、三度とけん制の箒を見舞った。今は柄の方で攻撃している。けん制とはいえ当てる軌道だ。体へダメージを与えることが目的ではないとはいえ、それなりに威力は込めている。だが清雪には避けられてしまっている。
上には上がいます!
槇は楽しくなってきた。
「さてと……」
蓮司は次の手を打つべく清雪に狙いを定めた。槇の邪魔にならないように、その左に並ぶ。作戦の第一弾は終わった。この後も有利に進める為には次に――
麻由美は清雪のすぐ後で動いた。心身一如の境地でゆらりと、槇との距離を詰める。槇の箒の軌道を見定めた。パターンのようなものが掴めてくる。空気を切り裂く軌道を自慢の目で見、そして自慢の耳で聞いた。正に飛耳長目の見本のような、抜群の観察力を発揮する。
ターン、タン、タターン…… こんな感じかな――
大雑把に槇の攻撃のリズムを掴むと一気に前に出た。箒を避けはするが前に出きれていない清雪を援護する為だ。
ターン、タン、タターン…… やっぱりそうね――
麻由美は息を止め全神経を目と耳と指先に集中した。清雪の横に並ぶ。槇の攻撃が次に清雪を襲う軌道上に、眼光炯々と目を光らす。
「ターン! タン! タタ…… もらった!」
槇の箒が最高速になる一瞬前――麻由美の左手が電光石火の動きで、その柄の先端に襲いかかる。気が付けば麻由美の左手が箒の先を掴んでいた。
「ウソ!」
槇はその光景に息を呑む。槇は素手の護身術も習っている。だが徒手空拳は相手の方がどう見ても上だ。得物――得意な武器――を失うのは圧倒的に不利だ。やってはならない失態だ。
「……」
蓮司が槇の危機に気付いた。素早く体を反転させて槇の右に回り込む。
麻由美は左手一本で槇の箒を取り上げようとした。さすがに無理だった。
清雪は状況が文字通りよく見えない。身を固めて警戒するのが精一杯だった。
槇は両手で箒を堅く握る。必死さが両手に込められているような、力の入れ様だった。
麻由美は両手で箒を取りにいくか、それともこのまま一気に槇の鉢巻きを狙うべきか一瞬迷った。槇は箒に意識を取られている。取られまいと必死に両手で握っている。それでも両手の勝負になれば、麻由美はあっさりと槇から箒を取り上げられるだろう。
「ダメ!」
だが必死になり過ぎた槇は、目までつむってしまっていた。
「頭がスカッとお留守よ! 槇!」
麻由美は鉢巻きを選んだ。一瞬の迷いの後、右手が槇の頭に襲いかかる。
「しっかりしろ! 槇!」
「イタッ!」
蓮司が槇の名を叫ぶと同時に、麻由美の死角から右足のつま先を蹴り込んだ。
麻由美の左の手首に激痛が走る。
名を呼ばれ、そして箒越しに走った両手の衝撃で、槇は我に返った。
麻由美は箒を離していた。麻由美の右手はもう少しというところ――槇の鉢巻きの手前で空を切っていた。迷わなければ届いていたかもしれない。
「私ったら……」
槇は箒にだけ意識を集中していた自分の失敗を悟った。そして蓮司に助けられたことにも気付いた。蓮司が麻由美の左手を蹴り上げたのだ。
しょぼーんですわ…… でも!
眉を落として落ち込む顔文字を、槇は頭に描いてから振り払った。落ち込んでいる暇などないのだ。槇はキッと顔を上げた。眉根をつり上げて決意を示す顔文字が頭に浮かぶ。
「行きます!」
清雪はやっと状況が見えた。麻由美が槇の間合いに入って攻撃を止めたのだ。蓮司の加勢で決定的な仕事はできなかったが、槇の動きを止めることに成功している。
ぼんやりだがそう見えた清雪は、槇の動きが一瞬止まった隙をついて、蓮司に飛びかかった。槇と麻由美の間を斜めに横切る。
「第一生徒会副会長――椎堂清雪!」
清雪は明確に蓮司だけを狙うことにした。蓮司に自分の相手が誰であるかを分からせる為、自分の名前を名乗り上げる。
「第一〇七生徒会副会長――桐山蓮司!」
掴み掛かってくる清雪の両掌を、蓮司ががっちり掴んだ。同時に自分の役職と名前を名乗り返す。手は互いの指を組み合う形になった。真っ向からの力比べの形だ。
蓮司は勢いに負けて、後ろにたたらを踏む。押し倒されまいと体勢を立て直しながら、それでいて押されるままに後ろに退く。瞬く間に、一魅の横を二人はもつれるように通り過ぎた。
「蓮司!」
「任せろ!」
だがむしろ他の四人と距離が取れるのは、蓮司の狙い通りだ。自分達も分断させられるが、相手も分断することができる。一人倒されても、相手に加勢に行くのに時間を取らせることができる。それにもし万が一、一魅と槇が先に倒されるようなことがあれば、自分は恥を忍んで逃げ出すのもいとわないつもりだ。
エリートなどという意識はもう捨てた。這い上がる為に必要なことは全てする。バカにされようと、何と言われようと、時間まで逃げ切れば生き残れる。そう、次のチャンスがある。
その為にも他の相手とは距離がある方がいい。そして蓮司の相手はおそらく一度自分を見失えば二度と探し出せないだろう。それぐらいの度の眼鏡の主だと蓮司は判断した。
眼鏡を奪ったのはいざとなれば大正解となるはずだ。蓮司はそう信じた。
清雪が目の前を横切った後、麻由美はもう一度槇に襲い掛かった。
「第一生徒会――」
「第一〇七生徒会書記――雲雀丘槇!」
清雪の真似をする麻由美。その声を上回る音量で、槇が自分の名を名乗り上げた。
もう自己紹介もできないような槇ではない。そう主張しているかのような声だった。
「会計! 中山麻由美! 割って入るなんて、スカッと生意気!」
麻由美は出端をくじかれた。だが体勢として有利なのは麻由美だ。
このまま距離を取らせてはいけない。今より距離を取らせれば槇の得意な間合いになる。槇が清雪に集中していたから、今この間合いにいることができる。次はあるか分からない。この好機は逃せない。声で負けた分両手に力を込めて、交互に前に突き出した。
槇は後ろに飛びずさった。距離を取らないと得物を存分にふるうことができない。それどころか、少しの油断で麻由美の腕が自分の鉢巻きをさらって行く間合いだ。
槇は箒を細かくふるう。必死で麻由美の手を払い退ける。それだけで精一杯だった。
槇が後ろに下がる分だけ麻由美は前に出た。間合いを取らせようとしない。いやむしろ少しずつ距離が詰まって行く。
まずいですわ――
槇は麻由美の動きに舌を巻く。無駄がない。槇も効率よく体をさばいて後ろに下がっている。だがそれ以上に麻由美は一つの無駄なく体を動かして前に出てくる。自分の体の筋肉一つ一つに、直接命令を下せるかのような正確な動きだった。それでいて一つ一つが力強い。活殺自在、怪力乱神、質実剛健。正に八面六臂の働きで、麻由美の手足が槇の鋭い攻撃を打ち払う。
「もらい!」
麻由美の右手が槇の頭に迫った。槇は防御が間に合わない。それでも両手を上げようとした時、もう一人の影が動いた。
「一魅ッ?」
「一魅ちゃん!」
槇と麻由美は一魅の位置まで後退していた。麻由美の右手を一魅の右手が払う。
まともにぶつかっては弾き返されるかもしれない。だが麻由美の腕の流れに逆らわない方向に、一魅は腕を払っていた。
力を加勢する形で右手を払われた麻由美は、勢い余って槇の鉢巻きを掴み損ねる。
「それなら!」
麻由美は目の前にいる一魅の鉢巻きを狙った。一姫には悪いが状況上仕方がない。
一魅は迫りくる麻由美の左手を、右手で防いだ。左手は自分の鉢巻きに手をやって守りとして備える。一魅は利き腕の右手なのに、利き腕ではない麻由美の左手に押し返される。
「あまい! スカッと、もら――」
「槇!」
一魅は本人に目も向けずにその名を呼んだ。自分はほんの少し槇が体勢を立て直す時間を稼げばいい。最初からそう考えていた。
名前を呼べば助けてくれる仲間がいる。この戦いが始まった時もそうだった。あの時は蓮司の名前を呼んだ。
「ハイッ!」
槇は気合いとも返事とも取れる掛け声とともに、箒の柄を突き出した。正確に麻由美の鉢巻きを狙っている。一魅が作り出した僅かな時間で体勢を整え、自分の間合いをとったのだ。
今度は麻由美が後ろに下がる番だった。槇が箒を突き出す度に、麻由美は後ろに飛ぶように下がった。
「麻由美……」
一姫の呼ぶ声が麻由美の横でした。あっという間に一姫の位置まで戻されたのだ。
「ただいま!」
麻由美は陽気に言った。押されているが、まだ致命的ではない。余裕のあるところを見せて、自分の生徒会長を安心させたかった。一姫の武運長久を祈るかのように、ちゃんと笑顔も添えて言った。
「槇……」
一姫は一魅から目を離して、迫りくる槇を見た。
「一姫ちゃん……」
槇の背中が、一瞬で凍り付きそうになる。
母性すら感じる一魅と同じ容姿をしているのに、近付いただけで威圧感を感じるその一姫の視線。だが麻由美に攻撃をし続ける為には、一姫の横を通り抜けなければならない。
怖い…… これが御崎一姫…… 一魅ちゃんがどうしても倒したい人――
保健室で会った時とは別人のようだ。あの時も一種近寄りがたい雰囲気はあった。普通に紹介されていたら惚れ惚れしていただろう。仁太郎を説得している姿は、カリスマ性すら槇は密かに感じていた。
しかしまともに敵意をぶつけられている今は、恐怖の対象ですらある。
私が敵に回ったからですわ…… でも――
槇は一姫と一瞬並んだ。一姫は槇を横目で見つめる。とても冷たい目だった。
怖がっちゃダメ…… これは罠ですの――
槇は自分の脇の下に、大量の冷や汗が出ていることに気が付いた。
麻由美ちゃんを助ける為、自分に注意を引く為に私に気を送っているんですわ――
槇は自分の全身が、総毛立つのが分かった。
麻由美ちゃんもこの人に挑んだ…… 一魅ちゃんも戦おうとしてますわ――
槇はごくりと息を呑む。瞬く間に乾いてしまったノドは、唾をよく呑み込んでくれない。
だが――
「私だって!」
槇は裂帛の気合とともに、一姫の横を通り抜けた。重い空気の壁を打ち破ったような錯覚を覚える。それは一姫が放つ気の壁だった。
「やるわね……」
一姫は麻由美を追いつめて行く槇の背中を見て呟いた。
一姫は麻由美を助けたかった。だが、槇に自分から手を出してどうこうできるとは思わなかった。いくら一姫でも得物を持った槇には返り討ちにされかねない。槇を目で挑発し相手から攻撃を仕掛けさせるべきだと思った。
そうすれば一姫が少し時間を稼げば麻由美が加勢してくれる。一気に形勢は逆転できたはずだ。しかし槇は耐えた。一姫は素直に感心した。槇と麻由美はかなり離れた位置で、やっと止まる。
そして後には一魅と一姫だけが残された。
蓮司は清雪の手を打ち払っては組み、叩き除けてはまた組みながら、廊下を後ろに退いた。
清雪はやはり前がよく見えていないようだ。どうしても手を組みたがる。手探りとまではいかないが、こうしないと蓮司との距離感が掴めないようだ。
「くそっ!」
蓮司は清雪の手を打ち払って毒づく。今回は生き残ればそれでいい。本当は背中を見せて、逃げ出すのも手だと思っている。
だが、背中を見せるような隙はなさそうだった。その証拠に少しでも気を抜くと、清雪の腕が額に伸びてくる。
「ちっ!」
蓮司は舌打ちをしながら、顔をそらす。清雪の右手が、蓮司の前髪をかすめて空を切った。指の爪まで見える近さだ。体温すら分かる距離だ。気迫すら当てられる間合いだ。
その近付いた清雪に蓮司も右手を伸ばすが、伸ばし切る前に左手で打ち払われてしまう。何度も蓮司は手を伸ばすが、その度に遠い位置で打ち払われた。
二人が一瞬立ち止まる。蓮司が清雪に睨みを利かした。
「ろくに見えてないくせに。こっちの攻撃を読んでんのか?」
「攻撃というか、呼吸ですね」
「こきゅー?」
「ええ。分かりやすいです。桐山くんは」
「そりゃ、鼻息荒くて失礼!」
蓮司は右足を蹴り上げた。清雪の頭あたりまで上げようと、力の限り振り上げた。もちろん鉢巻きをとるのに、右足では役に立たない。多少トリッキーな動きを取り入れたつもりだった。
だが半身に退いた清雪に、あっさりと腰の高さで掴まれてしまった。踵がグンと持ち上がる。
「げっ?」
「空気の流れも読んでますよ」
清雪はそう言うと、掴んだ踵をひねりを入れて持ち上げた。蓮司の力に逆らわず、更に加勢してやる。
蓮司の腰が浮いてしまった。左足は床から離され、踏ん張りが利かない。右足はしっかりと掴まれ、清雪の左手を外せそうにない。
蓮司は一瞬でひっくり返される自分を想像した。蹴りを出したのは失敗だった。
「このっ!」
蓮司は最後の踏ん張りで、左足に力を入れた。僅かに曲げた膝を跳ね上がる。
「――ッ!」
清雪の手元で蓮司の足の重さが、ズシリと増えた。蓮司は清雪から逃れようとせず、むしろ前に飛んできたのだ。気が付けば清雪は、蓮司の体重を左手一本で、支えさせられていた。
いや、もちろん支えきれない。このまま手を放さなければ、蓮司が着地した時には、体重に負けて清雪は腰をかがめているだろう。それは蓮司に頭を――鉢巻きを差し出す形だ。
「ハイッ!」
清雪はとっさに両手で蓮司の足を持ち直し、思いっきり上に跳ね上げた。
蓮司の体がバク転をするかのように、空中で回転する。清雪の両手は、蓮司の足から離れていた。蓮司の体勢が完全に反転した。廊下の床が、蓮司の視界に入る。とっさにその床に両手を着こうと、蓮司が手を伸ばしたその時――
――ゾクッ……
殺気が蓮司の背中でした。
「く……」
蓮司は本能的に両手を後頭部にやる。僅かに間に合った。鉢巻きの端を引っ張られた瞬間に、自分で結び目を掴むことができた。
「痛っ!」
手の補助も何もなくひっくり返った蓮司は、派手に床に正面から落ちてしまう。肘と顔とお腹を打ちつけながら、蓮司はそれでも機敏に立ち上がった。
すぐ目に映ったのは清雪の姿だ。掴み損ねた鉢巻きの感触を、確かめるかのように、突き出した右手を握りしめている。
「ご立派ですね。自分を犠牲してまで、鉢巻きを守るとは。僕も拝ませてもらおうかな?」
「う、うる…… せーよ…… ど、どいつもこいつも…… タダで拝みやがって……」
蓮司は痛む鼻をさするよりも先に、外れかけた鉢巻きを締め直す。肺を打ったせいか、随分と呼吸が荒い。
「息切れしてますよ。桐山くん。派手に動き過ぎてませんか?」
「うるせー…… て、言ってんだろ……」
「確かに鼻息が荒いです――ねっと」
清雪はそう言うと、スッと前に滑るように身を躍らせた。そしてこれだけ戦っても、清雪の呼吸は――まだ一つも乱れていなかった。
麻由美は力の限り、拳の背を叩き付けた。己の鉢巻きを狙って突き出された箒に、正に鎧袖一触とばかりに渾身の力で左の拳を叩き込む。
「スカッと、粉砕!」
思わずそう声が出た程の、完璧な一撃のつもりだった。だが僅かに芯をとらえ損なっている。いや微妙に力を逃がされてしまっている。画竜点睛を欠いたようだ。
箒は柔らかく衝撃を吸収し、一瞬で引っ込められた。
「やるわね! 槇!」
「麻由美ちゃんこそ!」
槇は箒を構え直す。そして内心麻由美の攻撃に舌を巻く。
一姫の気に当てられて、ほんの僅かに攻撃が緩んだ隙に、麻由美は体勢を立て直していた。立て直した瞬間に放たれた拳は、鋭く重たかった。後ほんの少し力を抜くのが遅れていれば、力にまともに立ち向かう形となり、箒はへし折れていただろう。
「ですが!」
槇は箒を気合いとともにふるう。もとより武器のある方が有利だ。麻由美は箒をさばくことはできても、それをかいくぐって懐に入り込むことはできないだろう。
槇はチラッと一魅と一姫に目をやる。加勢にはこられなさそうだ。。清雪に気を取られていた時は、横から麻由美に箒を掴まれてしまった。だが今は一対一。懐にさえ入らせなければ、槇は有利にことを運べるはずだ。
しかし麻由美は油断ならない。今も虎視眈々と槇の隙を狙っている。これからは賭けのような攻防を、薄氷を踏むような戦いを、槇はしなくてはならないのかもしれない。
「ヤッ!」
槇は今までに倍する勢いで、箒と勇気を同時にふるった。
「あなたに…… 人の上に立つ度胸があるなんてね…… 一魅……」
「お姉ちゃんこそ…… 人を迎え入れる度量があるなんて……」
二人は互いに前に出る。二人の距離はすぐに縮まった。伸ばせばお互いの手が届く距離だ。
お互いがいつもより大きく見えた。
こんなに大きかったかと、背丈すら瓜二つの姉妹は互いにそう思う。
「勝負を…… ううん…… 賭けをしない? 一魅、私闘よ……」
「何よ?」
「私があなたから鉢巻きを一本でも取れたら…… あなたはまた髪を伸ばす。少なくとも高校三年間はね」
「何それ?」
「お母さんも一佳も伸ばしてるじゃない。一人だけショートだなんて、許さないんだから」
「何が許さないのよ? 一太は伸ばしてないわよ?」
一佳は中三の妹で、一太は小二の弟だ。弟を引き合いに出したのは、一魅は冗談のつもりだった。だが姉は、そうとはとらなかったようだ。
「そうね…… 一太も伸ばさせようかしら」
「やめてよね。本気で言ってるでしょ?」
「そうよ。でも代わりに一本でも私から取れたら、今日の夕食当番手伝ってあげる」
「はぁ?」
一魅には一姫の真意が分からない。御崎家の夕食は、家族の持ち回りによる当番制だ。だがこの大事な局面で、夕食の手伝い程度が賭けの俎上に上がるとは、一魅は思ってもみなかった。
「それともう一つ。決着を着けたいの」
「決着?」
「だからこれは私闘――そうこの勝負は、生徒会の鉢巻きの総数で決着を着けましょう」
「なっ?」
「そしてあなたは負けると、私の生徒会に入るの。蓮司と槇も一緒でいいわ」
これが一姫の本命だった。今のところ一魅の鉢巻きを全て奪っても、それだけでは一魅を失職に追いやれない。蓮司と槇がそれぞれ一本ずつ頭に巻いている。
一姫は、清雪と麻由美が上手くやってくれると信じている。
だが残念ながら時間はない。そして蓮司ならいざとなったら逃げの手を打つかもしれない。清雪の眼鏡を奪ったのは蓮司が勝つ為はもとより、いざとなれば逃げ切ることも辞さない為だと一姫は見抜いていた。
一本目の鉢巻きの賭けは撒き餌だ。最初から解散云々を言い出せばあっさりと拒絶される。一つ目の賭けの話を最後をまで聞かせることで、二本目の賭けを無視しづらくさせたのだ。今現在の自分達の鉢巻きの総数が、相手より多いのもしっかり計算に入れている。
「何言ってんのよ…… 私の方が不利じゃ――」
「逆にあなたが勝ったら、私の生徒会を解散して、そっちの生徒会に入ってあげるわ。清雪と麻由美も一緒によ」
一姫は一魅に皆まで言わせず、相手側に有利な条件を出した。
「なっ?」
一魅は一瞬言葉に詰まった。すぐには何が有利で、何が不利か分からなかったからだ。それだけ一姫の生徒会を吸収できるのは魅力的だった。
一本目の賭けの話を断らず、二本目の賭けに言葉を詰まらせた。その時点で相手の術中にはまっていた。一姫の狙い通りだった。
「決まりね!」
「なっ! 勝手に決めないでよ!」
一姫が嬉しそうに身構え、一魅が慌てて対峙する。
「第一生徒会生徒会長――御崎一姫!」
「第一〇七生徒会生徒会長――御崎一魅!」
互いに最もよく知っている者に――そう思っていた者に名乗りを上げ、二人は一歩前に出た。
桐山蓮司は息が戻らない。床に派手に体を打ち付けた後、休みなく清雪が攻撃を仕掛けてくる。息をつく暇がないのだ。息を整える間がないのだ。息を抜く隙がないのだ。
気力だけで避けた。気合いだけで弾いた。気概だけで持ち堪えた。
「チッ!」
清雪の左手が、蓮司の鉢巻きをかすめた。右手で弾き返そうとして、間に合わなかった。かろうじて首をひねった。限界が近いのかもしれない。
蓮司は一歩後ろに下がる。
清雪はゆっくりと同じだけ距離を詰める。
蓮司は両手を上げる。組み合いを望んだ。とにかく防ぐことが先決だ。相手の手の動きを封じて、少しでも粘りやすいようにと考えた。
清雪は幸いにも応じるようだ。やはりよく見えないのだろう。掴まえて投げ技でも狙っているのかもしれない。
二人で掌を組み合わす。冷静に見てみれば、体格は蓮司の方が上のようだ。
力で押し切ってやる――
蓮司は腕に力を込めた。動かない。ムキになって力を入れるが、気が付くと押され出していた。
力勝負でも負けるのか?
蓮司は内心の焦りとともに、清雪の肩越しに廊下の時計を見た。後五分少しだ。
蓮司は両手に更に力を込めた。後五分は耐えなければならない。その思いでいっぱいだった。
こなくそっ!
気合いを入れ直す。渾身の力を込めて両手を力む。
そして両手と時間に気を取られるあまりに、自分の片足が半分床を踏み外しかけているとは――全く考えもしなかった。
中山麻由美はもどかしかった。いくら徒手空拳とはいえ、相手を圧倒できない。こんなことは今までなかった。一姫という存在を知って尚、槇の力にも舌を巻かざるを得ない。この高校では、大生徒会戦では、体育特待生の麻由美とて特別ではないと思い知らされる。
なんとか懐に入り込まないと――
麻由美は目を凝らした。
どうしたらいいのよ――
槇には隙がない。麻由美もやらせてはいないつもりだが、近付けば防御の為に箒を払われ、離れれば鉢巻きを狙った攻撃がくる。
箒って卑怯なんじゃない?
麻由美は今更ながら思った。
「ダメよ、あたし! 状況のせいにしちゃ! あたし! ファイト!」
麻由美は己を叱咤激励する。麻由美は周囲に目をやった。自分も使える道具はないか、窮余の一策を求め視線をめまぐるしく動かす。
視界の端に白い物が踊った。
「あった! これよ!」
死中求活と思わず声を上げ、麻由美が目をそらしたその一瞬の隙。その僅かな油断をついて、槇が箒を一閃した。
麻由美はその槇の鋭い一振りに――すぐには気が付かなかった。
一姫の右手が一魅の頭を急襲する。一姫らしくない直線的な動きだった。
麻由美の相手で思わぬ時間を使った。内心焦りがあったのかもしれない。一姫は何でもできる。しかし一姫でも常に完璧ではない。妹が絡めば尚更だ。
一魅は己の左腕で一姫の右腕を弾いた。弾かれた勢いを逆に利用して一姫は左腕を出してくる。一魅は右手を拡げてその左腕を防ごうとする。相手の注意が一瞬己の左手に偏った瞬間、一姫は右腕を再度振り上げた。
まずい!
一魅は一瞬目をつむりそうになるのをかろうじて堪えた。カッと目を見開く。
そんな隙を与える訳にはいかない。相手は一姫なのだ。この十五年間姉妹で争って、偶然以外で勝ったことがない最大にして最愛の姉なのだ。一魅は意識に上るよりも早く、己のまぶたに渾身の力を入れて目を見開いた。
一魅と一姫はがっちりと手を組んだ。瓜二つの右手と左手がそれぞれ相手の指の間に差し入れられ、掌を合わせて組み合う。蓮司と清雪と同じ、真っ向からの力比べの形だ。
二人は互いの腕に力を込める。各々右手は相手の鉢巻きを狙う為に、左手は右手を防ぐ為に。
「姉妹で争ってるとお母さんが悲しむわよ」
一姫が右手に力を込める。
「関係ないわ」
一魅が左手に神経を集中する。
「私情で副会長を選んでる娘に、勝ち目なんてないわ」
一姫が力の入れる角度を微妙に変える。
「何のことよ……」
一魅は右手に力を入れた。ほとんど押し返せない。
「あなたが私に勝ったことがある?」
何か一言言う度に一姫は右手に力を入れた。
「あるわよ」
「何かの偶然があった時だけでしょ?」
「何? 昔話が自慢なの?」
一魅は強がりを言うことしかできない。
どうして? 私だけ押されてるの――
一魅は相手の左手だけが頑として動かず、自分の左手は押されていることに焦りが隠せない。一心にこちらの目を見る一姫に対して、一魅はちらちらと自分の左手を見てしまう。額を冷や汗が伝った。一姫の右手が徐々に前に押し出されてくる。
「何? 一魅…… 焦ってるの?」
「なっ! 何よ! 何を根拠に……」
「目が泳いでるわよ!」
一姫の右手が一気に額に近付いた。
「く……」
一姫の右手の親指がこめかみをかすめ、一魅は思わず身をそらす。
「それはダメよ…… 一魅!」
一姫は一気に上半身に力を込めた。一魅が身をそらした分、一姫はその上に身を乗り出す。一魅は押し倒されそうになるのを耐える為、右足を一歩後ろに引いた。
「しまった……」
「ほらね」
「く…… この……」
僅かな角度だが一姫は一魅に覆いかぶさるようになっている。一姫が有利だ。一魅は影を落とす一姫の顔を見上げて己の失策を悔やんだ。
椎堂清雪は両腕に力を込めた。蓮司と掌を組み合った両手に力を入れる。だが闇雲には力を入れない。清雪はこの状況下で、己が如何に冷静になっているかを自覚する。
そして冷静でありながら、清雪は己の力に高揚していた。
相手は強い。自分の鉢巻きも一本しかない。前もよく見えない。
見せる余裕などない。与える隙もない。余計なことは考えられない。
それ故に――
親を助けたい。料理をうまく作りたい。弟妹の世話がしたい。面白い奴と思われたい。
そのような全ての雑念が清雪から消えていく。
雑念の入り込む余地のない今や、他人の視線を感じることもない。清雪は己の本当の力を、この剥き出しの自分に感じる。これが本当の――等身大の自分の力なのだと信じられる。
最初組み合いを嫌った蓮司も、今は自分から組み合ってきた。よく見えないお陰で雑念を振り払えてはいるが、やはりハンデはそれなりに大きい。
だがむしろそれは望むところだった。この境地にいる為には必要な逆境だ。
このまま両手を相手の額にまで押しやれば、指先だけでも手探りで鉢巻きを奪えるはず。その逆境もこの状況もありがたい。清雪はそう考えていた。
力は拮抗していた。だが清雪は焦らない。何より蓮司は息が上がりかけている。
今だ!
蓮司が僅かに力を緩めた隙をついて、清雪は逆に力を込めた。少し前に両手が進む。蓮司が慌てた様子で自分の腕に力を込め直すのが、文字通り手に取るように清雪には分かった。
違う…… 闇雲に力を込めればいい訳じゃない――
清雪は必要充分な分だけ自分の両手に力を込める。それは力の均衡が取れる状態だ。
桐山くんのペース配分は間違っています――
余分を振り払った清雪は、蓮司の力の入れ過ぎを見抜く。清雪自身は待ちの境地で、次に力を入れるべきタイミングを見計らう。蓮司の力が僅かに緩んだ。
ここ!
清雪は両手を更に前に出した。腕どころか上半身ごと前に出せた。
ずっと同じように力を入れることなどできはしない。動く時と我慢する時――それがあるのだ。動かないことを選ぶのもまた必要なのだ。清雪はそう思う。
素人です…… 桐山くんは、体と力の使い方が――
無我の境地とでも言うべき今の清雪には、蓮司の動きはまるで無駄だらけに見えた。
蓮司が大きくバランスを後ろに崩した。
今!
清雪は一気に前に出た。思った以上に体が前に出たので、思わず右足を大きく前に出す。蓮司の体を追い越す形で右足を前に進めた。想定以上に足が出た。
だがもう詰みだ。相手の懐に入った。清雪はそう見て、一気に勝負に出る。
必要以上に足が――いや、欲が出たのかもしれない。それは余分なものだ。せっかくの境地を清雪は自ら手放してしまった。清雪もまだまだだったのかもしれない。
「終わりで――」
だから清雪は自分が踏み出したその先に――足場がないとは、少しも見えてはいなかった。
雲雀丘槇は嬉しくって仕方がなかった。存分に箒をふるってもまだ麻由美の鉢巻きをとらえることができない。自分の全力が通じない。それでも嬉しくって仕方がなかった。
凄いですわ――
槇は麻由美を凄いと思った。
一瞬も気を抜けません…… 刹那の油断もあり得えません――
槇の渾身の突きを麻由美は弾き跳ばす。槇の入魂の一閃を麻由美は迎え撃つ。槇の全力一撃を麻由美は叩き返す。当意即妙とでも言うべき、技に対する技の返し。一撃一撃に込められた抜山蓋世の気迫。荒唐無稽なまでの力。麻由美は強い。槇はそれがたまらなく嬉しい。
どうやったらこの人を倒せるんですか!
槇は嬉しさのあまり自問する。箒が麻由美の額ギリギリを通る。僅かな隙を狙って少しでも前に出ようと、麻由美は勇猛果敢に足を踏み出す。
お婆様、お母様、お父様、皆様…… 私は、戦っています!
槇の脳裏に今日の話をしてあげたい人達が浮かんだ。
楽しくって仕方がありません!
麻由美の目が一瞬こちらを見ていなかった。何かを探すように顔はそのままに、目だけ上下左右に動いた。
その程度の動きでも槇は見逃さなかった。
そして大きく麻由美の視線がそれる。
「隙有り!」
槇は下から上へ会心の一振りを放った。
その時麻由美が既に、自分も得物を手に入れていたとは――槇はまるで思いもよらなかった。
一魅はやっと分かった。姉は自分が動揺した時だけ力を込めて押し出していたのだ。その為に無駄話のような話で、こちらが動揺するのを誘っていたのだ。
この体勢も不利だ。重力を味方に付けた一姫が一気に押してくる。一姫の右手親指がまた、一魅の鉢巻きを求めて宙を舞う。一魅は自分の左手の親指で必死に抵抗を試みる。
均衡する力が二人の腕を震わせた。利き腕は二人とも右腕。そして今や一姫の右腕はかなり一魅の左腕を押している。一姫の親指が一魅の鉢巻きに掛かりそうになる。引っ掛けてさえしまえば、後はどうとでもなると一姫は右腕に力を込めた。
一魅の右腕も一姫の左腕を押し返す。しかし一魅の方が明らかに不利だ。全体の体勢として下にきてしまっている。一魅も親指で鉢巻きを引っ掛けようとするが、むなしく宙を切る。
そして一姫の指がついに一魅の鉢巻きに掛かった。
「――ッ!」
「もらったわ!」
一姫が一気に一魅の腕ごと右手を上に引き上げた。鉢巻きを親指でつり上げる為だ。思わず頬が緩む。
一姫の親指には鉢巻きが――一本引っ掛かっていた。
今よ!
と、一魅が一気に力を入れた。姉は鉢巻きを一本手に入れたことで、さすがに心に隙ができている。一魅はそう感じた。一息に体勢を立て直す。
「――ッ! やるじゃない……」
一姫は中間点に戻された両手を見て呟いた。体勢も五分だ。
右手の親指に鉢巻きが引っ掛かっている。手に巻いていると言えなくもない。もとより三本頭に巻いているので、規定上はこの体勢で続けても問題ないはずだ。
一姫はそう考えそのまま力を込め直した。一本でも多く鉢巻きを取らないとならないからだ。時間が惜しいからだ。
「それはこっちの台詞よ……」
「生意気言って! 早くあきらめなさいよ!」
「まだ一本あるもの!」
そう叫びつつ一魅は、心の中で自分を叱責する。二本しかない鉢巻きの一本を取られてしまった。鉢巻きの数は六対一。今や絶対的に一魅が不利だ。
最後の一本を死守すべきか、残り一本も狙ってくるであろう姉に、逆に攻めに出るべきか。どちらかを選択しなくてはならない。
「負けを認めなさい! 一魅!」
もちろん一魅に負けを認めるなどという選択肢は、
「まだよ!」
ありはしなかった。
清雪の親指が蓮司の鉢巻きに迫った瞬間――蓮司と清雪は足を踏み外した。
二人の体が一瞬で浮遊感に襲われる。蓮司はとっさに後ろを振り向いた。階段だ――
「げっ!」
「何!」
二人はもつれ合って階段を転げ落ちた。二、三歩たたらを踏むように階段を駆け降りると、勢いのついた体は完全に宙に浮いた。一気に上半身が下に傾く。
「このっ!」
蓮司は自分と清雪の体を守るべく、両手を振り払って相手の体を掴まえる。蓮司は渾身の力を込めて二人の体をひねった。かろうじて体を横にして頭を打つのを避ける。そのかわり肩から脇腹、腰はしたたかに打ち付けた。
「一魅! 悪い!」
蓮司は階段を転げ落ちながら一魅の顔を思い浮かべた。逃げ切る最後の手段を使うどころか、二人でもつれあって落ちているからだ。しかも落ちていく先は、袋小路とも言うべき地下食堂だ。もちろん清雪の鉢巻きは奪えていない。
代わりに蓮司の鉢巻きは――
「ハッ!」
槇の箒が、麻由美の鉢巻きをさらいかけた瞬間――麻由美は己の左腕に巻いた鉢巻きで、槇の箒を絡めとっていた。
「――ッ!」
槇は驚きに目を見開いた。麻由美は自分の左手に巻いた鉢巻きの両端を右手で掴むと、高速で迫りくる槇の箒の柄をその鉢巻きで受け止め、絡めとったのだ。
「おりゃ!」
正に破顔一笑。麻由美は自分の狙い通りの状況に、会心の笑みを浮かべる。
「力勝負よ 槇!」
「ダメ……」
槇は思わず声を漏らす。
お婆様、お母様、お父様、皆様――
槇は明らかに力負けしている状況に、またもや思わず目をつむる。
「ダメ!」
槇は自分を叱責し目を見開いた。同じ間違いをしてはいけない。今は一人なのだ。見れば麻由美は思いのほか余裕がない。布越しでは思うようには力が入らない。そう感じられた。
でも持ち直されたら――
もう箒は止まってしまっている。今までつかまらなかったのは、高速で攻撃を仕掛けていたからだ。その優位はなくなった。麻由美の機転が槇の攻撃を止めた。
鉢巻き越しではなく、麻由美が柄を直に持ち直したら槇は一気に不利になる。
そして槇の懸念は的中する。麻由美が布越しでは力が入らないと見るや、右手で箒の柄を掴んだ。そのまま麻由美は腰に力を入れる為、己の手を下にして箒を力の限り引っ張った。
「スカッと、終わり!」
「一魅ちゃん! 蓮司くん!」
祈るように仲間の名を叫んだ。槇の脳裏に先程の蓮司の姿が浮かぶ。あの加勢の蹴りがなければやられていた。だが今は誰にも頼れない。
「ヤッ!」
槇は渾身の力で、自分の右足を振り上げる。
「そんな蹴りで!」
もちろん槇の力でどうにかなるような、不意も突いていない攻撃に耐えられないような、麻由美の腕力ではない。麻由美はこちらも渾身の力で箒を握り締めた。
一魅の背後から大きな物音が廊下に響き渡った。蓮司と清雪の叫び声と、何かが転げ落ちるような音だ。
「何?」
「……蓮司と清雪が階段から転げ落ちたわ――」
一姫が一魅の不安をあおる為に、あえて見たままのことを言った。状況がまるで分からないよりも、想像する材料がある方が不安になるはずだ。一姫はそう考えた。
「受け身…… とれたかしらね?」
そしてわざと付け加える。
「そんな……」
「人の心配を…… している暇があるの!」
一姫の右腕が一魅の左腕を押した。単純な力比べなら利き腕が有利だ。一魅の不安を突いてまた、一姫が一気に右腕を前に進める。
「私の生徒会に入るのがあなたの幸せの為よ。一魅」
「勝手に決めないでよ!」
「凄い顔してるわよ一魅。蓮司に嫌われちゃうわ」
百年の恋も覚めそうな形相で睨み合う二人。噛み付かんばかりだ。
一魅には蓮司と清雪の様子が分からなかったはずだ。一魅と一姫と同じ格好で掴み合ったまま、階下に転げて行った。角度からして一魅には見えないはずだ。だから伝聞でしか分からない一魅の動揺を誘う為に、一姫はわざと蓮司の名前を出す。
「それが何?」
一魅は少し押し返した。
「蓮司が戦ってて…… 私が…… 戦わない訳ないでしょ…… 動揺するとでも思った?」
そして一魅はかなり押し返した。一魅の左手と一姫の右手は中間地点まで押し戻される。一姫の狙いは外れた。
「失礼よ。お姉ちゃんは…… 蓮司なら大丈夫よ」
そう今は蓮司を信じるしかない。一魅は自分に言い聞かせた。そして蓮司を信じる分だけ力が出た。かなりのところまで押し戻せた。
一魅は自分でもひどい形相をしていると思った。ある意味鏡よりも正確に自分の表情は双子の姉が映し出している。
一姫は必死だ。必死の形相だ。一魅も同じ顔をしているはずだ。年頃の少女にあるまじき形相だ。しかしかまってはいられない。やっと対等になれたのだ。そして姉は外見にかまっていられない程必死になっている。自分がそうさせている。ここまできたのだ。
「何よ。ちょっと子猫を助けてるのを見掛けたぐらいで…… 参っちゃうくせに……」
一姫はもう一度心理的に揺さぶる作戦に出た。妹の弱みなどいくらである。
「放っといてよ」
一魅は話題には乗らないつもりでそう応えた。相手をするから動揺するのだ。
姉と二人で受験の下見にきたあの日、木の枝で一匹の子猫が降りられなくなって鳴いているのを遠目に見つけた。助けようと駆け寄ろうとしたら、見知らぬ男子生徒に先を越された。相手は一魅に気が付かなかったようだ。
「否定はしないんだ?」
一姫は一魅が話題に乗らないと見るや、それを逆手に取った。
「なっ!」
「『運命の人』かも――とか、恥ずかしいこと言ってたもんね!」
「ちょ……」
一魅は姉に何でも相談する。生まれた時からそれが自然だったからだ。しなかったのは生徒会長への立候補と――これからの戦いへの決意の為に髪を切ったことだけだ。
「でも…… いくら再会が嬉しかったからって――」
「うるさい!」
一魅が一気にまた押し返した。
しまった…… いじり過ぎた――
一姫は自分が調子に乗り過ぎたことを悟った。妹は凄い力で押し返してくる。本気で怒らせたのだ。
だが――
「何?」
だが一魅の片足が浮く。今まで押しても押しても達しなかった姉の懐に、一気に両腕が入った。しかし姉は不敵に笑っている。
しまった!
一魅はそう思う間もなく体が宙に浮くのを感じた。姉は力を抜いたのだ。姉は自分の力を利用して、一気に決着を付けようとしているのだ。
「これで!」
一姫は力を入れ直す。今までとは逆に自分の方向に力を入れ、巧みに一魅の体を引き倒す。
「キャッ!」
一魅は右手が引かれ、体勢を崩しきられたところで今度は左手を押された。自分ではどうしようもないまま、体が一姫の横で反転した。かろうじて両手は離さない。
しかし肩から廊下に倒された。姉はこの状況においても、妹に頭を打たせないようにする余裕があるのだ。
「しま――」
「終わりね!」
一姫は両手を掴んだまま、一魅の上に馬乗りになっていた。
十組の担任佐野仁太郎は、古い写真を覗き込んだ。もちろん今は大生徒会戦の真っ最中だ。
だが生徒の自主性を育てる為、戦いが始まれば仁太郎は口を出す気はない。特に鉢巻き取りは先人が何度も戦ってきた戦いだ。更に言えば仁太郎が昔提案した戦いだ。見守るまでもない。
だから生徒会戦の喧噪を避け、食堂でコーヒーを楽しんでいた。そして柄にもなく昔の写真を取り出して、感傷に耽っていた。
「大生徒会戦ね……」
仁太郎は思い出す。学校設立の初年度。まだ一年生しかいない学校で、一年生だけで生徒会を作らないといけないと教室で伝えられた。とても人目を引く一人の女子生徒が手を挙げた。
「『いっそのこと全員を生徒会にして、競い合ったらいいと思います』だったかな……」
その女子生徒は全クラスの同意を取り付けた後、職員室で教職員を説得した。女子生徒は翌日実に自然な感じで自分自身が生徒会長になり、実に適当な感じで他の生徒会役員を指名した。
指名された役員の一人――書記は仁太郎だった。目が合ったから。それだけの理由だったような気がする。気が付けば第一〇七生徒会の書記にされていた。
他の生徒達もつられるように各々生徒会を結成し、瞬く間に百七もの生徒会が結成された。
「今年の第一〇七生徒会は…… あいつらね……」
仁太郎は自分の担任のクラスの、一際目立つ生徒を思い出した。御崎一魅と桐山蓮司だ。一魅と蓮司は望まなくしてなったビリ番だ。だが自分の第一〇七生徒会の生徒会長は、望んでビリ番を選んだ。今でもその当時の顔を思い出すことができる。
「一番下から一番上を目指すのが、一番いいんじゃないっとか言ってたかな…… 結局『真の生徒会』として卒業生答辞を読んだのに、とちったことをいつまでも無念――」
その仁太郎の独り言を、
「イテテッ!」
「痛い!」
まるで階段から転げ落ちてきたような、男子の悲鳴が遮った。
「うるせーぞ!」
仁太郎は笑って怒鳴る。戦っているのだから、痛いのは当然だと言わんばかりの顔だった。
ここは職員室直下の地下食堂。頭上では新入生の第一生徒会と第一〇七生徒会の戦いが佳境に入るところだった。
「そんな蹴りで!」
廊下に麻由美の声が響き渡る。圧倒的な力で握っている箒。その指先に更に力を込める。槇程度の蹴りで、どうにかなるような麻由美の力ではない。
だが――
――ガンッ!
という衝撃とともに、麻由美の右手に鋭い痛みが走った。麻由美は思わず声を上げる。
「イタッ!」
「渡しません!」
槇は振り上げた右足で、一気に自分の箒を踏みつけていた。自分の全体重が乗るように右足に渾身の力を込めた。
清楚に品よく生きてきた槇は、人様の前で、生まれて初めてそんな角度に足を上げた。端から見てどんなに品のない格好になっているかは考えなかった。
さすがの麻由美でも、右手一本では槇の体重と脚力に抗し切れない。麻由美の手から箒が弾け飛んだ。箒は廊下に、派手な音を立てて叩き付けられる。
「やるじゃない……」
麻由美は痛む手をさすった。力で負けるとは思わなかった。足まで加勢するとは考えてなかった。槇がそこまでするとは思いもよらなかった。
麻由美の足下に鉢巻きが一つ落ちていた。二人とも気付いていなかったが、箒を絡めとられる前の槇の一撃が、麻由美の鉢巻きを一つ外していたのだ。
ようやく気が付いた二人は同時に鉢巻きに目をやる。麻由美は油断なく屈んで拾い上げると、結び目をほどいて槇にその鉢巻きを放り投げた。
「槇。あなたのよ」
「麻由美ちゃん……」
槇は鉢巻きを空中で受け取った。だが鉢巻きは言ってみれば、ただ外れただけだ。奪った訳ではない。実際に拾ったのは麻由美だ。槇はためらいがちに応える。
「あなたには、その鉢巻きを巻く資格があるわ。私から奪った鉢巻きをね」
麻由美は自分の左手の鉢巻きを外しながら言った。鉢巻きはもう腕にはない。また得物をなくすことになるが、気にならなかった。
そう、そんな不利が気にならない程、今の麻由美は高ぶっていた。
「はい……」
槇はうなづく。相手が認めてくれたのだ。槇の力を。これに応えなければ失礼になる。
「では、スカッと決着よ!」
麻由美が左手の鉢巻きを、頭に巻き直す。もちろん誰にも真似できない二重巻だ。
「はい」
槇が箒を構えて応える。この短い時間で、随分と箒も手になじんだ。
槇は箒を掴んだ麻由美の力を思い出す。次掴まれてしまえば、今度こそ確実に得物をなくすことになるだろう。しかし打って出なくては、得物を突き出さなくては、麻由美にあっという間に懐に入られてしまう。
二人はお互いの出方を見る為、しばし見つめ合う。
だが時間はもう――ほとんどなくなっていた。
「あきらめさないよ…… 一魅!」
一姫の両手が一魅に迫る。二人は倒れても手を離さなかった。もはや駆け引きは無用。重力を味方につけ、一姫の両手が一魅の両手を押さえ付ける。
「あきらめないわ…… お姉ちゃんこそあきらめたら……」
「何をよ?」
「私を生徒会に入れることよ。むしろ私が、お姉ちゃんを私の生徒会に入れてあげる……」
一魅は状況も体勢も苦しいが強がりを言った。強がっていないと気持ちが挫けそうになるからだ。踏ん張り過ぎたせいか、もう手に力が入らない。今は気力だけで保っている。
一姫は一魅の腿の上に馬乗りになっている。もはやひっくり返せるとは思えない。
「生意気!」
一姫は焦っていた。時間がない。一姫はざっと計算する。万が一清雪と麻由美が負ければ、計七本が第一〇七生徒会のものになる。そうなればここで一魅の鉢巻きを奪っても、同数にしかならない。いやもし奪えなければ、自分が出した条件で一姫が負けてしまうことになる。
清雪と麻由美が負ける。それはないと思っている。だが万全を期したい。
そして何よりも一魅を完膚なきまでに負かしたい。一魅を納得させる為、自分の力を認めさせたい。
どうしてそんなに嫌なの…… 一魅――
一姫は不意にそう思う。妹は自分から離れようとしている。妹を取り戻したい。その為には完全な勝利が欲しい。最後の一本も奪いたい。
ここまできたのよ――
一姫は最後の力を振り絞った。
ここまできたのに――
一魅は一姫の顔を見た。一度は必死の形相まで追いつめた姉はまた、少し余裕のある表情をしているように見えた。
いえ違うわ――
余裕があるように見えて焦っている。時間のせいだ。
残り時間がないから、姉はこの有利な体勢にかかわらず、必要以上に焦っている。完全な勝利を欲して、必要のない焦りに負けている。
焦りをつくのよ…… 考えて…… 考えなきゃ――
手が震える。一魅は自分の力が、限界に達しているのが分かった。
一魅は一姫の手から逃れる為、思い切りアゴを上げた。だがもうそれ以上は手がない。力も入らない。そして一魅の手から、
「……」
力が抜けた――
槇の突きが、麻由美の右のこめかみを紙一重でかすめた。
麻由美は箒がこめかみをかすめる音を、自慢の耳で確かめた。僅かに首を傾けていなければ、鉢巻きは弾けとんでいただろう。
麻由美はこの箒を掴むことができない。箒を払われてはかわすだけで精一杯。突かれた時に、戻す瞬間に手を出してみたが間に合わない。かといって近付けば足を払われる。うかつに近付くこともできない。
だが突きは間違いなく槇の箒が、この状況下で一番麻由美に近付く瞬間だ。これを掴めば形勢は逆転する。だが腕を伸ばす前に箒は戻される。僅かに間に合わない。
「腕が間に合わないなら!」
麻由美は自分の耳を信じる。本当に紙一重を通っているのが、その風切る音で分かる。
だから槇の突きが戻される瞬間――
「おりゃ!」
「なっ?」
麻由美は自分から、乾坤一擲とばかりに頭を箒にこすりつけた。髪と鉢巻きの摩擦に負け、箒が戻される速度が僅かに鈍る。軌道がゆがみ、軸もぶれる。
「もらい!」
麻由美は左手を挙げた。先程まで一人では、素手では掴み切れなかった箒の先を、やっと掴まえる。思い切り左手を引いた。右手も加勢に差し出す。足はそう何度も食らわない。
「流石です! ですが――」
次に掴まれたら終わり。そして荒唐無稽なまでの力を見せつける、この麻由美ならありうる。槇は分かっていた。内心、覚悟をしていた。だからこそ、対処ができる。
「させません!」
槇はむしろ箒を前に突き出した。思わぬ力の加勢に、麻由美が後ろに体勢を崩す。
麻由美が槇の動きに、晴天霹靂と言わんばかりに目を剥いた。
槇は自分から箒を突き出し、そして箒を手放した。
「捨て身? 槇!」
「麻由美ちゃん! 覚悟!」
槇は一気に麻由美の懐に跳んだ。麻由美の両手は自分の箒を持って塞がっている。槇の目の前に麻由美の顔がある。槇は両手を振り上げた。鉢巻きに手を伸ばす。ここで麻由美の鉢巻きを三本とも取れなければ、一気にまた形勢が逆転する。
「槇!」
麻由美は箒を手放した。もう既に槇は自分の懐に入っている。防御は間に合わない。麻由美は思い切って槇の鉢巻きを自分も狙った。槇の両手の外側から、麻由美の鉢巻きに手を伸ばす。腕の動きそのものは麻由美の方が速い。
二人が互いの鉢巻きに手を掛けた瞬間――
一魅の手から力が抜けた。
一姫はそう感じた。
何? 限界? 降参?
一姫の両手と上半身が前のめりになる。
やった――
一魅の顔が目の前にある。あきらめたのか、喘ぐように顔を後ろにそらせている。アゴしか見えない。表情が見えない。
しかし鉢巻きはすぐそこだ。後はこの指を振りほどいて、手を伸ばすだけだ。一本しかない鉢巻きを奪うだけだ。時間は――間に合った。後は手を伸ばすだけだ。
一魅…… あなたはやっぱり私のも――
一姫がそう思ったその刹那――
一姫は蓮司と目が合った。
「えっ? 蓮司?」
一姫は一瞬蓮司に気をとられた。蓮司と目が合ったような気がした。
だが実際蓮司が見ていたのは――一魅の方だった。
一魅に向かって両手を広げていた蓮司が、力強くうなづいた。
一姫は自分の両手が、思いっきり広げられていることに気が付いた。そう一魅が広げるままに、まるで蓮司がしているままのようにだ。
ウソッ!
体ごと前のめりになり、一姫の胸が一魅の胸に当たった。
今!
自分を信じるかのようにうなづく蓮司に、一魅が応えるように顔を跳ね上がる。
一魅は両手を思いっきり広げた。一魅は力を抜いた訳ではなかった。力の入れる方向を変えたのだ。前ではなく、横に。蓮司の示した指示のままに、一魅は手を横に広げ、アゴを引いた。
一姫は驚いて一魅の顔を見た。自信に満ちた一魅の顔が目前に迫っていた。
「一魅!」
一姫は一魅の狙いを悟った。だが遅かった。
「一姫!」
一魅は久しぶりに姉を名前で呼んだ。いつ以来かはとっさに思い出せない。
「――ッ!」
一魅の頭突きが一姫の鼻に打ち付けられた。
一姫の目の奥で火花が散る。不意を食らったのと、本当に痛かったのとで思わず一姫は首を左右に振った。
首の動きに合わせて鉢巻きの端が左右に揺れる。先程まで背中に乗っていた鉢巻きの端だ。
しまった!
一姫は自分の失敗を悟った。痛みに負けても首を左右になど、振ってはいけなかったのだ。
鉢巻きが――
首の動きを止めた一姫の視界の端に、鉢巻きの一端が見える。先程まで背中に乗っていたその鉢巻きは、首の動きに合わせて長い黒髪と一緒に左右に振れた後、一姫の首の横から重力に負けて垂れ下がろうとしていた。
「――ッ!」
声にならない声を上げて一姫は首を上げようとする。上半身をそらせる。鉢巻きを垂れさせてはいけない。だがそれも間違いだった。少なくとも遅過ぎた。
「……ガッ!」
一魅は垂れてくる鉢巻きの端をくわえた。姉が痛みに耐えかねて首を振った後、自分の顔の前に垂れてきた鉢巻きの端だ。この絶望的な状況下で唯一もたらされた希望だ。
一魅は最後の希望に食らいついた。両手からは気を抜かず、力一杯首を伸ばして鉢巻きに噛み付く。なんとか一本だけとらえた。その一本をがっちりと歯を食いしばって離さない。
このっ!
一魅は力の限り首を振った。姉が自分の意図を察し、それから逃れようと首を後ろにそらせた瞬間だった。
ダメッ!
一姫は心の中で叫んだ。自分の頭の鉢巻きが、思いっきり引っぱられる感覚に思わず目をつむる。だが首を懸命にのけぞらせても、妹の思惑に加勢することにしかならない。
しかし感情がそれ認めることを否定した。あってはならないという思いが一姫をして、非論理的にさせた。
それは間違いよ…… 一姫!
一魅は心の中でそう叫んだ。自分の口がくわえた鉢巻きが、思いっきり引き伸ばされる。一魅は最後の力で、無駄な抵抗を続ける姉を睨み付けた。
その時――
力の抜けた鉢巻きの輪っかが、一魅の顔の上でフワッと宙に舞った。それは先程まで一姫の頭に巻かれていた一本だった。
一番下に巻いた鉢巻きだったのだろう。他の二本も外れてしまい、鉢巻きがちょうど一魅の目を覆い隠す形で三本とも落ちてきた。
そしてその時、停戦のベルが鳴った。
蓮司と清雪は停戦のベルを、自分達の生徒会長を見つめながら聞いた。
蓮司はゆっくりと、広げていた手を戻した。
蓮司が清雪に肩を貸している。清雪の左足首が少しはれていた。足をくじいた清雪に、蓮司が肩を貸していたのだ。
その蓮司の左手も赤かった。服で隠れて見えないが、体の左側は全部真っ赤になっているのかもしれない。痛みを訴える体に、蓮司は見なくともそれが分かった。
蓮司は鉢巻きをしていない。見れば清雪もだ。鉢巻きはそれぞれの手の中にあった。
「おみごと。ナイスアドバイスです」
「フン……」
「こちらも、いつか決着をつけたいですね」
「別に次があるなんて、保証はない」
蓮司は二人して階段を転げ落ちた時のことを思い出す――
蓮司は状況が見えていない相手の分まで、体を入れ替えて自分と相手をかばった。頭を打つのを最低限避ける為、左肩から左腿にかけては派手に打ち付けた。
二人の頭をかばいながらも、下まで落ちた時には心底安堵した。生きてると思った。自分が生きいてるかどうか確かめたのは生まれて初めてだった。『うるせーぞ!』と食堂の方から、もう既に耳慣れた怒鳴り声が聞こえた気がしたが、かまってはいられなかった。
蓮司は自分の身を確認した後、あらためて頭の鉢巻きを確かめた。落下の途中で感じたようにやはり奪われていた。階下の隣りで、蓮司の鉢巻きを手にした清雪が、上半身を起こし首を左右に振っていた。
「借りを作ったままでは気分が悪いので」
清雪も停戦のベルを聞きながら、階段を落ちた時のことを思い出す――
転がり落ちた後、状況が分からないまま清雪は首を振って気合いを入れ直した。頭を上げて階段を見て、自分の右手の鉢巻きを見た。
「階段でしたか……」
清雪は合点がいく。そして状況も把握する。自分達は戦いに気を取られて階段から転げ落ちたのだ。そしてその時清雪は、相手から鉢巻きを奪うことに成功していた。
だがそれはもう、相手が既に状況を把握し、清雪の体を怪我から守ろうと戦いをやめた後だった。清雪だけが状況が見えていなかったようだ。
清雪は自分の鉢巻きを外した。奪った鉢巻きを相手に差し出す。
「引き分けですね。戻りましょう」
蓮司は黙って鉢巻きを受け取った。
「痛っ!」
階段を登り始めた清雪が大きな声を上げた。
「眼鏡返すの忘れてたな……」
清雪が階段を踏み外して前に倒れている。派手なつんのめり方だ。蓮司は困ったように、頬を掻いた。そして思わず呟く。
「面白い奴だな…… お前……」
「えっ? ホントッ?」
清雪が驚いて振り返る。あまりの驚きと嬉しさに、まだ自分が体勢を整え直し切れていないことに気付かない。
「――ッ! アイタッ!」
先程よりも大きな声で清雪が叫ぶ。おかしな方向に左足首が曲がっている。完全にくじいているのだろう。せっかく無傷で階段を転げ落ちたのに、あれでは一人では歩けるどうかも怪しい。そんな曲がり方だ。
そして二人で肩を組みながら階段を登り切り、自分達の生徒会長の戦いを見届けたところで、停戦のベルが鳴った。
その時、槇と麻由美は停戦のベルを聞いた。
互いの鉢巻きを完全にとらえ、後は二人とも引き抜くだけという瞬間だった。
槇は鋭く伸ばした指を、麻由美の鉢巻きの下に滑り込ませいた。
麻由美は力の限り曲げた指で、槇の鉢巻きを鷲掴みにしていた。
相手の顔に両手をあてる形で二人は動きを止めた。
「あはは……」
「えへへ……」
しばし見つめ合い、どちらともなく笑い出した。これではお互いの顔を、見つめ合っているみたいだ。
「あはは!」
「えへへ!」
二人の笑い声に入れ替わるように、停戦のベルが鳴り止んだ。
姉は無表情だった。一魅が自分の目を覆った鉢巻きを、振り払った後に見た姉の顔だ。
お姉ちゃん――
一魅は不思議な光景を見ていると思った。姉はいつも変人を演じている。しかし無表情な一姫は今まで見たことがなかった。わざとらしい意地悪な顔、作っているのが丸分かりな冷たい顔など、何らかの感情が伝わる顔をいつもしていた。
一姫はどうしていいのか分からなかった。どんな顔をしていいのか分からなかった。停戦のベルは鳴った。だが勝負は? 一姫はとっさには、分からなかった。
一姫が蓮司と清雪に目をやる。二人とも手に鉢巻きを持っている。引き分け。一対一だ。
今度は慌てて後ろを振り返った。麻由美は左手に鉢巻きをしていない。槇の鉢巻きは二本だ。なら麻由美は三本のはず。三対二だ。計四対三。
一姫がゆっくりと首を戻す。
自分の左手に二本。右手に一本。計三本。
一魅は頭に一本。口に一本。計二本。
今確定している鉢巻きは、七対五だ。
じゃあ…… この落ちてしまった鉢巻きは――
自分の頭から落ちた鉢巻きに、一姫の目が釘付けになる。今は一魅の胸元にある。
拾うのよ…… 拾いなさい私――
一姫はノドを鳴らして、自分に囁き掛ける。
私の頭から落ちただけだもの…… 私のよ――
一姫の目が泳ぐ。
そうすれば…… 一魅は私のもの――
一姫の右手が震える。まだ一魅と手をつないだままだ。
魅の手を振りほどいて…… 先に掴むのよ――
落ちている鉢巻きは二本。仮に一魅のものとなれば、七対七。引き分けだ。
一魅は手に入らない。
そうよ…… 一魅は私の――
一姫は震える右手を――
「桐山くんは、本当に保健室が好きね」
保健室の榊原宣子は、蓮司の顔を見てあきれて言った。
「ええ。気に入ってますので」
蓮司が保健室のドアをくぐる。ゾロゾロと後ろに他の生徒がついてきた。
「またあなた達なの? 保健室ファンクラブでも作ってくれたのかしら?」
「て言うか、あんな戦いさせておいて、保健室にくるなと言うのがおかしいです」
蓮司のすぐ後ろを、一姫と一魅が無言で入ってきた。麻由美に肩を借りた清雪が続く。清雪には自分が肩を貸すと、麻由美が言い張った。
槇が最後に入ってきた。清楚を取り戻した入り方だった。
「いつもは近くの病院に、野戦病院作ってもらうんだけど…… 今日は突然だったからね」
「や…… 野戦病院!」
蓮司が目を剥く。今更ながらこの学校は、問題にならないのかと思ってしまう。
「女子から先ね」
宣子の言葉に従って、一姫が黙ってイスに座った。膝のかすり傷を、消毒してもらう。
「重傷は階段落ちした男子組ですが……」
「ダメね。階段は上ったり、降りたりするものよ、桐山くん。そうね、落ちるのは人生だけに、堕ちるのは生活だけにしなさい。いいね、先生との約束よ」
「はぁ……」
「……」
膝を擦りむいただけだった一姫が、治療を終えて黙って立ち上がった。
一魅が姉の動きを目で追う。
一姫は後片付けがあるからと言ってた。他の生徒会長と違い一姫は第一生徒会長。それに開戦権をたてに、今回の生徒会戦を始めた本人だ。結果の確認や全校への報告など仕事がある。
「清雪、麻由美。後お願いね……」
一姫がドアに向かいながら言った。
「お姉ちゃん!」
保健室のドアに手を掛ける一姫の背中に、一魅が声を掛けた。一姫が振り返る。
「今日一緒に帰ろうね…… その…… 夕飯…… 手伝ってくれるんでしょ……」
「そうね…… 今日はお母さんの好きな物にしない?」
一姫が微笑み返す。自分を気遣う妹の笑顔が嬉しい。自然と笑みが浮かぶ。ドアを開けた。
「一姫!」
蓮司が更に呼び止める。
「?」
一姫には、蓮司に呼び止められる理由が分からない。
「何だ…… その…… よく我慢したな…… 偉いぞ……」
「蓮司……」
一魅が蓮司を見た。姉に『偉いぞ』と言ってくれる。何だか嬉しかった。
「何?」
「あの時鉢巻きを拾っても――勝ちを拾っても、誰も文句を言えなかったと思ったんでね。あの場合」
「……」
「蓮司……」
黙ってしまった一姫の代わりに、一魅が蓮司の名を呼ぶ。
「別に…… 今回はあきらめただけよ……」
一姫はそうとだけ言うと、ドアの向こうに消えた。