三、大生徒会戦
三、大生徒会戦
生徒会戦の開戦を進言――
御崎一姫は確かにそう言った。そして全員が驚いた。当然だった。戦いどころか、メンバーすら集められていない生徒会ばかりのはずだ。
昨日が入学式だった。今日が授業の初日だ。まだ三限目が終わったばかりだ。
メンバー構成の期限まで、後二週間丸々残っている。いくらその権限があるとはいえ大生徒会戦始まって以来、このタイミングで仕掛けた第一生徒会長はいない。普通はこの二週間の期限を待って、あらためて教師側から開戦の通達があるのだ。二週間の期限以降それなりに、各生徒会内の親交が深まった後で戦うのが常識だった。
蓮司も驚いた。しかし頭の中で何かが繋がった。
「あっ!」
思い至った蓮司は、思わず声が出た。そしてその声に皆がつられた。一魅も含め皆が蓮司の顔を見る。
いや違うと、蓮司は直感する。
正座の順からして蓮司を見る為には当然視界に入る。しかし――
「なる程な!」
蓮司はとっさに手を伸ばした。
蓮司は一魅の手をとって立ち上がった。パイプ椅子が倒れた。一魅をぐいっと姉から引き離す。二人の間にいた一魅は、蓮司の側に引き寄せる形になった。
「えっ! ちょっと何?」
「一姫から離れろ!」
一姫の話は唐突だったが、一魅には一姫から離れなければならない理由が分からない。それ以前にほとんど抱きしめる形で引き寄せられては、他のことを考えるなど無理だった。
「だから何よ……」
一魅は顔が赤い。その顔を蓮司に悟られたくない。
「あら。勘がいいわね。蓮司」
「まあな」
「ちょっ……」
一魅は更に顔が赤くなる。幸い蓮司は真っ直ぐ一姫を見据えていた。一魅の顔に気が付かない。蓮司を振りほどこうとするが、蓮司は手を強く握って離さない。
「でも今すぐどうこうは、私にだってできないわ…… 先生」
「お、おう……」
「この学校の名声だけが欲しくて大生徒会戦に参加している…… そういう生徒が最近多いと思いませんか?」
「まぁ確かに。毎年義務だからって、生徒会に入っているような態度の生徒はいるがよ……」
大生徒会戦がなくてもここはエリート校だ。入学希望者は多い。そういう生徒が増えると大生徒会戦の伝統がもたらす評価や実績と言った財産を、食いつぶしているだけだという批判が出てくる。
己はたいした戦いをしていないのに、さも高校三年間は特別な制度で苦労した――そのような顔をする卒業生だ。
「何より開始と同時に活気づいてもいいはずの、生徒会のメンバー集め。それなのにスカウトする側も売り込む側も皆、すました顔で斜に構えている――」
蓮司も一度は自暴自棄になりかけた自分を思い出す。どれだけの生徒が生徒会長に落ちたのだろう。どれだけの生徒が自分が十組という現実に、落胆していただろう。
皆平静を装っていたが、動揺していたのは自分だけではないはずだ。
「そして大生徒会戦は一般の生徒にとっても一大事…… それなのに中途半端な売り込みしかできなかったり――」
ドキッとして、清雪が目を見開く。だがもちろん、あまり変わったようには見えなかった。
清雪の売り込みが中途半端なものになったのは、一姫の素っ気ない態度のせいだ。切り出す前に断られたのだ。清雪の性格のせいばかりではないはずだ。
清雪はそう内心思わなくもないが、声に出しては反論できなかった。
「生徒会長になっても、自己紹介一つろくにできなかったり――」
槇が消え入りそうになって、身を縮まらせていた。一姫の話す内容も、その気迫も、槇を萎縮させるのに十分だった。
「一分でも惜しいはずのこの編成時期に遅刻してきたり――」
麻由美が喜ぶところではないのに、とりあえず自分の話題が出たせいか、喜色満面の笑みを広げた。スカッといい笑顔だった。
「自分の私情でメンバーを選んだり――」
一魅が慌てて蓮司から離れた。まだ抱き寄せられたままだった。
「昨日既に大生徒会戦が始まっているにもかかわらず、その緊張感もなく――」
高校生活三年間全てを使って大生徒会戦を戦うのが、この戦いの理念だ。入学から卒業までを、大生徒会戦による緊張感を持って過ごすのだ。
その為に入学と同時に生徒会代表宣誓式も行う。そして卒業生答辞で、高校生活三年間とともに終わる。
「この二週間の猶予は生徒達を堕落させています……」
一姫は一度下を向いた。そしてベッドで正座したまま、グッと顔を上げる。
「私はこの現状を打破する為に、本日ここに第一次の生徒会戦の開戦を進言いたします」
第一生徒会長による開戦の進言――それは、事実上の開戦の宣言だった。
校内一斉に警報が鳴らされた。四限目の途中だった。火災警報とは違うもっと腹の底から響く音だ。話に聞いていた生徒会戦開戦の警報だ。
誰もが誤報だと思った。何処もメンバー構成すら決まっていない。構成期限の猶予も残っている。この時期に生徒会戦が開戦されるはずがない――誰もがそう思った。
その常識は御崎一姫の校内放送によって覆された。教室に設置されたモニターに一姫の姿が大写しになる。
「二〇@@年四月八日午前十一時五十二分、第二十五期生の大生徒会戦における最初の生徒会戦の開戦を宣言いたします。第一生徒会長の御崎一姫です」
一姫の説明は全校を混乱に陥れた。中にはまだ訓練か何かと思い込もうとしている者もいた。
「突然の開戦であることは認めます。私自身、他にメンバーはいません」
第一生徒会長自身のまさかの不十分発言。それ故にこれが本当の開戦だと皆悟らされた。何か非常事態が起きたのだと。
「緊急の開戦ですので、新しいことはできません。よって伝統的ルールで行います」
生徒会戦は特別に決まった戦い方がある訳ではない。全く新しい戦い方が提案される年もあれば、伝統的なルールで戦うこともある。もちろん後者が圧倒的に多い。
「今から鉢巻きを配ります。そう第一期の大生徒会戦で採用された鉢巻き取りを行います」
鉢巻き取りは伝統があるが、生徒には不評だ。体育系の代表格のような、体力勝負だからだ。
だが鉢巻き取りは手っ取り早く数が減るので、不評な割に最初の戦いによく採用される。
「主なルールを確認します。会長以下全員が支給された鉢巻きをして下さい。鉢巻きの取り合いをします。取ったら勝ち。取られたら負け。生徒会メンバー全員が取られたらその生徒会は失格です。尚失格になる前に手に入れた鉢巻きがあれば、自分の鉢巻きとしてかまいません。一本取られても潰しがきくという訳です。同じ生徒会内での融通も認められます」
放送を聞いているうちに、各教室に段ボール箱が持ち込まれた。持ち込んだのは大生徒会戦の審議委員会。そして生徒会に所属する生徒に、その中の鉢巻きが配られていく。
もっとも何処の生徒会にも入っていない生徒が大半だ。鉢巻きがかなり余っていた。
「尚、移動可能範囲は学校敷地内全てです。三年生の皆様、二年生の皆様、諸先生方、お騒がせしますが何卒ご了承下さい。時間は午後二時を期限とします。もしくは目標失格生徒会数に達するまでです。目標は五十三――現状の半減を目指します」
全校生徒に今迄にない衝撃が走った。目標通りなら生徒会が一日目にして半減だ。生徒会長は多くの者が一日にして夢破れるのだ。何より一日、二日で失格になっては、何の為に生徒会長になったのか分からない。
いや、それ以上に深刻なのは、まだ所属する生徒会が決まっていない生徒達だ。
もし仮に半減後に自分の所属する生徒会を探すとする。ざっと考えてその時の一生徒会のメンバー数は、標準的な人数の四名プラス三名だ。
大生徒会戦は結束を重んじる。やる気をなくして辞められたらその場で失格審査行きなのだ。多人数を抱え込むリスクを考えれば必要以上にはとらない。
当初予定の半分の生徒会では、最初からあぶれてしまう生徒がいてもおかしくない。所属が決まらなければ、退学すらあり得る。入学二週間で退学という憂き目に遭いかねない。
「開戦時間は本日正午」
もう後五分もない。授業初日でお互いの出方を見るという、緊張感のない、まったりとした日はもう過去のものだ。
「では一年生の皆さん。もう一度ルールをよくご確認の上、開始の合図をお待ち下さい」
何名かの生徒はこの時点で教室を飛び出した。
一魅達は十組に戻った。途中麻由美や槇とは別の経路をたどった。簡単でもいいから、作戦を練りたかったのと、蓮司が気付いた一姫の狙いを一魅に説明したかった為だ。
「俄に活気活づいてきたな」
蓮司は入るなり、雰囲気の一変した教室を見回した。一姫の校内放送が終わったところだった。何人かの生徒が教室を飛び出して行く。
「今の飛び出した人達って……」
「増川美緒に、シオリ・ヨハンドッティル、鈴蘭台雄一…… 人の多いところは不利と見たんだな。判断が早い。それで吉と出るか、凶と出るかは、誰にも分からないがな」
「ふーん。ま、判断の早さはさすがね」
開始約二分前になった。窓際の一魅の席の横に、二人は互いに背を向けて並ぶ。
「背中預けるわよ」
「あっ。俺が先に言おうと思ったのに……」
「先に言ったもの勝ちよ。あと――」
「何だ?」
「蓮司――って、呼ぶわよ」
「ん? 呼んでなかったか? ま、好きにしろよ」
二人して同時に鉢巻きを巻く。気が引き締まった。
確かに先程迄の自分は甘かったのかもしれない。一魅はそう思った。こうして取られたら負けという、分かりやすい道具立てのお陰で、全身に緊張が走ってくれる。現実感が湧く。
実際『ビリ番』の一魅が『真の生徒会』になれる可能性など、限りなく低いのだろう。引っぱったら簡単に取れてしまうこの鉢巻きのように、脱落する可能性の方が高いのだ。
開始約一分前。一魅はもう一度鉢巻きをきつく巻いた。やはり気が引き締まる。そして脳裏に浮かんだのは、不敵にこちらに微笑み掛ける姉の顔だ。
一魅は思う。この姉を乗り越えなくてはならない。この微笑みを対等のものにしなくてはならない。本当に欲しいものができた。だからこれからは、姉の存在感に埋没する訳にはいかない。埋没していては、欲しいものを欲しいと主張できないからだ。
一魅は自然と背筋が伸びた。蓮司の背中に当たる。背中を預けている実感が湧く。姉にはなく、自分にあるものだ。今現在、唯一姉に勝っているものだ。
一魅は大きく息を吸う。
お姉ちゃん…… 私はあなたを乗り越えます――
一魅はその思いとともに叫ぶ。
「やるわよ! 蓮司!」
「おう!」
その時、開戦のベルが――
鉢巻きは頭に巻くこと。校内放送では触れられなかったが、それが基本のルールだ。
中山麻由美は日ごろから持ち歩いている巻き尺――メジャーを取り出した。大型家電製品を売る際に必須の道具だった。
この伝家の宝刀とでも言うべきメジャー一つで、麻由美は何十台もの家電製品を売ってきた。麻由美は子供の頃から家の手伝いをする、スカッといい子だったからだ。
「私の頭周り五六・二センチね。支給された鉢巻き一二八・七センチ。いける――よね!」
麻由美は鉢巻きを二重に巻いた。巻き方に関するルールはない。二重巻きにすると鉢巻きの両端はほとんど余らず、掴みづらい。他の者はまず二重には巻かない。いや巻けない。
しかしたぐいまれな握力で、麻由美は鉢巻きの両端を摘んで力を入れた。ポニーテールの奥で鉢巻きがギュッと締まる。麻由美にしかできない芸当だった。
「オッケー! これでひらひら出てる部分なし! 鉢巻きとスカッと一体化!」
父が販促用の鉢巻きを、初めて自分に巻いてくれた日を思い出す。父が自分を一人前と認めてくれた、あの日を思い出す。全ての毛穴が開いたような、武者震いが麻由美の全身を走った。
これが一番を目指す戦いだと、麻由美の全身に鳥肌が立つ。
「燃えてきた!」
その時、開戦のベルが――
道具の類いに関するルールもある。校内にあるものは何を利用しても良い。もちろん刃物など危険物及び武器の類いは禁止。ただし学校にある用具の類いは認められている。
雲雀丘槇は自分の鉢巻き姿を手鏡で見てため息をついた。
これでタスキまですれば、まるでお婆様ですわ――
槇は自分の鉢巻き姿に、長刀の稽古をつける祖母を重ね合わせた。
さてどうしましょう――
どこかに隠れていれば、午後二時迄誰にも見つからずにやり過ごす自信があった。槇は存在感が薄いのだ。
「でも……」
そんな自分が嫌だから、生徒会長に立候補したはずだ。立候補すべきかどうか、さんざん悩みネットの向こうへの皆へ相談を投げ掛けた。
私のつたない書き込みに不真面目に、そして律儀に応えてくれた――
槇は掃除道具入れに向かい箒を取り出した。グッと握り締める。ホウキは用具なので使用が認められている。ネットの向こうの自称OBの親切な誰かが、事前に槇に教えてくれていた。
名前も知らないお友達の皆様…… 私に力を!
その時、開戦のベルが――
各生徒会は固まっていてもいいし、各々別行動をとってもよい。生き残るのに有利と思う方を自分達で考えればいい。蓮司は固まることを選んだ。
変なことになったな――
入学前の予想とは遥かに違う、自身の境遇と気持ちに蓮司は少し戸惑った。
俺は井の中の蛙だったんだろうか――
蓮司の背中に一魅の背中が当たる。何故か自分を副会長に選んだ少女の背中だ。蓮司に背中を任せてくれている。
悪くはないか――
蓮司は大きく息を吸った。精神を集中させようとすると、大生徒会戦の文字が心に浮かんだ。精神統一の助けにと、蓮司は漢文として下し読みしてみる。
『生徒会、大いに戦う』…… 違うか――
大生徒会戦が始まろうとしていた。蓮司は覚悟を決める。
出会いか――
一魅達と出会ってから、蓮司の中で何かが変わろうとしている。蓮司は少しだけそう思い、大きく目を見開いた。
『生徒、大いに会いて戦う』!
それが大生徒会戦の意味だ。蓮司はそう信じる。
「やるわよ! 蓮司!」
「おう!」
その時、開戦のベルが――鳴った。
「スカッともらった!」
麻由美は問答無用とばかりに一魅に飛びかかった。もう友達になったつもりでいたが、遠慮はしなかった。単に目の前にいたからだ。そして麻由美の本命は、自分を投げ飛ばした一姫だった。瓜二つの一魅を狩り、一気呵成に勢いをつけるつもりだった。
「蓮司!」
一魅は蓮司の名を呼んでしゃがみ込んだ。頭まで抱えている。鉢巻きを死守する構えだ。
「頭抱えてりゃ、いいってもんでも!」
麻由美は一魅の鉢巻きを右手で掴んだ。一魅は両手で鉢巻きを握っている。さすがに片手では引き抜けない。思わず自分の体が前に引っぱられる。
麻由美は左手も前に出した。両手で勝負すれば、麻由美の勝ちは目に見えていた。
「終わり!」
そう叫んだ麻由美は、次の瞬間早くも油断したと思った。しゃがみ込む一魅の頭に両手を差し向けては、取ってくださいと言わんばかりに頭を差し出すことになるのだ。
そう、麻由美にはいず、一魅にはいる人間――仲間だ。
「させるか!」
蓮司は自分が呼ばれた瞬間から、上半身だけをひねって後ろを向いていた。もちろん自分側はまだ襲われていないことを確認した上でだ。
作戦という程のものではない。一魅と蓮司なら一魅が先に狙われるだろうから、狙われたら一人で無理せずおとりになる――先程簡単に打ち合わせたことだった。
差し出される形となっていた麻由美の後頭部に、蓮司の左手が回される。だが麻由美は鉢巻きを二重に巻いていた。それは蓮司には誤算だった。
後頭部に垂れているはずの鉢巻きの端を掴もうと、むなしく蓮司の左手が宙を泳ぐ。
「おりょ? やる! 蓮司!」
「チッ! まずい!」
麻由美が歓声を上げ、蓮司が舌打ちをした。
麻由美はすかさず後ろに跳ぶ。鉢巻きは――取れていなかった。
蓮司は麻由美の二重巻きに気が付いてすぐ、目標を鉢巻き本体――頭の部分――に変えたが、間に合わなかった。
麻由美の後ろへの跳躍と前方に注意が行っていることを好機ととらえたのか、一人の男子生徒が麻由美の横から飛び掛かった。
一魅が立ち上がった。蓮司と目が合う。互いにうなづく。蓮司はまた正面を向き直った。
いつの間にか槇が箒の先を下にして構えていた。蓮司の正面だ。
麻由美の電光石火の左手の動きは一魅には見えなかった。
飛び掛かった男子生徒は呆然としている。取られた本人にも見えなかったのだろう。
気が付けば男子生徒の一本しかない鉢巻きは、麻由美の手の中にあった。彼は『第九八生徒会長』浦川勇。そしていわゆるお一人様生徒会だった。彼の生徒会人生は今――終わった。
槇に気付くのが一瞬でも遅れていたら、箒の先が蓮司の鉢巻きをさらっていったことだろう。布の一枚分しか厚みのない鉢巻き。それでもそれをかすめて弾き飛ばす軌道で、槇の箒は打ち込まれていた。
「――ッ!」
髪一重で蓮司が体をそらして避ける。わざとではなく、実際それだけしか動けなかった。
そして槇の僅かな布を狙う攻撃が幸いした。仮に頭でも直接狙われていたら、避けようがなかったろう。空を切った箒は、あっという間にその手元に収まっていた。
麻由美は新たに手に入れた鉢巻きを頭に巻いた。もう一度二重巻きだ。
一魅はその光景が信じられなかった。あんな指先で摘むような持ち方で、十分に巻けるのだ。麻由美の力は油断できない。
初弾をかわされて槇は動揺していた。会心の一撃だったはずだ。相手は傷つかずに鉢巻きだけが宙を舞う。そんな攻撃をやり遂げたはずだった。いつもの長刀と長さや重さ全てが違う。それでも充分に計算に入れて放った一撃のはずだった。
やはり少し勝手が違ったのか、それとも相手が一枚上手だったのか。槇は計り損ねていた。
蓮司は早くもピンチだと思った。箒の類いが武器として利用されることは考えていた。しかし本当に使える人間の手にかかると、これ程までの迫力を持つものだとは思わなかった。
先程見た麻由美の動きも機敏で、自分達とはレベルが違うと痛感させられた。
蓮司は中学時代にサッカーをしていた。スポーツは万能だと自負していた。だがこの二人は体の使い方からして自分と違うレベルにいる。上には上がいると、つくづく思い知らされた。
麻由美は二対一がもたらす不利を計り損ねていた。行くべきか。退くべきか。とっさには分からない。今は槇が蓮司を攻撃している。それは有利にも思えた。だが槇と通じている訳ではない。一魅を襲う瞬間に槇が退く、または槇がこちらに目標を変える可能性だってあるのだ。
中学まではついぞなかった、力で圧倒できない状況に、
「あぁ! もう! スカッとしない!」
麻由美はいきなり隔靴掻痒とばかりに、脚の代わりに頭を掻きむしった。
「一魅!」
「えっ! 何? えっと…… ま、麻由美?」
『一魅』『麻由美』と呼び合うような仲だったかと戸惑いつつも、一魅は名前で呼び返す。
「勝負は一旦お預けにするわ。一姫を倒したらまた遊んであげる。他の人に狩られちゃダメよ」
麻由美はそう言うと、その身を翻した。行きがけの駄賃とばかりに右手を一閃する。出口近くで他の生徒と睨み合っていた女子生徒の鉢巻きを、やはり一発必中で奪って出て行った。
奪われた女子生徒は『第八六生徒会長』森崎香。彼女もまたお一人様生徒会だった。彼女の生徒会も――今ここで終わった。
槇は本当はもう、怖くって仕方がなかった。稽古とはまた違う、実戦の緊迫感が槇を襲う。
そして蓮司にしてみれば危うく難を逃れただけだったが、槇にとっては避けられたこと自体が衝撃だった。
や、やっぱり終わるまでどこかに隠れて――
槇は蓮司に対峙しながら、後ろに下がり始めた。
次の一撃…… かわせるのか?
槇が次の攻撃の為に距離を取っている。その動きが、蓮司にはそう見えた。
「そっちはどう、蓮司?」
「睨み合いの最中。かなり不利だ」
背中越しに尋ねる一魅に、蓮司は素直に思ったところを言った。
一魅の前には二人、鉢巻きをした生徒がいる。
他の生徒は生徒会に入り損ねたのか、席に座ってこちらの様子をうかがっている。彼らも生き残った生徒会のいずれかに入らなければならない。誰が実力者か見ておかなければならないのだ。今のままでは一番人気は麻由美だろう。
一魅とその二人は、三すくみのようになってしまってしばし誰も動けない。
蓮司の側も槇を含めて三人だ。蓮司達の様に二人以上で共闘している生徒はいない。二人いたからこそ麻由美の攻撃を、蓮司達はいなすことができた。一魅も蓮司もとっさにそう思う。
「このまま睨み合いでもするか?」
「ダメよ」
「だろうな」
蓮司は打開策を考えようとした。図抜けた戦闘力を誇った麻由美は去った。去ってくれた。今一番気を付けなくてはならないのは槇だろう。他の生徒は未知数だ。
「睨み合って後一時間半以上、固まってるって訳にはいかないしな」
最後まで生き残れそうなら、一姫が一魅を倒しにくるはずだ。そうでなくては一姫の計画は成り立たない。そして一姫が誰かに倒されているとは到底思えない。
だからいつまでもこのままではいられない。蓮司は賭けに出ることにした。
「皆、訊いていいか――」
蓮司はクラス全体に話し掛けた。目は槇から離さない。
「何で動かないんだ?」
クラスがざわめいた。
「今は数が欲しいはずだぜ、生徒会長は…… 売り手市場だ」
売り手市場。そう生徒会は今まさに人手不足だ。現在生徒会戦中はとはいえ、生徒会メンバーの構成期間であることには変わりない。今この瞬間に人を増やしてもルールに抵触する訳ではない。鉢巻き一本に生徒会の存続が懸かっている生徒会長にとって、人を選んでいる余裕もない。そう今は特需なのだ。
様子見をしていた生徒達の何人かが腰を上げた。俄然やる気になったように見える者もいれば、他人に合わせただけで、浮き足立っているように見える者もいる。
慌てて近くに立つ生徒会長に声を掛ける者。少し遠いが一魅や槇達に声を掛けようとする者。人の流れが入り乱れた。その慌てた様子に、動き損ねた残りの生徒達も腰を上げる。
混乱だ。自分で作り出したこの混乱に、蓮司は賭けた。
椎堂清雪は賭けに出た。保健室から教室に戻り、生徒会戦が始まっても動かなかったのだ。
一組でも生徒会の構成は一瞬の売り手市場が出現した。一刻を争って自分を売り込みたいところを、清雪はグッと我慢した。
ここは妥協する局面ではない。清雪はそう判断する。自分はもう第一生徒会に売り込んでいる。ここで他の生徒会に、慌てて自分を売り込むような軽薄な真似はできない。安く見られる。
鉢巻きを巻いた男子生徒が一人、清雪に話し掛けてきた。どこか小馬鹿にした口調だった。
「椎堂くんだっけ…… どこかに入らないの?」
「ええ」
「第一生徒会に拾ってもらえると思ってるんだ?」
あれだけ衆目のある中で、すげなく断られているのだ。それでも第一生徒会にこだわる清雪は、さぞ滑稽に見えただろう。やはり清雪を下に見るような調子に聞こえた。
「そんなところです」
「生徒会なんて、この学校では下手すればただの単位だよ。そう、単位。数量詞」
「そうですか」
「そうだよ。だからこだわるだけ、無駄だと思うけどね、椎堂くん」
「そうですか……」
清雪は耐えた。父の恥辱に比べれば――その思いで、机の下に隠した拳を強く握って耐える。
我慢…… 今は我慢です――
清雪はそう自分に言い聞かせた。
チャンス――
蓮司は人の流れを見てそう感じた。生徒会長に人が群がる。蓮司にとってそれは好機だった。
最終的に生徒会に入れるかどうかの権限は生徒会長が持つ。他のメンバーに取り次いでもらうことはあっても、最後に決めるのは生徒会長だ。
売り手市場など一瞬で終わる。皆分っていた。人がある程度集まれば、この特需は終わる。多くの人数を抱えるのもリスクだからだ。更にこの一戦が終われば、生徒会の数は激減するかもしれない。状況は一転する。一気に買い手市場だ。
そう生徒達は生徒会長に群がる。この状況下では副会長には誰も話をしにこない。
一魅や槇、その他の生徒会長は、あっという間に人の波に呑み込まれた。
蓮司が動いた。一魅をちらっと見る。蓮司と目が合うと一魅はうなづいた。
きた!
槇の頭の中で自分の時代の到来を告げる歓喜の顔文字が踊った。自分の周りに人があふれている。目立たない槇にとって人に囲まれるなど、父方の親戚の集まりでもない限りなかった。
群がる生徒の顔もよく見えない。我先にと槇に自分を売り込もうとする生徒達に、どう対処していいか分らない。
どういたしましょう…… 顔も名前も分らない人達ばかりなのに――
自分を取り巻く生徒達の話を聞こうと、槇は首を巡らせた。
槇とて人は欲しい。それは間違いない。できれば優秀な生徒が欲しい。一組から募りたかったが、事態は急変している。
それに今ならまだ、いわゆるクーリングオフが利く。今日だけ乗り越える為なら、お互い多くを望まず仮の生徒会を構成すればいい。
「皆さん…… あの…… 少し落ち着いてください…… そんなに…… 押されちゃ……」
女子も男子も槇の一番近くに近寄ろうと、必死で前に出てくる。槇が一番人気のようだ。一魅達他の生徒会長の倍近い人に囲まれてる。
槇の箒さばきが生徒達の目に焼き付いたのだろう。槇はもみくちゃにされた。その中でも一人、身を低くして後ろから人垣を熱心にかき分ける生徒がいた。
同じ中学の人とかいないのかしら、知ってる顔は――
知らない顔ばかりで、誰をどう選べばいいのか分らない。つい知人を探してしまう。近隣はおろか、全国からも優秀な生徒がやってくるこの学校で、同じ中学出身者というのは少ない。
しかし人垣をかき分けて見知った顔が槇の目の前に現れた。昨日初めて会ったが、もうだいぶ見慣れた人の顔だ。
槇はその顔を見て安堵した。安堵してしまった。
「あっ、蓮司くん」
蓮司がいることの意味を槇は一瞬理解できなかった。そしてそれは致命的だった。
「槇……」
蓮司はそう呼び掛けた。無言の方が確実だったろうが、彼女の希望を奪うのだ。自然と名前で呼び掛けてしまう。せめてもの敬意を払う為、蓮司は両手でゆっくりと――
「えっ?」
あれっ? と思う間もなく、槇の鉢巻きは蓮司の両手に掴まれた。一本しかない鉢巻きをだ。
あれ…… ウソ――
その瞬間槇は自分の鉢巻きと――自分の生徒会を失った。
麻由美は一組へとひた走った。一姫は校内放送をしていた。そこからのスタートのはずだ。一組にいるとは限らない。それでもひとまずは、一組からあたってみることにした。
廊下を走る麻由美に、何人かが手を伸ばしてくる。もちろん全て一網打尽と打ち払った。
そのうち二人からは逆に鉢巻きを手に入れている。奪われたのは『第四〇生徒会長』多田美和と『第三〇生徒会長』片野坂由香の二名。二人ともこれで生徒会が終わった。
麻由美は十組で手に入れたものと合わせて、四本の鉢巻きを手に入れた。元より自分のものを合わせて計五本。頭に三本巻き、残りは手首に縛った。
手に入れた鉢巻きは、三本までは頭に巻かなくてはならない。それがルールだ。仮に四本以上持っていて、一本でも頭から取られたら、速やかに残りを補充して巻かなくてはならない。
麻由美は一組に着いた。中を覗く。何人かが一塊になって、睨み合いをしていた。ほぼ全員が立ち上がって、どこかの生徒会の一員として睨み合いをしている。
「おりょ?」
その中に一人机に座ったまま真っ直ぐ前を向いている男子生徒がいた。清雪だ。自分の意志を貫く為、ただ一点を見つめている。そんな風に、麻由美には見えた。
眼鏡の奥の瞳が微動だにしない。目がかなり細いので、多くの者はその目の奥に宿る意志に気が付かないだろう。
だが麻由美にはそれが分かった。麻由美は目がいい。だがそれだけではない。何と言うか意志が見えた。麻由美にはそう感じられた。
「何? 清雪の奴。いい目してるじゃない」
麻由美は少し清雪を見つめた。それから自分の用事を思い出し、雑念を振り払うかのように首を振って、教室を一回り見回す。
「一姫は――いない!」
一姫の姿はなかった。麻由美は身を翻し南棟二階放送室へと向かった。去り際に清雪を一瞥したが、やはり微動だにしていなかった。何故だか麻由美は、そんなことで気分がよくなる。
「ふふん……」
麻由美は少々浮かれ気味に、軽佻浮薄とその場を後にした。
槇は膝から力が抜けた。信じられなかった。あれ程思い悩み、ネットの向こうの名も知らない友達に、何度も何度も相談を投げ掛けて、やっとの決意で立候補した生徒会長が――自分の生徒会が――もう終わってしまったのだ。自分の仲間を手に入れることもできずにだ。
しかも直前まで浮かれていた。自分が人気者になったと自惚れていた。
私…… 私ってば――
槇は自分を励ましてくれた多くの書き込みを思い出した。最初は顔文字付きで『ハァ?』などと返事をされた。エリート校に受かったこと自体を疑われた。『合格証書をアップしろ』と書かれ、本当に曝そうとそのやり方を相談したら、また個人情報がどうのと怒られた。
ごめんなさい――
懸命に書き込む度に、徐々に内容を伴った書き込みが返されるようになった。嬉しかった。清楚さも品性のかけらもない書き込みでも、槇はその向こうに皆の親切が透けて見えた。どんなに憎まれ口を叩いても、本当は皆いい人達だと思った。
日頃の自分と正反対の調子で返ってくる書き込みを、槇は自分のものにしたいと必死に真似をした。清楚に品よく生きることを教え込まれた槇には、こんな世界があることが新鮮で嬉しかった。
皆様――
真似をして自分のものにしたと思った時には、生徒会長への立候補を決意し、この戦いをやり遂げられるような気になっていた。
お婆様…… お母様…… お父様――
他のことも色々とできるようになった。書き込みとか、動画とか、作曲とか…… 色んな形で励ましてくれた皆に、生徒会での日々を色んな形で報告できる日がくるのだと思っていた。そして家族にも報告できるのだと思っていた。
私はやっぱり――
大生徒会戦で活躍すれば、父はもちろん祖母も母も槇の高校生活の話を喜んで聞いてくれると思った。
他所から見れば雲雀丘家の一家団らんは、奇妙な風景だろう。
だが槇にとっては、かけがいのない時間だ。
そしてその奇妙な一家団らんで、大生徒会戦の話をするのだと思っていた。
現実ではこの程度でした――
槇は膝から崩れ落ちた。
清雪はやはり動いていなかった。自分に賭けたからだ。
そう、自分に賭けた。唯一この売り手市場が出現する前に、第一生徒会に売り込んだ自分の先見の明を信じた。第一生徒会長御崎一姫が向けた、あの笑顔を信じた。
今は動いてはいけない。このクラスで誰よりも早く動いた自分の努力が水の泡になる。
清雪は耐えた。そして――
「――ッ!」
清雪の携帯が着信を告げた。メールだ。一姫が覚えたと言っていたあのアドレスへの着信だ。送信元は初めて見るアドレス。一姫以外には考えられなかった。清雪は内心歓声を上げる。
――『椎堂くんへ。今朝の件でお伝えしたいことがあります。御崎』
突然の開戦で彼女はおそらく真っ先に自分を頼ってきた。時間的な経過から言って間違いない。清雪はそう判断した。
第一生徒会への誘い。自分が第一生徒会長の補佐をするのだ。清雪は『真の生徒会』への第一歩を踏み出したことを知った。朝の自分はやはり間違ってはいなかった。自分はチャンスを掴んだのだ。清雪はそう確信する。
清雪は静かに、それでいて力強く席を立った。教室の壇上で余っていた鉢巻きを手に取り、床を踏み締めるように力強く歩いて教室を出て行った。
槇は声を出して泣いた。教室だということを忘れた。人前だということも忘れた。清楚に品よくという祖母と母の教えも忘れた。
自分にこんなに大きな声が出せるとは知らなかった。自分にこれだけ大きな感情の高ぶりがあることを知らなかった。
これだけ大きな声が出せるのなら、もう誰にも気が付いてもらえないことなどないだろう。槇は自分にはちゃんと力があるのだということを、その発揮すべき場所を失ってから気付いた。
バカ、バカ、バカ…… 私のバカ――
槇は自分を責めた。消えてしまいたかった。誰かに許しを請いたかった。誰かに慰めてもらいたかった。
誰かに――
誰かに不意に、抱きしめられた――
一魅が槇を抱きしめていた。槇は涙と鼻水で顔がくしゃくしゃになっている。一魅の制服に槇の涙と鼻水がついた。一魅は気にしなかった。深く優しく抱きしめた。
一魅は槇に話し掛けるつもりで近付いた。近付いたら自然と抱きしめていた。一魅は自分でも不思議だった。
「一魅…… お前……」
蓮司はしばしその様子に見とれる。
「槇……」
多くは話してないが、一魅は親しみを込めて槇を名前で呼んだ。
「ごめんなさい、槇」
もう一度力を込めて名を呼ぶ。
「一魅……ちゃん?」
槇は普通に声が出せた。そして何故謝られているのかすぐには分らなかった。一魅に更に強く抱きしめられる。
ああ、そうだ…… 私負けたんですわ…… 一魅ちゃんなんだ、私を負かしたのは――
号泣することに気を取られ、自分が何故今泣いているのかすらも忘れていた。一魅は自分を負かし、いま自分を慰めてくれているのだ。
いつまでも一魅の胸を借りて泣いていたい。槇はその思いを振り切る為にまた声を出す。
「一魅ちゃん…… ダメですわ。あなたはまだ…… 終わっていません……」
必死に涙を押さえながら、一魅の体を押し退けようとした。一魅の体が少し離れると、蓮司が一魅の背中を守って周りを警戒しているのが分った。
蓮司は一魅に見とれた後、集中力を取り戻すべく、わざとらしく首を横に振ってから周りを警戒する役に徹した。蓮司は群がろうとする生徒を追い払う。
槇の周りにいた生徒達は皆いなくなっていた。教室にいる一魅以外の、残りの生徒会長に売り込みに行ったようだ。
あんなに沢山いたのに…… 地位を失ったらひとりぼっち――
一魅の背中を守る蓮司の背中が、槇にはとても大きく見えた。
「槇。お願いがあるの……」
一魅が槇の目を見つめて言った。
「……私達と一緒に職員室に――大生徒会戦の審議委員会にきて……」
麻由美が放送室前にくると、一姫はすぐに見つかった。
何を考えているのか、放送室のある南棟二階の廊下をのんびりと歩いている。鉢巻きは頭に三本、手首に一本巻いていた。何かが楽しくって仕方がないように後ろ姿は弾んでいた。
一姫は母との約束を思い出していた。母が今でも悔やむ卒業生答辞。一姫は一魅と二人でやり遂げる。そう母に約束した。
その為には先ず…… 一魅…… あなたよ――
一姫が奪った鉢巻きは計三本。『第七二生徒会長』嬉野光一郎。『第五八生徒会長』恵美・R・グラブス。『第二八生徒会長』斉藤友和の三名のものだ。
光一郎は無謀にも正面から一姫に挑みかかり、あっさりと敗れた。
恵美はばったり一姫に出会ってしまい、軽くけん制しようと手を出したところを横に回られて鉢巻きを奪われた。
友和は後ろから声を掛けられて、振り向いたら一姫に微笑まれた。思わず微笑み返したところ、えいっと正面から簡単に鉢巻きを取られた。
三人ともお一人様生徒会。三人は何もできないまま自分の生徒会を失った。
「見つけた。一姫」
麻由美は先程からのご機嫌なままに、一姫に声を掛けた。声を掛けずに背後から問答無用とばかりに襲えば、一姫といえども隙を見せたかもしれない。
しかしそれは麻由美の望むところではない。そしてこの大生徒会戦の趣旨でもない。
「あら? 麻由美じゃない。なぁに、私の相手をしてくれるの?」
一姫はゆっくりと振り返った。真っ直ぐ麻由美の目を見据える。
その視線に麻由美の浮かれ気分が一瞬で吹き飛んだ。
「そうよ、私は一番になりたいの。だから、スカッと相手してもらうわ。てか、楽しそうじゃない?」
麻由美は無造作に距離を詰める。麻由美も一姫の目を見る。射抜くような視線だ。
「ええ。上手く行きそうなの」
一姫も前に出た。
「?」
「分らない? やっぱり蓮司だけね。私の気持ちを分ってくれるのは」
「なーに? 姉妹で修羅場?」
二人の間合い迄まだ少し遠い。先程の投げ技でおおよそお互いの間合いは分っていた。間合いに入れば、ほぼ同時に仕掛けることになるだろう。
「修羅場? そうね…… そうかもね」
二人の間の距離が縮まる。距離が縮まる度に緊張が高まる。空気が張りつめる。まるで二人の間の空気が逃げ場を失って、圧縮されているかのようだ。
「妹に譲りなよ」
「妹は譲らないわ」
会話が噛み合わなかった。だが二人はさして気にしなかった。
一姫が麻由美の後頭部に揺れるポニーテールを見る。普通ならその横から垂れているはずの、鉢巻きの端がないことに気が付いた。
「へぇ…… 鉢巻き二重に巻いてるんだ?」
一姫は油断なく視線を外し、今度は詳細に麻由美の全身を観察する。
短いスカートから見える足の筋肉は、鍛えていることをまざまざと見せつける。先程からこちらの目を見つめたままの目は、その集中力を物語っていた。そして無造作に歩いているように見えて、中心はいっさいぶれない。バランスを崩させるのは厄介だろう。
「いいでしょ。ちゃんとメジャーで測って、巻けるかどうか確かめたんだから」
「メジャーで?」
「そうよ」
「とりあえず巻いてみれば、良かったんじゃない?」
一姫が小首をかしげた。最高の笑顔を麻由美に向けた。最後の一歩もあっさり距離が詰まる。二人とも自分の間合いだ。
「あっ? それはスカッと盲点!」
声を漏らすと同時に麻由美が先に動いた。特に駆け引きなどしない。一意専心とばかりに、鉢巻きを狙って右手がうなる。
一姫は自分からも近付いておきながら麻由美の鉢巻きには手を伸ばさず、体を横にさばいて麻由美の手を逃れた。自分の右側。右手を伸ばした麻由美の懐側だ。
「やるっ!」
麻由美はそう叫んで瞬時に飛び退けるよう腰を落とすと、そのまま膝に力を貯め左手を跳ね上げた。自分の頭を守るのではなく、それでも剛毅果断に一姫の鉢巻きを狙う為だ。
それは一姫にとって誤算だった。てっきり麻由美は自分の頭を死守すると思った。その軌道を読んで、自分の右手で相手の左手を掴まえるつもりだった。思った以上に自分に近い角度で、麻由美の左手が迫ってくる。
まずい!
一姫は本能的にそう悟る。そして一姫にとってまずいのは左手側もだった。
麻由美の右手の折り返しに備え、既に左手を上げて防御に回している。そこまではよかった。
だが実際に互いの手首辺りがかち合って、つばぜり合いを始めると、一姫は自分の計算違いを思い知らされた。
一姫と麻由美では腕力が違い過ぎた。個人差という違いではなかった。素人とプロ。そんな感じだ。一姫は予想以上に押し込まれる自分の左手に焦りを感じた。体ごと右に傾く。麻由美の左手が目の前に迫る。
「く……」
一姫は左右ともに手を振り払って後ろに跳んだ。かなりの計算違いに焦ったが、顔には出さなかった。
「惜しい!」
麻由美は残念無念と笑みを浮かべる。その左手に鉢巻きが一本握られていた。
「やるじゃない……」
一姫は自分の手に巻いていた鉢巻きを頭に巻いて補充する。
鉢巻きの数は三対六になった。一姫が三、麻由美が六だ。それは一姫と麻由美の有利不利を、そのまま現す比率とも言えた。普通に考えれば――だ。
御崎一姫は嬉しかった。いつも自分のライバルは妹だった。同年代でライバルと呼べるのは妹だけだった。一姫は昔から何でもできた。その点は否定しない。
しかしいつでも余裕で物事をこなしてきた訳ではない。今も計算違いやら、焦りやら色々とある。朝だってバケツの水をひっくり返した。
努力しなかった訳ではない。努力には目標が必要だ。努力家の妹に追い抜かれないようにすることが、一姫の日々の目標だった。
だがやはり姉妹だ。できることが全般的にどうしても似通ってくる。新しいことに挑戦する為には――常に妹の目標であり続ける為には――その妹以外のライバルが欲しかった。
そしてそんな一姫の前に現れたのは、普通の女子高生とは違う、別注品のような肉体を持つ少女――中山麻由美。
「腕力、瞬発力、そしておそらく体力も、麻由美の方が上ね……」
麻由美が朝から昼までに見せつけた実力を、一姫は思い出して呟く。身体能力の点においては、相手が一枚以上上だった。それでも――いやそれが故に絶対に倒したかった。
御崎一姫はゾクゾクした。
中山麻由美は嬉しかった。朝方投げ技を食らった時は、本当に信じられなかった。色々と不利な状況だったとはいえ、自分を投げ飛ばす同年代がいるとは思いもよらなかった。
もしかしたら別次元の天才というのは本当にいて、自分は全く歯がたたないのではないかと思わなくもなかった。しかし違った。御崎一姫もやはり人間だ。付け入る隙はある。
麻由美は頭に巻いた鉢巻きを一つ外した。代わりにたった今一姫から手に入れた鉢巻きを、得意満面の笑顔で額に巻く。これ程の人間から奪った鉢巻きこそ、自分の頭に巻くにはふさわしいと思ったからだ。
やはり二重に巻く。頭から外した鉢巻きは腕に巻いた。三本とも左手首に巻く。
「残りは三本…… スカッといただくわ!」
一本では満足しなかった。一姫はこの程度ではないはずだ。だからこそ絶対に勝ちたかった。
中山麻由美はワクワクした。
審議委員会への申し立ては一魅が行った。槇から奪った鉢巻きを頭に巻いた一魅が、血相を変えて訴えている。北棟の一階職員室の一角に設けられた受け付けカウンターを挟んで、審議委員会の今日の担当者とやりあっている。
蓮司はその様子を見守った。一姫が考えたことをこちらも利用させてもらう。しかしそれは前例のない考えだった。実行に移すには審議委員会に確認が必要だ。いや審議委員会へのねじ込みが必要だ。
初めは蓮司が交渉にあたろうと思った。何しろ自分が一姫の考えに最初に気が付いたからだ。でもこの役目は一魅だと考え直した。
一魅は二人しかいないとはいえ、俺達の生徒会の生徒会長だ…… 第一〇七生徒会の会長…… ここで生徒の要望を伝えられなくては、会長なんて名前だけだ――
蓮司は一魅を見る。一魅は一人の生徒の為に、力の限り訴えている。
この学校では生徒は全員生徒会に入る…… そして互いに競い合うことで世の中の厳しさとかを学ぶ…… でも別に戦いをすることだけを目的としているのではないはず――
蓮司は槇を優しく抱きしめた一魅を思い出す。
これだけの数の生徒会…… 名前だけの会長なんて山程いる…… でも一魅…… お前はそうじゃない――
蓮司はあの時の一魅に、慈愛を感じた。敗者や他者への思いやりを感じた。
一魅は慈しみの心――『仁』の心で人の上に立つ。蓮司は何となくそう感じた。
一魅は激しく担当者に詰め寄っていた。第一〇七生徒会の会長として、言うべきことを言っていた。後ろにいる蓮司の視線を――自分を信じて一言も口を挟まない蓮司の存在を――肌で感じながら力の限り訴えた。
「……」
その二人を心配そうに、槇が見つめていた。
一姫が動いた。もう一度ルールを思い出す。
鉢巻きは三本までは頭に巻かなくてはならない…… でも――
一姫は麻由美が前に出たのを確かめる。自然な麻由美の動きは、泰然自若の見本のようだ。
でも頭の鉢巻きから取らなければならないとは、どこにも書いていない――
頭に巻くのを優先させるのは、そこが取り易いからだ。首と足に巻くのは危険なので禁止されている。胴体に巻くと、すぐに動いて外れてしまう。必然的に腕に巻くようになる。
手首に巻いた鉢巻きは奪われそうになっても、とっさに掴み返せる。頭と違って先に行く程細くなる訳でもない。抜けにくい。それら相まって普通は狙われない。
腕の鉢巻きは取りにくいので、自然と皆、頭の鉢巻きから狙う…… それが常識――
麻由美が柔道の組み手をするように腕を広げ、一姫の頭を狙ってきた。右手を前に出し、左手は少し後ろに引いている。
でもそれは思い込み…… そうよ初めから腕を狙っていいのよ!
一姫は己の常識を捨てた。麻由美の左手には視線を向けず、自身の意図を悟られないようにする。一姫は麻由美の右手を左手で弾いた。まともにぶつからなければ、麻由美の力に対抗できる。近付く麻由美の右手を、二度、三度慎重に弾いた。
麻由美は業を煮やした。思わず左手が出る。
一姫の目に同じ鉢巻きの両端が一組映った。
「今っ!」
一姫は麻由美の左手の鉢巻きのうち、一組の両端を二本とも右手で掴んだ。
「おりょ? 手首の鉢巻き狙い?」
麻由美は意外な狙いに一瞬反応が遅れた。
だが手首の鉢巻きを奪われるような麻由美ではない。とっさに左手で掴み返そうとする。
「無駄よ!」
一姫はそう叫ぶと、自分の右手首をねじ上げる。
そう一姫は麻由美の手首の鉢巻きを奪う為に狙ったのではなかった。普通は狙わない左手の鉢巻きを、狙うと見せかけたこと自体が罠だった。虚を突き、裏をかいたのだ。
「痛ッ!」
麻由美は思わず声を上げた。ひねられた鉢巻きが手首の外側の痛点を攻めた。ほぼ無意識に右手をそこにやる。
しまった!
痛みに負けて本能的に手首をかばったのは失敗だった。
頭が――
頭の鉢巻きが無防備だった。一姫の左手が自分の頭に迫るのを見て麻由美は慌てて右手を頭にやる。しかしそれも一姫の作戦だった。
後はもう詰め将棋みたいなものだった。一姫は慎重に詰めに入る。
「――ッ!」
麻由美の左手に更なる痛みが走った。一姫が更に自分の右手をひねっていた。
一姫は左手を引っ込めた。左手はおとりだ。もとより頭の鉢巻きは簡単には外れそうにない。麻由美の右手を頭に釘付けにする為、それでも左手で狙う振りをしたのだ。むしろ一姫の左手は自分の頭を守る位置に戻されていた。
麻由美は逆をついて一姫の頭の鉢巻きを狙うのも、あきらめざるを得なかった。手首を解放するのが先だ。体の自由を奪い返す方が先だ。しかし左手は自分の意思に反して、痛みから逃れようと力の入らない方に曲がって行く。
負ける…… このままじゃ、あたし――
そうは直感するが、麻由美は自分の左腕はおろか、体全体が思うように動かせない。痛みに抗う方向に体をねじればねじる程、踏ん張りの利かない体勢になって行く。片足が浮いた。
「あっ!」
気が付けば左腕を後ろ手に極められ、体を浮かされていた。地面にうつぶせにされる。一姫が麻由美の背に乗った。
負けた――
一姫が麻由美の頭に手を掛けた。いくらきつく縛ってあるとはいえ、額の鉢巻きはあっさりと一姫の手に落ちた。手首の鉢巻きが後三本残っている。しかし力で押し返すにしても、もうこの体勢では流石の麻由美にもどうしようもない。
「く……」
麻由美が自由の利く右手を後ろに回し、一姫の体を軽く二度平手で叩いた。
麻由美は破れた。その降参の合図だ。
一姫は麻由美の手首の鉢巻きを奪わないまま、麻由美から降りた。
二人して廊下に座り直す。息を整える。真っ直ぐお互いを見ない。一姫は両膝をたたんで座り、麻由美があぐらをかいて座った。麻由美はうつむいてしまって、顔が見えない。
「はい」
麻由美は自分の手首の鉢巻きをほどき、顔を上げずに一姫に突き出した。
一姫は麻由美から鉢巻きを受け取ると、まだ座り込んだままの麻由美を腰を浮かしてそっと抱きしめた。十数分前に自分の妹が同じことをしていたとは、もちろん知る由もない。
「似合わないことしなくっていいよ……」
「そう…… いいじゃない別に……」
一姫はもう一度力強く麻由美を抱きしめた。
似合わないことかと、一姫は自分でもそう思った。
「槇。いい?」
職員室を出てすぐ一魅は槇に振り返った。槇は先程迄ふるっていた箒をまだ手に持っている。しかしどこか不安げだった今までとは違う、力強い握り方だった。
「うん。大丈夫……」
槇はにっこりと笑う。こちらも力強い笑みだった。
今朝迄自分はもっと自信なげにしていたと槇は思う。教室で小声でしか二人に話し掛けられなかった。皆が自己紹介している中、一人取り残された。多くの入会希望者に囲まれて狼狽していた。本当にこの大生徒会戦を戦う勇気と準備があったのかすら、今となっては疑わしい。
「はい」
一魅が自分の頭に巻いた鉢巻きを一本ほどいた。蓮司が奪った槇の鉢巻きだ。
一魅は鉢巻きの端を持って手を前に出す。蓮司がもう片方の端を握って、同じく前に手を出す。二人で槇の前に鉢巻きを差し出す形だ。
槇の前で鉢巻きが軽く揺れる。槇はその薄い布切れを力強く握って受け取った。左手に箒、右手に鉢巻きだ。
「ありがとう」
槇がそう言うと一魅と蓮司は鉢巻きから手を離した。二人が手を離すと、鉢巻きは重力に負けて両端がふわりと垂れる。完全に垂れ下がる瞬間――槇は腕をふるって、ビシッと鉢巻きを鳴らし、そのまま一息に頭に巻いた。
「行きましょう、槇!」
「ハイッ!」
槇が真っ直ぐ前を向いて応え、三人は互いの目を合わせ力強くうなづいた。
「あれ? 僕はひょっとしてお邪魔でしたか?」
椎堂清雪は一姫と麻由美の抱擁の現場に出くわした。二人は放送室前の廊下で、膝を着いて抱き合っていた。
両膝を着いて、座り込む同級生を慰めている御崎一姫――
清雪はしばし見とれてから声を掛けた。
一姫の両腕は優しくその同級生の頭を抱えていた。白く細くたおやかな両腕だ。なるべく深く自分の胸に顔を埋めるように、相手を抱きしめている。同じく白く長い指は相手のポニーテールを絡めとっていた。髪一本逃さない――そう言っているように清雪には見えた。
一姫は固く目をつむり、顔を相手の頭に預けるようにして寄り添わせている。それでいて背筋をピンと伸ばし、胸以外も相手に密着させていた。相手を全身全霊で包み込んでいる。神聖な儀式のようだった。
「そうよ。お邪魔よ。いつもそうね清雪は……」
一姫は目も開けずに答える。特に意識せずに『清雪』と呼んだ。一姫の長い黒髪が自然と垂れ、抱きしめられている生徒――麻由美の表情を隠していた。
麻由美は泣いているのかもしれない。肩が少し震えていた。
清雪は内心自分の名前が呼び捨てにされたことに戸惑いを覚える。だが悪いような感情は込められていないように思う。むしろ親し気だ。初めて話し掛けた時とは随分と違う。
「そうですか」
清雪はすまして返事をした。
一姫が麻由美を抱きしめた姿勢のまま、目を開けて清雪を見つめた。自然と笑みが出る。
「――ッ!」
清雪の心臓が大きく脈打つ。
泣いていたのは抱きしめられていた生徒だけではなかった。一姫の目に光るものを見つけて、今更ながら清雪は気付かされた。御崎一姫のカリスマは、内からのものなのだと。
「今朝はごめんね、清雪」
「あ…… いや…… いいいい…… いいんです。いいん、でででで、です……」
「ん……」
抱きしめられていた生徒――麻由美は、無愛想な声を漏らすと一姫を両手で押して引きはがした。麻由美は負けた。でも一姫はそうではない。まだ終わっていない。
ここで自分の為に時間をとらせていいとは思えない。もう充分に甘えた。甘えさせてもらった。麻由美は自身の甘えを引きはがすかのように、一姫を押し退けた。
「そうね。時間が惜しいわ」
一姫は麻由美の言いたいことを察する。一姫は立ち上がり、脇に手を入れて廊下の床から麻由美も立たせようとする。
「……?」
麻由美は顔を上げた。目が真っ赤だった。
一姫は清雪を見た。万が一の為の保険として呼んだつもりだった。第一生徒会にとりあえず入れて別行動でもしてもらい、危険を分散する。働きが気に入らなければ出て行ってもらってもいい。そう思っていた。
だが麻由美の姿を見て考えを変えた。
負けるってこういうことなのね――
責任――一姫は漠然とその言葉の意味を理解した。
あの明朗闊達な麻由美がほとんど話さない。一姫が麻由美を負かしたからだ。
他人を負かして私は前に進むのね――
いい加減なことはできない。一姫はそう思う。
負けた人の分まで前に進む…… これは勝った者の義務よ――
一姫は自分の胸にそう誓い、麻由美を力強く引き上げる。
「……私と一緒に大生徒会戦の審議委員会――職員室へきて――」
一姫は清雪を見て言った。そしてそのまま麻由美に視線を移して続ける。
「麻由美もね」
「さて…… どうする? 逃げ回るか? 隠れるか? それともどっか閉じこもるか?」
蓮司は先を歩く一魅に訊いた。
「何で全部消極的なのよ?」
一魅は後ろも振り向かずに聞き返す。
「時間は後一時間もない。参謀としては当然の進言だ。結局鉢巻きとられなきゃいいんだし」
職員室を出た一魅はためらいもなく歩いている。もうすぐ一階の渡り廊下だ。その先には南棟がある。両脇に生け垣が植え揃えられた渡り廊下に向かって、一魅は足早に廊下を駆ける。
「南棟に向かうってことは…… あれか? やっぱりか? 勝負を急ぐ必要はないぞ――」
南棟には放送室がある。今回の生徒会戦が始まった時に一姫がいた場所だ。
「本当にそう思う?」
一魅は渡り廊下への曲がりしなに後ろを振り向き、後ろ歩きをして蓮司に微笑んだ。輝いている。眩しい笑顔だ。姉と戦えるのが嬉しいのだろう。一魅は返事を待たずに前に向き直った。
「いや…… 御崎一姫は一人の可能性有りだ。まぁ…… 可能性だがな…… もしそうなら。この三年間で――唯一にして最大のチャンスだ」
一魅の笑顔にかなり驚かされながら、蓮司は平静を装って自分の考えを言った。
「そうよ。お姉ちゃんの数少ない欠点は、他人を容易に近付けないことよ」
「向こうがいくら一姫でも、一人なら――」
蓮司は一人で大量の鉢巻きを手にする一姫を想像した。その一姫がちょうど反対側の渡り廊下二階から、入れ違いに職員室に向かっているとは知る由もない。
そしてその蓮司の想像を、
「ヤッ!」
裂帛の気合いが一刀両断する。
槇が箒をふるっていた。箒の先に鉢巻きが一本引っかかっている。鉢巻きの下には腰を抜かしたと思しき男子生徒が一人、渡り廊下脇に尻餅を着いていた。渡り廊下の植え込みにでも隠れていたのだろう。それはもしかしたら、槇がしていたことだ。
「こっちは三人です」
その槇が箒の先から回収した鉢巻きを、笑顔で一魅に手渡す。満面の笑顔だ。大きな声だ。
『第四六生徒会長』佐伯洋介は尻餅を着いたまま、自分の生徒会を失った。
一姫は職員室で我が耳を疑った。全身全霊をもって説得しようと思っていた内容が、あっさりと通ったのだ。拍子抜けした。前例のないことを提案するつもりだった。大生徒会戦の審議委員会でも判断に困るような内容だろうと思っていた。
目の前の担当者は一言で提案を了承した。後は手続きだけだ。
一姫は麻由美を自分の生徒会に入れようとした。元生徒会長をだ。本来一年後の移籍市場が開くまで入れることができない、元生徒会長をだ。
いわゆる今はクーリングオフ期間だ。生徒は生徒会を何度入り直してもいい。そう、生徒は何度生徒会を入り直してもいい。規定にそう書いてある。
そして生徒会長も一生徒だ。今なら入り直していいのだ。生徒会を。一生徒として。
もちろん規定に書いてある生徒とは、生徒会長以外のことを暗に示してきた。今迄は。しかしそれは前例がなかったからだ。それだけだ。
前例がないのは、このクーリングオフ期間に失職する生徒会長がいなかったから。この期間に生徒会戦が開かれなかったから。今はもうその事態が起きてしまった。起きてしまった以上は対応すべき。一姫はそう主張するつもりだった。
その為に一姫は前例を打ち破った。生徒の堕落を理由に授業初日から開戦権をたてに生徒会戦を開き、失職する生徒会長を生み出したのだ。
そして審議委員会を説得し、他の生徒会を納得させる為にも、所属生徒会申請書を提出するつもりでいた。
麻由美を自分の生徒会に入れたいと思ったのは、一姫には嬉しい誤算だった。
本当は一魅を自分の生徒会に入れる為の策略だった。一魅を失職させ、自分の生徒会に引き入れる。入学前に自分が思い描いた想像通りだ。瓜二つの姉妹による二人だけの生徒会だ。
他の生徒はいたとしても『その他大勢』程度にしか考えていなかった。顔の見えない――黒塗りに目と口だけを白くくりぬいたイラストがよく似合う――『その他大勢』だ。
言わば姉妹の為だけの生徒会。
いえ…… もう違うのね――
一姫は姉妹二人だけの生徒会のイメージを、振り払うかのように首を左右に振った。
もう瓜二つではない。一魅は一姫に黙って髪を切った。美容院から家に帰ってきた時の一魅は、一姫に皆まで言わせず『切りたかったから』とだけ言った。
思えばあれが一魅の宣戦布告だったのだ。
一魅は黙って会長にも立候補していた。横断幕に一魅の名前を見つけた時、一姫は大勢の生徒の前で呆然としてしまった。段取りを失念するという、あり得ない失態をおかしてしまった。
どちらも直前迄は決断できなかった、言い出せなかったのだと信じたい。だがもうどちらにせよ、一姫の思い描いた生徒会は手に入らない。
一姫は麻由美と清雪を見た。所属生徒会申請書の提出を提出し終え、二人とも真っ直ぐこちらを見ていた。
「これが私達の生徒会ね」
「そうよ、一姫。スカッとこれで、一番を目指すわ!」
「ええ。第一生徒会。どこにも負けません」
「そうね。でもどうせなら、もっと人が欲しいわ」
一姫が笑ってそう言う。自分でも力の抜けた笑顔だと思った。
「おりょ? 欲張りね」
「欲張って損はさせないわ。十五年間も、私についてきた娘よ。そして――」
「出し抜いた女子生徒ですね?」
「そうよ。私はあの娘が欲しいの」
「ホント。一姫は妹が好きね」
「別に、妹だからじゃないわ」
一姫は心底そう思う。だが今、一魅は自分の生徒会を持っている。その生徒会を解散に追い込まなくてはならない。そして勝てないと思わせなくはならない。
だからこそ――
「その為には私が…… いいえ、私達の生徒会が、あなたを負かしてあげる」
御崎一姫は己を奮い立たせた。
放送室前には誰もいなかった。蓮司は慎重に放送室の中も覗いてみる。やはり誰もいない。
「いないな……」
蓮司は少しほっとして呟いた。
「何ほっとしてんのよ」
「そうですよ」
「何だよ! 皆素直になろうぜ。本当はほっとしただろお前らだって」
蓮司は今なら分かる。上には上がいる。ほっとしたのは恥ずかしいことかもしれないが、相手の実力を認めるは必要なことだ。
「してません」
「してないです」
「四面楚歌だな。味方が敵だよ。俺の妹ならこう言うね。『四面皆そっぽ向くのは利くなぁ』ってな」
「何言ってんのよ」
一魅が口を尖らせた。相変わらずの不平の表し方だ。口を尖らせて蓮司の弱気を責めている。
「……一魅ちゃん。蓮司くん」
槇が不意に呼び掛け、二人が振り返ると自然と微笑んだ。
「ありがとう」
槇はそう言うと、腰から上半身をスッと前に倒した。深々とした礼だ。
「えっ? 何?」
「随分と礼儀正しい礼だな」
蓮司は槇のその態度に感心する。何より礼を尽くそうという気持ちにあふれている。礼儀作法はよく分からない一魅と蓮司にも、気持ちがしっかり伝わってきた。
「どうしたの? 槇。あらたまって……」
「仲間に入れてくれたこと。ちゃんとお礼が言いたくて……」
槇は少し間を置いた後、ゆっくりと体を起こしてまた微笑んだ。
「槇…… ううん。お礼を言うのは私の方。仲間になってくれて…… ありがとう……」
一魅が槇の手を取る。素直に感激する。槇のように形をもって礼を表すことはできないが、一魅は感謝の気持ちを自然な態度で示した。
思わず手に取った手。潤む目元を我慢して相手を見つめる目。本心から言葉が出ていることを、伝える為に固くつむられた口。感激に少し震える肩。
全てが感謝の表れとして、自然と態度に出ていた。
一魅はそのまま蓮司を見る。
「蓮司もね」
「俺はついでか?」
「あはは、バカ……」
一魅は蓮司と槇をあらためて見た。入学前、自分の生徒会を持つと心に決めた。それが姉と対立することだと考えた時、一魅は立っていられなかった。本当に自室で床にへたり込んだ。
姉から自立する。姉から離れる。姉のいない自分。それだけでも考えたことがなかった。
姉と戦うのだ。
一魅にとってはそれは天変地異そのものだった。いつものふざけた姉妹ゲンカではない。『真の生徒会』には一つの生徒会しかなれない。最後はどちらかが負けるのだ。そういう戦いだ。
大丈夫。一魅はそう思う。仲間がいたから戦えた。仲間がいるから戦える。
だからこそ――
「私は戦うわ……」
御崎一魅は己を奮い立たせた。
一姫は職員室の扉に手を掛けた。残り時間はもう残り少ない。麻由美、清雪の二人がいれば負けることはないだろう。鉢巻きも大量にある。今回の生徒会戦の生き残りは確実だろう。
一姫は鉢巻きを頭に三本、腕に二本巻いた。麻由美は同じく三本を頭に、一本を腕に巻いている。頭の鉢巻きはもちろん二重巻きだ。清雪は頭に一本だけ巻いている。
最初は四・三・三と、均等に分けようとした。清雪がそれを辞退した。頭の鉢巻きは一本でも三本でも同じ。状況によっては一度に取られかねない。自分は一本だけで充分と言った。
「おりょ? やせ我慢じゃないの、清雪?」
「違いますよ。放っといて下さい」
「行くわよ。あの娘は私が倒すわ」
一姫は決意を込めて扉を開ける。
「――ッ!」
その願いが通じたのか、一姫は最高の形で一魅に遭遇した。
南棟二階放送室前で少し思案した一魅は、職員室に戻ると言い出した。
「お姉ちゃんはそこにいるわ」
「何で分かるんだよ? 双子の勘か?」
「そんな気がするの。受験の日の待ち合わせが、職員室だったし」
「そこまでして、一姫と戦う必要はないと思うがな」
「何よ。今はチャンスなの。もしかしたら、お姉ちゃんを仲間にすることだってできるのよ」
「勝てば――だろ」
「勝つのよ!」
一魅はそれだけ言うと、走り出してしまう。蓮司と槇が慌てて後を追った。今きた渡り廊下の二階を、今度は逆に走り出す。
「いっそのこと、携帯で呼びだすのはダメですか?」
「それはダメだ、槇。一姫に少しでも情報を与えるのは自殺行為だ……」
こちらから呼び出すなど論外だ。勝てると思っていることを、伝えること自体が墓穴を掘る。蓮司はそう思う。
蓮司はそれに三人掛かりでも負ける可能性はあると思っている。勝機だと思う反面、このまま時間切れを期待しないでもなかった。
一姫には極力出会わない方がいい。やはり三人いてもそう思ってしまう。
「では、露払いします!」
槇が前に出る。不用意に近付こうとする、他の生徒を箒で威嚇した。
「いいか! 一姫が、一人でいるから、戦っていいってレベルだからな!」
「分かってるわよ!」
走りながら叫ぶ蓮司に、一魅が叫び返す。
「仲間を見つけてたら、それは最悪だぞ!」
「お姉ちゃんは、人の面倒なんて見ないわよ!」
「わからんぞ。突然、義の心にでも、目覚めていたら!」
「どいてください!」
槇が箒をふるうたびに、前を塞ごうとした生徒が慌てて身を避ける。さすがの槇も、走りながらは鉢巻を奪えないようだ。
「本当は、一姫には、会わない方が、いいんだがな!」
「何ですって? 聞こえない!」
蓮司と一魅も、伸ばされてくる手を打ち払いながら駆け抜ける。
「聞こえない振り、じゃないのか!」
「どっちでも、いいじゃない!」
階段を駆け降り、一階の職員室に着いた。職員室前には、誰もいなかった。
「いないぞ。双子の勘も当てにならんな」
「おかしいな」
「第一な、職員室にいるってことはだな――」
蓮司が今更ながら、その意味するところに気付く。蓮司は自分の想像に、ブルッと一つ身震いをした。生徒会戦中に、職員室に用事ができる。それは――
「所属生徒会申請書の提出が必要な状況――最悪の事態だろ……」
その憂いが当たったのか、一魅は最悪の形で一姫に遭遇した。