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大生徒会戦  作者: 境康隆
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二、生徒会長達

二、生徒会長達


 雲雀丘槇は今日の騒ぎが理解できなかった。清楚で品のいい槇は、その分人前で声を上げることを苦手としていた。引っ込み思案と言ってもいい。

 それなのに真っ青になりながらも何とか自己紹介を終えると、今度はゲーム形式でもう一度やらされた。いい迷惑だった。案の定大人しい槇は、二度に渡って罰ゲームで自己紹介をやり直された。

 一回目の時とはまるで周囲の反応が違った。最初の普通の自己紹介では、皆黙って聞いていた。自己紹介が終わっても、おざなりの拍手が起こっただけだった。罰ゲームの自己紹介では、その罰さ加減を上げようとでも言うのか、皆がちゃかすように質問攻めにした。

 槇は真っ青な顔と、真っ赤な顔を、でんでん太鼓のように激しく入れ替えながら答えた。もちろん心臓の音も、和太鼓を叩くかのように身の内に鳴り響いた。

 もう少しで倒れるところでしたわ――

 槇はそう思い、目の前の花の枝に目を凝らす。

 槇は自宅に帰ると、先ずは祖母と母に生け花を指導された。やはりテーマは桜。今朝方は床の間だけだった桜の生け花は、これで客間と玄関にも飾られることになった。

 もちろん雲雀丘家は文武両道だ。生け花の後、祖母と母に長刀の稽古をつけられた。

 雲雀丘の娘として長刀は身を護る為は元より、家を護る為にも身につける。源平の世も、南北朝の時代も、東軍西軍の天下分け目の一大事も、文明開化と御一新の荒波も、雲雀丘の娘は武器を取って家を護った。時代遅れと思われようとも、その精神の下に槇は稽古に励んでいる。

 稽古が終わると日が傾き始めていた。夕食は三人で作り、三人で囲む。並ぶのは当然のように和食。箸を進める様はもちろん作法通り。食卓を囲むというよりは、膳を囲むという表現がぴったりな光景だ。

 これは槇が雲雀丘家の家の味を覚える為だ。文字通りの手前味噌の作り方から、配膳の上げ下げまで祖母と母の味と作法を槇は叩き込まれる。

 この間私語は一切しない。

 そして膳を囲んだ後、茶を点てる段になって、やっと槇は今日の入学式の様子を報告した。

 槇は第十三生徒会長になれたことを、祖母と母に伝えた。

 祖母も母も喜んでいた。僅かばかり相好を崩した祖母と母の顔に、槇も品よく笑う。

 父はこの場にいなかった。父の帰りはいつも遅い。婿養子の父は、膳を囲み茶を点てる度に正座で脚をしびれさせていた。礼儀作法の苦手な父は、なるべく遅く帰るようにしているのかもしれない。槇は時折そう思う。

 そんな父が槇に、入学のお祝いにとパソコンを買ってくれた。入試直後の合格発表すらまだだった時期の、気の早いプレゼントだった。

「槇さん。もういいわ。お休みになりなさい」

 茶が終わり母が言った。顔を上げていたので、今のは母の言葉だと直ぐに分かった。

 槇は清楚に返事をすると、すっと正座から立ち上がった。肩口で切りそろえられた清楚な髪が揺れる。清楚な和室の清楚な和服。そして清楚な立ち振る舞い。家自体が清楚な感じのする純和風住宅だった。

 住んでいる家族の浮世離れした振る舞いと、方々に生けられた花々と相まって、『雲雀丘のお花屋敷』と近所には言われている。

 槇は部屋の出しなに、あらためて正座し一礼した。そのまま楚々と廊下を歩き、はやる気持ち押さえて自室に戻る。

 部屋に入ると真っ先にパソコンの電源を入れた。そのまま父がブックマークに入れてくれた、巨大匿名掲示板に繋ぐ。本当なら親であれば娘に出入りして欲しくないであろうサイトだった。父が何故この掲示板を、わざわざブックマークに入れたのか槇にはよく分からない。

 だが槇は一目で気に入った。そこには日頃の生活とは無縁の、品性の欠片もない書き込みがされている。それが槇の心をくすぐり、自分も直ぐに書き込むようになった。

 今日も家に帰り、制服を着替える僅かな時間で、一度パソコンを立ち上げ書き込んでおいた。こうしておけば、ネットの向こうの親切な皆が意見を書き込んでくれるからだ。

 きた!

 槇の頭に顔のように並ぶ文字が浮かぶ。丸括弧で記号を囲んだ文字列だ。アゴが外れんばかりに口を開けた形の全称記号。歓喜に瞳孔が開いて、焦点が合わないと言わんばかりの半濁点。それらが歓喜に見開く口と、興奮に踊る目を表していた。

 槇の予想通り――口汚く罵り半信半疑にちゃかしながら、わざとらしく驚きふざけて喜びつつ、冷静に一言添えて意味不明に叫びながら――皆からの返事が書き込まれていた。

「皆様…… 私の為に……」

 槇は感極まったように、そう呟く。そして就寝までの僅かな時間を利用して、自らものめり込むように返事を書き込んでいった。


「一魅! どういうことよ!」

 御崎一姫は入学式のその日、妹が帰宅すると開口一番、今日のことを問い詰めた。一姫は玄関で、まだ靴も脱いでいない妹――一魅に詰め寄る。

 妹は自分のクラスのホームルームが遅れるからと言って、先に帰って欲しいとメールをよこしていた。それもあり得ない。いつもなら待っててと言ってくるはずだったからだ。

 何かがおかしい。高校に入ってから、妹が変だ。一姫は話を聞かずにはいられない。

「どうって…… 私も生徒会長に立候補したのよ」

 妹は既に分かり切っていることを返してきた。靴を脱いで下駄箱に納めると、姉の横を素知らぬ顔で通り過ぎようとする。

 一姫はもちろん納得しない。長い黒髪を振って、キッと妹の背中に睨み付けた。

「生徒会長に立候補って! それじゃ、私の生徒会の副会長は? できないじゃない!」

「当たり前でしょ」

「当たり前って、一魅! どういうことよ! 聞いてないわよ! ちょっと待ちなさいよ!」

「言ってないもの! そっちも当たり前!」

 一魅は一姫の怒号を背に、悠々と階段を上がって自室に向かう。

「コラッ! 待ちなさいって! いず――」

 尚も階段を見上げてわめき散らす一姫の頭上に、

「キャン!」

「何騒いでんの?」

 母がお玉を叩き付けた。

 一姫と一魅によく似た母が、呆れたように長い髪を揺らしてそこに立っていた。

「だって、聞いてよお母さん! 一魅ったら! 私に黙って、生徒会長に立候補してたのよ!」

「何? あの娘、生徒会長に立候補してたの? へぇ…… で、なれたの? 生徒会長に?」

「そうよ、なれたわ。あの娘は第一〇七生徒会の…… 生徒会長よ」

「そう。でも、いいじゃない別に。自慢の娘が二人とも生徒会長で、母さん嬉しいわよ」

「よくわないよ! 私の生徒会の副会長は? 二人で三年間戦い抜いて、『真の生徒会』になるって約束は? お母さんの無念を晴らすって約束は?」

「別に二人で同じ生徒会とは、約束してないわよ。お姉ちゃん」

 私服に着替えた一魅が、二階から駆け降りてきた。

「お帰り、一魅。生徒会長になったんだって?」

「ただいま、お母さん。そうよ、第一〇七生徒会の生徒会長。なんか運命――」

「キーッ! 認めないわよ、一魅!」

 何か言い掛けた一魅を、一姫がヒステリックな声で遮った。

「何で、お姉ちゃんに認めてもらわないと、いけないのよ?」

 一魅は唇を尖らせて一姫に振り返る。

「私が第一生徒会長だからよ」

 一姫は対抗するかのように、唇を尖らせて言い切った。まるで同じ表情だ。

 二人とも同じ背丈で、同じ顔の同じ表情で、同じように唇を尖らせている。髪の長い短い以外は、全く瓜二つだ。

 色々とよく似ていると、端から見ていた母は思う。

「フン!」

 瓜二つの双子の片割れ――髪の短い方の娘は、そう鼻を鳴らして首を振った。

「大生徒会戦が始まった以上、生徒会のナンバリングは、もはや只の数字です。皆条件は一緒。お姉ちゃんに認めてもらう必要なんか、ありません」

「第一生徒会長は特別よ。『開戦権』があるもの」

 大生徒会戦の個々の戦いは『生徒会戦』と呼ばれている。その生徒会戦を始める権限は教師側が持っている。本来生徒側に戦いを始める権利はない。

 しかし第一生徒会の名前は、教師側にも無視できない。その名はある種の権威だった。第一生徒会が開戦したいと進言すれば、教師側は応じずにはいられない。その慣例が作り出した権利――それが開戦権だ。

「それが何よ? 今関係あるの?」

 聞いてられないと言わんばかりに一姫に背を向け、一魅はダイニングに向かおうとする。

「待ちなさい、一魅!」

 一姫は背を向けた一魅の襟を、後ろからムンズと掴む。

「何すんのよ?」

「話は終わってないわ!」

「だからって、人の襟掴まないでよね!」

「そんな短い髪、してるからよ! 伸ばしなさい! 今から直ぐに伸ばしない!」

「髪は襟の防御の為に伸びている訳じゃないわよ! てか、今すぐ伸びるもんですか!」

「だったら今すぐ、生徒会長を辞退なさい!」

「何言ってんのよ! 何で交換条件みたいに、なってんのよ! それに辞退したって――」

「うるさい!」

 母が騒ぎ散らす娘達の頭を、やはり持っていたお玉で小突く。

「キャン!」

「痛っ!」

「二人とも、聞きなさい」

「……」

「……」

 二人はブスッと母に向き直った。

「約束してなかったとはいえ、一姫が一魅に副会長になってもらうつもりでいたのは、一魅も知ってたでしょ?」

「……そりゃ……」

「ほら!」

「でも、一姫も一魅が当たり前のように、自分の副会長してくれるなんて、どうしてそう思ってたの?」

「だって! 当たり前じゃない! 妹なのよ!」

「何で妹なら、当たり前なのよ!」

「何ですって! キーッ! 妹のくせに生意気!」

「妹とかそんなの関係ないでしょ! お姉ちゃんは、我がままなのよ!」

 二人は顔を突き合わせて睨み合う。美人双子姉妹に、似合わない形相だ。

 瓜二つの顔を醜くも歪めて突きつけ合わせる双子の娘に、

「せっかく美人に、生んであげたのに……」

 母はそう嘆いて溜め息をついた。


「だだだ……」

 椎堂清雪は高校生活二日目の朝から、血の気を失っていた。

「大丈夫か? 正樹! 美海!」

 朝食を食べさせた弟妹が、泡を吹いてテーブルに突っ伏したからだ。文字通り泡を吹いている。ただ事ではない。

 救急車! と清雪は携帯を取り上げる。

「兄貴…… みそ汁から何か、変な味が……」

「お兄ちゃん…… 泡が…… 泡がぶくぶくと……」

「へっ? お前ら、無事か? 大丈夫か?」

 清雪は携帯を耳に当てながら、テーブルから手を着いて顔を上げる弟妹を慌てて見る。

 見れば泡は弟妹の口からだけでなく、みそ汁そのものから湧き上がっていた。

「えっ、薬物? そんな――あっ! 警察ですか? 救急車を呼ぼうと思って…… へっ? 午前七時十九分をお知らせします? あれ……」

「お兄ちゃん、色々と間違ってるよ」

 美海はそう言うとイスから降り、正樹と二人で洗面台に向かった。

「兄貴、すげえぜ。泡が後から後から、湧いて出てきた」

「ぺぺ…… まだ変な味がする……」

 弟妹が洗面台から、渋い顔をして戻ってくる。

「お兄ちゃん…… 何でインスタントのお味噌汁で、こんなことになるの?」

「いや、それは……」

 清雪は先程まで朝食を作っていたキッチンを振り返る。ひと味足そうと最後に加えた薄口醤油。それを納めたはずの棚に、何故か食器用の洗剤が納められていた。

「あれ、洗剤? 何で?」

「余計なこと、しなくていいのに。普通にしていれば、いいお兄ちゃんなのに」

「う……」

 清雪は美海の言葉に声を詰まらせる。確かに中学時代の清雪は勉強なら何でもできた。スポーツもできた。家庭科は若干苦手だった気がする。だがそれ以外は、誰よりもできた。

 それこそ完璧や一番という言葉は、自分の為にあるのだと勘違いしなくもなかった。

 だがその自信は昨日、完膚なきまでに打ち砕かれた。

 大生徒会戦百七名の生徒会長に、自分の名前がなかったのだ。ショックだった。入学式後に通りかかった職員室の前で、自分を生徒会長にしろと怒鳴り込んだらしき生徒の声が聞こえた。それもショックだった。自分はあっさりとあきらめたのに、同じ境遇で訴えに出る人間がいるのだ。信じられなかった。

 いや、何より一番ショックだったのは――

 第一生徒会長御崎一姫の、あの堂々とした壇上での態度だった。

 あれだけの数の見知らぬ生徒を前にして、物怖じしないその宣誓の言葉。何よりその美貌がもたらす皆の羨望の眼差しを、当たり前のように受け止めるあの度胸。迷いなど微塵もないように動く四肢。自信に満ち溢れた眼差し。信念に基づいたように伸びた眉。確信を内に秘めたような唇。魅力的なその他の頬や耳や目と相まって、己を信じるとはこのことだと言わんばかりに、昨日清雪はまざまざと見せつけられた。そう、正にカリスマだと清雪は思った。

 面白くない奴――

 中学時代の清雪はそう周りに思われていたし、陰で実際に言われてもいた。特段の努力もなく、文武ともにこなしたからだ。家庭科は確かに苦手だったが、それは男子全般の特性として捉えられていた。そしてそれぐらいしか、欠点らしい欠点はなかった。

 それでいて特別顔がいい訳でも、殊更話題が豊富な訳でもない。努力せずともできたので、人に自分のように上手くやるコツを教えることもできない。

 そう、何と言うか人望を集めることができない。その他例えば生徒会長に漏れたからといって、職員室に押し掛けるような人を惹きつける個性もない。

 ただただ生まれもっての違いを、周囲に自覚させる存在。面白くない奴。それが中学時代の椎堂清雪だ。

 皆に近付こうと、何か面白いことを言おうとしていつも失笑を買っていた。ウケを狙って外していた。そういう意味でも、椎堂清雪は『面白くない奴』だった。

 それなのにこの高校では、百七名の内にすら入れない。清雪は面白くない奴のまま、ここでは更に普通の生徒になったのだ。

 そして昨日見せつけられたのは、その現実と、自分とは違う個性に、本物のカリスマだ。

 御崎一姫――

 幸い清雪は一組に入れた。清雪は自身の席の斜め前に座った、一姫の名と姿を思い出す。

 自分は一番ではない。カリスマでもない。怒鳴り込むような、面白い奴でもない。

 ならそこから始めるべきだ。清雪はグッと箸を握り締める。

「どうしたの、お兄ちゃん?」

 急に黙り込んでしまった兄に、美海が覗き込むように見上げて訊いた。

「なんでもない……」

 清雪は慌ててそう言うと、椀を手に取り口をつけた。そして――

「あわわわわ……」

 泡を吹いてみそ汁を拭き出した。


 中山麻由美はおかしいと思った。女子高生になった。遅刻もしそうだ。パンもくわえている。何より疾風迅雷のコーナーリングだ。条件は全て揃ったはずだ。

 だが――

「出会いは?」

 そう、だが出会いがない。麻由美は朝の通学路の角を、曲がる度にその現実を突きつけられてしまう。これで格好いい男子と、角で出会い頭にぶつからないなんて――そう思ってしまう。

 麻由美は母が朝食にと用意してくれたフランスパンを、一刀両断に噛み切りながらノドに押し込む。残ったパンの端も、脚を駆りながら続けて呑み込んだ。

 麻由美が疾風迅雷と駆け抜ける度に、街路の桜の花がその風に煽られて散っていく。

「おおっ! 後二本しかない!」

 左手に持っていたビニール袋を、まさぐりながら麻由美は青天霹靂と言わんばかりに声を上げる。袋にはフランスパンが放り込んであった。麻由美の朝食だ。

 麻由美は棍棒のようなパンを、悪漢でも撲殺するかの勢いで袋から取り出した。まるで小麦粉で作った凶器だ。そのまま自身の眼前に据える。麻由美の目が妖しく光る。

「今度から、六本にしてもらわなきゃ!」

 ここにくるまでに食べた三本分の味わいを思い出しながら、麻由美は至福の四本目に歯を立てる。それだけで堅い外皮を誇ったフランスパンが、豆腐のように噛み切られた。

 麻由美は新しい角を曲がったが、やはり出会いらしきものはない。確かに人にぶつかりそうにはなる。多くの通勤通学の人々が、麻由美のその猪突猛進の勢いに目を見張って振り返る。もちろん男性が立っていなくもない。

 しかし麻由美の自慢の動体視力が、旗幟鮮明に己の好みを選り分けてしまう。そうなると当たるようで当たらない。今度は抜群の身体能力が、瞬きの間で相手を回避してしまう。誰もが目を見張る脚力で走り抜けながら、誰の目にも留まらぬ体さばきで避けてしまう。まるで忍だ。

「もっとこう、サーチアンド出会いホイ! て感じに、スカッといかないの!」

 麻由美は最後の角を曲がった。直線路にさしかかる。後は真っ直ぐ行くだけだ。

 だが――

「ええい! ままよ! スカッともう一角!」

 麻由美は校門の直前で、一か八か――乾坤一擲とばかりに角を曲がった。遅刻寸前だったのは、もちろんスカッと忘れていた。


 御崎一魅は誰よりも早く教室にやってきた。そのつもりだった。

 だが先に桐山蓮司がきていた。早めにきて欲しいとはお願いしていたが、これ程まで早いとは一魅は思わなかった。

「どうした? 人の顔をじろじろと見て?」

「えっ? いえ、えっと…… 桐山くん…… 朝、早いなって思って」

 一魅が席に着くと、蓮司が寄ってきてその前の席に後ろ向きに座った。朝日の照らされるその横顔を、一魅はまじまじと見てしまったのだ。

「気にするな。どうせバイト上がりだ」

「バイト? 桐山くん、アルバイトしてるの?」

「ああ、まぁな」

「昨日。さっさと帰ったのも?」

 一魅は昨日ことを思い出す。二人で職員室に行き、所属生徒会申請書を提出すると蓮司は慌てた様子で先に帰ってしまった。

「ああ、そうだ。まぁ、俺のことはいいだろ? それよりも作戦会議だ」

「え、うん…… そうね……」

 一魅は名残惜しそうに、語尾を濁しながら応える。

「他のメンバーのことなんだけど――」

 集めたい人数は最低でも四人。つまり後二人だ。会長の御崎一魅、副会長の桐山蓮司。そして残りは書記、会計。少なくともこの四名を揃えることが大前提となる。

 また大生徒会戦の規則では、役職のない生徒も認められている。ただし人数が多いと有利なこともあるが、離脱者が出ると失格審査行きなので人数を抱えることはリスクにもなる。

 逆に一人で何役か兼任してもいいことになっている。つまり単純に考えれば一人四役で、生徒会を名乗ることも可能だ。いわゆるお一人様生徒会だ。

 むしろ人気のない百番台前後の生徒会で、妙にやる気になっている浮いた生徒会長の下には誰も集まらない。毎年何人かは、一人四役の憂き目に遭っていた。

 一魅は生徒名簿を取り出した。生徒会長にのみ配られる生徒のプロフィールファイルだ。その種の名簿が作られることは、受験前から生徒に知らされている。その上で生徒側も合格後に情報を提出している。

 また家族構成や誕生日など外的要因に関する項目はなく、あくまで本人の能力に特化した名簿だ。名簿の内容は基本的に自己申告。文字や文面も個性のうちと考え、ほぼ白紙の規定用紙に生徒自身が書き込んでいる。割当は一枚。つまり名簿では一人一ページになる。

「書記と会計が欲しいから、この中から字の綺麗な人と計算が得意な人を選び出して……」

 一魅が名簿をめくる。全国有数のエリート校の生徒達。勉強以外でも芸達者が多い。

 クラスの十数名が書道の有段者もしくは経験者で、ペン字の能力を自薦しているものもいた。実際名簿は手書きの為、字の綺麗な生徒は分かりやすかった。

 計算では算盤や簿記、数学検定等の特技を、資格欄に書いている生徒が何人もいた。成績の上では最下層の十組でもこの人材だ。人材そのものは豊富なのだ。

 だがもちろんそういう分かりやすい生徒は、他の生徒会長も狙っている。一魅が早く動き出したかった理由だ。同じ生徒に同時に目を付けられたら、ビリ番の一魅に勝ち目はないのだ。

「字の綺麗な人に、計算の得意な人ね…… そんな単純な感じでいいのか?」

「何よ?」

「定石通りと考えるべきか、常識に囚われていると考えるべきか――って思ってね」

「だって他に基準なんてないじゃない」

「昨日の自己紹介でもな、やっぱり生徒会長に選ばれている奴は、何て言うか…… 覇気が違ったなと思ってね。細かい能力よりも、あんな感じのが欲しいと思ったね。俺としては」

「じゃあ、生徒会長をスカウトしてきなさいよ」

「無茶言うなよ」

 蓮司は肩をすくめる。

「言い出したのは、桐山くんよ」

「そうだったかな」

「私はね。少しだけ勝算があるような気がするの」

 一魅が力強く言う。僅かに鼻が膨らんだように見えたのは、その自信の現れだろう。

「なんでだ?」

「だって、昨日一日で私達めちゃくちゃ目立ったじゃない。面白がりな生徒は、私達の第一〇七生徒会に興味を持ったはずよ」

「面白半分でこられても、後で後悔するぞ」

「私達はビリ番なの。黙っていても、本当は向こうからくることなんてないの」

「スカウトに行かなきゃならんのなら、いっそのこと一組にでも乗り込むか?」

 蓮司は自分の背中の方を、親指で指差しながら言った。それは一組の方向だ。

「相手にされないわよ」

「御崎うにゃららですけど、私の生徒会に入りませんか? て言えばどうだ?」

「バカにしてんの?」

 一魅は口を尖らせ、眉間にシワを寄せた。

「それぐらいの非常識さがないと、いい人材は集まらないような気もするがな」

 蓮司は顔をそらして言った。少し自分の顔が赤らんだような気がした。不満を訴える一魅の表情豊かな顔に、不意打ちを食らったせいだ。蓮司は自分にそう言い聞かせる。

「非常識ね……」

「非常識な勧誘と言えば、古来よりのあれだな。入口に隠れていきなり棒で殴りかかるやつ」

「古来よりって、それって映画じゃない」

「そうだったか? まあいいや。多分毎年誰かやってるぜ。こう後ろから――」

 蓮司はそう言うと、思い切り手を振り上げた。もしかしたらまだ少し赤い、自分の顔をごまかす為に派手に机に振り下ろす。

「――バンッ! てね!」

「ヒッ!」

 一魅の後ろの席から顔を真っ青にした女子生徒が、いきなり立ち上がった。

「あは……」

 女子生徒の体はそのまま、滑り落ちるように崩れ落ちる。蓮司が机を叩いた以上の大きな音を出して、床に倒れ込んでいた。切り揃えられた髪の奥で、真っ青な顔が見える。

 二人は他の生徒が――しかも真後ろの席に――いたことに、今迄気が付かなかった。

「えっ! 雲雀丘さん? 何で?」

「さ…… さぁ?」

 一魅の疑問に、蓮司も答えられなかった。


 御崎一姫は怒っていた。駅を出るや、足を踏み鳴らすかのように通学路を歩く。

 地面に八つ当たりをしても、内から沸き起こる怒りが収まらない。

 怒りに任せて歩く一姫は、派手にその長い黒髪を振り乱す。その大げさな様子に多くの生徒が振り向いた。そして険しい顔をしているというのに、それでも一姫は見る者を男女問わず魅了した。皆が惚けたように一姫の顔に、その一挙手一投足に目を奪われる。

 一晩眠り朝起きると、折れてやってもいいと思えるようになっていた。一年の我慢なのだ。一年経てば進級の時に、移籍市場が開く。そうなれば一魅は一姫の生徒会に入り直すことができる。

 もちろんその為には、一魅は生徒会長を辞めていなくてはならない。大生徒会戦で誰かに負けていなくてはならない。それは一魅の夢を砕くことになるだろう。その役はむしろ一姫自らが買って出るつもりだ。

 そして一時の別れを経て、改めて二人で『真の生徒会』を目指すのだ。返ってその方が姉妹の絆はむしろ深まるだろう。

 ここは寛大な心を見せてやろう。一年はライバルとして暮らし、むしろ姉の偉大さを思い知らしめてやろう。向こうから間違いを認めさせてやろう。そして許してやろうと思っていた。

 それなのに――

「今日も一人で先に行くなんて!」

 一姫は周囲の視線も気にせず一人で叫び上げ、惚けたように魅入っていた周囲の生徒はやっと我に返った。


 雲雀丘槇は十組の教室に入るなり、固まってしまった。固まり方も清楚だった。

 槇はクラスの入口で固まったまま、その十組の象徴とでも言うべき第一〇七生徒会長と、昨日自分をパニック陥れた元凶の男子生徒を見る。

 ずいぶんと早く教室にきたつもりだったが、槇よりも早く一魅と蓮司がきていた。

 早めに家を出て、静かな教室で生徒会編成でも考えようと思っていた。

 槇は第十三生徒会の生徒会長。生徒会長は一般生徒とは別に成績に関係なく、まんべんなくクラスに分けて入れられている。それでも十組にはなるべく、番号の若くない生徒会長が集められる。そうしないと互いにプライドが邪魔をして、生徒会員が集めにくいからだ。

 だがなるべくである以上、割を食う生徒会長は毎年いる。今年は槇だった。

 槇は他のクラスから、とりわけ一組から生徒を募るつもりだった。第十三生徒会長なのだ、本来なら入会希望者でいっぱいになるようなランクだ。そしてどうせなら一組に入るような優秀な生徒が欲しい。槇はそう思う。その為には勇気を出して声を掛けるつもりだった。

 しかし実際の槇は、クラスメートにすら気後れしてしまう。

「……」

 一魅と蓮司は何やら話し込んでいる。昨日いち早く生徒会構成の話をしていた二人だ。結局一魅の生徒会に、蓮司が入ったのだろう。

「……あの……」

 声を掛け損ねた。向こうも気付いてくれない。どうしたらと、槇はしばし立ち尽くす。

 槇は清楚に歩いて、清楚に動く。静々と――そう人一倍、物音がしない。気配がない。家の教えが彼女をしてそうさせた。

「……」

 普通に席に歩いて行って挨拶する。それで大丈夫のはずと、槇は意を決して歩き始める。

 雲雀丘家はいつも静かだ。長刀や護身術の稽古以外では、誰も大声など出さない。出す必要がない。槇はだからいつも声が小さかった。

 槇は静々と足音を立てずに席に向かう。子供の頃からの習い性で、品のない行動ができない。

 二人はやはり気付いてくれない。気付かれないまま、席に着いてしまった。よりにもよって一魅の席のすぐ後ろだ。着席の際にも物音ひとつしない。清楚なのだ。

「……お…… はよう…… ござい…… ます……」

 挨拶の声はとても小さかった。真後ろに座ったというのに、二人には聞こえなかったようだ。二人の話す声が聞こえる。もしかすると深刻な状況に陥ってしまったのかも知れない。

 ぬ、盗み聞き! 私、盗み聞きしてますわ!

 二人は槇が後ろにいることに気付かず、熱心に自分たちの生徒会のことを話し込んでいる。

 どどど、どうしましょう…… 座り直します――

 槇はもう一度立ち上がり、挨拶し直す自分を想像する。むしろ入口からやり直したい。だがそんな不自然な行動は、見付かった時の方が厄介だろう。

「……おは…… よう…… ござ…… います……」

 もう一度後ろから挨拶をしてみた。やはり二人は気が付かない。

 どどどどどど、どーしたら――

 槇の心臓の鼓動が、早鐘を打つように鳴り出す。聞くまいとしても、二人の会話が耳に入る。

 もはや完全に盗み聞きだ。蓮司と一魅は、何も隠すことなく槇に自分達の話を聞かせる。

 ききき、聞こえてます…… い、いえ、聞いてません!

 槇は二人に話し掛けられないまま、一人で煩悶する。

 き、気付いてください…… 私が盗み…… いえ、別に盗み聞きしている訳では――

 蓮司が何かを叩き付けるように、唐突に平手を振りおろした。

「――バンッ! てね!」

「ヒッ!」

 声にならない悲鳴を上げて、槇は慌てて席を立ち上がる。目の前が一瞬で真っ暗になった。貧血だ。そのまま足元から力が抜ける。

「あは……」

 槇は大きな音を立てて床に崩れ落ちた。そしてやっと蓮司と一魅に気付いてもらい、そのまま清楚に気を失った。


 椎堂清雪は自分の席で朝の教室を見回した。皆が自分より格上に見える。誰もが目を向けてしまう女子生徒がいる。早くも皆の話の中心になっている男子生徒もいる。特に生徒会長に選ばれた者は、清雪には輝いて見えた。

 生徒会長は単純な入試の成績だけで選んでいる訳ではない。体育特待生など図抜けた特技がある者は、成績に関係なく生徒会長になれるとも聞いている。生徒会長だからといって、全ての面で清雪を上回っている訳ではないのだ。特に清雪のように万能型の生徒は多い。それだけに分母の大きい、不利な競争に曝されたのだろう。そう考えて清雪は失望しないことにした。

 一姫は今朝教室に入ってくるなり、皆の視線を一心に浴びながら席に着いた。それまで人目を引いていた女子も、皆の関心を集めていた男子も、一姫の登場で一気に霞んで見えた。

 それでいながら皆が一姫に声を掛けようとしない。一姫が醸し出している雰囲気が、清雪でなくとも彼女を格上に見えさせた。むしろ陰で聞こえぬようにと、一姫の名前を皆が囁く。

 だが――

「みみみ、みさ、御崎さん!」

 だがそんな雰囲気の中、清雪は思い切って声を掛けた。誰もが気後れする第一生徒会長――御崎一姫にだ。

「お断りします」

 そして即座に断られた。内容すら切り出す前にだ。

「へっ?」

「お断りします。今は生徒会のこと考えてないの、ごめんなさい」

「えっ? そ、そう…… じゃあ……」

 清雪は内容を見抜かれ、伝える前に断られたことに困惑しながら慌てて席に帰ろうとした。

 クスクスクス――

 クラスの誰かが笑う声が聞こえた。いや、クラスが笑ったのだ。皆の総意として。

「――ッ! 御崎さん!」

 清雪は本能的に振り返る。ここで諦めていい訳がない。

「何ですか?」

 一姫は不機嫌なようだ。清雪はやっとそのことを悟る。だから断られたのだ。だから笑われたのだ。だから清雪は『面白くない奴』と思われるのだ。相手の顔色も、周りの雰囲気も読めないからだ。清雪は我ながらそう思う。

 だがここで引き下がる訳にはいかない。清雪は変わらなくてはならないからだ。

「御崎さん! 今は考えていないだけですよね?」

「?」

「でも考えない訳はないですよね? これ僕のアドレス!」

 清雪は自分のノートをとっさに破り、己の携帯のアドレスを走り書きして一姫の机の上に置いた。一姫は困惑しているようだ。少し困ったように目を見開いている。一姫の人を近付けさせない雰囲気が一瞬崩れた。

 今だ――と、清雪は畳み掛けに入る。

「ぼ、僕を、ききき、君の生徒会に――」

「そう、でも――」

 一姫はそう言って、その紙片を押し退けた。

「椎堂、無理すんなよ! 膝が震えてるぞ!」

 クラスの男子生徒が一人、清雪の文字通り足下を見て横から茶々を入れる。

「む、無理なんて――」

「でも――もう覚えたから、メモはいいわ」

「えっ?」

 清雪にはそれが断りを入れる為の方便か、それとも本当に覚えてしまったのか一瞬分からない。答えを求めてその顔を窺う。

「ありがとう…… 強引なのは、嫌いじゃないわ。面白い人ね」

 一姫がニコッと微笑むと、

「おおっ!」

「へっ?」

 クラスがどよめきに包まれ、清雪はいくらも開かない目を見開いた。


 中山麻由美が我に返ったのは、学校周りを西回りで三周半した時だった。

「しまった! 校門が遠い!」

 学校の敷地はL字型をしてる。南から見てL字を九十度右に倒した形だ。縦書き「『」の左右反転とも言える。Lの長いところに南北二棟の校舎と体育館やプール等がある。短いところは全体が主にグランドで、テニスコートなどもある。単独の高校としては県内有数の広さを誇っている。北側に正門が、南側にグランド用の裏門があった。

 麻由美はグランド用の裏門を疾風迅雷と通り過ぎ、しばらくして我に帰った。

「スカッとチャイムが鳴っちゃう!」

 『サーチアンド出会いホイ!』とやらを求めて、もうひと角、もう一周と考えているうちに、結局遅刻の危機に見舞われていた。

「好みの男子さえ角にいてくれれば……」

 そう。むしろそうならば、多少の軌道修正をしてでも、ぶつかって行く自信すらあった。

 いや今はそんなことを悔いている場合ではない。距離としては反転して裏門に戻った方が近い。走っている勢いを活かすなら、このまま正門だ。

 性格が前向きな麻由美は、もちろんこのまま走り抜ける方を選んだ。決意を込めて未練がましく残しておいたフランスパンを呑み込む。

「正門まで直線にして約三百メートルのコース…… コーナーは二回…… 残り時間は十九秒! あたしは『第一〇六生徒会長』――中山麻由美! あたしならスカッと行ける!」

 行けるはずもなく、麻由美はその日スカッと遅刻した。


「おう、授業始めんぞ」

 国語教師の佐野仁太郎がやる気のなさそうな挨拶とともに、一年一組の教室に入ってきた。出席簿で筋肉のこりをほぐすかのように、肩を叩いている。態度もやる気がなさそうだ。

 立っていた生徒が慌てて席に戻り、皆が一斉に前に向き直った。いや違う。エリートの自覚と自信故か、授業など興味がないと言わんばかりに窓の外を見たり、居眠りの振りをする生徒がいる。

 その様子に可愛いものだと仁太郎は思う。

 自分を特別だと思っているのだろう。仁太郎は毎年に見られる、普通の光景なので特に気にすることはなかった。傲慢な生徒の鼻っ柱は、生徒自身が互いにへし折ってくれる。もちろん度が過ぎるようなら、チョークの一つでもぶつけてやるつもりだ。それも大人げないので、とりあえず我慢することにする。俺も大人しくなったものだと、仁太郎は内心思う。

 仁太郎は一姫を見た。最も多く、他の生徒の鼻っ柱を折るであろう生徒会長だ。一姫は真っ直ぐ前を見ている。少々考え事をしているようだ。その思わず息を呑む美貌に、仁太郎は自身が高校生の時に出会ったその母親の姿を見る。

 神聖不可侵――

 そうとでも言いたげな雰囲気を醸し出している。普通の生徒なら近付くことすら戸惑うかもしれない。

 長く一人の生徒を見ていた不自然を悟られまいと、仁太郎はおもむろに口を開く。

「お前ら、生徒会編成は決めたか? クリーングオフでも何でもいいから――」

「そうよ! それよ!」

 一姫が突然規制を発して席を立った。

 その神聖不可侵な顔に、

「――ッ! うるせーッ! バカ野郎!」

 仁太郎は迷いなくチョークをぶつけた。


 一年十組は授業を始められなかった。一人の女子生徒が貧血で倒れたのだ。

 女子生徒は授業が始まる前に一度倒れ、保健室行きを小声で『……大丈夫…… です……』と断った。とても清楚な感じのする声色だった。

 保健室行きを勧めたのは一魅と蓮司だ。いつから自分達の席の後ろにいたのかは分からないが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。

「本当に大丈夫?」

「大丈夫…… です……」

 一魅の問い掛けに、倒れた女子生徒――雲雀丘槇は血の気の引いた顔色で答える。

「そう……」

「……」

 一魅は前を向き直り、何か話の取っ掛かりはないかと、生徒のプロフィールファイルを開いた。生徒会長専用のページをめくる。あった。とっさに折り目を付けて、槇の略歴を確認する。

「――ッ!」

 一度は折り目までつけた名簿を一魅は慌てて閉じた。思わず蓮司の顔を見る。蓮司も一魅の顔を見ている。驚いている。

「見た?」

「見た…… 見てはいけないものを見た――ような気がする」

 二人は蒼白な顔をしつつも、清楚な雰囲気を損なわない女子生徒を見た。槇の清楚な顔と、名簿の内容を重ねて考えてみようとした。無理だった。

 槇は机に肘を着いて、両手の指を組み、手の甲で額を支えていた。

「ネットの匿名掲示板とかで、よく見る書き込みだな……」

「何、冷静に言ってくれちゃってるのよ…… ネットの書き込みなら分かるけど……」

 囁くように言う蓮司につられ、一魅が小声で応えた。どう考えても匿名でも何でもない名簿に、人格を疑われるようなふざけた書き込みが散りばめられていた。文字を巧みに使い、絵になっているところもある。俗に言うAA――アスキーアートだ。それも手書きでだ。

 活字と見間違わんばかりの正確さで、縦横がきちっとそろっている。しかも数を放り込む為か、一ページ丸々使って書き込まれているその字はかなり小さい。

 この清楚な女子生徒と、品のない書き込みがどうしても二人は繋がらなかった。

「か…… 顔文字だろ? かわいいもんじゃないか……」

「顔文字のレベルじゃないわよこれ……」

 周りを見れば、そろそろ生徒達が集まり始めている。

「じゃあね。えっと…… 雲雀丘さん。また気分が悪くなったら言ってね」

「ありがとう…… ございます……」

「はい、おはよう。授業初日だね! 始めるよ!」

 数学の教師がやってきて、皆が起立と礼をする。

 槇はフラフラと立ち上がり、ヨロヨロと礼をした。

 背後で気配を察した一魅も、一番後ろから見ていた蓮司もかなり危ない気がした。

「やっぱり大丈夫? 保健室行こうよ……」

 やはり放っておくことはできなかった。一魅はほとんど本能的に着席と同時に後ろを振り返り、槇に話し掛けた。

 肘が当たって何かが落ちた。それは仕舞い忘れたプロフィールファイルだ。

「あ…… り…… がとう…… でも……」

 『でも大丈夫』と言おうとして、槇は一魅が落とした名簿に目が行く。

 名簿は折り目がついたページを開いて落ちていた。槇のページだ。

 ちょうど扉の向こうで盗み聞きしていたと思しき人物が、ガラッとドアを開けるAAが目に付いた。槇自身が書いたものだ。

 ――話は聞かせてもらった!

 記号と文字だけでできた人物が、まじめな顔でそう言い放っていた。

 プギャー!

 槇は声にならない悲鳴を上げて気を失った。もちろん人を失礼にも指差し、小馬鹿にするような顔文字付きで。


「暇ね……」

 一姫は暇だった。失敗したと思った。廊下で欠伸交じりに、そう呟く。

 仁太郎にチョークをぶつけられて、廊下に立ってろと言われた。特に言われた覚えもないが、バケツを三つ持ち出して廊下に出た。バケツに水を入れて廊下に立つと、直ぐに暇になった。

 いつも暇な時間は双子の妹にちょっかいを出して、時間を満喫するようにしている。妹の都合はあまり考えない。だからいつでも妹さえ近くにいれば、暇なことはなかった。

 不幸にして妹が近くにいない時は、自分の世界に浸って時間を潰した。もちろん妹との思い出の世界だ。廊下で立っていてもこの『幸せ妹タイム』に入れば、今日もあっという間に時間が過ぎると思っていた。

 しかし今日思い出される妹は、姉の意見に逆らう反抗期を彷彿とさせる態度ばかりだった。

「おっととっとっと……」

 精神統一が乱れた。頭の上のバケツが揺らぐ。割と大げさに体を左右に動かしバランスを取り直す。

 あは! 楽しい!

 一姫はこんな単純なことに、しばし無邪気に熱中する。

「何してるの? お姉ちゃん」

「――ッ!」

 一魅の声がした。一姫は内心心臓が飛び出んばかりに驚いたが、いかにも想定の範囲内という顔をして、バケツを上に乗せたまま器用に振り向いた。

 いつの間にか一魅が右手に立っていた。右肩に一人の女子生徒を抱えている。女子生徒は気を失っているようだ。女子生徒は反対側も誰かに支えてもらっている。

 あら? あれは確か『運命の人』――

 反対側で女子生徒を抱えていたのは桐山蓮司だ。名簿で一番に確認した名前の生徒だ。実質初対面みたいなものだが、なんだかもう親しい友人のような気が一姫はする。

「御崎一姫――」

 その蓮司は正直言って驚いていた。いやもっと正直に言うと少し退いていた。待ちに待った幸運の女神様との再会だ。学年一、いや学校一の美人と、お話できるチャンスなのだ。

 だが――

「何だ? バケツ?」

 バケツを頭に乗せようとした発想も、乗せ続ける技術も、乗せて平然としている神経も全てが驚きだった。何よりその嬉しそうな顔。よく見るとチョークの粉が額に少しついている。蓮司は一瞬その神聖不可侵な顔と楽しげな表情、そしてバケツとチョークの粉が繋がらない。

「お姉ちゃん…… また立たされてるの? しかも授業初日…… 一限目から……」

「そうよ。チョークまでぶつけられたわ。流石は高校ね、やるわ……」

「高校は関係ないわよ、お姉ちゃん…… 中学の時と変わらないじゃない。恥ずかしいわね」

「うるさいわね。ほっといてよ。好きで廊下に立ってんの、私は」

「何だ? 廊下に立つのが趣味なのか?」

「そんな訳ないでしょ。立たされてるだけよ。お姉ちゃんは」

「『廊下立たされクイーン』の名は伊達じゃないわ。バケツはもはや体の一部ね」

「何だって? クイーンが何だって?」

「あまりに廊下に立たされ過ぎて、中学の時に拝領したあだ名よ。お姉ちゃんの」

「えっ? 廊下もバケツも日常茶飯事? 第一生徒会長様がか?」

 蓮司の中で一姫のイメージが崩れそうになる。才色兼備の優等生だと思っていた。いやしかし蓮司も『グー』で殴られた。少し変わっているのかしれない。蓮司はそう思って、自分を納得させようとした。いややはり納得できない。蓮司はしばし混乱する。

「一魅…… お前の姉ちゃんって……」

 蓮司は思わず一魅を名前で呼んだ。『御崎』では区別がつかないからだ。ほぼ無意識に名前で呼んだので、本人自身も今初めて『一魅』と呼んだことに気付いていない。

 一姫は蓮司の『一魅』という言葉にピクッと反応した。

「あら? 仲いいじゃない…… ひゅー。ひゅー」

「お、お姉ちゃん!」

「お前の姉ちゃんて…… 廊下に立たされ慣れてんのか?」

 動揺していた蓮司は、一姫の言葉が耳に入らなかったようだ。

「お、お姉ちゃんは中学では…… おそらく歴代一位の、さ、最多廊下行き記録保持者だったわ。立たされ続けて暇なんで、バケツを頭に乗せるぐらい、へ、平気になっていたのよ……」

 蓮司に名前で呼ばれ、姉に冷やかされたことに少し戸惑いながら、一魅は廊下とバケツと姉を結びつける。ちらっと蓮司の顔色をうかがうが、特に動揺しているようには見えない。

 一魅は最後は口を尖らせて顔をそらし、一姫はその様子に嬉しそうに鼻を鳴らした。

 蓮司は憧れの第一生徒会長との再会に成功した。端から見ていれば、その点は間違いない。しかし初めて交わした個人的な会話が、廊下にバケツにその武勇伝。怯みそうになる。

 いやそんなことで怯んではいられない。これからの一生で、これ程の美人とお近付きになれることはもうないのかもしれないのだ。しかもフラグは立っている――そのはずだ。蓮司は自分にそう言い聞かせる。

 これ程の美人…… もうない――

 蓮司はその自分の考えに疑問を持ち、ふと一魅の方を見た。『これ程の美人』というなら一魅も同じだ。『もうない』とも思うが、よく考えればもう二人目だ。

「ん……」

「あ、ごめん、雲雀丘さん。今保健室に連れてってあげるから……」

 一魅が慌てて歩き出そうとすると、一姫が口を尖らせた。妹がせっかく目の前にいるというのに、ちょっかいが出せない。授業中に出会うという奇跡まで起こっているのに。しかももう行くとか言う。

 一姫は力一杯口を尖らせ、抗議の意思を示した。一魅と突き出し方までが、瓜二つの口の尖らせ方だ。姉妹で口を尖らすのが、一番の不平の表し方のようだ。

「えっとじゃあ…… 一姫――さん。また……」

 何が『また』なのか蓮司自身にもよく分からないが、挨拶もなしにこの幸運にお別れするのはしゃくだったので、次があるかのように言ってみた。

「ええ、桐山くん。またね……」

「お、おう……」

 笑顔で応える一姫に、蓮司は思わず顔がほころんだ。一魅がムッと口を尖らしたことに、蓮司は気が付かない。

「それと…… 一姫って呼んで…… 私も蓮司って呼ぶし……」

 一姫は更に小首をかしげて微笑んだ。ちょうど四人が一列に並んだ位置だった。

「なっ!」

 一魅は目を見開いて驚いている。一姫は驚いた一魅の顔を真正面から見た。二人は身長も全く一緒なのだ。目の前で驚いてる。してやったりだ。

 蓮司は一魅と槇の二人越しに、一姫の微笑みを見た。バケツが頭に乗っているマイナスを、吹き飛ばして余りある光り輝く笑顔だった。

「練習する? じゃ、私からね。それ! 蓮司!」

「えっ? えっ? い…… いつ……」

「ちょっと! 何やってんのよ! 保健室が先――」

「どいて! どいて!」

 階段へと続く廊下の角から、威勢のいい女子生徒の声がした。

「スカッと、遅刻しそうなの!」

「いやもう遅刻だろ!」

 猪突猛進と走りくる女子生徒に振り向き、蓮司は思わず叫んでしまう。

 階段は教室と同じ側にある。女子生徒は階段を登りきった勢いで走ってきている。遠心力で蓮司達を遠巻きにするだろう。だが見ていて止まるようには、とても思えない。

「このっ!」

 蓮司は万一に備え、とっさに一魅と槇の二人を自分の背後に押しやった。

「おりょ? 桐山くん? ひょっとしてこれこそ運命の――」

 屋内の廊下でありながら、床のホコリを黄塵万丈と後に引いて迫りくる女子生徒――中山麻由美の体が、遠心力に逆らって君子豹変とばかりに急カーブを描く。抜群の身体能力だ。

 一姫が静かに両手のバケツを廊下に置いた。

「何でこっちに曲がってくるんだ?」

 獲物を見つけた猛禽類のような急転直下の麻由美の急襲に、蓮司は次の一手が思い浮かばない。少なくとも女子三人は守るべく、槇を一魅に預けて両手を構えた。

「やっぱりダメよ、あたし! 妥協しちゃ!」

 麻由美が何やら叫んだその瞬間――

 一姫の体が蓮司の前に入り込み、誰もが気が付けば麻由美の体がその背中に乗っていた。

 見入ってしまう程、奇麗に決まった投げ技だ。

 そして麻由美の体が宙を舞ったその時――

「御崎さん。佐野先生が『うるせーぞ』だって」

 すぐ横でガラリとドアが開いて、暢気な顔で椎堂清雪が出てきた。


 ――ガッシャーン!

 という音と衝撃音が、廊下中に響き渡った。

 一姫は投げた瞬間、自分でも完璧だと思った。相手の体が放物線を描きながら飛んで行く。皆を避けて宙を飛んで行く。そう自然とイメージが浮かぶぐらいに、完璧な投げ技だった。

 突然の闖入者が、すぐ横のドアから現れるまでは。

 麻由美は激突を思い止まっていた。本来の蓮司までの距離なら、危機一髪と止まれただろう。だが間に女子が一人割り込んできた。しかも簡単に投げられてしまった。日頃通う道場でも、ほとんど投げられないことが麻由美がだ。麻由美は空中で驚天動地と目を見開く。それでもその場で反転し、着地後、捲土重来とばかりに反撃するつもりだった。私闘を申し込んでもいい。とにかく戦闘態勢に入るつもりだった。

 投げられた瞬間、忽然と現れた生徒に、足が引っ掛かりさえしなければ。

 蓮司は一姫の投げを真近で見た。真近で見たが、何がどうなったか理解できなかった。理解できたのは走り込んできた麻由美の足が宙に浮いており、多分それは一姫が投げたのだということだけだった。しかも一姫はほとんど体を動かしたようには見えなかった。蓮司はそれでも麻由美が宙を舞う軌道を読み、後ろの二人を守ろうとした。

 先程までいなかった男子生徒が、麻由美に引っ掛かっていなければ。

 一魅は一姫の投げを見た。姉が何かの格闘技の入門書を見ていた時に、練習台にさせられた技だ。練習と言っても二、三回、型通りの動きに付き合っただけだ。ものにしているとは、思いもしなかった。必死にその背中を追い掛けていた姉は、実はもっと先に行っていた。さすがは一姫だと思った。

 はじけ飛んだバケツと、絡み合った四人がこちらに転げてくるまでは。

 槇は夢現で『プギャー!』と叫んだ。そして思わぬ衝撃に、もう一度気を失った。


 廊下で派手な音がしたので、教師の仁太郎は一喝すべく廊下に向かった。その前から少し騒がしかった。目についた男子生徒を一人、注意させに出した。だがその生徒はドアから出ると、一瞬で見えなくなった。まるで廊下で交通事故にでも遭ったかのようだ。

 さすがに人がぶつかったかのような鈍い音に、バケツでもひっくり返したかのような甲高い金属音、何かの下敷きになったかのような男女の悲鳴が聞こえた時点で、堪忍袋の緒が切れた。

「何をしてる! おまえ…… ら……」

 仁太郎はドアから出てがなり立てるが、

「……なんだこりゃ……」

 廊下のあまりの惨状に途中で声を失った。


 桐山蓮司は保健室で目が覚めた。天井に見覚えがある。でも何か違う。そう前回より少し遠い。そんな気がした。嫌になる程知っている保健室だ。この部屋のベッドで目が覚めて、夕日を拝んだ受験の日。あの日の惨めな思いだけはもうしたくない。

 起き上がろうとして気付いた。ベッドが固い。いやベッドに寝かされていた訳ではなかった。床の上に敷いた担架の上で寝ていた。

「担架?」

「あら目が覚めた?」

 保健室に詰めている養護教員が蓮司に気が付いた。三十少し過ぎたぐらいの女性教員だった。イスに腰掛けている。その足下には、もう一人の男子生徒が寝かされていた。

「桐山くんは保健室が好きね。受験の日もいたわよね?」

「ええ。受験の日の、一日体験入学で気に入りましたので」

 『一日体験入学』どころか『一日中体験入学』を受験当日にやらかした保健室を、蓮司は見回す。カーテンが見えた。記憶が正しければ、その向こうにベッドが三つあるはずだ。

 蓮司は自分の状況を確認する。バケツ一杯の水を六人でかぶったはずだ。それなのに制服は濡れているような感じがしない。生乾きといった感じだ。

「えっと……」

「榊原よ。榊原宣子(さかきばらのぶこ)

「あ、いえ…… お名前ではなく、服乾いているなと、思いまして……」

「何よ、失礼ね。女性の名前は、常に気にしておきなさい。興味ない振りされるのが、一番傷つくのよ。愛の反対は無関心よ。二度見されないことよ。合コンに呼ばれないことよ」

「はぁ……」

 担架を担架箱に自分で戻しながら、蓮司は曖昧に返事をする。

「分かったら、心にメモっておきなさい。えっと服ね。服はドライヤーで乾かしたのよ」

 なるほどと思いながら、蓮司はカーテンを指差す。

「開けていいですか?」

「開けていいわよ。中の娘にも訊いてね」

 蓮司が『開けるぞ』と声を掛けると、一姫の『どうぞ』との返事が聞こえた。一魅の声によく似ていたが、多分一姫の声で間違いないと蓮司は思う。

 蓮司はカーテンを開けた。てっきり先に気が付いた一姫が、イスにでも座って一魅の看病をしていると思った。しかし違った。一魅と一姫はひとつのベッドに二人で入っていた。他の二人は一人にひとつずつだ。

 一姫以外は皆寝息を立てている。いや正確には中山麻由美が豪放磊落なイビキを、雲雀丘槇が苦しげな寝言を漏らしていた。左から一姫、一魅、槇、麻由美の順だ。

「えっと…… い、一姫…… でいいのか……」

「なぁに。蓮司」

 緊張して名を呼び掛ける蓮司に気も留めず、一姫は一魅の顔を覗き込んだまま返事をした。

 よく見ると一姫は、左腕で腕枕までしている。右手は一魅の髪や頬をなでていた。蓮司はベッド脇のパイプ椅子に腰掛けた。一姫と向かい合う配置になる。

「一姫は体は大丈夫なのか?」

「私は全然何ともないわ。妹の看病してるだけ」

「ベッドに入り込んでか?」

「そうよ。可愛い?」

 一姫がやっと蓮司の方を見た。目が合うとニコッと微笑む。天使の笑みだ。

「あ、ああ…… 流石は第一生徒会長……」

「いやね。一魅の方よ」

「えっ! 一魅? 一魅ね…… そりゃ…… まぁ…… そっくりだし……」

「こんなにそっくりでもね…… やっぱり少しずつ違うところがあるのよ私達」

 一姫が自分の顔を一魅の顔に近付けて、蓮司を仰ぎ見た。見比べろという訳だろう。

「どっちが可愛い?」

 一姫は意地悪な質問をした。そしてそんな自分に驚いた。近年まれに見る『幸せ妹タイム』のはずなのに、他人を絡めようとしている。

 本来なら己の持てる全ての語彙を集めて罵詈雑言を浴びせ掛け、蓮司を追い払うか人間的に再起不能に追いつめる状況だ。

「そっくりなんだろ? どっちか一人と、答えていいのか?」

「卑怯な答えね」

「元より質問に答える義理もないしな。瓜二つだと言っておくよ」

「あっ、そ」

 一姫は微笑んだ。瓜二つは一姫にとって、一番の褒め言葉だからだ。

「昔は一緒の部屋で寝てたんだけど、今はそれぞれ自分の部屋もらっちゃって…… なんかこういうの久しぶり……」

 一魅は妹の顔を見る。二人で会話をしていることが申し訳なくなる。

「蓮司。話ししたいでしょ? 一魅を起こして上げようか?」

「えっ?」

「サービスするわ。しばしお待ちを!」

 言うや否や、一姫はシーツを跳ね上げ右手を一度高々と宙に上げた。いたずら心が押さえ切れないという笑みを浮かべる。

「何だその笑みは?」

「ふふん」

 一姫は右手を振り下ろすと、一魅の制服の上着の裾から、両手を突っ込んだ。そのまま脇腹をくすぐる。一魅が一気に目を見開きビクっと体を震わした。

「はい! 起きろ!」

「きゃっ? えっ、何? お姉ちゃん? えっ? れれれ、蓮司!」

「早く起きなさい、一魅! おへそが見えてるわよ! 丸見えよ!」

 妹の上着の裾をまくり上げながら、姉が嬉しそうにしている。一魅の白い肌とへそが、蓮司に向けてさらけ出されていた。

「見えてるんじゃなくって、これじゃ見せてんじゃないの! バカ姉ぇ!」

 一魅は上半身を跳ね起こして己の裾を直すと、枕を引っ掴んで一姫の顔に叩き付けた。

「蓮司! どう?」

 一姫は枕で叩かれながら、してやったりという顔で笑っている。

「ああ。ナイスサービスだな、一姫」

「サービスとか言うな!」

 一魅は枕を蓮司に投げつけた。


「スカッと目が覚めました!」

 一魅の大声に気が付いたのか、白河夜船と眠っていた麻由美が唐突に身を起こした。

「復活!」

 麻由美は気合いを入れる為に、飛び上がるようにベッドの上に立ち上がる。体は先程叫び声がした方に向けた。体のコリをほぐすかのように、ベッドのスプリングを利用して、その場で意気軒昂と飛び跳ねる。

 麻由美の復活に気が付いたのは一人だけだったのか、御崎姉妹は取っ組み合いをしており、蓮司だけが応じてくれた。

「起きたのか?」

「スカッと起きました! さっきはごめんなさいね!」

 何事ですのと、槇も麻由美の声に目を覚ます。そのまま薄目を開けて、周りの様子を窺った。

「とぉ!」

 病院――保健室だが――のベッドは、自分にはこの世で一番似合わないと思っている麻由美は、一番端のベッドから逃げるように跳んだ。

「いやぁ、皆さん。さっきは失礼しました。大丈夫でしたか?」

 その時カーテンを開けて、一緒に運び込まれた男子――椎堂清雪が入ってきた。

「おりょ!」

「うわ!」

「またお前か!」

 先程の再現のように、麻由美と清雪が空中でぶつかり、蓮司の下へ倒れこんできた。

「――ッ!」

 槇が声にならない悲鳴を上げる。蓮司にぶつかって跳ね返った麻由美が、中央のベッドにお尻から落下した。それはよりにもよって寝ている槇の上だった。鳩尾だった。

「グ……」

 予想外の状況に槇は清楚に避けることも、清楚に身構えることもできなかった。痛みに耐えかねもう一度気を失う。清楚な気の失い方だったかはどうかは、本人には分からない。

「あ、ごめん!」

 槇のベッドから蓮司の横に滑り落ちながら、麻由美が謝る。

 謝罪の言葉の割には、遺憾千万とは程遠い軽い調子だ。

「この娘もすごいよね。これでもスカッと、まだ寝てるよ」

 麻由美は呵々大笑とばかりにケラケラと笑った。一度目が覚めたのに、自分が再度気を失わせたことなど少しも気付いていない。イスがないので麻由美は槇のベッドに腰掛ける。

「あいたた…… 失礼しました」

 清雪がベッドの下から、首を振りながら這い上がってきた。

「桐山くんだよね。あらためて自己紹介するね。あたしは第一〇六生徒会長――中山麻由美」

 麻由美が陽気に手を挙げる。

「スカッと名前の麻由美で呼んでね」

「ああ。桐山蓮司。第一〇七生徒会の副会長だ。『蓮』に『司』で蓮司」

 蓮司は応じて手を挙げた。麻由美とハイタッチをして、手を引っ込める。

「椎堂清雪です。『清い』に雪景色の『雪』です。一年一組。生徒会は未所属」

 麻由美の横に座りながら、清雪が自分も名乗る。手も挙げたが、蓮司と麻由美はもう手を引っ込めた後だった。乗り損ねた清雪は、すごすごと手を降ろした。

「蓮司と清雪ね。そう呼んでいい?」

「ああ、蓮司でいい」

「ええ、構いません」

「蓮司ってば、結局第一〇七生徒会の副会長になったんだ?」

「まあな、ビリ犬だ」

「スカッと拝んでいい?」

「ああ…… 構わないが……」

 そんなにビリ犬がありがたいかと思いながら、蓮司は御崎姉妹を見た。何となく嫉妬してくれていることを、内心期待してみる。

 だが一魅と一姫は取っ組み合ったままだった。腕力は互角らしい。蓮司のことなど気にかけている暇はないようだ。

「……」

 槇がヨロヨロと上半身を起こした。今度は割と早く意識が戻った。悲しいことに失神慣れしてきたのかもしれない。清楚に一魅達に振り返る。ほぼ無音だ。

「やっと起きた。おはよう!」

 だが麻由美だけは蓮司にふざけて両手を合わせながらも、その衣擦れの音を聞き逃さなかった。目どころか、耳もいいのだ。耳はピクピクと動きさえする。そして今回も耳をわざと動かし、麻由美は一人だけ槇の方に振り返る。そのまま明朗快活の見本のような笑みを送った。

 槇は自分の気配に気付いてもらえたことに驚いた。私のターンだと、嬉しくなっていつもより大きめの声を出そうとする。

「おは――」

「あたしは第一〇六生徒会長中山麻由美。蓮司は知ってるよね。こっちは一組の清雪ね」

 しかしせっかくの槇にしては大きな声も、麻由美の普通の地声にかき消された。

「桐山蓮司。第一〇七生徒会の副会長…… 『蓮』と『司』で蓮司だ」

「椎堂清雪です。『清い』に雪景色の『雪』です。一年一組。生徒会は未所属」

「さっきも似たようなこと言ったんだが……」

「おりょ? 何? 蓮司」

「別に」

「それに向こうが――」

 麻由美がそう言って指をさすと、

「御崎一姫――第一生徒会長。御崎一魅の姉!」

「御崎一魅――第一〇七生徒会長……」

 取っ組み合いを一時休戦して、一姫と一魅はそれぞれ名乗った。

 大生徒会戦を戦う以上、自己紹介は生徒会の役職名を含めて行い、求められるがままに交わし合うのがこの学校のマナーだ。たとえ息を切らして、髪を振り乱し、着衣すら乱れかけんという姉妹ゲンカの最中でもだ。

「『御崎一姫の妹!』が抜けてるわよ!」

「それ別に必要なところじゃないわよ!」

「何ですって!」

 休戦はとても短かった。

「おりょ? そう言えば一〇七だったね! あたし一〇六! スカッとあたしの勝ちね!」

「私の…… ターン…… は?」

 槇は自己紹介どころか。挨拶するタイミングすら分からない。自分の出番を求めてオロオロと首を巡らす。

 カーテンの向こうで、ガラッとドアが開く音がした。

「何がよ? 数比べてどうすんの? しかもひとつしか違わないじゃない!」

「何よ一魅! 他所に気を取られるなんて、余裕ね!」

「お姉ちゃんの相手なんて、余裕です!」

「何ですって! 生意気!」

 『キーキー』と言い合いながら、美しき姉妹は醜い取っ組み合いを続ける。

「双子の美人姉妹――のはずなのに、あまりありがたみがないですね。桐山くん」

「そうだな…… 絵になってんだか、なってないんだか、分からんな……」

 男子二人の勝手な感想も気にせず、その姉妹はお互いの頬を引っぱり合っていた。

「ひとつの差でも勝ちは勝ち! お客さんはシビアなのよ! 一円でも安いところに、人はスカッと流れるのよ!」

「商売人みたいだな?」

「商売人そのものよ!」

 蓮司の疑問に澄んだ目で麻由美が答えた。千客万来と目の奥に書いてあるかのようだ。

「なら私は一〇七倍分勝ちね! ひれ伏しなさい! 一魅!」

「何で倍なのよ! どういう計算よ!」

 宣子と他の誰かが話す声がした。ベッドの六人は誰も気が付かない。

「うち電気屋なの。地域一番店を目指しているわ。あたしこう見えても、自慢の看板娘なの。本物の看板は不注意であたしがすぐに壊すから、スカッと看板娘しないと売り上げがきついの」

「親の仕事手伝ってるのか?」

 蓮司が素直に感心した。蓮司は両親を尊敬していない。二人とも身勝手だと思っている。

「そうよ。親思いでしょ」

 本物の看板がライバルな看板娘――中山麻由美は、貢献している売り上げを、看板の修理代が少なからず圧迫していることは、全く気にならなかった。

「今度きてよ。スカッと、サービスするわ! 冷蔵庫とか、どう?」

「別に冷蔵庫は要らないな。テレビは欲しいかな」

「僕はスチームオーブンが欲しいです。料理って意外と楽しくって」

「テレビ? オーブン? どっちも新機種の出た直後の、一つ型落ちが狙い目よ!」

「私はヘヤドライヤーを新調したいわ! いいのない?」

 一姫が一魅に髪を引っぱられながらも、麻由美に振り返る。

「いいの? 一姫の髪なら本当にいいのを使わないと! 痛んだ髪にいいやつよ」

 麻由美はまるで今まさに家電量販店にいるかのように、生き生きと当意即妙に応えていく。

「考えとくわ。一魅もお金出しなさい!」

「私は今ので十分よ!」

「そんな髪してるからよ!」

「放っといてよ!」

「……」

 槇は挨拶も自己紹介もあきらめた。空気と一体化するかのように、緊張を解く為大きく息を吐く。

 麻由美が槇のため息を耳聡く聞きつけた。耳をわざと動かしてから、得意満面に振り返る。

「ほら何してるの。挨拶ぐらいしないと」

 槇の挨拶は一度麻由美の声がブルドーザーよろしく、踏みつぶしたのだが、もちろん麻由美はそんな枝葉末節なことは気にしない。

 槇の顔が明るくなる。槇以外の五人ともがこちらを見ていた。御崎姉妹もケンカの手を止めている。自己紹介はするも聞くも、マナーなのだ。

 挨拶? 自己紹介? 私のターン? と、槇の顔が、一気に紅潮していく。

「おは――」

「うるさいぞ! お前ら!」

 国語教師佐野仁太郎はカーテンを勢いよく開けて、ベッド脇に現れるなりそうがなり立てた。

 私の…… ターン――

 槇の頭に、自分の頭を自らの拳銃で打ち抜く顔文字が浮かんで消えた。もちろんその銃声は『ターン』だった。


 保健室の六人はベッドとパイプ椅子の上に、それぞれ正座させられた。保健室での大騒ぎ。とりあえずその沈静化の意味も込めて、反省の意を正座で示させられている。

 槇だけはむしろ、その清楚な正座が常態にも見えたが仕方がなかった。

「三限目。十組の授業に行ったら、お前らがまだ帰ってきていない」

 仁太郎がその厳つい顔を、しかめにしかめて状況を説明し始めた。

「さすがに心配になって早めに切り上げてきたら、大騒ぎじゃねぇか」

 蓮司は先程迄の喧噪を思い出す。確かに幼稚園児のような有様だった。高校生だ。蓮司達は。しかもそのうち五人は、生徒会長様四人に副会長様一人だ。

「まぁいいじゃないですか。佐野先生。病んでいる生徒を元気にするのが、この保健室の役目。こんなにまとめて元気になってくれるんなら、なんて言うか、お得ですよ」

「そういう意味では。榊原先生」

「費用対効果ね! コストパフォーマンス!」

 麻由美が弾かれたように顔を上げた。

「いやー。うちも宣伝打っても、なかなかスカッとはお客さんこなくて……」

「くるお客さん待つより、あなたが担いで売り歩いた方が早いわ」

「ちょっと…… お姉ちゃん! 何言ってるのよ!」

「なるほどノー・コストパフォーマンスって訳ね。なるべく重たそうなものを担いで人目を引いて――スカッと売り歩く! いけるかも! 掃除機? 扇風機? ううん。いっそのこと、テレビなんていいかも! そうよあたしなら、冷蔵庫の行商だってできるわ!」

「いや、本気で言った訳でもないと思うが……」

「えっ? ウソ。本気じゃないの…… そんな…… スカッと信じたのに……」

 蓮司が遠慮がちに進言すると、麻由美は大驚失色と青ざめてしまう。

「からかっただけよ」

「お姉ちゃんってば!」

「でも大丈夫! あたしならできる! クーラーでも洗濯機でもスカッと売り歩いてみせる!」

 麻由美は落ち込みから、すぐに復活した。悲喜交々を一人で満喫しているかのようだ。

「うるさい……」

 仁太郎は切れかけていた。

「ハイ。すいません」

 一魅と蓮司と清雪だけが頭を下げた。一姫は知らん顔をしているし、麻由美は怒られても嬉しそうだ。槇も心の中では謝っていたが、怖くて声も出せずに固まっていた。

「先生」

 一姫が真剣な顔をして、真っ直ぐ仁太郎を見た。

「……な、何だ?」

 仁太郎は昔の想い人そっくりな顔に、心臓が一瞬跳ね上がったかのような錯覚を覚える。

「さっそくですが、第一次の生徒会戦の――開戦を進言させていただきます」

「何!」

 一姫の言葉に、その場の全員が驚いた。

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