ピータン
羽虫でもいるのだと思った。碁盤の目のように、正確に敷かれた模様の端。黒点が天井にいた。もぞもぞと歩むこともなく、しがみつくテトラ。台を用意するほどでもないので、私は寝た。
目を覚ますと、それは大きめの蝿ほどの大きさになっていた。やや嫌悪感のある艶が、控えめに主張する。私は少しばかりの好奇心で、真下まで行きまじまじと眺めることとした。塗装が剥げ、下地が見えるようなわけでもなく、かといって何かをなすりつけたような乾いた筆跡もない。元からそうあることが、当然であるかのようだ。
ひと通り眺めたあとに、畳んだ布団に腰掛け漠然と考える。北向きの窓が、私の影をより一層濃くするのを感じながら。
入居した時にあのような跡があっただろうか。ここに住むのも今年で四年目、もしかしたら何かの表紙についたシミかもしれない。しかし、墨汁にも似た跡、特に飛んだようなモノをどうやってつけることができるのか。
考えたところで、答えは出ない。そう決めつけ、私はその日を過ごした。
翌日、中型の蛾ほどに広がるシミ。初めに感じたのは、不快感だった。私の住むアパートは山の麓にあり、時折虫が部屋に侵入してくることがある。
ただ、明らかに広がりつつあるシミに、いくら辟易したところで、業者を呼ぶ金もなければすぐに越せるわけではない。ましてや、管理会社に連絡するなどもってのほかである。
これ以上考えたところで、結末は銭勘定になる。というわけで、私はその日を何事もなく過ごすこととした。
目を覚ますと、シミはボウリングの玉ほどになっていた。ただし、これまでのような平坦さを欠いてた。化膿した擦り傷が、絆創膏を圧迫するような、密度を感じさせる。
この変化には、芸のなさに興味を失った私も、思わず台を持ち寄り触れた。しかし、思ったような感触はなく、たんに塗り重ねた絵の具や無機質なフリスビーのような非生物的なものであった。
くだらない、そう思ったのでその日もまた、なんともなしに過ごした。
その日を境に、私はシミから心理的に距離を置くこととした。理由としては、日々拡大するシミが私の満足するまでになった時、一気に確認することに期待したからである。ときには、朝起きるたびに目に入るシミは、なんとなく生活を浪費しくだらなく生きる私と比べ、なんと生産的であるか、とすら感じた。
季節が二つほど過ぎたあたりで、頃合いを見つけた私は、ゆっくりと天井へ手を伸ばした。成長しきったとは言い難かったが、偏重に広がったシミは、半卵形に沈み込み、床へと近づいていたためだ。
ゆっくりと手を触れる。沈み切った先端が、私の手のひらに触れ少し形を変える。私が手をさらに押し上げると、重力、抵抗感が手に乗る。しかしながら、なんとも手に吸い付くような感覚が心地よく、もう少しだけ手を伸ばす。指が、跡を残すように食い込んだあたりで、皮膜を通し何かが手にコツコツと当たる感触。
潰した新聞紙の中を何かが蠢くような音が響き、電飾によって照らされたシミの中で、親指ほどの黒塊が沸騰するかのように沸き動く。
私は咄嗟に手を離し、畳んだ布団へ倒れ込む。ひどく息を切らし、シミの外へと何かがこぼれ落ちようとするのをただ見るしかなかった
とにかく部屋から出よう。そう思ったが、ドアへ抜けるにはシミの真下を通るほかない。混乱に満ちた私の脳内は、声を上げることさえなく、口と目を大きく広げ、肩を揺らしながら呼吸することだけを許した。
緊張が最大に達し、意識を切らしたところで、私は再び目を覚ました。シミは動きを止め、照明が何かを焼き付けるような音だけが部屋にあった。
汗で張り付いた衣服をゆっくりと剥がしながら、音を立てないように細心の注意を払う。恐怖ですっかり忘れていた、シミのすぐそばの窓へと向かい、窓枠へと手を伸ばす。
手入れを怠ったせいか、羽虫や埃が絡みつくが、そんなことはこの際どうでも良い。開錠し、滑車のような音に苛立ちながら窓を開く。裂けた網戸からは、密接した塗装工事の足場が見える。
目だけは離さずに、まずは足から窓枠と足場の隙間を抜ける。
天井の三分の一まで伸びたシミ。どうか動かないでくれと願いながら、腰、肘と抜け、最後に窓を閉めた。
あとは一心不乱に車へ乗り込み、とにかく人のたくさんいるところへと向かった。
カーナビが動きだし、携帯を忘れていないかなどと問いかけてくる。うるさい、今はそれどころではない。はずれた住宅街をとにかく進む。
赤信号で落ち着いたところで、窓を開ける。初夏の湿った空気がやんわりと肌を過ぎ、やっと生きた心地がした。そして、遠くから虫の羽音がした。




