第9話「地下の王国」
時は遡る。
真央がスマホでニュースを眺めていた、その3日前。
江東区。臨海部。
かつて鋼材の加工を行っていた廃工場は、3年前に閉鎖されていた。経営者が債務を残して夜逃げし、債権者たちが押しかけ、最終的には誰の所有物でもなくなった土地。雑草が鉄骨の隙間から生い茂り、錆びたH鋼が獣の骨のように突き出した廃墟。近隣住民はここを「幽霊工場」と呼んでいた。不法投棄のゴミが散乱し、夏になれば蚊柱が立ち、子供たちには近づくなと言い聞かせる場所。
その廃工場の駐車場で、地面が陥没した。
最初に気づいたのは、近隣に住む72歳の男性だった。毎朝欠かさない犬の散歩の途中、廃工場の前を通りかかると、アスファルトが直径3メートルほどの円形に落ち窪んでいるのを発見した。昨日まではなかった穴だ。縁は鋭く割れており、断面にはアスファルトの下の砕石層と、その下の灰色の土壌が露出している。底は見えない。男性が懐中電灯で照らしても、光が闇に飲み込まれるだけだった。
犬が、穴に向かって吠え続けた。柴犬の雄。普段は温厚で滅多に吠えない犬が、毛を逆立て、尻尾を股の間に挟みながら、それでも吠えるのをやめなかった。リードを引いても動かない。穴の方向を凝視したまま、低く唸り続ける。
男性は異様さを感じ、110番に通報した。
警察が到着したのは、通報から12分後。パトカー2台、警察官4名。
穴を覗き込んだ巡査の一人が、異臭に気づいた。甘い匂い。花のような、熟れすぎた果物のような。だがその奥に、腐敗に似た不快な刺激がある。嗅いでいると、頭がぼんやりしてくる。意識の輪郭が溶けるような、奇妙な浮遊感。
「何だ、この匂い……」
巡査が顔をしかめた時、穴の縁から何かが這い出してきた。
茶褐色の、光沢のある物体。
蟻だった。
体長15センチ。人間の掌に載せればはみ出すほどの大きさ。外骨格は赤褐色で、表面に油のような光沢がある。触角が忙しなく動き、大顎がゆっくりと開閉している。
巡査の靴の上を、2匹、3匹と這い登ってくる。
「うわっ!」
巡査が足を振って蟻を払い落とした。踏みつけると、パキ、と乾いた音がした。昆虫の外骨格が砕ける音ではなかった。薄いプラスチックが割れるような、硬質な音。靴底に伝わる感触も、虫を踏んだそれとは違う。もっと硬い。もっと、密度がある。
穴の縁から、さらに蟻が湧き出してきた。10匹、20匹、50匹。縁の土を掴んで這い上がり、地上に出るとアスファルトの上を放射状に散開していく。
「退避! 退避しろ!」
警察官4名が後退する。
蟻たちは人間に向かってくるわけではなかった。穴の周囲に広がり、やがて廃工場の敷地内の草むらに消えていく。攻撃する様子はない。ただ移動しているだけだ。偵察か、あるいは換気のために地上に出てきたのか。
だが、その数が異常だった。
5分間で、穴から出てきた蟻の推定数は300匹以上。すべてが体長10センチから20センチの大型個体。日本に生息するどの蟻の種とも一致しない。クロオオアリでも体長は1センチ程度だ。それが15センチ。桁が違う。
警察は即座に上位機関に報告した。報告を受けた江東区役所は東京都に連絡。東京都は環境局と建設局に調査を指示し、同時に国立環境研究所と農林水産省にも情報が共有された。
翌日の早朝、調査チームが編成された。
調査チームは、12名で構成されていた。
チームリーダーは、東京都環境局の主査、柴田浩一。45歳。害虫駆除の専門家で、2017年のヒアリ国内初確認時には東京港の緊急調査を指揮した経験がある。温厚な人柄だが、現場での判断は冷静かつ迅速。部下からの信頼は厚い。
メンバーには、国立環境研究所の昆虫学者2名——佐伯真理子と後藤拓也。東京消防庁のレスキュー隊員4名。東京都建設局の地質調査員2名。そして警視庁の警察官3名——白石、田辺、もう1名が配置されていた。
装備は、化学防護服、ヘルメット、ヘッドライト、ロープ、通信機、携帯型殺虫スプレー、サンプル採取容器。そして念のため、レスキュー隊員には鉄製のバールが支給された。
現場に到着すると、穴は昨日よりさらに広がっていた。直径が4メートル。縁のアスファルトが自重で崩れ続けている。穴の底は、地表から約5メートル下にあることが測量ロッドとレーザー距離計で確認された。
「5メートル下に空洞がある。自然の陥没じゃない。地下水の浸食パターンとも違う。壁面に掘削の痕がある。何かが、意図的に掘った穴だ」
地質調査員が報告する。
「蟻が掘ったのか」
「昨日確認された大型個体の顎のサイズと掘削能力を考えれば、物理的には可能です。ただ、これだけの空洞を短期間で形成するには、相当な数の個体が必要です。数百では足りない。数千から数万のオーダーです」
柴田が穴の中を覗き込んだ。ヘッドライトの光が底まで届く。灰色の土壌が露出した斜面。そして底に——横穴が開いていた。水平方向に伸びる、直径1.5メートルほどのトンネル。
壁面が光を反射した。
粘液のようなもので固められている。琥珀色の、半透明の物質。表面は滑らかで、固まった蜂蜜のような質感に見える。蟻の唾液だ。唾液で壁面をコーティングすることで、トンネルの崩落を防いでいる。
「……これは、巣だ」
柴田が呟いた。
「この下に、蟻の巣がある。しかもかなり大規模な」
佐伯が、サンプル採取容器を手に穴の中へ降りた。壁面の琥珀色の物質を慎重に削り取り、容器に封入する。そして横穴の入口に顔を近づけ、内部を観察した。
「柴田さん。横穴の中から風が吹いてきます。かなり奥まで続いているようです。空気の流れの速度と温度差から推測すると、内部にかなり広い空間がある」
「中に入るか」
「入るべきです。ただ——」
佐伯が横穴の入口を指す。
「この匂い。昨日の警察官も報告していた甘い匂いです。蟻のフェロモンの可能性が高い。化学組成は不明ですが、吸引による神経系への影響が懸念されます。防毒マスクを装着し、内部での活動時間は30分を上限にしましょう」
柴田が頷き、調査チームに指示を出した。
「先行隊6名で中に入る。レスキュー隊員2名、佐伯、地質調査員1名、警察官2名。残り6名は地上で待機。通信は5分おきに確認。先行隊が20分以内に戻らなければ、待機チームは中に入らず、即座に上に報告しろ。いいな」
先行隊6名が、防毒マスクを装着し、ガイドロープを腰に結び、横穴に入った。
横穴の内部は、予想以上に広かった。
入口の直径は1.5メートルだったが、10メートルほど進むと天井の高さが2メートルに達し、幅も3メートルに広がった。大人が直立して歩ける通路だ。これだけの空間を、蟻が掘ったのか。柴田は内心で唸った。
壁面はすべて琥珀色の唾液で固められている。ヘッドライトの光を受けて、ぬらぬらと鈍い光を放つ。表面に触れると、指先に硬い感触が返ってきた。コンクリートほどではないが、固まった樹脂のような硬度がある。爪で引っ掻いても傷がつかない。
甘い匂いが、奥に進むほど濃くなる。防毒マスク越しでも感じ取れるほどだ。フィルターの隙間から微量の分子が侵入しているのか、それともマスクのフィルターでは捕捉できない種類の化学物質なのか。頭の奥に微かな浮遊感が生じ始めた。不快ではない。むしろ心地いい。それがかえって不気味だった。
「全員、体調を報告しろ。5分おきだ」
柴田が指示する。
「異常なし」「異常なし」「異常なし」
「……少し、頭がぼんやりします。マスクの隙間から匂いが入ってくるようです」
レスキュー隊員の一人が報告した。
「マスクを締め直せ。無理なら撤退だ」
先行隊が通路を進む。50メートル。100メートル。
通路は一本道ではなかった。最初の分岐が、入口から80メートルの地点で現れた。通路が三方向に分かれている。左に曲がる水平の通路、右に下る傾斜のある通路、そして正面にまっすぐ続く通路。
三叉路だ。自然にできた構造ではない。意図的に、選択を強いるように設計されている。
「GPS、確認する」
地質調査員が携帯型の測位装置と地中レーダーを確認した。
「柴田さん。現在地は地表から約8メートル下です。そして、通路の構造から推測すると、この巣は少なくとも地下15メートルまで達しています」
「15メートル?」
「はい。レーダーの反応から、下方に複数の大きな空洞が確認できます。しかも水平方向にも広がっている。巣の総面積は……控えめに見積もっても、サッカーグラウンド2面分以上です」
柴田の顔から血の気が引いた。
「……いつの間にこれだけの規模に」
「分かりません。通常の蟻のコロニーの成長速度では、ここまでの巣を形成するには数年、場合によっては十年以上かかります」
「だが、ここの蟻は通常じゃない」
佐伯が壁面のサンプルを採取しながら言った。
「体長15センチ以上の蟻が数千匹規模でいるなら、一匹あたりの掘削能力は通常の蟻の数百倍以上です。コロニー全体の総出力を考えれば、数日から十日程度での形成も、理論的にはあり得なくはない」
先行隊は、左の通路を選んだ。柴田の判断だった。水平の通路なら、戻りやすい。深く潜るのは、まだ早い。
通路がさらに広がっていく。天井の高さが3メートルに達する。壁面の唾液コーティングの厚みも増し、所々に補強用のリブ構造が走っている。建築工学的に見ても合理的な構造だ。土圧に対するアーチ効果を利用し、崩落を防いでいる。蟻が、構造力学を理解しているとでも言うのか。
そして——通路の先に空間が開けた。
部屋だった。
高さ5メートル、幅10メートル、奥行き15メートル。六畳間のアパートとは比較にならない広大な空間だ。天井は半球形のアーチを描き、壁面は一面の琥珀色で覆われている。ヘッドライトの光を受けて、部屋全体が暗い金色に輝いた。床面は平滑に均されており、中央に浅い窪みがある。
部屋の中に、蟻がいた。
多くはなかった。20匹程度。だが、これまでの通路で見かけた個体とは、明らかに異なっていた。
体長30センチ。先行隊がここに至るまでに遭遇した蟻の倍のサイズだ。黒褐色の外骨格は分厚く、表面に鈍い金属光沢がある。頭部は幅広で、大顎は成人の指を容易に切断できるほどの大きさがあった。脚も太く、関節の可動域が広い。
兵隊蟻。通路にいた働き蟻とは明らかに異なるカテゴリの個体だ。コロニーを防衛するために特化した、戦闘用の形態。
兵隊蟻たちは、先行隊の侵入に気づいていた。20匹の複眼が、一斉にヘッドライトの光源——つまり先行隊の顔——を向いた。
動きが止まった。
先行隊も止まった。
数秒間の沈黙。通路の奥から微かに空気が流れ、甘い匂いを運んでくる。それ以外には何も聞こえない。人間と蟻が、暗い部屋の中で向かい合っている。
「……動くな。刺激するな」
柴田が、囁くように指示した。
兵隊蟻たちは大顎をゆっくりと開閉している。カチ、カチ、と顎の先端が噛み合う音が、部屋に反響する。威嚇だ。だが、まだ攻撃はしてこない。距離を保てば、やり過ごせるかもしれない。
「後退する。ゆっくりと。急な動きは禁止だ」
先行隊が、一歩ずつ後退を始めた。
その時だった。
佐伯の足が何かを踏んだ。壁面から剥がれ落ちた唾液コーティングの破片だった。乾燥して脆くなった欠片が、靴底の下でパキ、と小さな音を立てた。
それだけだった。
だが、その音が引き金になった。
兵隊蟻20匹が、一斉に動いた。
速い。体長30センチの生物が、猫が獲物に飛びかかるような速度で地面を駆ける。六本の脚が床面を叩く音が部屋全体に反響した。カカカカカカカ、という連続的な打音。20匹が同時に走る音は、小型のドリルが壁を削るような、耳障りな振動になった。
「撤退! 撤退!」
柴田が叫んだ。
先行隊が通路に向かって走る。
だが、兵隊蟻の方が速かった。
最後尾にいた白石巡査の足首に、最初の一匹が飛びついた。30センチの蟻が跳躍し、足首の高さに到達し、大顎を開いて噛みつく。防護服の生地に顎の先端が食い込み、繊維を引き裂き、その下の皮膚に達した。
「あっ——!」
白石が叫び、足を振って蟻を振りほどこうとした。だが蟻は離さなかった。大顎を深く食い込ませたまま、頭部を左右に振る。鋭利な顎の内側の鉤状の突起が、肉を抉るように切り裂いていく。
血が噴いた。足首の動脈が切断されていた。
「白石!」
田辺巡査が振り返り、同僚を助けようとした。だがその田辺の背中にも、2匹の兵隊蟻が飛びかかった。一匹は肩甲骨の間に、もう一匹は腰の辺りに。防護服の背面の生地を大顎で掴み、引き裂き、露出した皮膚に噛みつく。
悲鳴が通路に反響した。
「殺虫剤! 殺虫剤を使え!」
レスキュー隊員の一人が、携行していた殺虫スプレーを兵隊蟻に向けて噴射した。白い霧が兵隊蟻を包む。
効果は——なかった。
兵隊蟻は殺虫剤を浴びても動きを止めない。外骨格が分厚すぎて、薬剤が体表から浸透しないのだ。気門も通常の蟻より小さく、呼吸器経由での取り込みも微量に留まる。むしろ刺激を受けた兵隊蟻は攻撃性を増し、より激しく噛みつき始めた。
「効かない! 効かねえぞ!」
もう一人のレスキュー隊員が、バールを振り上げた。兵隊蟻の背中に叩きつける。鈍い音がして、外骨格にひびが入った。蟻がもがく。もう一撃。今度は頭部に直撃し、外骨格が砕けた。体液が飛び散り、蟻が動きを止めた。
砕けた蟻の体から体液が飛び散り、生臭い匂いが立ち込めた。通路に漂う甘い匂いとは異なる、鉄錆のような鋭い刺激。
レスキュー隊員は顔をしかめながら、次の蟻に向かってバールを構え直した。
通路の奥から、さらに兵隊蟻が押し寄せてくる。壁面の隙間、天井の穴、床の割れ目——あらゆる方向から体長30センチの蟻が湧き出してくる。20匹が40匹になり、40匹が100匹になる。通路全体が、蠢く褐色の壁になっていく。
「ロープ! ロープで入口まで戻る!」
レスキュー隊員がガイドロープを手繰った。先行隊がロープに沿って入口を目指して走る。
白石は立てなかった。足首からの出血が激しく、防護服のズボンが赤黒く染まっている。田辺が白石を背負い上げた。背中に張りついた蟻がまだ噛みついており、田辺自身も3箇所を負傷していたが、走った。走るしかなかった。
レスキュー隊員の一人——殿を務めていた隊員——がバールで蟻を叩き落としながら後退していた。だが通路の横穴から新たに10匹以上が湧き出し、脚と腰にまとわりついた。悲鳴を上げて壁にぶつかり、防護服が裂け、蟻が露出した皮膚に食い込んでいく。
「川端!」
もう一人のレスキュー隊員が引き返そうとした。
「来るな! 行け!」
川端が叫んだ。その声が途切れた。蟻に覆われて倒れた身体が、通路の闇に飲まれていく。
地質調査員の片方——若い男——も足を取られていた。壁面の隙間から飛び出した蟻に膝裏を噛まれ、転倒した。起き上がろうとした胸に、天井から落ちてきた蟻が張りついた。防護服を食い破り、鎖骨の辺りに大顎が食い込む。叫び声を上げながら蟻を引き剥がそうとしたが、もう2匹が腕に取りついた。
佐伯が振り返った。
「——!」
だが柴田が佐伯の腕を掴んだ。
「行け。走れ」
佐伯は歯を食いしばって走った。背後で、叫び声がもう一つ途切れた。
通路を走る。50メートル。三叉路を右に。さらに80メートル。
横穴の入口から差し込む日光が見えた。
先行隊がなだれ込むように入口から飛び出した。——6名のうち、出てきたのは4名だった。
地上の待機チームが即座に対応した。負傷者を引き上げ、穴の入口付近に殺虫剤を散布して蟻の追撃を警戒する。
白石の足首からの出血は、レスキュー隊員が止血帯で圧迫した。だが傷は深い。大顎が動脈を切断しており、防護服越しとは思えない損傷だった。顔面は蒼白で、意識が朦朧としている。
田辺は背中の3箇所を噛まれていた。防護服の生地が裂け、皮下組織まで達する咬傷。出血は白石ほどではないが、傷口の周囲が赤黒く変色し始めている。蟻の唾液に含まれる未知の化学物質が、組織に浸透しているのだ。
佐伯も左腕に浅い咬傷を負っていた。撤退中に飛びついてきた蟻を振り払った際に噛まれたもので、軽傷だが、傷口が妙に疼いた。
そして——川端と地質調査員は、戻らなかった。
「救急車! 救急車を!」
柴田が叫ぶ。
佐伯が、穴の入口を振り返った。横穴の奥から、甘い匂いが立ち上っている。先ほどよりも濃い。そして暗闇の奥で、無数の複眼が光っていた。赤褐色の小さな光点が、闇の中にびっしりと並んでいる。
蟻たちは入口の手前で止まっていた。地上には出てこない。日光を避けているのか、巣の外に出る必要がないと判断しているのか。あるいは——出てくる必要がないだけか。
いずれにせよ、追撃してこなかったのは幸運だった。
「柴田さん」
佐伯が震える声で言った。
「あの中は、駄目です。12人の調査チームでは対処できない。蟻の数が多すぎる。そして強すぎる。殺虫剤が効かない以上、物理的に一匹ずつ潰すしかないのに、あの通路の中で30センチの蟻の群れに囲まれたら——」
言葉を切った。川端と地質調査員が、それを証明した。
柴田が唇を噛んだ。
「何匹いると思う」
「分かりません。ですが、あの部屋にいたのは兵隊蟻だけで20匹。巣の規模がサッカーグラウンド2面分以上なら、兵隊蟻だけで数百から千。働き蟻を含めれば数千から数万匹はいる可能性があります」
「数万……」
「それに、気になることがあります。蟻を倒した時——バールで潰した時に、匂いが一段と強くなりました。蟻の体液にフェロモンが含まれているようです。あの匂いを長時間吸い続けたら、人体にどんな影響があるか……」
佐伯は白衣の袖で額の汗を拭った。
「柴田さん、これは環境局や消防の手に負える問題じゃない。もっと上に報告して、もっと大きな力を投入しないと」
柴田は穴の入口を見つめた。奥の闇が、彼を見つめ返していた。
白石と田辺、佐伯が救急車で搬送された後、柴田は現場を封鎖し、東京都に報告した。
報告は1時間で都知事の耳に届いた。都知事は首相官邸に連絡した。
その夜のうちに、官房長官を議長とする緊急対策会議が招集された。
首相官邸。地下の危機管理センター。
会議室には、防衛省、環境省、農林水産省、警察庁、消防庁の幹部が集まっていた。時刻は午後11時。各省庁から急遽呼び出された面々の顔には、困惑と緊張が入り混じっている。
官房長官の木村が口を開いた。
「状況を整理する。江東区の廃工場跡地に、巨大蟻の地下巣が確認された。推定規模はサッカーグラウンド2面分以上。深度は地下15メートルに達する。蟻の総数は推定数千から数万匹。体長は15センチから30センチ。通常の殺虫剤は無効。調査チームが襲撃され、死者2名、重傷者多数」
木村が資料に目を落とす。
「レスキュー隊員の川端と地質調査員1名が地下から帰還できず、死亡と推定される。遺体の回収もできていない。白石巡査は足首の動脈切断で重体。現在も輸血を続けている。田辺巡査は背中3箇所の咬傷で入院中。昆虫学者の佐伯も腕に咬傷を負い治療中。傷口から検出された蟻の唾液には、未知の化学物質が複数含まれており、現在分析中だ」
「環境省から見解を」
環境省の担当者が立ち上がった。
「現時点で、この蟻の種の同定はできていません。既知のどの蟻の種とも一致しません。体サイズ、外骨格の硬度、行動パターン——すべてが生物学的な常識を逸脱しています。昆虫は気管呼吸の制約により大型化に限界がありますが、この蟻はその限界を超えている。自然発生した変異種か、あるいは未知の外的要因による急速な進化か——現時点では判断できません」
「農水省は」
「農水省としては、この蟻が地下で急速に巣を拡大している点を最も懸念しています。現在の巣は廃工場の敷地地下に限られていますが、拡大が続けば周辺のインフラ——ガス管、水道管、光ファイバーケーブル、そして東京メトロ東西線や有楽町線のトンネル——に到達する可能性があります。最悪の場合、広域の地盤沈下を引き起こし、建物の倒壊にも繋がりかねません」
「警察庁は」
「調査チームの装備では対処不可能です。殺虫剤が効かない以上、物理的な殲滅が必要ですが、警察の装備では限界があります。銃器の使用も検討しましたが、地下の狭い通路での発砲は跳弾のリスクが高く、推奨できません」
木村が、防衛省の代表に目を向けた。
「防衛省。自衛隊の出動について」
防衛省統合幕僚監部の幹部が、淡々と答えた。
「自衛隊法第83条に基づく災害派遣として対応が可能です。ただし、この事案の性質上、通常の災害派遣の枠を超える可能性があります」
「どういう意味だ」
「巨大蟻の巣の殲滅は害虫駆除ではなく、事実上の軍事作戦になります。火炎放射器、爆薬、重機——都市部の地下でこれらを使用するには、相当のリスクが伴います。周辺住民の避難、ガス管の引火防止措置、地盤崩壊への対策。そのすべてを考慮した上で、作戦計画を立てる必要があります」
「時間はどのくらいかかる」
「72時間で計画を策定し、実行に移せます。ただし、巣の全容が把握できていない以上、想定外の事態が起きる可能性は排除できません」
会議室が沈黙した。
全員が、自分の省庁の管轄を超えた事態に直面していることを理解していた。巨大な蟻の巣が都市の地下にある。殺虫剤は効かない。人間が入れば噛み殺される。放置すれば拡大する。前例がない。マニュアルがない。
木村が全員を見渡した。
「総理の判断を仰ぐ。ただし、私見を述べれば——待つ余裕はない。巣が拡大し続けるなら、被害は時間とともに増大する。72時間は長いが、やむを得ない。早期の対応が必要だ」
会議は深夜1時まで続いた。
翌朝、総理大臣は自衛隊の災害派遣を承認した。
作戦名——ファイアストーム。
投入兵力は、陸上自衛隊第1普通科連隊を主力とする約1,000名。装備は火炎放射器、C4爆薬、ブルドーザー、96式装輪装甲車。上空支援としてAH-64Dアパッチ攻撃ヘリコプター2機。さらに、化学科部隊が燻蒸剤による巣内部への化学攻撃を担当する。
目標は、巨大蟻の巣の完全殲滅。
作戦開始までの3日間で、無人探査ロボットによる巣の精密測量と、周辺住民の避難が実施される。避難対象は巣の周囲500メートル以内の住民——約2,000世帯、4,500人。
ニュースが速報として全国に流れた。
『自衛隊、巨大アリ討伐作戦を実施へ 作戦名「ファイアストーム」』
そのニュースを、真央はベッドの上でスマホ越しに眺めていた。
「へー」と呟いて。




