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第7話「アラクネ」

 朝。スマホのアラームで目が覚める。


「……ん」


 ベッドから起き上がる。


 血の能力に目覚めてから、十日ほどが経っていた。


 あの後、数日間の欠勤分を取り戻すようにみっちりとバイトを入れ、ようやく今日は念願の休みだ。バイトはない。自由な一日。


「何しようかな」


 呟きながら、キッチンに向かう。


 朝食を作る。トーストと目玉焼き。魔道具化した包丁で切ったトマトを添える。相変わらず断面が美しい。一口齧る。美味い。


 でも――以前ほどの感動はなかった。


 慣れてしまったのだ。魔道具の便利さに。異常が、日常になっていく。ステンレスを切断する包丁も、充電不要のスマホも、傷を瞬時に治す絆創膏も、最初は驚嘆していたはずなのに、今ではコーヒーメーカーや電子レンジと同じ程度の「便利な道具」としか感じなくなっている。


 それが少しも気にならない。慣れるということは、受け入れるということだ。受け入れたものは、もう元には戻らない。


 朝食を終え、スマホでニュースをチェックする。


『失血死事件 被害者30人を突破 政府、緊急対策本部を設置 外出自粛を呼びかけ』


「30人……」


 呟いた。


 数が、加速している。最初の数日は一日に一、二件だったのが、ここ数日は一晩で五件から十件のペースで増えている。被害者は都内全域に散らばり、年齢も性別もバラバラ。共通しているのは全員が夜間の屋外にいたことと、外傷がほとんどないことだけだ。


 警視庁の特別捜査本部は手がかりを掴めていない。防犯カメラには何も映っていない。目撃者もいない。凶器の痕跡すらない。


 政府が緊急対策本部を設置したということは、もはや単なる刑事事件ではなく、公衆衛生上の危機として扱われ始めているということだ。


 俺はそのニュースを、天気予報を確認するのと同じ温度で読んだ。30人が死んでいる。明日には40人かもしれない。来週には100人かもしれない。その数字の一つ一つが、かつて生きていた人間だったということは、頭では理解している。だが胸には何も響かない。


 画面をスクロールすると、別のニュースが目に入った。


『都内各地で"徘徊者"の目撃情報が相次ぐ 警察は関連を調査中』


「徘徊者?」


 タップして記事を開く。


 深夜から早朝にかけて、住宅街や公園をふらふらと歩く人影の目撃情報が急増している。共通する特徴は、声をかけても反応しないこと、動きがぎこちないこと、目が虚ろなこと。


 一部の目撃者は「まるでゾンビのようだった」と証言している。ここ一週間で50件以上の通報が寄せられている。


 不気味なニュースだった。


 だが、俺は記事を閉じた。失血死事件も徘徊者も、俺には直接関係ない。


 ――本当に?


 一瞬だけ、あの考えが頭をよぎった。蚊。俺の血。進化。


 だが、すぐに押しやった。考えても仕方ない。確かめる方法もない。そして何より、今の俺にはもっと重要なことがある。


「蜘蛛、どうなってるかな」


 ここ数日、バイトの行き帰りに空き家に寄って蜘蛛を観察していた。成長は日を追うごとに加速していた。一昨日の時点で体長は40センチを超え、巣は空き家の軒下から壁面全体に広がり、昨日見た時にはもう軒下にはいなかった。巣の糸が空き家の内部に向かって伸びていて、どうやら中に移動したらしい。


 今日は休みだ。明るいうちに中を確認できる。


「見に行くか」


 すぐに支度をして、部屋を出た。



 空き家に向かう道。いつもと変わらない住宅街のはずだった。


 だが、何かが違う。


 人が、少ない。


 この時間帯は、普段なら主婦たちが買い物に出たり、子供連れが公園に向かったりする時間だ。だが今日は、すれ違う人がほとんどいない。窓のカーテンが閉まっている家が目立つ。


 失血死事件と外出自粛の呼びかけの影響だろう。30人が死んでいるのだから、当然といえば当然だ。


 俺には、その恐怖が理解できなかった。理屈としてはわかる。だが、感覚として共有できない。


「静かだな」


 それだけ呟いて、歩き続けた。



 空き家に着く。


 フェンスを開け、庭に入る。玄関に近づく。


 まず軒下を見上げた。やはり、いない。巣の残骸はあるが、蜘蛛の姿はなかった。完全に室内に移動したらしい。


 足元に目を落とすと、糸が一本、地面を這って空き家の玄関へと続いていた。太い糸だ。小指ほどの太さがあり、銀色に光っている。


「……中にいるのか」


 空き家の玄関は半開きになっていた。その隙間から、糸が内部に伸びている。


 俺は躊躇なく中に入った。



 空き家の内部は薄暗かった。埃っぽい空気の中に、かすかに甘い匂いが混じっている。


 スマホのライトをつけ、床を照らす。糸が続いている。廊下を進む。居間。台所。階段。


 糸は、二階へと続いていた。


「……上か」


 階段を登る。古い木の階段がギシギシと音を立てる。


 二階の廊下。糸は、一番奥の部屋へと続いていた。ドアは開いている。というより、ドア自体が外れかけている。


 中を覗く。


 そして――息を呑んだ。



 部屋の中は、糸で覆われていた。


 壁一面。天井。床。すべてが銀色に光る糸で埋め尽くされている。スマホのライトを向けると、無数の糸が光を受けて一斉に煌めき、部屋全体が星空のように輝いた。


 繭のような空間だった。外界から完全に隔絶された、蜘蛛だけの領域。温度が違う。空気が違う。ここだけが、別の世界のように感じられる。


 そして、その中心に――何かがいた。


 最初、それが何なのか理解できなかった。


 大きすぎる。


 スマホのライトが照らし出したシルエットは、人間ほどのサイズがあった。いや、それ以上だ。天井に届きそうなほどの高さがある。


 ゆっくりと、それが動いた。


 脚が、八本。だが、俺の知っている蜘蛛の脚ではなかった。関節の数が多く、人間の腕のようにしなやかに曲がる。表面は光沢のある漆黒で、黄金色の文様が走っている。一本一本が、俺の腕よりも太い。


 胴体は黒と黄金の縞模様だが、その形状が異質だった。下半身は蜘蛛そのもの――巨大な腹部と八本の脚。だが上半身が違う。膨らんでいる。胸郭のように。そして、その上に――頭部。


 複眼だった。八つの目。だが配置が人間に近い。前方に集中し、焦点が収束している。その奥に、光がある。ライトの反射ではない。自ら発する、意思の光。


 そして、複眼の下に口があった。蜘蛛の口吻ではない。唇がある。歯がある。――いや、牙がある。上顎から覗く二本の鋭い牙。だがその周囲は、紛れもなく人間の口の形をしている。


 俺は、立ち尽くした。


 理解が追いつかない。これは蜘蛛なのか。それとも人間なのか。どちらでもない。どちらでもある。


 それが、ゆっくりとこちらを向いた。八つの複眼が、一斉に俺を捉えた。


 視線の圧力が、物理的な重さを持って肩にのしかかる。この存在は俺を見ている。ただ視界に入れているのではなく、認識している。俺が何者であるかを。


 そして――口が開いた。


「……ア……」


 声だった。か細い。空気を震わせるのがやっとという程度の、かすかな音。だが、それは確かに声だった。意思を持って発せられた、言葉の欠片。


「……アナタ……」


 日本語だった。


 俺の身体が硬直した。心臓が早鐘を打ち始める。蜘蛛が、人間の言葉を喋っている。


「……ワタシヲ……ウンダ……ヒト」


 私を、産んだ人。


「お前……」


 俺の声が震えた。


「蜘蛛、なのか?」


 それは、頷いた。ゆっくりと。人間のように。首を縦に動かすという動作を、どこかで学んだのだろう。あるいは、俺の血の中にあった情報から。


「……ソウ。ワタシ……クモ」


 そして脚を動かした。八本の脚が糸の上を滑るように移動し、こちらに近づいてくる。


「待て……!」


 思わず後ずさった。背中が廊下の壁に当たる。


 だが、それは止まらなかった。ゆっくりと、だが確実に距離が縮まる。


 逃げなければ――と思ったが、身体が動かなかった。恐怖ではない。


 圧倒されていた。


 この存在の、質量に。気配に。放つ空気の密度に。


 それが、目の前まで来た。


 見上げる。身長は2メートル近い。上半身の輪郭は、暗がりの中ではほとんど人間の女性のシルエットに見えた。だが下半身は、紛れもなく巨大な蜘蛛だ。


 八つの複眼が、俺を見下ろしている。その奥に見えるのは、知性。理解。そして――感情のようなもの。


 脚の先端が伸びてきた。人間の手ではない。蜘蛛の脚だ。だが先端部が細かく分かれており、指のように動く。


 俺の頬に、触れた。


 冷たかった。外骨格特有の、無機質な冷たさ。だが、触れ方は優しかった。壊れ物を扱うような、慎重で繊細な接触。


「……アナタ……オヤ」


 それが、言った。


「ワタシ……アナタノ……チデ……ウマレタ」


 俺は言葉を失った。


 ただ見つめるしかなかった。この異形を。この怪物を。この――俺の血が生んだものを。


「……俺が」


 ようやく声が出た。掠れていた。


「俺が、お前を……作ったのか」


 それは頷いた。


「……ソウ」


 そして――微かに、笑った気がした。口元が、わずかに上がった。不完全で、ぎこちなくて、でも確かに笑みだった。


「アナタ……ワタシノ……スベテ」


 俺の胸に、何かが込み上げてきた。


 罪悪感ではない。恐怖でもない。責任感でもない。


 それは――達成感に似た何かだった。


 俺の血が、ここまでのものを生み出した。蜘蛛を、人間に近い存在へと変えた。知性を与え、言葉を与え、感情の萌芽を与えた。三滴の血が、たった一週間そこらで、こんなものを作り上げた。


「すごいな……」


 呟いた。笑いがこぼれた。


「本当に、すごい」


 それを見て、彼女もまた笑った。今度は少しだけ上手に。


「……アナタ……ヨロコブ?」


「ああ」


 頷いた。


「すごく、嬉しい」


 本心だった。


 30人が死んでいることも。都市が恐怖に包まれていることも。この瞬間、全てが遠かった。ただ目の前の存在が――この、俺の創造物が、愛おしかった。


「名前、つけてもいいか?」


 俺は尋ねた。


 彼女は首を傾げた。脚の関節が微かに軋む音がした。


「……ナマエ?」


「ああ。お前を呼ぶための、言葉だ」


 彼女は少し考えるように動きを止め――そして頷いた。


「……ホシイ」


「じゃあ……」


 俺は考えた。蜘蛛。女性の姿。美しい糸。人間を超えた存在。


 一つの名前が、自然と浮かんだ。


「アラクネ」


 ギリシャ神話に登場する、織物の名手。その技は神をも凌ぎ、怒りを買って蜘蛛に変えられた女。


「蜘蛛の化身。お前にぴったりだ」


 彼女は、その名を反芻するように呟いた。


「……アラクネ」


 もう一度。


「……アラクネ……」


 そして、微笑んだ。今度は、はっきりと。八つの複眼が、柔らかな光を湛えた。


「……キニイッタ」


 俺も笑った。


 心の奥で、小さな声が囁いた。お前は何をしているんだ。人が死んでいるんだぞ。


 だが、その声は弱かった。波打ち際で消える足跡のように、すぐに掻き消された。


 今はただ、この瞬間を味わいたかった。



「アラクネ」


 俺は彼女に尋ねた。


「お前、これからどうしたい?」


 アラクネは少し考えるように脚を揺らし――答えた。


「……アナタト……イタイ」


「一緒にいたい?」


「……ソウ。アナタ……マモル」


「守る? 俺を?」


 アラクネは頷いた。


「……アナタ……タイセツ。マモル」


「……アナタノ……タメ……ナンデモ……スル」


 絶対的な忠誠。迷いのない、純粋な従属。


「そっか」


 俺はその言葉を素直に受け入れた。


 以前なら、もっと複雑な感情があったかもしれない。こんな存在を生み出してしまった罪悪感とか、この力をどう使うべきかという責任感とか。


 でも今は――ただ、心強いと思った。


「じゃあ、よろしく頼む」


 アラクネは嬉しそうに頷いた。


「……ハイ、オヤ」


 親。


 その呼び方に、何かがちくりと胸を刺した。だが、それも一瞬で消えた。



 俺は糸で覆われた部屋の中に座り込み、アラクネとしばらく話をした。


 彼女の言語能力はまだ発達途上で、複雑な会話はできない。だが、基本的な意思疎通は可能だった。自分が何者であるか。ここが自分の場所であること。俺が自分を作った存在であること。それらを、彼女は理解していた。


 そして俺は、ふと思った。


 もっと、作れるんじゃないか。


 アラクネは血を三滴で、十日でここまで成長した。女王蟻は一滴で、今頃どこかで巣を広げているかもしれない。


 他の生物は? 鳥とか。猫とか。犬とか。


 血の量を増やしたら? 十滴。二十滴。あるいは、もっと。


 可能性は、無限だ。


 俺の血は、世界を変えられる。


 そう思うと――止められなかった。


 もう後戻りはできない。


 そんな気がした。


 いや――後戻りする気がない。


 それが正確だった。

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