第60話「三つ巴(後編)」
品川ダンジョン。地上入口。午前6時。
高梨誠一が封鎖フェンスの前に立ち、集合する人間を数えていた。
冬の朝。息が白い。一般冒険者の活動開始前の時間帯で、入口周辺は静かだ。管理テントの職員が2名、フェンスの内側で待機している。
最初に到着したのは1stチームだった。高梨、藤原、倉橋、新堂、長峰。5名が装備を確認しながらフェンス前に並ぶ。
藤原が骨断包丁と切断のナイフを腰に帯び、首元に瞑想のアメジストを下げている。倉橋は鉄壁の盾を背負い、新堂は散弾魔銃を肩にかけた。長峰が安らぎの香の束と癒しの泉水を背嚢に詰めている。
6時10分。2ndチームの宗形以下5名が到着した。
6時15分。3rd残存の神保と、もう1名。2名。
6時20分。赤星という男が3名を連れて現れた。赤星、浅野、岸田、三好。元消防士の赤星チーム4名。全員が80メートル以深の実戦経験を持つ。赤星は鋼鉄の木刀を右肩に担ぎ、浅野が切断のナイフ、岸田が破壊のバット、三好が魔弾銃を携えている。
6時25分。ボーダーライン・エクスプロレーションの5名が、別の方角から合流した。
御堂蓮司が先頭。鋼鉄の木刀を右手に、左手にはエリート兵隊蟻の外骨格を加工した前腕ガードを装着している。指数26。その後ろに轟木、鶴見、九条、氷室。氷室は風読みの羽飾りを額に着けている。
6時30分。精鋭冒険者たちが8名。いずれも掲示板で名前が挙がるような深層経験者たちだ。指数は最低でも20以上が条件。全員が80メートル以深でのエリート兵隊蟻との交戦経験を持つ。
そして——最後に。
6時35分。
巖道征四郎が、一人で歩いてきた。
紺色の作業服に、腰には骨断包丁。65歳の痩身の老人——だが、その周囲の空気は、集まった29名の誰のものとも異なる密度を帯びていた。足音が静かだ。体幹が微動だにしない。歩くだけで、この男が何者であるかが伝わってくる。
高梨が敬礼した。
「巖道さん。——全員揃いました。合計30名」
巖道が集まった面々を見渡した。一言だけ。
「ふむ」
高梨がテーブルに地図を広げた。品川ダンジョンの60メートルから85メートルの断面図。昨夜の田所との最終確認で決定した作戦計画だ。
「作戦概要を説明する。全員聞いてくれ」
30名が地図の周囲に集まった。息が白い。冬の朝の冷気がフェンスの中にも漂っている。だが全員の目は鋭く、地図に注がれていた。ここにいる30名の大半は、ダンジョン深層の空気がどれだけ濃く、どれだけ人間の身体を蝕むかを知っている。知った上で、ここにいる。
「目標はドラゴンの排除。体長はこれまでの成長速度から推定して4メートルを超えている可能性あり。翼もある。衝撃波を使う。蟻を含むダンジョンの生物を捕食して成長を続けている。これまでに多くの冒険者が犠牲になった」
高梨が地図の赤い印を指した。
「第1段階——降下と封鎖。60メートルから85メートルの間の主要通路を4箇所で封鎖する」
「封鎖チームA。65メートルの北側分岐。2ndチームから2名と独立系2名の4名。浅層方向への逃走を遮る第一防壁」
「封鎖チームB。70メートルの東西連絡通路。独立系3名。横方向への移動を制限する」
「封鎖チームC。75メートルの南側大通路。赤星チーム4名。通路幅が広い。岸田と赤星で前面を固め、三好の魔弾銃で援護する」
「封鎖チームD。80メートルの下層連絡通路。2ndチームの宗形以下3名。90メートル以深への逃走を防ぐ」
「後方支援。3rd残存の2名。60メートルに待機して通信中継と撤退路の確保」
「主攻チーム。1stチーム5名と巖道さん、計6名で85メートル帯に降下してドラゴンと直接交戦する」
「主攻支援チーム。ボーダーライン・エクスプロレーション5名と、その他、3名の計8名。主攻チームと同行し、85メートル帯の手前に展開。氷室の索敵で主攻チームを支援し、状況に応じて遠距離火力を提供する」
高梨が続けた。
「そして。蟻の動きについて。浅層の蟻が激減している。蟻がドラゴン周囲に集中している。交戦規則——蟻がドラゴンを攻撃している場合は蟻との交戦は最小限。蟻が人間を攻撃してきた場合は撤退を優先。冒険者の生存が最優先だ」
巖道が穏やかな声で言った。
「封鎖チームの交戦力は十分か。ドラゴンが本気で突破に来た場合、止められるか」
高梨が一拍考えた。
「正直に言います。止められない可能性が高い。封鎖の役割は遅延であって阻止ではありません。主攻チームが仕留めるか行動不能にする——それが前提です」
「ふむ。——正直でいい」
巖道がそれ以上何も言わなかった。
高梨が全員を振り返った。
「降下開始。隊列は主攻チームを先頭に、封鎖チームが順次分離する。全員——降りるぞ」
地下60メートル。
高梨を先頭にした隊列が、暗い通路を縦一列で進んでいた。アメジストの紫の光が、フェロモンの霧の中で滲んでいる。
60メートル地点で、3rd残存の2名が後方支援として残った。70メートルで3名が東西連絡通路に展開し、封鎖チームBを形成した。75メートルで赤星チーム4名が南側大通路に着いた。80メートルで宗形以下3名が下層連絡通路を塞いだ。
主攻チームと主攻支援チームの14名——1stチーム5名、巖道、ボーダーライン5名、その他、冒険者3名——だけが、さらに深く降りていった。
85メートル帯。
通路の空気が変わった。フェロモンの濃度が、明らかに上がっている。氷室が額の風読みの羽飾りに指を当て、無言で前方を指した。
第三広間。
その入口に、人間14名が到達した。
地下85メートル。第三広間。
ドラゴンは、天井に張り付いたまま、それを感知した。
60メートル帯の通路から、足音の重なりが伝わっていた。20名以上の人間が、85メートル帯に向かって降下している。今、そのうち十数名が、すぐそこの通路の入口に到達している。
異常なまでに発達した知覚力が、人間の位置を教えていた。
ドラゴンの金色の瞳が、討伐隊5体から、通路の入口の方へ、一度だけ動いた。
第三の脅威。
人間。
しかし——その人間たちは、入口に立ったまま、動かなかった。観察している。武器を構えてはいるが、踏み込んでこない。蟻のネットワークに繋がっていない、判断する人間の特性。様子を見て、機会を計っている。
ドラゴンの知性は、それを「即時の脅威ではない」と分類した。
優先順位。第一に討伐隊5体。第二に女王蟻の蟻の足止め。第三に人間の部隊。
人間部隊の中に1名、独特な気配の個体がいる。
その1名は、まだ動かなかった。腕を組んで、ドラゴンを見ている。
ドラゴンは、その視線を皮膚で感じた。
獣の視線ではない。獲物を選ぶ視線でもない。「見る」ためだけに見ている、極めて冷静な視線。蟻の触角の感知に似ている。だが蟻と違い、その視線の奥には——判断があった。
ドラゴンは、その視線から目を逸らした。
今は、討伐隊だ。
通路の入口の陰で、高梨が広間の中央を見つめていた。
ドラゴンと討伐隊5体の交戦は、消耗戦の様相だった。ドラゴンが奇襲を仕掛け、討伐隊が陣形で受け止め、治癒の杯が損傷を回復する。同じ繰り返しが、すでに数時間続いている形跡。
藤原が、討伐隊の先頭の個体の手元を凝視していた。
「あの太刀」
低く呟いた。
「見たことのないアーティファクトです。おそらく骨断包丁の系統。しかも——上位互換」
品質スコアの数値までは特定できないが、藤原の知る限り、自分が触れたことのある最上位の刃を、明らかに超えていた。
巖道は、後方で腕を組んだまま、聞いていた。
高梨は、無線で田所に状況を報告した。封鎖チームへの撤退指令はまだ出さない。ドラゴンと討伐隊の交戦が継続している以上、自分たちが踏み込むタイミングを計る必要がある。
「主攻チームへ」
高梨が低い声で告げた。
「ドラゴンへの遠距離支援を開始する。蟻側には絶対に当てるな。新堂、散弾魔銃を構えろ。倉橋、前面の盾。藤原、近接の合図を待て」
「了解」
新堂が散弾魔銃を肩から下ろした。倉橋が鉄壁の盾を前面に展開した。長峰が安らぎの香を焚き、香煙が通路の入口に薄く広がる。
通路の奥に展開していた主攻支援チームも、氷室の指示で動き出した。御堂が鋼鉄の木刀を構え、轟木が前腕ガードで前面を固めた。九条が切断のナイフ、氷室が索敵に集中する。鶴見が魔弾銃を使う3名を主攻チームの後方の射線位置に配置し、射撃の準備を整えさせた。
高梨が、巖道を見た。
巖道は、まだ動く気配を見せなかった。
「もう少し見る」
穏やかな声で告げた。
観察を続ける、という判断。
巖道がそう言うなら、それが正しい。高梨はそう判断した。この老人の状況把握力は、自分の何倍も精密に働いている。
高梨は新堂に頷いた。
新堂が、散弾魔銃の引き金を引いた。
散弾が、ドラゴンの右翼の付け根に着弾した。
すでに裂けていた翼膜が、さらに破れた。だが鱗には弾痕すら残らない。品質スコア60前後の散弾魔銃では、ドラゴンの鱗を貫けない。
ドラゴンの瞳が、瞬時に通路の入口に向いた。
人間が、攻撃を開始した。
ドラゴンの脳が、攻撃の意味を計算した。鱗に有効打を与えていない。痛みも実害もない。だがこれは——人間の意思表示だった。「我々はここにいる。お前を狙っている」。蟻のネットワークが警戒している通り、知性ある生物の宣戦だった。
ドラゴンが、討伐隊との間合いを保ったまま、人間の方へ尾を一閃させた。
衝撃波。
扇形に広がった衝撃が、通路の入口に向かって走った。
倉橋が前に出た。鉄壁の盾が、衝撃波の中央を受け止めた。盾が大きく振動し、倉橋の足が後退する。だが——盾は破れなかった。品質スコア72の鉄壁の盾は、ドラゴンの拡散した衝撃波の一発なら、耐える。
高梨は、その一連の動きを冷静に見ていた。
倉橋の盾でドラゴンの衝撃波が一発止まる。これは戦力の確認になった。長距離戦闘で粘れる時間がある。
通路の奥から、ボーダーラインの氷室が無線で報告した。
「ドラゴンの動きが分散している。討伐隊5体と、こちらへの牽制。両方を同時に処理している」
御堂が、その分析を受けて判断した。
「鶴見、他の冒険者にも魔弾銃を撃たせろ。射線を確保する」
鶴見が、後方に配置していた3名に指示を出した。3名の魔弾銃が、新堂の散弾魔銃と連動して射撃を開始した。
散弾魔銃の追加射撃。倉橋の盾。これらが組み合わさり、ドラゴンの動きにわずかな制約を与え始めていた。
ドラゴンの瞳が、再び動いた。
厄介だ。
人間部隊の支援射撃は、鱗を貫けない。だが、ドラゴンの行動の選択肢を狭めていく。討伐隊への奇襲を仕掛ける瞬間に、横から散弾が来る。回避動作を加えれば、奇襲の威力が落ちる。
ドラゴンの優先順位が、わずかに揺らいだ。
討伐隊を片付けて、その後で人間部隊を処理する——その手順で進めていたが、人間部隊の継続的な牽制が、討伐隊との戦闘効率を下げていく。
ドラゴンの判断が、ひとつの方向に絞られた。
決着を、急ぐ。
治癒の杯さえ消せば、討伐隊4体は致死攻撃の蓄積で順次崩れる。そこから人間部隊を処理する時間がある。問題は——治癒の杯を「どう」消すか。
ドラゴンが天井から落下した。狙いは射撃の個体。
盾の個体が前面を固めようとしたが、ドラゴンは盾の上端を踏み台にして跳ねた。落下の加速度を乗せた前肢が、射撃の個体の銃身を捕らえた。爪が銃身に食い込み、変形させた。
力比べが0.5秒。
その間に、ドラゴンの牙が、射撃の個体の左腕に届いた。
咬みついた。3秒。
左腕が肩から千切れて、ドラゴンの口の中に消えた。
ドラゴンは、すぐに離脱した。広間の南壁を蹴り、再び天井に張り付いた。
散弾は撃たれなかった。射撃の充填が間に合わなかった。左腕を失った瞬間、銃身の照準が定まらなくなった。
咥えた左腕を、骨ごと噛み砕いた。
濃い。
桁が違う。
限界突破でモンスター化し、指数換算にして30を超えた者の肉体。蟻30体分のフェロモンを、一口で超えた。
全身に熱が走った。
腹部の鱗の下で血管が脈動する。前肢の筋繊維が、目に見える速度で太くなった。爪の長さがわずかに伸びる。鱗の色が、より深い赤銅色に変わる。
成長が、加速する。
そして——喉の奥の射出器官が、急激に熱を持ち始めた。
ドラゴンが過去に食ったAFの概念群が、戦闘の極限状態の中で、ようやく結合の閾値に到達しつつあった。浅層で食った宝箱の中身。魔弾銃の派生概念、燃焼促進、集束の概念。それらが、ドラゴン本来の「圧縮空気射出」と、今この瞬間、噛み合おうとしている。
鱗の隙間から、橙色の光が漏れ始めた。
胸部の鱗の隙間から、赤い光線のように光が筋を成して漏れ出した。喉の奥の射出器官が、低い唸りを上げる。広間の床が、その音だけで震えた。
高梨が、その異変を察知した。
「——あれは」
藤原が、骨断包丁の柄に手を添えたまま、低く呟いた。
誰も口を開かなかった。
ドラゴンが、それを発する。あの体内の熱が、外に放たれる。距離20メートル。広間と通路を隔てる入口の壁が、それを完全には遮らない。
長峰が、無意識に瞑想のアメジストを握りしめた。
倉橋が、鉄壁の盾を一歩前に出した。
通路の奥で、御堂が氷室に視線を送った。氷室の羽飾りが、ドラゴンの体内から漏れる熱の異常を捉えていた。
巖道は、まだ動かなかった。
穏やかな目のまま、ドラゴンの胸部から漏れる橙色の光を見つめている。
討伐隊5体も、ドラゴンの異変を感知した。蟻のネットワークが警告を発したのだろう。太刀の個体が正眼に。棍棒の個体が前に出る。盾の個体が前面を固める。
治癒の個体は——動かない。位置を変えない。杯を抱えたまま。
動けないのだ。
治癒の杯は、陣形の中心に縛り付けられている。5メートル圏内を離れたら、他の4体に光が届かない。
ドラゴンの瞳が、その「動けない」を見た。
これが、勝機だった。
ドラゴンが、天井から落ちた。
広間の中央へ。落下しながら、喉の奥の射出器官に最大の圧をかけた。空気と可燃性物質が射出器官の中で混合し、圧縮された。
太刀の個体が、踏み込んできた。斬撃波で迎撃するつもりだ。右足が半歩前に。重心が前に乗る。
ドラゴンは、避けなかった。
着地と同時に、喉から射出した。
炎ではない。炎に至る一歩手前。橙色の高熱の気体と、燃焼物質と、空気の混合体。それが圧縮されて噴射された。射程5メートル。広がりは扇形で約3メートル幅。広間の中央——治癒の個体の方向に、不完全な火炎の噴流が走った。
太刀の斬撃波が、その噴流に正面から激突した。
太刀の個体の刃の概念が、噴流を半分に裂いた。だが——半分裂かれたところで、噴流は止まらなかった。
扇形に広がっていた両端が、太刀の斬撃波の隙間を擦り抜けた。一方が盾の個体の右肩を掠めた。鎧が高熱で歪んだ。もう一方が——治癒の個体の左半身に直撃した。
琥珀色の光が、瞬時に消えた。
治癒の個体の左半身が、高熱で焼けた。鎧はなかった。胸に抱えていた杯が、噴流の主要部分を受け止め——
砕けた。
杯が、橙色の高熱で焼かれ、亀裂が入り、そして粉砕した。破片が床に散らばった。
治癒の個体が膝をついた。左半身は炭化していた。治癒の概念を発していた本人が、治癒を受けていない。5メートル圏内に広がっていた治癒場が、消えた。
ドラゴンが、追撃した。前肢の爪が、治癒の個体の頭部を捉え、首から切り離した。
治癒の個体が倒れた。琥珀色の光は、もう発しなかった。
そして——噴流の余波が、広間の入口にまで届いた。
20メートル先の広間中央から放たれた橙色の高熱は、扇形に広がりながら、入口に向かっても波及していた。中心部の威力は治癒個体の方向に集中したが、放射状に拡散する熱気は、人間部隊の位置まで届いていた。
倉橋の鉄壁の盾が、その熱気を正面で受け止めた。
盾の表面温度が、瞬時に上昇した。倉橋の手のひらが、盾の取っ手越しに熱を感じた。盾の金属が赤くなりかけている。
「下がれ!」
高梨が叫んだ。
1stチーム全員が、通路の奥に2メートル後退した。倉橋が盾を下ろし、左手で焼けた取っ手を確認した。皮膚が赤い。火傷の一歩手前。
通路の奥の主攻支援チームも、轟木が前腕ガードで熱気の名残を受け止めていた。轟木のガードの表面が焦げている。九条が背後で、轟木の腕を確認した。
長峰が癒しの泉水を倉橋に振りかけた。倉橋の手のひらの紅潮が、わずかに引いた。
誰も負傷していない。
だが——その意味を、高梨は瞬時に理解した。
今のは、ブレスの「拡散の余波」だ。直撃ではない。広間中央から扇形に放たれた熱気が、距離20メートルでここまで届いた。
もし——次のブレスが、人間部隊の方向に向けられたら。
直撃を受ければ、鉄壁の盾でも溶ける。アメジストも安らぎの香も、あの猛炎には無意味。指数20台の身体であっても、直撃すれば確実に死ぬ。
高梨が、無線を取った。
「田所さん。——ドラゴンによる新たな攻撃を確認しました。我々の装備では受け切れません。撤退を要請します」
無線越しに、田所が一瞬黙った。そして、低い声で答えた。
「了解。撤退しろ。地上の対応に切り替える」
「巖道さん」
高梨が、巖道を見た。
「次は、こちらに向けられる可能性があります。大きな被害を出す前に撤退を——」
「分かっておる」
巖道が、穏やかな声で答えた。
まだ動かない。
高梨は、それ以上問わなかった。
広間の中央で、討伐隊4体の陣形が崩壊していた。
太刀の個体が、振り返った。背後に治癒の個体が倒れている。蟻のネットワークから情報の更新を受けている動作。0.5秒。動きが鈍る。
その間に、女王蟻のネットワークが、新しい指令を流していた。
地下180メートル。女王蟻の意思が、討伐隊4体の脳に直接届く。「玉砕指令」。治癒の杯は失った。残った4体——太刀、棍棒、盾、片腕の射撃——を、ドラゴンの排除に全力で投入する。修復が止まる以上、彼らは消耗品だ。だが、消耗品として最大の効果を引き出す。
モンスター化した元人間は、女王蟻にとって失っても痛くない戦力ではあるが、強力でもある。撤退させて温存する意味はない。ここで全戦力を擲ってでも、ドラゴンに最大の損害を与える。
太刀の個体が、構え直した。痛覚はない。傷の蓄積も意識しない。治癒を受けない肉体で、ただ「ドラゴンを排除する」という指令だけを実行する。
ドラゴンの瞳が、その変化を捉えた。
討伐隊の動きが変わった。連携を取らない。陣形を保たない。個別にドラゴンに突撃してくる。それぞれが、自身の損傷を顧みず、全力でドラゴンに迫る動作。
玉砕。
ドラゴンは、その意味を、生物としての感覚で理解した。最大の戦力が、次を省みない「失う覚悟」で4体を投入してきた。
まず、棍棒の個体が突進してきた。両手で棍棒を振り上げ、ドラゴンの頭部を狙う。回避動作は皆無。
ドラゴンの尾が、横から薙いだ。棍棒の個体の左脇腹に着弾。鎧の隙間を破って肋骨を粉砕。棍棒の個体が壁に叩きつけられた。
だが——立ち上がった。
肋骨が砕けても、棍棒の個体は再び突進してきた。今度は壁を蹴って、横方向から。
ドラゴンの爪が、棍棒の個体の頭部を捉えた。爪の長さがわずかに伸びている。先ほどの成長分だ。爪が頭蓋骨に食い込み、引き裂いた。
棍棒の個体が、ようやく倒れた。
次に、盾の個体。
盾を前面に固めて、ドラゴンに体当たりしてきた。指数換算30超の速度。ドラゴンの胸部に盾が激突した。鱗が3枚剥がれた。
ドラゴンの前肢が、盾の上端を引き上げ、下から牙を差し込んだ。盾の個体の頸動脈が裂かれた。
盾の個体が、それでも盾を振り回した。最後の意地。鎧で守られた身体は、頸動脈を切られても数十秒は動く。
ドラゴンが後退した。盾の個体の動きが止まるまで、距離を取る。
その間に、片腕の射撃の個体が、銃身を構えていた。
散弾が、ドラゴンの左後脚に着弾した。鱗が砕け、肉が裂けた。
ドラゴンが反転した。射撃の個体への跳躍。爪が、射撃の個体の顔面を砕いた。
最後に、太刀の個体。
太刀の個体だけが、まだ立っていた。両手で太刀を握り直し、正眼に構えている。指数換算にして35並みの力量。蟻のネットワークから「最後まで戦え」の指令を受けて、ドラゴンに踏み込んできた。
ドラゴンと太刀の個体が、広間の中央で激突した。
太刀の斬撃波。ドラゴンが放つ衝撃波。両者の概念が空中で激突し、火花が散った。
太刀の個体が、踏み込みを続けた。斬撃波の連射。ドラゴンの胸部の鱗が、1枚、また1枚と剥がれていく。
ドラゴンが、尾で薙いだ。太刀の個体が後ろに跳ねて回避。
次の瞬間、ドラゴンの前肢が、太刀の個体の正面から振り下ろされた。
太刀の個体が、太刀を上段に構え、その前肢を受けようとした。
爪と太刀が、激突した。
太刀の個体の両腕の筋肉が、爪の重量と速度を受け止めきれなかった。指数35の肉体でも、ドラゴンの加速度を乗せた一撃には、わずかに足りなかった。
太刀が、手から離れた。
高速で回転しながら、広間の床を跳ね、空中に弾かれた。
ドラゴンの爪が、防御の消えた太刀の個体の頭部を、そのまま粉砕した。
頭蓋骨が砕け、脳組織が露出した。太刀の個体——かつて黒木と呼ばれた元人間——が、倒れた。
その同じ瞬間に。
弾かれた太刀が、回転しながら広間の床を跳ねていた。床を2度、3度と跳ねながら、勢いを失いつつ、入口の方向へと滑っていく。
通路の入口の手前まで。
巖道の足元から、わずか1メートルの位置に。
刃が、静かに止まった。
銀灰色の刀身に、琥珀色の文様が脈動していた。
広間の中央で、ドラゴンが、ゆっくりと身体を起こした。
全身に新しい損傷が刻まれていた。胸部の鱗の剥離が複数。左後脚の散弾の傷。盾の体当たりで剥がれた胸部の鱗。だが——致命傷はない。修復はもう自分の身体能力のみで行うことになるが、戦闘継続は可能だ。
ドラゴンの瞳が、広間の入口を見た。
人間部隊。
観察と支援射撃をしていた14名。今、彼らは後退しようとしている。倉橋が盾を下ろし、長峰が背嚢を整え、藤原が骨断包丁を鞘に収めた。撤退の準備動作。
ドラゴンの瞳が、絞られた。
獲物が、目の前にいる。
20名以上の人間が、上方に展開している。今この瞬間に追えば、確実に追いつく。先頭の十数名は撤退路の入口にいるが、4メートルの体躯と天井走行の速度なら、3秒で追いつく。封鎖チームの各位置の人間も、ドラゴンを止めるには戦力が足りない。
彼ら全員を喰えば——成長は更に一段、上の階層に上がる。
ドラゴンが、踏み出した。
通路の入口に向かって、4メートルの巨体が、ゆっくりと加速し始めた。
高梨が、その動きを見た。
「全員、撤退!通路の奥に下がれ!」
高梨が無線と肉声の両方で叫んだ。
1stチーム5名が一斉に後退した。長峰が癒しの泉水を握りしめ、倉橋が盾を背負い直して撤退路を確保する。新堂が散弾魔銃を構えながら後ろ向きに下がる。藤原が後尾を固める。
通路の奥の主攻支援チームも撤退に入った。御堂が氷室に索敵を続けさせながら、轟木と九条、鶴見の3名が独立系の魔弾銃使い3名を伴って先に通路の奥に退いた。
だが——ドラゴンの方が速い。
通路の幅は4メートル。ドラゴンの体躯は通路に入る。天井を這えば加速できる。1stチームの最後尾——藤原——との距離は20メートル。ドラゴンが本気で踏み込めば、5秒以内に追いつく。
誰かが、足止めをする必要があった。
巖道が、足元を見下ろした。
1メートル先に、太刀が転がっている。
銀灰色の刀身。琥珀色の文様。明らかに骨断包丁の上位互換と分かるアーティファクトの刃。
巖道の口の端が、わずかに上がった。
穏やかな目のまま、巖道は太刀を見つめた。
武器として、使えそうだ。
巖道は屈んで、太刀の柄を手に取った。
左手で握り、軽く持ち上げる。
刀身を通じて、巖道の身体の中に何かが流れ込んできた。重心が完璧に巖道の左手の延長線上にある。刃渡り70センチ。鍔の重さ。柄の長さ。30年の蓄積が、未知のAFを瞬時に既知のものに変える。
巖道は、軽く太刀を振ってみた。
刀身が空気を切る音が、骨断包丁のそれとは別次元の鋭さを持っていた。空気の抵抗を感じない。
もう一度、ごく軽く振る。
刀身から、わずかな斬撃波が出た。それを巖道は意識しなかった。「軽く振った」だけで、振った先の通路の壁が浅く切れていた。距離8メートル。
巖道は、その太刀を左手に握ったまま、立ち上がった。
高梨が、巖道を見た。
「巖道さん——」
「儂が残ろう」
穏やかな声で、巖道が告げた。
「あれを止めねば、お前たちは追いつかれる。儂が足止めをする。お前たちは先に上がれ」
高梨が、口を開いた。
「巖道さん、一人で大丈夫ですか」
「問題ない」
巖道の口の端に、微かな笑みが浮かんだ。
穏やかな笑みだった。だが——その奥に、別の何かが、わずかに見えた。
高梨は、それに気付いた。
巖道の目の中に、戦闘前の老人とは違う、別種の光があった。それは、安堵に近いものでもあり、欲求の充足を待つ者の目でもあった。「やっと、来た」とでも言いたげな目だった。
高梨は、その意味をすぐには理解できなかった。だが——巖道に問い質す時間はなかった。
「了解しました」
高梨が短く頷いた。
「無事に戻ってください」
「儂は、無理はせぬ」
巖道がそう答えた。
「無理せず勝てる戦いしかせぬ。だから今日まで生きておる」
高梨が、1stチームを率いて撤退路に飛び込んだ。
通路の奥で、御堂が、その光景を見ていた。
巖道の左手の太刀。右手で抜いた骨断包丁。両方を構える老人の姿。
御堂の隣で、鶴見が低く呟いた。
「——どうやら、一人であれとやるつもりみたいじゃな」
鶴見の声には、わずかな畏怖があった。
「恐ろしい人だ」
御堂は、それ以上を聞かなかった。
御堂が見ていたのは、巖道の目だった。
高梨が「巖道さん、一人で大丈夫ですか」と問うた時、巖道は穏やかに「問題ない」と答えた。その時の目。
御堂は、その目を、自分の戦場経験の中で見たことがあった。シリアで、戦闘狂として知られていたとある傭兵が、戦闘を目前にした時の目。表面は冷静、だが内側に、戦士としての欲求が静かに燃えている目。
あの老人は——「足止め」を建前にして、ドラゴンと戦いたがっている。
御堂は、その理解を、口に出さなかった。それは、誰にも言うべきことではなかった。巖道自身が口にしない以上、見抜いた者が言葉にすることでもない。
御堂は、無言で巖道の背中に頭を下げた。
「ボーダーライン、撤退する。他3名も先に上がれ」
御堂が短く指示を出した。
氷室が頷き、九条と轟木が他の冒険者の3名を先導して通路の奥に退いた。鶴見が御堂の隣で、もう一度巖道を振り返った。
「——あの男なら、もしかしたら」
鶴見が、誰にともなく呟いた。
答えはなかった。
御堂が鶴見の肩を叩き、二人は撤退路に入った。
85メートル帯。第三広間の入口。
巖道が、一人になった。
1stチームと主攻支援チームの足音が、通路の奥に遠ざかっていく。やがて足音が完全に消えた。
巖道の右手に、骨断包丁。
巖道の左手に、太刀。たった今、足元に転がってきた刃。
二刀。
巖道は、その構えを取った。右の骨断包丁は、刃を下に向け、肩の高さに構える。左の太刀は、刃を上に向け、腰の高さに構える。重心はやや前傾。両足は肩幅。
巖道無双流——双天。
武蔵の二天一流に通じる、巖道無双流の応用形態。
巖道は、その構えのまま、広間の中央を見つめた。
広間の中央には——ドラゴンが、立っていた。
4メートル超の赤銅色の巨体。両翼を畳んでいる。右翼の膜は完全に裂け、もはや飛行の役に立たない。胸部の鱗が複数剥がれ、肉が露出している箇所がある。左後脚に散弾の傷。
だが——金色の瞳は、澄み切っていた。
ドラゴンが、撤退する人間を追うために通路の入口に向かおうとした、その瞬間。
通路の入口に立つ巖道が、足止めとして残った。
二者の視線が、20メートルの距離を挟んで、交差した。
ドラゴンの瞳が、巖道を見ていた。
人間の老体。だが、明確に他にいた人間とは違った気配を持つ個体でもある。先ほどから腕を組んで、ただ「見て」いた者。今、左手に太刀の個体が握っていた刃を、右手に自身の骨断包丁を握っている。
ドラゴンの脳が、計算した。
追えば、人間部隊に追いつける。1名や2名は喰える。だが——この老人が背後から来る。この普通とはかけはなれた気配の人間が、追ってくる。
今、進めば、背中を晒すことになる。
ドラゴンの瞳が、絞られた。
ならば——先に、この老人を始末する。
ドラゴンが、巖道の方に向き直った。
4メートル超の体躯が、ゆっくりと前傾した。前肢の爪が、床のコーティングに食い込む。後肢が、加速のために半歩後ろに引かれた。
巖道は、動かなかった。
穏やかな目のまま、ドラゴンを見ている。
口の端に、まだ微かな笑みが残っていた。
二者が、向かい合っていた。
骨断包丁と太刀を構えた老人。
全身に複数の傷を負った、4メートル超のドラゴン。
20メートルの距離。
その距離が、両者の最初の一歩で、ゼロになる。
巖道は、その瞬間を、静かに待っていた。




