第35話「芽吹く異変」
朝9時。
真央は、近所のコンビニに買い物に行こうとしてアパートの玄関を出た。
いつもの階段。いつもの駐輪場。いつもの路地。——だが、何かが違った。
匂いだ。
甘い。花の蜜のような、だがもっと深い甘さ。空気全体がうっすらと香っている。
真央は足を止めた。
この匂いには覚えがある。アラクネの空き家の裏——あのケヤキの木だ。数日前まではここまで匂っていなかったが、今はアパートの前まで届いている。
「……広がったな」
気になったが、まずはコンビニに向かった。
駅前の通りに出ると、街の変化が目に入った。空き家が増えている。以前は生活の気配があった家々に、雨戸が閉まったままのものが目立つ。庭は雑草に覆われ、郵便受けにはチラシが溢れている。このあたりの住人はほとんど東京を離れてしまった。引っ越す余裕がないか、動く気がない人間だけが残っている。
人がいない。だから誰もケヤキの変化に気づかない。
それは——真央にとっては都合が良い。だが同時に、歯止めがないということでもあった。
コンビニで弁当と飲み物を買い、帰り道にアラクネの空き家の方へ足を向けた。表の通りから空き地の方角を見る。
——見えた。
空き地の中央に立つケヤキの木。だが、数日前とは明らかに違う。
まず、大きくなっている。高さ10メートルほどだったはずが、12メートルはある。枝の広がりも増している。冬なのに葉が茂っている。しかもその葉は——緑ではなく、薄い銀色を帯びていた。
樹皮の銀色の光沢も、前回より明確になっている。遠目にも分かるほど、木全体が金属質の輝きを放っていた。日光を受けた幹が、鈍く光っている。
そして根元。空き地のコンクリートが、さらにひび割れていた。太い根が地面を押し上げ、ブロック塀の一部を崩している。根の一部が隣の敷地との境界を越え始めていた。
真央はコンビニ袋を提げたまま、少し離れた位置から木を眺めた。
周囲に人影はない。空き家だらけの住宅街の外れ。路地の奥。忘れられた場所。——今はそれが幸いしている。人がいたら、この木はとっくに通報されていただろう。冬に銀色の葉をつけ、甘い匂いを撒き散らし、コンクリートを突き破って根を伸ばす木。普通ではない。
だが人がいないからこそ、止まらない。行政も機能していない。ダンジョンと徘徊者の対応で手一杯だ。街路樹一本の異変に割く余裕はどこにもない。
「……今は良いけど、このまま大きくなったら隠し通せなくなるな」
真央が呟いた。
裏手に回った。空き家の横の狭い路地を通り、空き地に出る。
アラクネが待っていた。空き家の二階の窓から糸を伝って降りてきたらしい。フードを深く被り、蜘蛛の下半身を折り畳んで、ケヤキの根元に座っている。
真央はポケットから手鏡を取り出し、ケヤキに向けた。鏡面に淡い光が浮かび、光の文字が現れる。
名称:ケヤキ(変異進行中)
状態:変異進行中
変異進行度:21.4%
予測変異完了時間:不明
「21パーセント。前が15パーセントだったから——数日で6パーセント。加速してるな」
血を与えてから約2週間で4.7パーセント。そこから数日で15パーセント。さらに数日で21パーセント。変異の速度が、指数関数的に上がっている。
「アラクネ、前より何か変わったか」
「……ネ……ノビテル。スゴク」
アラクネがケヤキの根元を指さした。
見ると、根の先端がコンクリートの下に潜り込んでいた。地面の表面には見えない部分で、根が地中を広がっている。空き地の外周を超え、隣の敷地の下にまで到達しているのが、コンクリートの微かな隆起から分かった。
「どのくらい広がってる」
「……ワカラナイ。デモ……カナリ。アシモトノ……ジメン……フルエテル」
真央が地面に手を当てた。——振動。かすかだが、確かに。根が伸びる時の物理的な力だ。コンクリートの下を、太い根がゆっくりと押し進んでいる。
「匂いも強くなった。俺のアパートまで届いてる。人がいない街で助かったけど、このペースだと——」
「……キガ……ナニカ……ダシテル」
「何か?」
「……ムシ……ヨブ……匂イダケジャナイ。モット……フカイ……ナニカ」
真央がケヤキの幹を見上げた。銀色の葉が風に揺れている。その隙間から、樹液のようなものが幹の表面ににじみ出ていた。透明に近いが、微かに青白い光を帯びている。
真央は指先でそれに触れた。——温かい。そして、鏡面の文字が変わった。
名称:変異樹液
状態:分析不可
品質:不明
「分析不可か。鏡でも読み取れない。——面白いな」
真央は指先の樹液を見つめた。
自分の血が、木を変えている。虫にやれば進化し、物にやれば魔道具になり、木にやれば——何かになる。何に変わるのかは、まだ分からない。
だが、加速している。変異率が上がるにつれて、変化の速度そのものが上がっている。このまま進めば、100パーセントに達する日は——意外と近いかもしれない。
「もうちょっと血をやった方がいいのかな」
「……ドウダロウ。ヤリスギタラ……ドウナルカ……」
「前にも同じこと言ってたな。——まぁ、今のところ勝手に加速してるし、放っておくか」
真央はケヤキの根元に腰を下ろした。コンビニの弁当を開ける。
アラクネが、ケヤキの幹に背中を預けるようにして座った。蜘蛛の脚を折り畳み、上半身だけを起こした姿勢。8つの目がケヤキの梢を見上げている。
静かだった。人のいない住宅街。空き家と、銀色の木と、蜘蛛の女。
真央が弁当を食べながら、何気なく言った。
「お前、最近ずっとこの木のそばにいるな」
「……ウン。キガ……スキ」
「好き?」
「……アタタカイ。ソバニイルト……オチツク。ワタシ……ヒトリジャナイ……カンジ」
真央は少し驚いた。アラクネが「好き」という感情を口にするのは珍しい。
「お前とこの木、相性いいのかもな」
「……ソウ……カモ」
アラクネがケヤキの幹に頬を寄せた。蜘蛛の脚の先端が樹皮に触れ、そこから何かを感じ取ろうとしている。
真央は弁当の残りを片づけ、立ち上がった。
「何になるんだろうな、お前」
木に向かって言った。3回目だ。答えは返ってこない。だが——枝が揺れた。風はなかった。
アパートに戻り、弁当の容器を捨てて、ベッドに横になった。
スマホを開く。いつもの掲示板。東京ダンジョン攻略スレ。ゴールドラッシュ以降、書き込みの速度が倍以上になっている。
東京ダンジョン攻略スレ Part 128
112:名無しの冒険者
最近のアーティファクト情報まとめ
既存アーティファクトの上位種が出始めてる
まとめるぞ
【武器系・上位種】
・骨断包丁
魔剣包丁の上位互換。刀身が厚くて長い。見た目が包丁というより鉈に近い
魔剣包丁は「何でも切れる」だったけど、こっちは切断力に加えて
衝撃波みたいなものが出る。振り下ろした時に刃の延長線上の空気が裂ける
兵隊蟻の外骨格を一太刀で両断した報告あり(魔剣包丁は2〜3回かかる)
出現深度は地下50m以深の宝箱
品質スコア65の個体が確認されてる
フリマ価格:1,500万円
・散弾魔銃
魔弾銃のショットガンバージョン
形状はおもちゃのポンプアクション式ショットガン
BB弾を装填すると1発で12発に分裂して広範囲に飛散する
威力は魔弾銃の単発より落ちるが、範囲制圧力が段違い
狭い通路で蟻の群れに撃つと一掃できるとの報告
出現深度:地下45m以深
品質スコア58
フリマ価格:2,000万円
134:名無しの冒険者
>>112
骨断包丁ヤバすぎだろ
衝撃波って何だよ。物理法則どこ行った
156:名無しの冒険者
>>134
フェロモンで人間が超人化してる時点で物理法則なんか死んでる
今さら気にするな
178:名無しの冒険者
散弾魔銃は深層パーティの必須装備になるな
蟻の群れが一番怖いのは数で押してくる時だから
範囲攻撃があるとないとで生存率が段違い
201:名無しの冒険者
上位種が出てきたってことは
ダンジョンの中の「製造ライン」が進化してるってことだろ
223:名無しの冒険者
>>201
まだ何がアーティファクト作ってるのか分かってないけどな
蟻説、女王蟻説、ダンジョン自体が生きてる説、色々ある
どれが正解かは不明
245:名無しの冒険者
ところで一番の話題はそっちじゃない
新種のアーティファクトが出た。見たことない系統
267:名無しの冒険者
マジ? どこで出た
289:名無しの冒険者
>>267
昨日、渋谷入口から潜った5人パーティが地下55mの宝箱から引いた
今朝からギルドのラウンジで実物見せながら報告してる
俺は実際に見てきた
312:名無しの冒険者
>>289
詳しく
334:名無しの冒険者
【空間系・新種】
・境界の銀盤(仮称)
薄い銀色の金属板。手のひらサイズ。表面に微細な模様が刻まれてる
触ると模様が淡く発光する
効果:
地面に置くか壁に貼ると、半径3〜5mに「結界」が発生する
結界の内側にいると外からの物理攻撃が大幅に減衰する
蟻の突進、蟻酸噴射、落石——全部弱まる。完全に防ぐわけじゃないが
体感で威力が7割くらい削がれる
結界の境界線は肉眼で見えない。ただ、中にいると空気が澄む感覚がある
持続時間は不明。発見者のパーティが2時間使っても切れなかった
鑑定の鏡の反応は品質スコア80超え。かなりの上物
356:名無しの冒険者
>>334
結界だと……?
防具系とは全く別のジャンルじゃねえか
盾やヘルメットは「身につけて守る」だけど
これは「空間そのものを守る」ってことだろ
378:名無しの冒険者
>>356
そう。個人装備じゃなくてエリア防御
パーティ全員を守れる
深層でのキャンプが劇的に安全になる
401:名無しの冒険者
これ防御以外にも使い道あるだろ
例えば六本木の封鎖線に置いたら吸血鬼の攻撃を弱められるのか?
423:名無しの冒険者
>>401
吸血鬼に効くかは分からんが
理屈上は物理攻撃が減衰するなら何にでも効くはず
問題は範囲が狭いこと。半径5mじゃ限定的だ
445:名無しの冒険者
でも複数枚重ねたら?
結界を重ねがけして範囲を広げるとか
467:名無しの冒険者
>>445
まだ1枚しか確認されてないから検証不可能だろ
2枚目が出てきたら試す価値はある
489:名無しの冒険者
フリマ価格つけようがないな
出品されたら億はいくだろ
512:名無しの冒険者
風読みの羽飾りの時も思ったけど
最近のアーティファクトは完全に別次元に入ってる
包丁やバットの延長じゃなくて
結界とか索敵とか、この世にないジャンルが出てきてる
534:名無しの冒険者
ダンジョンの中で何かが変わり始めてる
進化してるのはダンジョンなのか
それとも中にいる「何か」なのか
556:名無しの冒険者
>>534
どっちでも同じだ
俺たちにできるのは、出てきたアーティファクトを使いこなすことだけ
作ってる奴が誰だろうと関係ない
578:名無しの冒険者
関係なくはないだろ
作ってる奴の意図が分かれば
次にどんなアーティファクトが出るか予測できる
真央はスマホを置いた。
弁当の後片づけをしながら、掲示板の情報を頭の中で整理した。
骨断包丁。散弾魔銃。——これは魔剣包丁と魔弾銃の上位種だ。自分が作った魔道具の設計思想を蟻が学習して、より高性能なバージョンを作り出した。元は自分の血の力だが、蟻がそれを独自に発展させている。
品質スコアも上がっている。骨断包丁が65、散弾魔銃が58。初期の劣化コピーは品質スコア20前後だった。蟻の製造精度が桁違いに向上しているということだ。
そして境界の銀盤。
これは完全に蟻のオリジナルだ。自分が作ったどの魔道具にも「結界」の概念はない。防御の概念と空間の概念を掛け合わせた——真央の発想にはないものを、蟻が自力で生み出している。しかも品質スコア80超え。
「……蟻、結構すごいことになってるな」
真央が呟いた。
最初は自分がダンジョンに置いた魔道具の劣化コピーしか作れなかった。次に既存の設計を応用して癒しの泉水や風読みの羽飾りを作った。そして今、完全な新種を設計している。しかも上位種まで。
掲示板の最後の書き込みが頭に残った。「作ってる奴の意図が分かれば、次にどんなアーティファクトが出るか予測できる」。
作ってる奴の意図。
蟻に意図があるのかは分からない。だが——真央自身がかつて「もっと色々なアーティファクトがあれば面白い」と何気なく言ったことを、真央はもう覚えていなかった。何気ない一言だった。だがその一言が血のネットワークを通じて女王蟻に届き、蟻たちの製造ラインに「模倣を超えろ」という方向性を与えたことを、真央は知らない。
骨断包丁も、散弾魔銃も、境界の銀盤も——真央の無意識が蒔いた種から芽を出したものだ。
「まぁ、蟻は蟻で勝手にやってくれ。俺が口出すことでもないし」
真央はスマホを置き、窓の外を見た。
晴れた冬の空。遠くに見える住宅街の屋根。その向こうに——ケヤキの梢が、他の木々より一段高く突き出ているのが見えた。銀色を帯びた枝が、日光を受けて光っている。
アパートから見える距離。以前は見えなかった。木が育ったのだ。
「……このまま大きくなり続けたら、どうなるんだ」
ケヤキの変異率は21パーセント。まだ8割近い変化が残っている。根は地中で広がり続け、幹は太く高くなり、葉は銀色を増していく。完全に変異したケヤキが——どんな姿になるのかは、想像もつかない。
それに、ダンジョンのアーティファクトも進化し続けている。蟻が新しいものを作り、冒険者がそれを使い、社会に広がっていく。
世界が変わっている。ダンジョンの中でも、外でも。自分の血を起点に。——だが真央にとっては、どこか他人事のような感覚が拭えなかった。
ダンジョンの蟻は、もう自分の手を離れている。勝手に進化して、勝手にアーティファクトを作っている。ケヤキも同じだ。血を与えた後は、木が自分の意志で変わり続けている。
自分は種を蒔いた。種は芽を出した。でも——芽の行く先は、自分にも分からない。
真央はベッドに横になった。
スマホのアラームを昼寝用にセットして、目を閉じた。
世界は忙しく動いている。
だが真央にとっては——近所の木の方が、よほど気になった。
アパートの窓の外、住宅街の向こうで、銀色の木がゆっくりと育っている。
その根は、コンクリートの下を、誰にも気づかれずに広がっていた。




