第34話「銀の門」
深夜11時。港区、六本木ヒルズ。
45階。リリスの居室。
ブラインドの隙間から、封鎖線の向こうに東京の夜景が広がっている。かつてこの眺望を独り占めにしていた人間の富裕層は、もうここにはいない。代わりにこの部屋を使っているのは、漆黒の髪に深紅の瞳を持つ女——リリス。純種の長姉にして、一族の実務を統括する存在だ。
テーブルの上に、金色の円盤型のアクセサリーが並べられていた。首に下げるチェーンがついている。
守護の護符。14個。
一族が保有する全数だ。
リリスが護符の一つを手に取り、指先で表面をなぞった。ギルドの市場で500万円。闇市場ならその数倍で取引される。だがリリスにとって、この護符の価値は金額では計れない。
これは——日光という鎖からの解放だ。
護符がなくとも、純種も転種も日中に活動すること自体は可能だ。死にはしない。だが日光を浴びた吸血鬼の身体には激しい炎症が起きる。皮膚が赤く腫れ上がり、関節が軋み、頭蓋の奥で鉛が溶けるような鈍痛が絶え間なく続く。耐えられなくはない。だが、その状態で人間社会に溶け込み、平然と仕事をし、会議に出席し、街を歩くのは並大抵の精神力では不可能だ。
護符があれば、この苦痛がほぼ完全に消える。人間と全く変わらない状態で日中に活動でき、誰にも怪しまれない。
ヘカテが部屋に入ってきた。短い黒髪の下で、分析者の目が光っている。
「リリス。護符の配分と、本日の議題を整理しました」
「聞かせて」
ヘカテがタブレットを操作した。田中の部下が鹵獲したノートPCに、社会浸透組が収集した情報を集約してある。
「まず護符の現状から。全14個。内訳——社会浸透組の転種に8個を配布。大阪の拠点に2個、名古屋に1個、東京の社会浸透組に5個。エリザベートが1個。純種の日中活動用に3個を交代制で使用中。残り2個が予備」
「入手経路の内訳は」
「サンライズ以前からの保有が7個。その後の追加分7個。追加分の内訳は——フリマアプリ経由が3個。大阪の村井が構築した裏社会のルートで2個。歌舞伎町の半グレ組織からの購入が1個。非公認冒険者への直接接触で1個」
「月あたりの調達ペースは」
「この2週間で3個を新規入手。ただし安定しているとは言えません。フリマは出品そのものが不規則ですし、裏社会のルートは相場が乱高下している。特に——」
ヘカテの表情が僅かに曇った。
「ゴールドラッシュの影響で、アーティファクト市場が混乱しています。金目当ての素人が浅層に殺到し、中層の動線を乱している。護符が出るのは地下30メートル以降の宝箱ですが、そこまで安定的に潜れるベテランが活動しにくくなっている。護符の流通量はむしろ減少傾向です」
リリスが目を閉じた。
母——始祖が命じた拡散。水のように染み込め。人間が気づいた時には手遅れだ——と。
その戦略を実行するには、転種の全員が昼夜を問わず自由に動ける必要がある。護符が足りない。圧倒的に。
「ダンジョンからの直接回収は——言うまでもなく、選択肢にない」
リリスが先に言った。
以前、転種を2名ダンジョンに送り込んで検証した結果は最悪だった。フェロモンは吸血鬼には一切作用しない。そして蟻は転種を『異分子』として認識し、巣の全戦力を投入して排除しにかかった。倒しても倒しても次が湧いてくる。他の冒険者に見られるリスクも高い。転種化した後の人間をダンジョンに送り込んでも結果は同じだ。吸血鬼とダンジョンは根本的に相容れない——それは一族が東京に根を下ろした初期の段階で確定した制約だった。
「つまり——人間に取りに行かせるしかない。問題はその方法」
「方法なら、もう考えてある。——松田を呼びなさい」
10分後。松田——社会浸透組の転種の中でも実務能力が突出した男だ。転種化される前は中小企業の経営企画部にいた。法人登記や資金管理の実務に通じている。赤十字血液センターの職員転種化を成功させたのも、松田の調整力あってのことだった。
「松田。会社を一つ作りなさい」
「会社、ですか」
「ダンジョン探索企業。表向きは民間のアーティファクト回収会社。冒険者を雇い、ダンジョンに潜らせ、護符を優先的に回収する」
松田の表情は動かなかった。社会浸透組の実行部隊として、リリスやエリザベートの指示を淡々とこなす男だ。
「エリザベートが準備を進めていたルートがある。2ヶ月前に転種化したジェームズ・ハリソンという男の海外口座だ」
「アメリカ人の投資家でしょうか」
「そう。ハリソンの口座から日本法人に出資する形にすれば、資金の出所を疑われにくい。代表取締役は——ハリソン本人ではなく、別の人間を据えなさい。転種でもない、完全な人間を。何も知らない人間の経営者が表に立つ方が、怪しまれない」
「人選の基準は」
「中年の日本人男性。経歴に傷があり、金に困っている者。高額の報酬を提示すれば深く考えずに引き受ける。経営の実務はこちらが影で操作する」
松田が頷いた。
「タイミングとしては良い条件が揃っています。ゴールドラッシュの影響で、ダンジョン関連のベンチャー企業が急増している。大手商社がアーティファクト取引に参入し、警備会社がダンジョン周辺の警備を請け負い、製薬会社がフェロモン中毒の治療薬を開発している。新しい探索企業が一つ増えたところで、特に目立たない」
「社名は」
「シルバーゲート・エクスプロレーション。いかにも外資系の、ありふれた名前にしなさい」
「法人登記は1週間で完了できます。事務所の賃貸と冒険者の募集は——」
「月給50万円保証。装備は無償貸与。保険料全額負担。他の企業より明確に条件を良くしなさい。金に困った冒険者はいくらでもいる。回収目標は護符が最優先。安らぎの香と瞑想のアメジストもだ」
ヘカテが補足した。
「ギルドへの登録は必須です。ギルド非登録の企業がダンジョン探索を行えば目立つ。ギルドに法人登録し、冒険者を正規雇用する形を取る。ギルドの仲介手数料は10パーセント。それを経費として織り込みます」
「ギルドの田所という男は注視しておきなさい。あの男は野心家よ。ダンジョン経済の中核に座ろうとしている。我々の企業がそこに参入すれば、いずれ接点が生まれる。利用できるなら、利用する」
松田が一礼し、退室した。
リリスが椅子の背にもたれた。
「ヘカテ。次の議題」
「血液の供給について」
「赤十字の件は完了しました」
ヘカテが報告を続けた。
「新宿の東京都赤十字血液センターに、職員を1名転種化しました。社会浸透組の松田が1ヶ月かけて接触し、先週実行。清掃員ではなく、検査技師です。血液在庫の帳簿に直接アクセスできる立場にいます」
「横流しは始まっているの」
「はい。使用期限の切れた血液パックを廃棄扱いにして持ち出す方式です。赤十字は常時3,000から5,000ユニットの在庫を保有しており、期限切れの廃棄は日常的に発生しているため、統計上の誤差に紛れます。現在の供給量は週に約30リットル」
「一族全体の需要に対して」
「純種7名と転種25名、ワーウルフ8体の維持に必要な血液は——最低限で週に50リットルです。人質からの採血で約15リットル、赤十字からの横流しで30リットル。合計45リットル。まだ5リットル不足しています」
リリスの目が僅かに細くなった。
「人質の状態は」
「産卵時に4名が死亡し、76名が残存。そこから2名が衰弱死。現在74名。うち採血に耐えられるのは60名程度です。残り14名は——次の採血で命に関わる」
「……減りすぎね」
「はい。補充が必要です。封鎖線内のグールを使って新たな人間を確保する選択肢もありますが、封鎖線外から人間を連れ込めば自衛隊に察知される。グールを外に出して誘拐すれば徘徊者事件として報道される。どちらもリスクが高い」
「赤十字の横流しを増やせないの」
「これ以上増やすと帳簿の異常に気づかれます。現在の30リットルが安全な上限です。ただし——渋谷にも1名の転種を配置する計画が進行中です。そちらが稼働すれば、2拠点合計で週50リットルに到達する見込みです」
リリスが窓の外を見た。封鎖線の向こうに、装甲車のライトが見える。
「……血液の問題は、この一族が存在する限り消えない」
独り言のように呟いた。
「ヘカテ。この先、一族が100名を超えたら——200名を超えたら、血液はどこから来るの」
「……それは——」
「母が言った。国を作ると。吸血鬼の国を。——国を作るなら、国民を養わなければならない。吸血鬼の国民を養うには、血液が要る。血液の供給元は人間しかいない」
ヘカテが沈黙した。分析者としての頭脳が、問題の規模を計算している。
「仮に一族が1,000名の規模になった場合——週に2,000リットル以上の血液が必要になります。赤十字の横流しでは桁が足りない」
「人間を飼う、という選択肢」
「その場合、家畜としての人間にも食料と住居とインフラが必要です。人間を1,000人養うコストは——」
「分かっている。人間を養うために人間の社会を利用する。矛盾しているわね」
リリスが視線を窓から戻した。
「今はまだ、この問題の答えを出す段階ではない。だが——考えておきなさい。人間との関係を『捕食』のままにするのか、それとも別の形を模索するのか。エリザベートは六本木を占拠した時にこう言った。『人間が私たちを動物と見なせば駆除される。勢力と見なせば交渉対象になる』。——その論理は、私たちにも当てはまる」
「人間を家畜と見なせば、いずれ人間は全力で殲滅にかかる。人間を取引相手と見なせば——」
「交渉の窓が生まれる。……ただし、サンライズで200名以上の自衛官を殺傷し、六本木を占拠し、徘徊者を大量に生み出した一族を、人間が交渉相手と認めるかどうかは——」
「分からない。だからこそ、時間が要る。人間の中に深く染み込み、切り離せなくなってから——交渉する。そのための拡散よ」
リリスの声には、感情が混じっていなかった。戦略を語る声だ。だが——その瞳の奥に、どこか疲弊した色があった。
38階。訓練場。
リリスが階下に降りると、転種の戦闘部隊が夜間訓練を行っていた。
田中修——元SAT副隊長——が指揮を執っている。
「近接班、交代。次は暗所戦闘。照明を落とせ」
フロアの照明が消えた。完全な暗闇。だが転種の目には、すべてが見えている。暗視能力。吸血鬼の基本能力の一つだ。
暗闇の中で、6名の転種が模擬戦闘を行っていた。元特殊作戦群の精鋭たちが、転種化された身体能力で動く。動きは人間だった頃の訓練の延長にあるが、速度と力が桁違いに上がっている。
田中がリリスに気づき、近づいてきた。
「リリス様。戦闘部隊の訓練報告です」
「続けて」
「戦闘部隊11名。元SAT4名と元特殊作戦群7名。3つの班に分けて交代制で訓練を行っています。暗所での近接戦闘、屋内での制圧、階段室での防衛。——サンライズ作戦の記録を基に、人間の特殊部隊がどう攻めてくるかを想定した訓練です」
「哨戒の状況は」
「カーミラ様の指揮で、外壁防衛態勢を維持しています。ワーウルフ8体を3交代制で配置。2体が地下駐車場の出入口、2体が屋上、4体がヒルズ内の中層階に待機。転種の巡回班が外壁沿いの要所を4時間交代で回っています」
「偵察チームの件以降、自衛隊の動きは」
「封鎖線は維持されていますが、偵察チーム捕獲後に直接的な接触はありません。——ただし」
田中の表情が引き締まった。
「転種化した岩瀬から情報が出てきています。岩瀬は特殊作戦群の出身で、それ経由で得られた情報です。防衛省が対超常脅威の特殊部隊を編成し、フェロモン指数20以上の人間を集めていると。指揮官は巖道征四郎という男——特殊作戦群にも武芸指南をしていた武術家で、岩瀬も名前は知っていた。社会浸透組が別ルートでも同じ名前を拾っているので、信憑性は高いです」
「巖道征四郎。——どういう人間」
「岩瀬の証言では、フェロモン指数が30を超えると特殊作戦群の間で噂されていた人間です。我々でも、正面から戦えば脅威となる可能性がある」
リリスが目を細めた。
「フェロモンで強化された人間。それが組織として動き始めた。——サンライズの時とは状況が違うわね」
「はい。サンライズでは、人間は通常の装備で突入してきた。次は——フェロモンで強化された精鋭が来る。備えが必要です」
「提案は」
「二つ。一つ目——六本木ヒルズの防衛を、静的な防御から動的な防御に切り替えること。具体的には、現在の外壁巡回に加えて、封鎖線の外側にも転種の監視網を展開する。敵が接近する前に察知し、対応する余裕を作る」
「封鎖線の外に転種を?」
「はい。管渠ルートを使えば深夜帯に出入りが可能です。封鎖線の外側200メートルから500メートルの範囲に、2名1組の監視チームを配置する。8時間交代で3シフト。これで常時4名が外周を監視できます」
「人員は足りるの」
「戦闘部隊の11名から、哨戒任務に4名を割く。残り7名が訓練と防衛に当たる。——厳しいですが、やりくりはできます。支援要員の8名のうち2名も、基本的な監視任務なら可能です」
「二つ目の提案は」
「撤退路の確保です。政府の特殊部隊が全力で攻めてきた場合——六本木ヒルズを維持できない可能性を想定すべきです。管渠ルートは2本ありますが、どちらも政府が発見すれば封鎖される。第3のルートを、今のうちに掘削しておくべきです」
リリスが頷いた。
「やりなさい。——田中」
「はい」
「お前は人間だった頃、SATの副隊長だった。仲間を率いて戦った。その経験は——今も活きている」
「……光栄です」
「光栄ではない。事実よ。お前がいなければ、この防衛態勢は成り立たない。——引き続き頼む」
田中が一礼し、訓練に戻った。
36階。ノクスとミラベルの訓練室。
リリスが訓練室の扉を開けると、蒼い光が満ちていた。
ノクスが霧化の訓練をしていた。身体の輪郭がぼやけ、深い蒼色の霧に変わる。霧が部屋の中を漂い、3秒後に人間の姿に凝集する。
「霧化の持続時間は」
リリスが尋ねた。
「5秒です。先週は2.5秒でした」
ノクスの声は静かで落ち着いている。誕生から数週間しか経っていないが、身体の成長は純種の成長速度で進んでいる。外見は20代前半の女性。漆黒の髪に蒼い瞳が、暗闇の中で淡く発光している。純種の中で最も戦闘に適性があるとカーミラは評価していた。
隣の区画で、ミラベルが血の結晶化の訓練に取り組んでいた。右腕の表面から血液が滲み出し、空中でゆっくりと凝固していく。結晶化した血液が、針のような形状を形成した。
「結晶の硬度は上がりました。ですが——実戦で使えるほどの速度はまだ出ません」
ミラベルの外見は10代後半の少女。金色の瞳が知的な光を宿している。情報分析型と評されたが、本人は戦闘能力の不足を気にしている。
「焦るな」
リリスが言った。
「私たちの血の武器は、最初の本気の戦闘で固有の形を選ぶ。鞭、剣、双剣、槍、大鎌——それぞれの純種が、自分に最も適した形態を本能的に見出した。お前たちもそうなる。訓練は基礎を作るためのもの。本番が来れば——」
「本番」
ノクスが呟いた。
「来ると思う? ——人間の特殊部隊が、ここに」
「来る。問題は、いつ来るかだ。その時に備えなさい」
リリスが訓練室を出た。
廊下を歩きながら、ヘカテに念話を送った。
《エリザベートに伝えなさい。シルバーゲートの設立を最優先で進めること。護符の調達速度を上げなければ、拡散計画が頓挫する》
《了解しました》
ヘカテの声が脳裏に響いた。
《それと——ミラベルの件ですが》
《何》
《社会浸透モデルの設計を任せた件です。彼女が興味深い分析をまとめています。吸血鬼の国を建てるとして、その経済的基盤をどう構築するか——人間社会の既存のインフラにどこまで依存し、どの時点で独立するかという試算です》
《……まだ生まれて数週間の子が》
《知識は私と始祖から受け継いでいます。分析能力は——正直、私を超えるかもしれません》
リリスは歩みを止めなかった。
《読む。私の部屋に資料を持ってきなさい》
廊下の窓から、東京の夜景が見えた。かつてより灯りが減った街。だが——まだ光っている。1,400万の人間が暮らす巨大な都市。
その中に、少しずつ染み込んでいく。水のように。気づかれないように。
リリスは窓に背を向け、執務室へ戻った。




