第33話「黄金狂時代」
ダンジョンから金が出る。
その一報が世界を駆け巡ってから、1週間。東京は——変わった。
品川区大井町。ダンジョン入口。
午前5時。
まだ夜が明けきらない時間帯に、入口の前には200人を超える人間が押し寄せていた。
ギルドの臨時管理所では、職員3名が対応に追われている。本来の管理体制はギルド登録証の提示で入場を管理する仕組みだったが——それが崩壊していた。
「すいません、ギルド登録してないんですけど入れますか」
「登録は渋谷本部か出張窓口で——」
「そんなの待ってられねえよ! 金が出るんだろ!?」
怒号。押し合い。管理所のパイプ机が倒された。
職員の一人が無線で報告した。
「大井町入口、制御不能。非登録者が100名以上。フェンスを乗り越えて侵入しています」
無線の向こうから、疲れ切った声が返ってきた。
『こちら新宿入口も同様。今日だけで非登録者が300人以上。とても止められない』
ダンジョンの入口は東京都内に67箇所以上。そのうちギルドや自治体が臨時の管理体制を敷いているのは28箇所。残りは完全に無管理だ。
金が出るという報道以降、無管理の入口に殺到する人間の数は1日あたり推定2,000人を超えていた。管理された入口ですら、フェンスを越える者が後を絶たない。
朝日が昇り始めた品川の空の下、異様な光景が広がっている。スーツ姿のサラリーマン。主婦。大学生。退職した老人。これまでダンジョンに縁のなかった人々が、ホームセンターで買ったヘルメットと軍手で「冒険者」になろうとしていた。
その列の中に——40代半ばの男が立っていた。
名前は中井正樹。先月まで千葉県の工場で派遣社員をしていた。工場が閉鎖され、妻に離婚を切り出され、所持金は8万円。
中井の装備はホームセンターの作業用ヘルメットとゴム手袋。武器は園芸用の剪定ばさみ。懐中電灯はスマホのライト機能。
フェンスを乗り越えた。
地下への斜路を降りていく。暗い。スマホのライトが揺れる。空気が変わった。甘い匂い。フェロモンだ。
地下5メートル。
通路の壁面が琥珀色に光っている。蟻の唾液で固められた独特の光沢だ。美しい。まるでゲームの世界のようだと思った。
中井は少し高揚していた。金を見つけたら人生が変わる。借金を返して、まともな部屋に住んで——
地下10メートル。
足元で何かが動いた。
体長30センチの兵隊蟻。黒褐色の外骨格が、スマホのライトを反射した。
中井は剪定ばさみを構えた。テレビで見たことがある。冒険者が蟻を倒している映像。あの程度のサイズなら、なんとかなるはずだ。
兵隊蟻が突進した。
速さが、想像と違った。
テレビの映像はスローモーションで再生されていた。実際の兵隊蟻の動きは、猫が獲物に飛びかかるよりも速い。6本の脚が床を蹴り、30センチの身体が弾丸のように中井に殺到する。
剪定ばさみを振り下ろした。蟻の外骨格に当たった。——弾かれた。園芸用の刃では、兵隊蟻の外骨格に傷一つつかない。
蟻の大顎が、中井の右手に食いついた。
ゴム手袋が一瞬で切断され、指の骨に達する力で噛み砕かれた。
中井の悲鳴が、通路に反響した。
午前9時。渋谷。冒険者ギルド本部。
田所勝は、執務デスクの前で3台のモニターを見ていた。
左のモニターには各入口からのリアルタイム報告。中央にはSNSのトレンド。右には金相場のチャート。
副ギルドマスターの黒川陽一が、立ったまま報告を読み上げた。
「本日午前5時から9時の間に確認された事故報告。死亡4件、重傷16件、軽傷47件。すべて非登録冒険者です」
「原因の内訳は」
「4件の死亡はすべて浅層——地下15メートル以内。装備不足による兵隊蟻への対応失敗が3件。1件は蟻酸が蓄積した区画への迷い込みです。重傷16件のうち12件も同様の装備不足。残り4件はパーティ同士の暴力事件。宝箱の奪い合いです」
田所が眉を寄せた。
「暴力事件が出始めたか」
「はい。浅層の宝箱が減っている中で、非登録者の殺到が拍車をかけています。宝箱を見つけた瞬間に別のグループが襲いかかる事例が、昨日だけで7件。うち1件は刃物による刺傷です」
田所が椅子の背にもたれた。
「非登録者の流入を止める手段は」
「現実的にはありません。67箇所以上の入口のうち28箇所しか管理できていない。管理している入口ですらフェンスを乗り越える者を物理的に止められていない。ギルドに強制力はありませんから」
「政府のダンジョン管理庁は」
「法律は通っていますが、組織の立ち上げが遅れています。来月中に庁舎が設置される予定ですが、入口の物理的管理が始まるのは早くて2ヶ月後。それまでは事実上の無法地帯です」
田所が立ち上がった。窓の外を見る。渋谷の街は、かつてないほど人が多い。東京から逃げ出す人と、東京に流入する人。二つの流れが交差して、街が奇妙な活気に満ちている。
「黒川。3つ動く」
「はい」
「一つ目。ギルド登録者への優先入場制度を作る。管理している28箇所の入口で、ギルド登録者は優先的に入場できるようにする。非登録者は待機列の最後尾。事実上の締め出しだ」
「反発が来ます」
「来るだろうな。だが、死ぬのは装備も経験もない非登録者だ。死亡事故が増えれば政府が規制に動く。規制はダンジョン全体に及ぶ。非登録者を守ることが、ギルドの利益を守ることになる」
「二つ目は」
「ダンジョン産出金の流通ルートを確立する。ギルドを通じて売却された金には、ギルドの品質保証をつける。密売された金よりもギルド経由の金の方が信頼性が高い——その構図を作る。仲介手数料は5パーセント。アーティファクトの10パーセントより低く設定する。金は量が出る。薄利多売で構わない」
「三つ目は」
田所が振り返った。
「新規登録者の受け入れ体制を拡充する。登録窓口を現在の6箇所から12箇所に倍増。手続きを簡略化して即日登録を可能にする。非登録者をギルドに取り込む方が、締め出すより賢い」
「受け入れるんですか。装備も経験もない素人を」
「受け入れる。ただし条件をつける。新規登録者には初心者講習の受講を義務化する。半日のカリキュラムで、基本的な蟻の弱点、罠の回避方法、中層以深の蟻酸の危険、最低限の装備基準を教える。講習料は5,000円。これだけで死亡率は半分以下にできる」
黒川がメモを取りながら頷いた。
「講師は」
「ベテラン冒険者から選抜する。講師料は1回2万円。ギルドの負担は軽い。講習を受けた新規登録者が生き残って稼げば、会費が入る。死なれるよりずっといい」
田所がデスクに戻り、手帳を開いた。
現在のギルド登録者は約2,200名。金の報道以降、1日あたり100件以上の新規登録申請が来ている。このペースが続けば、1ヶ月で5,000名を超える。
5,000名の会費——月額1万円——だけで月5,000万円。アーティファクト仲介手数料が月数億円。金の仲介手数料がそこに加わる。
冒険者経済の中核に座る者が、この混乱を制する。
田所は穏やかな笑みを浮かべた。——だがその目には、別の色があった。
死者が出ている。今日だけで4人。明日はもっと増えるだろう。
田所は善人ではない。だが愚かでもない。死者が増えれば社会的な批判がギルドに向かう。「なぜ止めなかったのか」と。
だから——止める。ギルドの仕組みの中に人を取り込み、最低限の安全教育を施し、死亡率を下げる。結果としてギルドの評判は上がり、登録者は増え、収益は伸びる。
善意と利益が一致する構造。それが田所の設計思想だった。
同日午後。新宿区歌舞伎町。
地下のバー。看板のない店。
御堂蓮司が、カウンターでグラスを傾けていた。
向かいに氷室透が座り、タブレットを操作している。
「ゴールドラッシュの影響を整理した」
氷室が画面を御堂に向けた。
「まずギルド内の協力者から上がってきた情報から。非登録冒険者の大量流入により、浅層の混雑が深刻化している。ギルドの受付に1日100件以上の新規登録が殺到していて、職員が対応しきれていないそうです。管理された入口でもフェンスを越える非登録者が後を絶たず、1日あたりの推定侵入者数は5,000人超。その7割以上が非登録者だと」
「で、深層への影響は」
「直接的な影響は少ない。素人は地下20メートル以上に潜れない。だが——間接的な影響が二つ」
氷室がデータを切り替えた。
「一つ目。浅層の宝箱の出現率がさらに低下している。ギルドの鑑定部門が集計している宝箱発見報告の統計を見ると、地下20メートル以浅の発見数がこの1ヶ月で4割減っている。代わりに兵隊蟻の遭遇率が上がっている。女王蟻が意図的に浅層の報酬を減らし、兵隊蟻の密度を上げている可能性がある」
「女王蟻が冒険者を選別している、という説か」
「はい。弱い冒険者を浅層で淘汰し、強い冒険者だけを深層に誘い込む。もしそうなら、ゴールドラッシュによる素人の殺到は、女王蟻にとっては単なる養分の増加に過ぎない」
「二つ目は」
「これは鶴見さんのルートで拾った話です。防衛省が非公開で特殊部隊を編成したらしい。鶴見さんの特殊作戦群時代の旧知が数名、その部隊の選抜対象になったそうで、断った者から断片的に情報が漏れてきています。フェロモン指数20以上の人間を選抜し、市ヶ谷の地下施設で訓練を行っている。指揮官は巖道征四郎」
「巖道か。鶴見さんの古巣にも指導に来ていた人物だな」
「はい。鶴見さんの推定では、部隊の規模は10名前後。全員がアーティファクトで武装。——興味深いのは、特殊作戦群との合同訓練が行われたという話で、フェロモン強化者が通常部隊を圧倒したらしい」
御堂がグラスのウイスキーを一口含んだ。
「政府の秘密部隊と、女王蟻の戦略変化。——どちらも覚えておく必要があるな。俺たちの計画への影響は」
「良い話と悪い話がそれぞれ一つ」
「悪い話から」
「ダンジョン内の人口密度が上がったことで、我々のチームが目立つ。32名の武装した集団が組織的にダンジョンに入れば、ギルドの目に留まる。政府の特殊部隊やギルドの上位冒険者に存在を察知されるリスクが上がった」
「良い話は」
「混乱そのものが隠れ蓑になる。非登録者が5,000人も入っている状況では、個々の冒険者の動向を追跡するのは事実上不可能だ。ギルドも政府も入口の管理で手一杯で、深層で何が起きているかに目が向いていない」
御堂が頷いた。
「状況を利用する。——氷室、80メートル以深の情報はどこまで揃った」
「ギルドの協力者が鑑定部門のデータに触れる立場にいるので、上位冒険者から報告された深層の情報がそのまま流れてきます。我々が自力で78メートルまで到達した時の地図と合わせると、80メートル付近までの通路構造はかなり精度が上がってきた。問題はその先です」
氷室がタブレットに地図を表示した。ダンジョンの断面図だ。赤い線で確認済みのルートが描き込まれている。
「地下60メートルまでは中層で、分岐が多く通路幅も狭い。隠れる場所が多い分、大型の蟻との遭遇を回避しやすい。60メートルを境に深層に入り、通路構造が変わる。天井が高くなり空洞が大きくなる。我々が78メートルで引き返したのも、この構造変化が理由です。見通しが良すぎて、エリート兵隊蟻から隠れる場所がなくなった」
氷室が指で画面をなぞった。
「80メートル以深に到達した冒険者の証言をギルド経由で集めていますが、3メートル級のエリートが複数確認されており、体表に金属光沢がある。外骨格の硬度は中層の蟻とは比較にならない。78メートルで遠目に見た個体も同様でした。あれと正面から戦うのは——今の俺たちでは無理です」
階段を降りてくる足音が聞こえた。
九条凛と轟木鉄平が並んで入ってきた。九条は革のジャケットの下にタクティカルベストを着ている。轟木は坊主頭に汗を光らせている。
「今、地下65メートルから戻った」
九条がカウンターに座り、水を一杯注文した。
「宝箱一つ。中身は安らぎの香2本と、銀塊15グラム。それと——78メートルまでのルートを改めて確認してきた。前回確認した通路は一部塞がっていた。ダンジョンが拡張を続けているせいで、通路構造が変わっている。地図は随時更新が要る」
「自分の足で確認するのは大事だな。地図だけでは分からない」
御堂が頷いた。
「メンバーの指数はどうなっている」
氷室がタブレットを操作した。
「計画的なダンジョン潜行により、中核メンバーの指数は順調に上昇しています。御堂さんが21。轟木が20。九条が19。鶴見さんが18。——全体の平均は17から19.5に上がりました。目標の全員20以上にはあと少しですが、問題はその先です」
「25か」
「はい。突入チーム全員の指数が20を超えたら、深層での戦闘訓練を本格化させ、25を目指す。20あれば深層に入れますが、エリート兵隊蟻と余裕を持って正面から戦えるのは25以上です。最深部への突入はそれからになる」
「瞑想のアメジストの確保は」
「現在6個。目標の10個にはまだ足りない。ダンジョン内での直接回収を続けていますが、出現率が低い。深層でのフェロモン被曝を管理しながら指数を上げるには、全員にアメジストが行き渡らないと中毒のリスクが跳ね上がる」
轟木が太い腕を組んだ。
「深層のフェロモン濃度はかなりのもんだ。安らぎの香を焚いていても、65メートルで2時間いると頭がぼんやりしてくる。指数20の俺でこれだから、18以下のメンバーを無理に連れて行くのは危ない」
「焦らない」
御堂が静かに言った。
「政府が管理体制を整えれば、深層への立入は許可制になる。その前に全員の指数を20以上に引き上げ、78メートルまでの地形を常に最新の状態に保つ。80メートル以深はギルド経由の情報で地図を作り、25に達した時点で突入する」
九条がグラスの水を飲み干した。
「ゴールドラッシュの馬鹿騒ぎは、私たちにとっては悪くない。ギルドも政府も浅層の管理に追われていて、中層で何をしていても目立たない。指数上げには良い環境だ」
「ただし——いつまでも続かない」
御堂が壁の世界地図を見た。
「時間との勝負だ。だが焦って死ぬよりはいい。確実に、一歩ずつ進む」
御堂がグラスのウイスキーを飲み干した。
「今日のところは以上だ。各自、体を休めてくれ」
4人がバーを出ていく。
バーテンダーが空になったグラスを集めた。壁の世界地図を一瞥し、小さく息を吐いた。
地図の端に刺された金色のピンが、照明の光を反射していた。
同日夕方。
真央はアパートから歩いて5分ほどの、アラクネの空き家に来ていた。
住宅街の外れ、行き止まりの路地の奥。崩れかけた塀と錆びた門扉。二階の窓には白い糸が幾重にも張り巡らされている。このあたりの住人はほとんど東京を離れており、アラクネの巣に気づく人間はいない。
空き家の裏手に回った。元は駐車場だった空き地の中央に、一本のケヤキが立っている。
2週間ほど前に自分の血を与えた木だ。
「……これは……」
真央が足を止めた。
樹皮の色が変わっている。茶色だった表面に、薄い銀色の光沢が混じり始めていた。まるで木の内部から金属が滲み出しているかのような——あるいは、木が木ではなくなり始めているかのような変化。
そして匂い。
甘い。花の蜜のような、だがもっと深い甘さ。3メートル離れていても明確に感じる。
木の根元に、虫が集まっていた。蟻、甲虫、蝶——種類を問わず、多くの虫がケヤキの幹に群がっている。樹皮の表面を舐めるように触角を動かしている。
「変異率は15パーセント超えたか。前は4.7パーセントだったから、かなり進んだな。——何が変わった」
「……キガ……フェロモン……ダシハジメテル」
「フェロモン? ダンジョンのフェロモンと同じ?」
「……チガウ。ニテルケド……モット……ヤサシイ。ムシ……アツメル……ダケ」
真央が樹皮に手を触れた。
温かい。冬の空気の中で、ケヤキの幹だけが体温を持っているかのように温かかった。
「虫を集めて、どうするんだ」
「……ワカラナイ。デモ……キガ……ナニカ……ツクリタイ……ミタイ」
「何かを作りたい?」
「……ウン。コン……キョ……ナイケド……ソウ……カンジル」
真央はケヤキの根元にしゃがんだ。集まった虫たちが、真央の存在に怯える様子はなかった。むしろ——真央に向かって触角を動かしている。
「面白いな」
真央が呟いた。
今は、ダンジョンのことも、ゴールドラッシュのことも、吸血鬼のことも——真央の頭の中には浮かんでいなかった。
ただ目の前の木が、ゆっくりと変わっていく。それを見ているのが、面白い。
「もうちょっと血をやった方がいいのかな」
「……ヤリスギハ……ドウナルカ……ワカラナイ」
「そうか。じゃあ、もう少し様子見るか」
真央が立ち上がった。
空き地には他に誰もいなかった。夕方の冷たい空気。遠くでカラスが鳴いている。
「——何になるんだろうな、お前」
木は答えなかった。だが枝が微かに揺れた。風はなかったのに。
真央は路地を抜けてアパートへ歩き出した。




